ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

ダメ母、それなら教員は?

2022-05-31 07:41:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ダメ母、では教員は?」5月25日
 読者投稿欄に、南相馬氏の主婦W氏の『本当に楽しい?』と題された投稿が掲載されました。『子どものころ、休みになると母は父をせき立て、どこかへ出かけた。たいていはハイキングをして(略)運動が嫌いな私にとって、山歩きはほんとうにつらいものだった。疲れ果てて帰りの車で具合が悪くなり、車を止めて休ませてもらうと家に着くのが遅くなってしまう。私が一番つらいのに、起こられるなんて本当に悲しかった』というW氏。
 『私のように無理に連れ歩かれて、心が疲れてしまう子どももいるはずだ。皆本当に楽しめているのだろうか』と、現代の子供たちの中にも、かつての自分と同じ思いを抱いている子供がいるのではないか、と心配なさっているのです。
 実は、私もW氏のような子供でした。W氏は、家庭でのこと、母親のこととして、善意で楽しくないことを強制される不幸を嘆いていらっしゃいますが、私は、学校において同じ構造があるのでは、と考えてしまいました。
 W氏の母親も、そして世間の多くの大人も、大人の一員である教員も、子供というものは外に出掛けて体を動かして遊ぶことを好むと考えています。確かに割合から見れば、そうした子供の方が多いと思います。しかし、一方でW氏や私のような子供がいるのも事実なのです。
  W氏は、『「まったく、もう連れてこないから」。そういう母に対し「私は頼んでない。もう行かない」』と宣言し、休日に家族が出掛けた後、一人で家にいる幸せをつかむことができたそうです。しかし、学校ではそうは行きません。「遠足に行きたいなんて言ったことはありません。もう行かない」と宣言しても、受け入れられることはないのです。
 W氏の母について言えば、今の時代ならば、いくら善意からであっても、親の価値観を子供に押し付けるのではなく、子供の考えをきちんと聞いて話し合うことが必要、と諭されることでしょう。しかし、教員がそう言われることはありません。学校の教育活動は、学習指導要領に沿って展開され、遠足でも、移動教室でも、社会科見学でも、全て教育的価値が想定されているものです。
 また、子供のゲーム脳、ゲーム依存症が心配される現在、外で実際に体を動かして体感する活動の必要性が、以前よりも強く意識されるようになってきています。今後、コロナ禍が収まっていけば、自粛中の分を取り戻すかのように、校外活動が活発化する可能性が高いでしょう。
 つまり、学校の外に出掛けていくのではなく、教室で授業を受け、図書室で本を読んでいたいという子供の思いは無視されていくのです。正直、仕方がないことだと思います。でも、子どもの権利条約の趣旨を厳格に適用していくことが求められるようになった将来、遠足拒否宣言は認められるようになるかもしれません。その時代の学校教育はどうなっているのか、老兵には想像もつきません。

 

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全部平均点以上が前提の話

2022-05-30 08:05:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悩ましい」5月24日
 『中学生に、さまざまな分野で活躍する人が語る』コーナー、『14歳の君へ わたしたちの授業』は、ファッションデザイナーコシノヒロコ氏が登場しました。絵が好きで得意だったコシノ氏の話は興味深いものでした。その中でコシノ氏の、『何でもかんでもできなくてもいい。苦手なものは適当にして、好きなことを思い切りやる。一つのことを勝ち取れば、他は全部見えてきます』という言葉が気になりました。
 似たような趣旨の話をよく聞きます。だいたいがいわゆる成功者の口から出ることが多いように感じます。公教育、特に義務教育に携わる人間は、こうした主張をどのように受け止めればよいのでしょうか。
 コシノ氏の発言は、ある意味、義務教育を否定するものだと言えます。歴史が好きな子供は、一生懸命に歴史の本を読め、国語や数学なんてまじめにやる必要はない、と言っているようなものなのですから。そこまで極端に解釈しないまでも、そもそも義務教育とは、各教科をバランスよく学び、調和のとれた成長を意図するものです。だから、多くの教員は、歴史が好きならそれに打ち込みなさい、理科の時間は休んでいてもいい、などとは口にしないのです。
 得意(教科)を伸ばすということはよいことだと評価されていますし、個性を尊重することの大切さも理解されていますが、それは、すべての教科の学習内容を一定レベル以上に習得・理解した上で、そこに上積みする形で、得意や個性を伸ばすという意味なのです。
 また、スポーツにしろ、芸術にしろ、科学にしろ、その分野でコシノ氏のようなところまで登り詰めることができる人はごく一部であり、多くの凡人は、平均的な知識と能力を駆使して働き、収入を得て、暮らしを成り立たせていくというのが現実なのです。昨今、我が国にはもっと独創的な「奇人」が必要だというような議論がなされるようになってきており、それは社会の要請として正しいと思う反面、大多数を占める凡人予備軍である子供たちに、「奇人」への道を進めることには、多くの教員が躊躇いを覚えるのも事実です。
  さらに、実際問題として、今、英語の授業中にもかかわらず、教室で歴史書を一心不乱に読んでいる生徒に、「歴史が好きで得意なんだね。頑張ってね。でも、たまには英語の授業も聞いていてくれよ」などという対応をすることができる教員がいるでしょうか。いたとして、他の生徒や保護者から受け入れられるでしょうか、という問題があります。叱ったり、注意したりせざるを得ないのではないでしょうか。
 私は、義務教育で、ということで話を進めてきましたが、おそらく、高校でも大学でも、事情は同じなのではないかと思います。コシノ流を学校で実現することは可能なのでしょうか。

 

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その日は免責を

2022-05-29 08:51:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「その日は免責を」5月23日
 『国、甘い監査 改善急務 知床沈没1カ月』という見出しの記事が掲載されました。知床半島沖で起きた観光船沈没事故後に発覚した国の監査の問題点を検討・分析する記事です。その中で、海洋政策をご専門とする海洋大学教授山田吉彦氏の見解が紹介されていました。
 『今後必要なのは、確実なチェック体制。監査も抜き打ちじゃないと意味をなさない。事前通告して資料をそろえさせていた今までがおかしかった』というものです。監査は抜き打ちでなければ意味がないという指摘には同感です。しかし、その一方で、抜き打ち監査を常態化するためには、制度上の措置が必要だと思います。
 観光船会社に監査員が訪れます。不備があれば処分が下され、不利益を被るのですから、全社を挙げての対応になります。そのために、予定していた運航ができなくなる可能性があります。キャンセルということになれば、予約客からの苦情対応、キャンセル料の支払い、キャンセルされたという風評被害などを覚悟しなければならなくなります。
 こうした負の影響を避けるためには、監査員に接近し、事前の情報を得るとか、都合の良い日に監査日を設けてもらうなどの「汚職」が発生する可能性が高まります。そうなっては、癒着が進み今以上の状況が悪化する危険性が増します。
 ですから、抜き打ち監査による突発的な休業等に対しては、企業の責任を免じることを決め、そのことを広く周知しておくことが必要になります。
 学校にも監査があります。抜き打ちではなく、予告付きです。しかも、監査の時期が決まっており、監査を受ける学校の副校長は事前に監査を受けた学校の副校長に連絡を取り、どのような項目について調べられ、どんな指摘を受けたかを聞き取り、万全の準備をして待ち受けるのです。この監査は、管理職と事務職員が対応し、一般の教員はほぼノータッチです。ですから、監査日であっても、授業や教育活動に支障はありません。
 もしこれが抜き打ちだとしたら、一般の教員もその対応に関わざるを得なくなると思われます。授業中の教員が校長室に呼び出されたり、校外学習中の教員が学校に戻らなければならなくなったり、授業を別の教員に振り替えて急遽書類作成にあたったり、というようなことが起きるかもしれないのです。確率的には少ないですが、遠足や社会科見学が中止などということもあり得るのです。当然、子供からも保護者からも非難の声が寄せられるでしょう。
 もちろん、こうした混乱が生じないように、いつ監査を受けてもよいように常に万全の態勢を整えておけばよい、という考え方こそ正しいのは理解していますが、現実的ではありません。特に学校は、職務が属人的な部分が大きく、常にすべての校務の現状と問題点と対応が共有されているということができにくい体質があるからです。
 こうした体質は徐々に改めていかなければならないのは事実ですが、とりあえず現状としては、学校監査の日には、臨時に特別な授業体制を組むということを前提とし、子供にも保護者にも周知しておく必要があります。学校教育に不可欠な信頼を確保するためにも。

 

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自己責任主義との親和性

2022-05-28 08:12:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「認めてしまうと…」5月21日
 『「こども家庭庁」へ 提言熱く』という見出しの記事が掲載されました。こども家庭庁設置を受け、当事者である子供たちが話し合う企画記事です。その中に気になる発言がありました。『子どもに関する問題で関心があること』という司会者の問いに対して、中3のM氏は、『家庭の事情も能力も違います(略)みんなが同じルールの中で、同じゴールを目指さなければならない。そういう(学校)教育に疑問を持っています』と答えていたのです。
 考えさせられます。さらっと読めば「そうだよね」で済んでしまいそうですが、そんなに簡単な問題ではありません。M氏の意見を「悪用」するととんでもないことになってしまうからです。
 例えば、能力が違うから~という指摘について考えてみます。Aさんは知能指数が低いから、分数の計算が分からなくても仕方がないよね、無理して分らせようとすることもない。難しい算数の時間は、黙っていさえすれば、マンガでも読んでいていいよ。教員がこんな対応を取ることも肯定されてしまいかねないのです。能力が違うからゴールも違っていい、という理屈で。
 また、家庭の事情が違うから~ということでも考えてみましょう。Bさんの家は、母子家庭だし、貧しいから無理して大学に進む必要はない。大学に行かないのだから、そんなに頑張って勉強しなくてもいいね。そんなふうに、最初から切り捨てられてしまうかもしれません。ここでも、家庭の事情が違うからゴールも違っていい、という理屈が悪用されるのです。
 さらに、Cさんは、障害があるのだから、障害のない人と同じように行動するのは大変でしょう。教室の後ろで邪魔にならないようにしていればいいですよ。教員に「お客さん」扱いされても文句が言えなくなってしまう。これもゴールは違っていい、の悪用例です。
 現実社会でも、似たようなことが起きているかもしれません。しかし、建前だけかもしれませんが、どんな子供も、ある分野で能力が劣ろうが、家庭が貧しかろうが、障害があろうが、みんな同じゴールにたどり着かせたい、学校は、教員はそのための努力を惜しんではならない、という意識があることも事実です。そして、そうした意識を教員も、世間の人も共有しているからこそ、露骨な差別や排除が抑えられているという側面もあるのです。
 もちろん、M氏が言いたいことはそうではなく、一人一人に応じた柔軟できめ細かい教育という意味なのでしょう。しかし、システムやルールは、常に「悪用」されないような配慮の基に作られなくてはならないのです。「同じ~」問題については、丁寧な議論が必要です。

 

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遊んでいる?仕事している?

2022-05-27 08:29:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知らないことさえ知らない」5月21日
 書評欄に、文筆業清田隆之氏による、『漫画家・渡辺ペコの最新作「恋じゃねえから」(講談社)』についての書評が掲載されました。同書は塾講師による生徒に対する性暴力をとりあげたものです。私は、書評の中にある『大衆の無知や無関心は、いつだって加害者を利する結果につながってしまう』という指摘が心に残りました。
 教員や講師といった指導的な立場を悪用した性加害について言われたものですが、すべてに通じると思いました。この言葉から私が思い浮かべたのは、教員の多忙化問題でした。子供への性加害同様、教員の多忙化も、最近そんなことが問題になっているらしいね、という程度には認識されてはいます。しかし、ではその多忙化の実態について、知られているのかというと、そうではないと考えます。なぜなら、教員の仕事自体が知られていないからです。
 例えば、保護者が用があり、学校を訪れたとします。教室に行くと、教卓の椅子に座った担任が子供たちに囲まれておしゃべりをしています。他愛もない内容のようで、子供たちから笑い声が聞こえています。教員の肩をトントンと叩いている子供もいます。教員も笑顔で聞いたり、何か話しかけたりしています。そのうち、保護者に気付いた教員が立ち上がり、ドアのところに来て「○○さん、どうしましたか。何か御用ですか」と話しかけてくる、よくある光景です。
 このとき、保護者はどう思うでしょうか。子供とおしゃべりして気楽なもんだな、と思う人が多いのではないでしょうか。しかし、これは教員にとって欠かせない大事な職務なのです。子供の様子を見て、子供の状態を把握するための時間なのです。こうした時間をもたずに、職員室でテストの採点をしたり、ノートの点検をしたりしていれば、「仕事」は早く終わるかもしれません。しかし、事務仕事は早く終わっても、教員にとって日々の授業や学級経営、生活指導の土台ともなる子供理解は疎かになってしまいます。それは、今日明日には影響が出ないかもしれませんが、1カ月、2ヵ月後には、学級が荒れる、授業中落ち着くがなくなるなどの形で、顕在化してきます。
 今でも、教員には夏休みがあっていいとか、授業が終われば特に仕事はないんでしょ、などと言う人がいます。教員の仕事の本質が理解できていない人の発想です。教員の多忙化とそれが及ぼす弊害について、教員の仕事について大衆の無知・無関心を改めることが解決への第一歩になるのです。

 

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分からなくてもいい?

2022-05-26 08:49:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「たしかにそうだ」5月20日
 『「文学」選択科目化の罪深さ』という見出しの記事が掲載されました。国語教育に造詣の深い明治大学教授斎藤孝氏へのインタビュー記事です。テーマは、『「論理国語」と「文学国語」』です。この問題については、私もこのブログで何回も取り上げてきました。ただ今回は、全く違う気付きがあり、取り上げさせてもらうことにしました。
 斎藤氏は、『理系の生徒が、文学国語を取らない可能性が高まりますよね。文学や詩の知識をほとんど身に付けずに卒業する生徒が、これから続出することになります』とおっしゃっています。ここまでは別に目新しい指摘ではありません。斎藤氏はさらにそのことがもたらす弊害について、物理を例に述べます。
 『難解さは言わずもがなだが、かつては文系でも必修科目。高校生の9割方は履修していた。それが選択制に移行してからは学ぶ生徒が激減。今や全体の2割にとどまる』という事実をあげ、『物理が難しくて、生徒が完璧に理解できないことは大きな問題ではないんです。物理を知らない生徒が『知識ゼロ』になってしまうことが深刻なんです(略)その科目ができようが、できまいが、その世界のスゴさをのぞくチャンスを設けることが大切。生徒がそれを知る機会を失うことこそが致命的』と説かれるのです。
 正直、考えたことがない指摘でした。私は、このブログで、我が国の学校教育における「履修主義」を批判し、「修得主義」への転換を主張してきました。ひらたく言うと、理解しようがしまいが関係なく、大人しく教室に座って授業を受けてさえいれば進級・卒業を認めるというのではなく、学習指導要領に定められた内容を理解していることを確認した場合に限って進級・卒業を認めるようにすべきだということです。
 普通の子供が普通に学べば理解できるようにするのが、授業のプロである教員の義務であり、履修主義は教員を甘やかす悪い仕組みだと言ってきたのです。分数の計算ができない大学生、新聞記事が理解できない大学生を生み出して平然としているようなことは教員として恥ずべきことだとも言ってきました。そして、当然の帰結として、飛び級と落第を義務教育から取り入れることを検討すべきとも訴えてきたのです。
 こうした考え方は今でも基本的には変わっていませんが、斎藤氏の「理解できないことは大きな問題ではない」「できようが、できまいが、その世界のスゴさをのぞくチャンスを設けることが大切」という指摘に、自分の視野の狭さを痛感させられたのです。
 私は文系の生徒でした。私の出身高校では、文系の生徒にも数Ⅲの授業がありました。チンプンカンプンでした。中学校まで数学が得意であった私は、数学が嫌いになりました。それでも、私が理解できなかった数Ⅲを面白いと言って嬉々として取り組む同級生を見て自分には理解できないけれど数学という学問が奥深いものであることは何となく感じることができました。
 もし、私が数Ⅲの授業を受けていなければ、数学という学問を視野から遠ざけ、数学が好きという人を自分とは違う変人として拒絶してしまうようになっていたかもしれません。今は生涯学習社会です。いつ、何をきっかけに新たな学びが始まるかもしれません。そのとき、ある学問分野について触れることなく「食わず嫌い」をしていた人は、興味関心を抱けず、貴重な学びの機会を逃してしまうかもしれないのです。そうした損失を避けるためにと考えれば、「履修主義」にも良い面がある、そう考えることも可能です。良い勉強をさせてもらいました。

 

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部活総括

2022-05-25 08:23:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「総括」5月18日
 『「まちぐるみ」の変革を』という見出しの記事が掲載されました。部活動の在り方について、日本部活動学会初代会長長沼豊氏へのインタビュー記事です。長沼氏が語られることは、部活に関する問題をほぼ網羅しているように思えました。そこで、一つ一つについて感想を述べさせてもらうことにしました。
 まず、『部活には、教育的な意義があり、仲間と目標に向かって力を合わせる点で協調性も学べる』という指摘についてです。全くその通りです。しかし、だからといって部活を続けることがよいということにはなりません。大切なのは、時間的にも予算上も、投入できる人的資源も限られている中で、何に重点を置き、何を削るかという比較検討の発想なのです。意義があるから続ける、あるいは加えるという発想だけでは、学校教育はパンクしてしまいます。仲間と目標に~は他の特別活動でも体験できますしね。
 次に、『生徒の成長を間近で見られる(略)この喜びは魅力であり、魔力でもある。部活が好きで指導している先生たちの気持ちは、よく分かる』です。言うまでもないことですが、学校における教育活動は、教員の喜びや楽しみを満たすために行われるものではありません。結果として喜びを感じることはよいことですが、そのことが部活の存在意義にはつながりません。
 そして、『①生徒の部活への参加は任意である②教員が部活顧問に就任するか否かは選択できる』という原則についてです。大賛成です。もし、これが実現すれば、部活が抱える問題の大部分は解決したようなものです。でも、実現は非常に難しいと思われます。規則上は文科省が通知を出せばできることで簡単ですが、それはあくまでも上辺だけの、建前上のことに過ぎません。
 大勢の生徒と保護者が「野球部を残してほしい」と訴え、OBや地域住民も「去年までは都大会の常連校だったのに」と野球部存続を訴えてきているのに、顧問を引き受けるという教員がいないので、と断ることができる校長がどれだけいるでしょうか。圧力に屈した校長から、連日のように校長室に呼ばれ「何とか野球部の顧問を引き受けてもらえないですか」と頭を下げられてもプレッシャーを感じずに「やりません」と断り続けることができる教員ばかりでしょうか。無理ですよね。「任意」や「選択」を実質的に保証する仕組みづくりこそが知恵の絞りどころなのです。
 次は、『(顧問は)技術的な指導はしなくていい(略)部活の中で起きるトラブルへの対応や金銭の管理といった業務は、顧問として必要だ。でも技術的な指導は運動部なら外部からコーチに来てもらえばいい』という主張です。これでは、長沼氏の「教員の喜び」論と矛盾します。それとは別に、技術的な指導がなくても、トラブル、例えばいじめが発生した、生徒の金品が盗られた、生徒のけが、コーチによる体罰、競技団体との連絡や調整、保護者との対応、備品・施設の管理など、業務は多岐にわたり、負担はほとんど軽減しません。生徒のけがやコーチの体罰については、その場にいなければ対応が難しいケースがほとんどですし、早朝や休日の練習など、施設管理のためには出勤せざるを得なくなります。これを負担軽減策とするのは無理があります。
 また、『部活指導が好きな先生たちには、地域展開が始まったら、各競技団体や民間のクラブで活躍してほしい』という提言については、反対です。形式はどうあれ、教員が部活の指導に時間を割くということは、教員の本務である授業の構想・準備・評価に充てる時間が削られるということへの配慮が欠けています。
 最後に、『中学校の部活は「中学生版の託児所」になっている面もあり、こうした仕組みにみんなで甘えてきた面は否めない。先生の頑張りや、「ただ働き」に依存してきたことに、しっかりと目を向けなければならない』です。全面的に大賛成です。

 

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丸裸はイヤ

2022-05-24 08:00:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「データ化の難しさ」5月17日
 『ハウス農業「勘よりデータ」』という見出しの記事が掲載されました。『全国有数の施設園芸県・高知では、ビニールハウス内の環境をスマートフォンなどで管理する動きが急速に進む』現状を紹介する記事です。
 具体例として、『ハウス内に設置されたセンサーやカメラが二酸化炭素や日照量、生育状況などをモニターし、(スマホの)画面で確認できる。光合成に最適な状態もグラフで示され、天窓の開閉も自動化されている』という、ある農家の様子が紹介されていました。
 『担い手の高齢化や新規就農の壁』という県の農業が抱える課題を克服するために、県や地元の大学などが中心となり、『経験や勘に頼っていたあり方を見直し』てきたそうです。農家の方々からも、『代々続けている人は肌感覚で栽培方法が分かるが、新規参入組はデータが頼り』という声があがっていて、まさに「勘よりデータ」です。
 私はこの記事を読み、学校においても「勘よりデータ」の時代が来るのだろうか、と考えてしまいました。私はこのブログで、教員は授業のプロであり、授業力は計画を立て、実際に授業をし、記録を基に反省・評価をし、次の授業に臨むというサイクルを繰り返す、試行錯誤を通してしか高めることができないという趣旨の主張をしてきました。つまり、「経験と勘」重視主義者です。そんな私でも、AIを活用し、様々なIT機器を活用して収集したデータを分析すれば、ベテラン教員の勘以上のものが期待できるのかも、と一瞬思ってしまったのです。
 でも、よく考えてみると、どうしてもそうは思えなかったのです。教室にカメラを設置し、一人一人の表情や行動をとらえ、過去の映像を基に子供の状況を分析・把握する、あるいは脳波を測定できる装置を身に付けさせて興味を抱いているかどうかを見る、体温や脈拍などの状況から学習への集中度を把握する、などの取り組みをすることによって、AIが最適な助言や指示、資料の提示などを行うことが可能になるか、と考えてみたのです。
 視線を窓の外に向けて教員の方を見ない子供がいるとします。彼は授業に興味を失っているのか、自分の中に生じたある疑問を必死で追いかけているのか、カメラの映像だけでは分かりません。脳波が活発に動いている子供がいるとします。今教員が発した説明に興味をもったのだとしてもどのような興味・関心なのかは分かりません。教員が金閣寺の写真を掲示しました。子供たちが視線を集中させています。興味をもったのでしょう。でもその中味は?前景の庭の美しさか、金の豪華さか、てっぺんの飾り物か、背景の何かか、分かりません。
 そうしたことが分からなければ、AIに授業を委ねることはできません。違うのでしょうか。進歩したAIを駆使すれば、そんなことすら分かるようになるのでしょうか。そこまで考えてきて、全く違うことに気付きました。もし、全てAIが分析できるとしたとき、その状況は子供にとって幸せなのかという疑問が浮かんできたのです。「○○さん、今、授業と関係のないことを思い出して笑ていましたね」なんて言われてしまう状況、地獄かもしれません。「勘よりデータ」の授業については、他にもいろいろと考えなければならないことがありそうです。

 

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言葉と意識

2022-05-23 07:53:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「退却は転進」5月17日
 『「敵基地攻撃能力」→「反撃能力」改称 言い換え 裏に別の意図』という見出しの記事が掲載されました。『「敵基地攻撃能力」について、自民党が「反撃能力」に改称するよう政府に提言した(略)同じ武力行使を意味する言葉だが、あえて言い回しを変えるとは、裏にどんな政治的意図が隠れているのか』という問題意識で書かれた記事です。
 この言い換えについては、記事の中で様々な分野の識者が、『本質隠す姑息な手法』『名と実には大きな隔たり』などの批判を述べています。そして、『先の大戦でも言葉がことごとく言い換えられ、本質がぼかされた歴史が日本にはある。全滅は「玉砕」、退却は「転進」、戦死は「散華」にそれぞれ変わり、敗戦も「終戦」に置き換えられた』という例を挙げ、政治家の言葉が軽くなっていることへの憂慮が示されていました。
 全く同感です。と同時に、学校教育においても、言葉の問題があったことを思い出しました。例えば、「落ちこぼれ」です。授業に付いていけない子供のことです。しかし、「こぼれ」では、子供が自ら脱落していったかのような印象を与えます。そこで正しく実態を反映させた言葉として、「落ちこぼし」が使われるようになりました。あくまでも、教員が分かる授業をしない結果、理解できない子供が出てしまうということで、原因と改善策を示唆する表現に変わったのです。
 また、現在では不登校と呼ばれている現象についても、かつては「登校拒否」という用語が使われていました。これでは、子供が学校に行くことを拒んでいるというイメージになってしまいます。しかし実態は、学校に行きたい気持ちはあるのにどうしても登校できないというケースがほとんどでした。そこで単に登校していないという状況を表すだけの不登校という言葉が使われるようになったのです。
 これらは学校現場に自浄作用が働き、改善された例ですが、未だに改善されていないものもあります。それは、「体罰」という表現です。教員は子供に懲戒=罰を与えることができることは、学校教育法でも認められています。その規定に併せて体罰禁止が定められているので、罰という言葉が使用されているのでしょう。しかし私の実感は異なります。
 私は教委勤務時に、教員の服務事故に関わる仕事をしていました。そこでは数多くの体罰事案を担当しましたが、その多くは、子供が罰を与えられるにふさわしい悪い行いをし、それに対する教員の罰が行き過ぎて「体罰」になったというケースではなく、教員が怒りを爆発させ感情的に行為に及んでしまったという場合の方が多かったのです。
 傷害事件や殺人事件で、「カッとなって」という犯人の述懐が報道されることがありますが、まさしくそういう状態なのです。ですから、「体罰」というよりも「対児童・生徒暴行」というような表現の方が実態にあっていると考えます。「暴行」という名称に変えることで、教員の意識も変わる効果はあると思います。行政上の用語として変更を検討してはどうでしょうか。

 

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セクハラではない

2022-05-22 08:45:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「セクハラ」5月16日
 『薄毛男性に「はげ」 セクハラ』という見出しの記事が掲載されました。『英国の雇用審判所は15日までに、薄毛の男性を職場で「はげ」と呼ぶのは性別に関連した言動で、セクハラに当たるとする判決を言い渡した』ことを報じる記事です。
 私は教委勤務時に視察先の幼稚園で、遠慮のない子供の「どうして禿てるの」という言葉に苦笑いさせられたことがある、薄毛の男性です。ですからこの見出しに吸い寄せられました。そして、全文を読んで、どうにも納得ができなかったのです。
  上司が職場で部下を「はげ」と呼ぶ、これがハラスメントであることは当然です。しかし、ハラスメントにもたくさんの種類があります。セクハラ、パワハラ、アルハラ、アカハラ、カスハラ等々です。私は、「はげ」と呼ぶことがセクハラに当たるとはどうしても思えなかったのです。
 セクハラか否かの判断では、「性的な言動で~」という点が重要になります。では、性的な言動とは何か。私は、基本的には性的な関心や欲求に基づくものであり、性別役割分業的な見方や性的指向や性自認に対する偏見に基づく場合も含まれるという解釈をしています。
 「バストは何カップ?」「昨日は彼氏とお楽しみ?」などの会話は、性的な関心や欲求の典型事例ですし、「女なんだからお酌ぐらいできないと」は性別役割分業、「男にもてないからレズになったの?」は性的指向への偏見に基づく言動ということです。
 では、「はげ」はどうなのでしょうか。記事によれば、男性上司が部下である被害男性に対し「性的な関心や欲求」を抱いていたことはないようです。「はげ」が性別役割分業に関係があるとは思えませんし、性的指向や性自認にも関係はないでしょう。それなのにセクハラという判決なのです。
 記事によると、審判所は、『女性も髪が薄くなるものの、男性の割合が高く「本質的に性別と関連している」』という原告側の主張に理解を示したのだそうです。そうであるならば、男性の方が体毛が濃い割合は高いから、「ゴリラ」と呼ぶことはセクハラである、となるのでしょうか。女性の方が背が低い割合が高いから、「チビ」と呼ぶこともセクハラであるとなるのでしょうか。違うと思います。それはセクハラではない嫌がらせだと捉えるのが適切ではないでしょうか。
 我が国の学校においては、残念ながらまだ人権侵害事例が見られます。人権侵害を減らす取り組みの妨げとなるのが、いい加減な人権侵害についての理解です。何でもかんでも、いじめだ、セクハラだ、パワハラだと言い募ることは、それは○○ハラの概念には当てはまりません、という一言で片付けられ、かえって人権侵害の救済を妨害してしまうことがあるのです。○○ハラではない=人権侵害はなかったという論理で。多様な状況で行われる人権侵害について、正しい概念で問題を浮き彫りにすることが被害者救済には不可欠です。教員はハラスメントについて、自分自身が正しい知識をもつとともに、子供に伝えていくことが大切です。

 

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