ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

柔らか頭

2018-10-31 08:26:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ハードルは高い」10月25日
 兵庫教育大大学院講師永田夏来氏が、『「風潮」を乗り越えろ』という表題でコラムを書かれていました。その中で、家族研究を専門とする永田氏は、『恋愛、結婚、出産はカップルの合意や個人の選択が集積された結果だ』と指摘し、『最近のライフコースはバリエーションを見せ始めて』いると述べ、そうした変化に応じた意識改革が必要だと主張していらっしゃいます。
 永田氏は、「バリエーション」の具体例として、『シェアハウスのメンバーで育児を分担しながら暮らす夫婦、非婚で子育てするシングルマザー、パートナーの連れ子と仲良く暮らす再婚家庭』などを挙げています。確かに男女が恋愛(見合いや結婚相談所での出会いを経て、を含む)して結婚し、二人の間に生まれた子供を育てる、という「標準家庭」だけを想定した社会システムは時代遅れなのかもしれません。
 今後さらに生殖科学が進展すれば、同姓婚の夫婦間に他者の精子もしくは卵子提供を受けて生まれた子供という家族なども増え、家族の形の多様化は一層進むことでしょう。確かに意識改革が必要なのかもしれません。しかし、学校教育はそうした対応が進んでいないように思えるのです。
 学校の保護者会や授業参観、家庭訪問などは、いわゆる「標準家庭」を想定して設定されています。家庭訪問したとき、血縁関係のある親はおらず、その日たまたま時間があって「家」にいたシェアハウスのメンバーが対応するというような事態は想定していないはずです。各自の家庭での経験を基に、男女の性別役割分担の問題点について話し合うという授業をするとき、ゲイカップルの間の子供にどう配慮するかということについて、教員間のコンセンサスはないでしょう。イスラム教徒の外国人の子供が転校してきて、兄は第一夫人の子供で、自分は第二夫人の子、妹は第三夫人の子で、みんな一緒に暮らしていると聞かされたとき、とまどってしまう教員がほとんどでしょう。
 まあ、あまり極端な例をひねり出すこともないのですが、教員の意識改革を進めると共に、家族の多様化への対応という視点で学校行事や家庭との連携、様々な文書の内容と形式などを見直すことに、教委は指導性を発揮するべきだと思います。柔らか頭が求められているのです。

 

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お上が決めること

2018-10-30 07:59:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「嫌っている?」10月24日
 批評家浜崎洋介氏が、『「一億総活躍」と「児童虐待」』という表題でコラムを書かれていました。その中で浜崎氏は、子育て環境の悪化を食い止めるためには国家が積極的に家族に関与すべきと主張し、『この状況を打開するには、「国家」の役割を拡大するほかに手はないが、果たして「国家」嫌いの日本人-あるいは「小さな政府」好きの安倍政権にそれができるかどうか…』と述べていらっしゃいました。
 本来労使で決めるべき賃上げにまで介入する安倍首相が「小さな政府」好きかは疑問がありますが、「国家」嫌いの日本人ということについても、よく理解できませんでした。我々日本人は本当に「国家」嫌いなのでしょうか。この場合、日本という国が嫌いというのではなく、国家が生活に関与することが嫌いという意味だと思われますが、私の感覚では、行政機関のことを「お上のすることは~」という言い回しに象徴されるように、日本人は政府や地方行政機関に親近感をもち、従順であるというのが定説だと捉えていました。
 何かあれば、政府や自治体に基準を示してほしい、きちんと規制してほしいという要望が出されるというのはよく見かける光景です。どの部分を見て浜崎氏は、日本人「国家」嫌い論を思い付かれたのかとても気になりました。
 その是非はともかく、学校教育においては、「国家」嫌いという特質は見られるのか、考えてみました。例えば、道徳教科化です。道徳を教科化することについて、様々な議論が行われました。道徳と戦前の修身を同一視したような反対論から、教育勅語の中にも教科化された道徳教育に生かせる部分はあるというような迷論まで俎上に乗りました。また、内容や教科化そのものの是非よりも、学校現場の戸惑いや評価や指導の難しさといった実務面からの問題提起も盛んでした。しかし、政府=文科省がそのことを決めるということに関する疑義はほとんど表面化しませんでした。
 つまり、教委ごとに、学校ごとに、教員ごとに、保護者の意向で、教科化導入を決めればよいというような議論はほとんど行われなかったのです。もちろん、そのためには教育行政システムの大幅な改変が行われなければならず、実現性は限りなく低いのですが、それでも本当に「国家」嫌いであるならば、そうした主張がある程度の勢力を占めたはずなのです。
  同じことは、小学校における英語の正式教科化でも言えました。要するに、学校教育の内容については「お上=国家=政府」に決めてもらえば、地域や学校ごとの不公平が生じることもなく一番よい、という発想が染みついているということなのです。そんなことはない、学校教育の地方分権化を求める動きは根強いという方がいるかもしれません。例えば、学校理事会制度の導入など。しかし、それもそうした制度を国に認めてほしい、国が創設してほしいということであり、どんな制度であろうと自分たち市民が中心となって決めるのであって国が許認可権をもつのはおかしい、という態度ではありません。り、お上のお墨付きがほしいのです。
 私はこのブログで、学習指導要領の基準性を指示し、義務教育の画一性を評価する立場を表明してきました。つまり、公教育の内容や仕組みについては、「国が決めるべき」派です。そして、上述してきたように多くの国民も同じだと感じられるのです。本当に日本人は「国家」嫌いなのでしょうか。

 

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今は髪もなくなったけれど

2018-10-29 07:51:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「女性性・男性性」10月24日
 近藤サト氏が、『白髪を出して自由を得た』という表題でコラムを書かれていました。『白髪を隠さずにテレビに出始めたら、新聞、雑誌、テレビ、インターネットと各方面から驚くほど取材依頼がきました』という近藤氏は、ある記者から『女性性は捨てたんですか?』と聞かれたそうです。
 この質問を契機に取材ラッシュの意味を考え直した近藤氏は、『白髪を染めることが、女らしさのようなものに暗に直結しているのだ』という仮定に思い至るのです。うーん考えさせられますね。女性は綺麗でいるべき→白髪よりも染めた髪が綺麗→だから女性は白髪を染めるべき→白髪を染めるのを止めた女性は綺麗でいることを放棄した→白髪のままテレビに出る近藤サトは女性性を捨てた→美人キャスターとして認知されていた近藤サトが女性性を捨てたのはなぜか、という謎を解き明かしたくて取材が殺到したという絵解きです。
 これは明らかな女性差別です。近藤氏はそこまで指摘してはいませんが、男性優位社会において、男性の鑑賞物として綺麗であることに価値がある存在として女性を位置付ける発想に基づく問いだからです。この事例を学校の授業で取り上げ、女性差別の問題を考えさせることも出来ると思います。そういう実践を試みる教員もいるかもしれません。でも、それだけでは不十分なのです。
 私もかつては白髪を染めていました。今では染める髪が乏しくなり、禿が目立ちにくい白髪のままでいます(小堺一機さんや所ジョージさんのように?)が、男性も白髪を染めるのです。私の場合は、外見上の理由でした。つまり、少しでも若く見られたい、という動機です。そういえば、私が教員時代に仕えた校長も白髪を染めていました。尋ねたことはありませんが、おそらく私と同様若く見せたいということだったように思います。
 女性が白髪を染めるのが女性性を保つためなのだとすれば、男性はなぜ白髪を染めるのでしょうか。まさか女性性を獲得するためではないでしょう。では、男性の白髪染めも男性性保持のためなのでしょうか。男性は髪が黒いと若く見える→若いことは力強いこと→力強いことは男性性の象徴というような図式になるのかもしれません。だとすれば、ここにも偏見や差別の発想が潜んでいます。高齢者差別であり、男性の価値は力強さにあるという偏見だからです。そこまで掘り下げていかなければ、本当の人権尊重教育にはなりません。
 さらにいえば、外観で人を判断するという問題にも結びつきます。顔にできた痣や先天的な縮毛などに悩む子供がいますし、外国人差別も肌の色等の外観の違いの基づくケースが少なくありません。デブやチビなどのからかいも広義の意味での外観による人権侵害なのですから。
 白髪染め騒動は、人権について考える格好の教材になると思います。

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重箱の隅をつつきます

2018-10-28 08:45:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「刷り込み」10月24日
 連載企画『ドキュメント あしたをささえる』の第2回は、学習支援教室の調理室での風景が描かれていました。『女子生徒が向かったのは学習室ではなく調理室。せっけんで手を洗い、慣れた様子でピンクの三角巾を着け、先に来ていた女性スタッフ2人とちらしずしを作り始めた(略)色鮮やかなちらしずしとかき玉汁が完成した。女子生徒は後から来た同年代の女の子たちとおいしそうに食事を済ませ、「さあ、やるか」と調理室を出て行った(略)女子生徒たちと入れ替わるように、勉強が一段落した男子生徒数人が調理室に現れた。「今日は豪華じゃない!」という声に~』というものです。
 私は「えっ」と思いました。これは、かつて話題になったCM「私作る人、あなた食べる人」問題と同じではないか、と感じたのです。女子生徒が調理を始めたとき、既に男子生徒は学習支援教室内にいたと思われます。それなのに、調理するのは女子生徒で、一緒に作るのも女性スタッフなのです。そして、男子生徒は食べに来て「豪華!」と喜んでいるというわけです。これは、調理は女性がするものという40年以上昔の性別役割分業意識を強化する取り組みなのではないか、と感じてしまったのです。
 もちろん、これだけの短い記述だけでは正確なことは分かりません。一日交替で男子が調理する日、女子が調理する日となっているのかもしれません。しかし一日交代制だとしても、なぜ男子と女子を分けて当番を編成する必要があるのか、それは不要な区別ではないのか、という疑問は残ります。あるいは決まりはなく、たまたまこの日はそうなったというだけなのかもしれません。そうだとすれば、記事の中でそのことに触れてほしかったと思ってしまうのです。
 私はこの埼玉県新座市の学習支援室という取り組みを批判しているのではありません。素晴らしい取り組みだと評価しています。しかし、公立学校のように法的な規制はないにしても、子供の教育にかかわる以上、いまだに根強い女性は調理する性という考え方を強化し刷り込むようなことがあるとすれば改めるべきだと思うのです。また、そうしたことが「誤解」であるならば、誤解に基づいた批判を避け、新しい試みが順調に発展していくためにも、刷り込みをしていると誤解されるような記述は避けるべきだと考えたのです。
 重箱の隅をつつくようで気が引けたのですが敢えて指摘させてもらいました。

 

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明治・大正・戦前・戦後

2018-10-27 07:22:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「歴史観が問われる」10月24日
 『明治150年式典縮小 首相こだわり/反発に配慮』という見出しの記事が掲載されました。23日に行われた政府主催の式典に関する記事です。長州(山口県)出身の安倍首相の明治維新へのこだわりについては周知のことですのでここでは触れません。ただ、気になる記述がありました。『社民党の福島瑞穂副党首は「戦前と戦後を一体に祝い、植民地支配や侵略戦争への反省が全くない」と批判』『与党内から「150年を考えるなら太平洋戦争への反省も必要」と冷ややかな声』というものです。
 福島氏が批判することに驚きはありません。誰もが予想していたことでしょう。ただ、植民地支配と侵略戦争への反省という表現は、何を指しているのかが明確ではありません。日清戦争は侵略戦争なのでしょうか。日露戦争は侵略戦争なのでしょうか。この2つの戦争については、侵略という側面よりも自衛という側面が強かったという人もいます。太平洋戦争を批判する人の中にも、日清・日露戦争は違うという人は少なくありません。いわゆる司馬史観と言われるもので、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」に象徴されるように、我が国は日露戦争まではまともな国だったが、明治維新の功臣たちが退き、第二第三世代が指導者となってから我が国は誤った道を進むようになったという考え方です。
 一方、与党内の声は、太平洋戦争と限定していることから、司馬史観的な立場での批判であることは明確です。我が国では、近年「歴史修正主義者の声が大きくなっている」との懸念が聞かれ、私も同じ懸念を抱いていますが、少なくとも学校教育では、太平洋戦争を賛美するような授業実践は見かけませんし、公になれば非難されるでしょう。しかし、司馬史観的な見方で授業をする教員はいないわけではありません。そして、とりあえず太平洋戦争、正確にはその前段としての満州国創立あたりからの歩みを批判しておけば、日清・日露戦争はどう扱おうと問題にならないという雰囲気です。
 記事では明確にされていませんが、日清・日露戦争に対するスタンスというのは、社会科、歴史を教える教員にとって気を遣うところなのです。学習指導要領には、2つの戦争の勝利によって国の安全を確保したという肯定的評価と朝鮮半島や中国の人々に被害を与えたという否定的評価の両面に触れるとなっていますが、どちらの側面を重点的に扱うかというところまでは明記されていません。
 強い日本を取り戻す、という主張の下、憲法改正が現実的になってきている時代だけに、明治後期の時代をどう評価するか、教員任せでは困ります。イデオロギー色を薄めた状態で歴史家の真摯な議論が公開されることを望みたいものです。

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分からない!

2018-10-26 07:45:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それができれば」10月23日
 連載企画『ドキュメント あしたをささえる』の第1回が掲載されました。『埼玉県新座市が設けた「学習支援教室」』での取り組みを報じる内容です。その中に、『子どもたちに求めるのはただ一つ。分からないことがあった時に「分からない」と言えることだけ。簡単に聞こえるけど、容易じゃない』という関係者の言葉がありました。
 本当にそうだなあ、と思います。私は、授業中、子供から「分かりません」という言葉が普通に出るようであれば、その教員の授業力は高いレベルにあると言ってもよいと考えています。実際には、分かっていない子供の多くは、「分からない」とは言わないものだからです。分からないとき、ある子供は、騒ぐ、悪戯するなどの行為で教員の注意を引こうとします。教員の方から声を掛けてもらおうとする無意識の行動です。またある子供は、自分は馬鹿だから分からなくて当然と諦め、自分の世界に引きこもってしまいます。さらに別の子供は、分かっていないということを知られることを恐れ、あたかも順調に学習が進んでいるかのような様子を繕います。そして未熟な教員は、それらを見逃し、大体分かっているようだとして次の説明に移っていくのです。
 「分かりません」と言えないのは、大きく分けて3つの理由があります。まず、恥ずかしいということです。「こんな簡単なことも分からないなんて」という哀れみや蔑みの目で見られることを恐れているのです。これは、学級の中に勉強ができない子供を差別排斥する雰囲気があることを示しています。つまり、教員自身がそうした価値観をもっており、それが子供たちにも浸透しているということです。
 次に、「分かりません」という声を、教員が自分の指導の拙さへの批判と受け取るケースです。教員の側に、「ちゃんと説明しただろう」「どうしてもっと前に言わなかったんだ」「ふつうはこれで分かるはずだよ」というような不快な感情が沸き起こり、分からない子供の存在が、教員としての自分の授業力を否定しているように感じられる感性がある場合がほとんどです。だから怒るのです。例え、言葉は優しく、笑顔を作ってはいても、その感情は子供に伝わり、子供は発言を控えるようになってしまうのです。これも教員の責任です。
 そして最後に、教員の追及に耐えられないという思いです。「分からない」と言うと、教員は「何が分からない?」「どこが分からない?」などと訊いてきます。子供が分からないという場合、ほとんどの子供が、どこが分からないのかわからない、何が分からないのかわからない、という状況にあるのです。理路整然と分からない理由や分からない部分を指摘できるということはあり得ません。だから子供は、分からないと口にしたためにさらに質問の嵐にさらされ、しどろもどろになった姿を見せることが嫌で、分からないとは言わないのです。これは、子供がつまずきやすい内容や理解が難しい箇所、誤解しやすい部分などについてあらかじめ予想し、補足説明のための準備をしていない教員の責任で生じることです。
 要するに、学級経営にも、子供理解にも、教材研究にも、問題のある教員の教室では、「分かりません」が出にくいのです。私もそうでした。未熟な教員を卒業するためには、授業記録を取り、子供カルテを作成するといった小さな積み重ねを続けるしかありません。

 

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視点満載

2018-10-25 08:19:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「視点満載」10月21日
 『議場で喉あめ 懲罰必要?』という見出しの記事が掲載されました。熊本市議会で、本会議中に喉あめをなめながら質疑に立った議員が懲罰を受けたことに関する様々な意見や考え方を紹介する記事です。記事の中には、教員の学級経営や生活指導においても役に立ちいくつかの教訓が含まれていると思えるのです。
 懲罰を受けた議員は、『飲食はまずいという認識はあるが、咳止めのあめは飲食ではない』と語っています。これは、学級の決まりや生活の約束などを決める際に、具体的にどのようなことを禁じているのかを明確にしておくことに大切さを示しています。
 またこの議員は、『前にも一般質問であめをなめ、それをまわりも知っていたはずだ』とも語っています。これは、小さな違反を「まあこれくらいならいちいち目くじら立てなくても」と見逃すことの悪影響を示しています。注意された方にしてみれば、なんでそのときに言ってくれなかったんだ、と言いたくなってしまうものです。だまし討ちにあったような思いにとらわれてしまうと、反省よりも反発を生んでしまうのです。
 ネットの意見として、『注意されて当然だが、出席停止はやり過ぎ』という指摘がありました。これは、行為の善悪とは別に、罰の重さが適当ではないという問題提起です。学校では、様々な問題行動が発生します。多くのケースでは、子供自身が悪いことをしたと自覚をしています。しかしそこであまりに重い罪、例えば授業中にノートのマンガを描いていただけなのに職員室に呼ばれて多くの教員の前で長時間叱責というのでは、納得はしないということです。
 さらに別の自治体の議員からは、『子連れ問題で全員を敵に回してしまったのだろうか』という指摘をしています。懲罰を受けた議員は、昨年生後7カ月の長男を連れて議場に入り議論を呼んだ人物です。過去のこの問題とは関係のない言動が、今回の懲罰の遠因になっているということです。これは誰もが犯しやすい過ちです。要するに気にくわない奴、生意気な奴は懲らしめてやるという考え方で、人間の本能でもありますが、本能のままに行動することは公平性を欠く原因になります。子供にこうした対応をすると、どうせ俺は嫌われているからな、と考え、自分の問題点を見つめることを妨げるマイナスの効果しか生みません。
 最後に、上記の議員は『最大会派の議員なら議会後に同僚から「なめない方がいいと忠告を受けるか、議長の口頭注意で終わる話だ」』とも指摘しています。つまり、集団の中の力関係によって受ける罰が異なると言うことです。議員も子供も、議場や教室の中では一人一人が平等なはずですが、人が集団生活を営む場においては、派閥が生じ、どの派閥に属するかで有利不利が生じるという問題点の指摘なのです。まさか学級には派閥などないという教員はいないでしょう。いるとすれば、それだけで間違いなく指導力不足教員です。派閥は望ましいものではありませんが、現実を直視し、せめて所属派閥によって依怙贔屓しないのが教員の心がけというものです。
 議員の先生方も子供も、人間である以上共通点があるということです。

 

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好きなように

2018-10-24 08:30:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「技術不要?」10月21日
 書評欄に『シスター・ヒロコの看取りレッスン(小出美樹著)』に関する書評が掲載されました。末期がんの母を看取った体験記ですが、その中の、本筋である家族の死と向き合うこととは関係のない、ある記述が気になりました。『登場人物とのやりとり、息づかい、病棟の雰囲気が詳細に描かれ、読み手は映画を見ているように感じる。著者は日本画の個展を開く腕前があり、表現の豊かさは観察力を反映しているのだろう』という部分です。
 日本画の個展を開く→観察力→文章表現の豊かさという図式に引っかかったのです。私は基本的に技術重視という考え方をします。例えば介護について、高齢者の気持ちの寄り添おうとする気持ちが一番大切というような考え方には疑問を感じます。いくら気持ちはあっても、顔を見て視線を合わせてから話しかけるという基本を知らない介護者では高齢者を不安にさせると思うからです。
 拙著「教員改革」で、教員の仕事は職人芸だと主張し、板書の仕方、机間指導のコツ、ねらいを具体的な評価項目と方法に当てはめる構成力などのない教員が、「子供が好き」「教育に対する情熱は誰にも負けない」などと自己弁護する姿勢を厳しく非難してきたのも、そうした考え方に基づいています。ですから、豊かな文章表現をするためには、語彙を増やし、優れた表現に繰り返し触れ、何回も書いては推敲を繰り返すといった文章技術の向上を図る努力が必要だと考えていたのです。
 それなのに、絵を描くときに求められる観察力が、豊かな文章表現を実現するというのは、文章技術を無視もしくは軽視していると感じたのです。一流の画家は皆巧みな著述家だという理屈に違和感を感じたのです。
 国語科の作文や図画工作科の創作活動、体育の創作ダンスなどで、「好きなように」「やりたいように」「思ったまま、感じたままに」などという指示をする教員がいます。多くが指導力不足教員です。それぞれに必要とされる基礎的な技術を習得させる具体的な手だてをもたず、有効な助言をすることが出来ない己の未熟さを隠し、子供の内面を引き出すのが本当の教育というような美辞麗句に逃げ込んでいる教員です。日本画作成における観察力→豊かな文章表現というのは、そうした彼らの考え方と、技術軽視という面で共通するように感じられてならないのです。
 私だけの感じ方かもしれませんが、我が国では具体的な技術論は人気がなく、精神論や人格論が受け入れられやすいという雰囲気が強いように思われます。具体的な戦略論、戦術論よりも、神国日本不敗神話の方が受け入れられた先の大戦の経緯をみても、です。
 「好きなように書きなさい」といわれて困った経験はありますよね。

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アンチノミニケーション

2018-10-23 07:53:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「飲ませ食わせ」10月17日
 『仙谷由人氏死去 面倒見の良い「辣腕」』という見出しの記事が掲載されました。民主党政権で官房長官等を務めた仙谷氏の死去に伴う評伝です。その中に『仙谷氏が民主党内で独特の存在感を放った理由の一つは、反小沢陣営でも随一の面倒見の良さ(略)官僚や他党との酒席を連日セットし、若手を同席させる(略)最後に会ったのは昨年末。野党幹部となった当時の若手たちの淡泊さを嘆いていた。「あいつらは「飲ませ食わせ」を全然やったないんだよな…」』というものです。
 仙谷氏の気持ちはよく分かります。でも、共感できません。政治家の世界と教員の世界が違うことは承知しています。それでもなお、飲食を共にすることによって生じる親近感を利用して物事を進めていこうという発想には違和感を覚えるのです。
 このブログで何回も取り上げてきましたが、私に教員としてのあるべき姿を示してくれた目賀田八郎先生のことに触れたいと思います。先生は「社会科勉強会」という研究会を作り、後輩の教員たちの指導に当たってこられました。最盛期には40人ほどの会員が集まり、毎月定例会を開き、毎年研究冊子を作成し、発表会を開いて研究実践の成果を広く問うてきました。会員からは、校長はもちろん、指導室長や教育長など、多くの人材が育っていきました。管理職になるような年齢の教員だけでなく、20代前半の若い教員にとっても、社会科だけでなく、学級経営や他教科の授業実践についても意見交換や議論があり、教員としての基礎を身につけさせてくれる場でした。先生は、自ら議論を主導するのではなく、一歩引いて会の進行を見守られていましたが、要所要所で的確な助言を発し、混乱した場面では明確な方向性を示して、議論を発展させていらっしゃいました。
 全くの私的な研究会であるにもかかわらず、会員が後輩の会員を勧誘するという形で会は大きくなり、先生の退職後も20年以上も続きました。そんな先生でしたが、お酒は飲まれませんでした。会の終了後は、喫茶店により、1時間程度雑談をするという程度で、「飲んで食べて」結束を固めるようなことは一切ありませんでした。ただ、先生の教員としての経験と能力、人柄と指導力を慕い、人が集まっていったのです。
 もちろん、教員の世界にも「飲んで食べて」親近感を高め、結束を固めて派閥を作り、影響力を強めるということはあります。管理職試験に際し、出身大学ごとにまとまって○○会をつくって独自に推薦するようなこともありました。校長会が教委に人事面での「お願い」をする際に、「彼は優秀な人だから」と言うので、その理由を聞いてみると、「飲み会の設定や盛り上げ方が上手い」「とにかく付き合いがよい。飲み会の誘いを断ったことがない」などといった理由で驚かされたこともありました。こんな「飲んで食べて」は、望ましいことではありません。
 政治家ならば、政治上の様々な課題について理解を深め政策立案能力を向上させることに精力を注ぎ込むべきであり、教員ならば授業力の向上や子供理解の深化のために研さんに励むことこそ重要です。そのための同志として、切磋琢磨し合う良きライバルとしてのグループがあるというのが本来の姿だと思うのです。
 ノミニケーションは、個人的な関係においてこそ意味をもつべきだと思います。

 

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もっとやらせて

2018-10-22 07:50:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「洗脳の専門家」10月16日
 タレントの光浦靖子氏が回答者を務める人生相談欄に、『「親切」と「洗脳」の違いって何』と題された相談が寄せられていました。相談者は『自称読書家の僕は、親切心から先輩に本を読む意義について熱弁をふるいました(略)「ねえ、君、僕のこと洗脳してない」と言ったのです』と述べ、『「親切」と「洗脳」とは、一体何が違うのでしょうか』と問うているのです。
 それに対する光浦氏の回答は、『「読む」と言うまで許さない、こうなったら洗脳』というものでした。さらに、『「こんなにあなたのためを思ってやっているのにー!」は、人間関係が崩れてゆく第一歩』とも言われています。考えさせられます。
 なぜなら、教員の多くが『分かったと言うまで教えよう』『出来たと言うまで続けさせよう』とするからです。私はいい加減な教員だったので、「ここまでやって出来ないのならしょうがないな」と諦め、「もういいよ。片付けて帰りなさい」と言ってしまう方でしたが、熱心で責任感の強い教員ほど、しつこく「出来るまで許さない」的な対応をしがちなのです。そして、その方が、同僚の教員からも保護者からも、熱血漢の教員として評価されやすいというのも事実なのです。そう言えば私はよく「サラリーマン教員」と、熱血教員から言われたものでしたっけ。
 また、多くの時間と労力を注ぎ込んで、放課後も残して勉強させるような熱血教員は、心の中に、あるいは堂々と口に出して言う場合もありますが、「厳しいと思うかもしれないが、君のためなんだよ」という思いをもっています。光浦氏の指摘に従えば、子供との人間関係が崩れていっていることになります。
 光浦氏は、『相手は「感謝を強要されているよう」と感じるんですよね』と、そうしたケースでの心情を解説していますが、思い当たります。若いころの私は、「こんなにやってあげているんだから」と、子供や保護者からの感謝の言葉を待っているようなところがありました。大して頑張っていなかったのに、です。
 そうは言うものの、単なる友人関係とは異なり、教員にとっては、「分かるまで教える」「できるまでやらせる」は、職務上の責任でもあります。つまり、光浦氏流の定義で言う「洗脳」をするのが仕事という側面があるのです。
 私には何人か、「こうありたいな」と憧れ、目標にしてきた教員の先輩がいました。彼らは、「洗脳」の達人でもありました。でも、子供との人間関係は非常に良好でした。彼らは、「洗脳」を「洗脳」と感じさせないような接し方、指導法を身につけていたからです。最後までそうしたまねが出来なかった私には言う資格がないかもしれませんが、あえて言えば、子供の方から「もっとやらせて」と言い出させるように仕向ける術をもつということなのです。
 あなたの教室に「もっとやらせて」はありますか。

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