ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

くだらない質問ですが・・・

2020-11-13 08:16:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「言い方は違うが」11月8日
 作家高橋源一郎氏が、『語る』欄でインタビューを受けていらっしゃいました。その中で高橋氏は、『「生半可な学者」という言葉があります。時間はかかりますが、ある生半可なレベルに知識が達すると、専門家には当然かなわないけれど、専門家にはできない質問ができるようになる』と語っていらっしゃいました。
 素晴らしい言葉です。これこそが、近年の学校教育が目指してきたものなのです。学校教育については、それが目指すべき能力・資質について、様々な表現がとられてきました。生きる力、自ら考え行動する力など、どこがどう違うのか、門外漢にはよく分からない状況でした。そんな中、私は、自ら考え問題を解決する能力では足りないと考えていました。そうした考えの人は多く、自ら考え問題を解決するというのは、受動的で、外部から与えられた問題を解決するだけで、それではコンピューターに代替される人間を生むだけだ、という批判があったのです。
 そこで教育関係者の中では、微妙に表現は違いますが、自ら問題を発見し、自ら考え、その問題を解決する、という趣旨の能力・資質が重要であるということが共通理解されるようになってきました。もっとも、問題を発見するというのではすでにある問題を見つけるだけのことで、それでは創造的な人間とはいえない、自ら問題を作り出し、自ら考え~とすべきだという主張もありますが、個人的にはそこまでのレベルは難しいかな、と思っています。
 では、自ら問題を発見(創造)するとはどういうことなのか。専門的な学問の社会でのことはよく分かりませんが、普通の市民で言えば、高橋氏の言葉にある「専門家にはできない質問」をするということなのだと考えます。一つの専門分野を深く掘り下げ続ける場合、ある種の暗黙の前提のようなもの土台にしていることが多いもので、その前提自体を問うという「生半可な知識をもつ素人」の存在が、専門家の暴走や迷走を防ぎ、脱線しかかった社会を正常な軌道に戻す働きをするのです。
 「使えば破滅なのにどうして何千発もの核兵器が必要なのか」「黒人と白人って同じじゃないの」「核のゴミの処理ができないのにゴミを増やしていいのか」「自分を信じない人は殺せなんて言う神様がいるの」「人間も体外受精で工場で生産すればいいんじゃないの」「天皇が女だと何が困るの」など、その分野の専門家が笑うような、でも矛盾なく論理的には説明するのが難しいような問いを発し、しつこく「でも、この場合は~」「こんなケースでも~」問いを重ねていくする能力です。簡単に納得しない能力とも言えます。
 戦争の反省に立って出発した戦後教育は、民主的社会の形成者としての能力育成を掲げてスタートしました。民主的な社会をつくるということは、判断を他人任せにせず、自分で考えるということです。それは、常識や既成の概念を疑うということでもあります。無知による問いではなく、生半可レベルまで知ったうえでの問い、これこそが教育の目指すところなのです。

 

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