ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

潜在意識化に横たわるもの

2023-08-31 08:44:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「揚げ足取り」8月27日
 連載企画『池上彰のこれ聞いていいですか?』は、ノンフィクション作家佐々涼子氏との対談でした。佐々氏は、2022年11月に悪性脳腫瘍の診断と余命宣告を受け、複数回の手術を経て、また活動を再開なさっている方です。
 その佐々氏の話の中に、気になる表現がありました。佐々氏は、『2人の息子も週末には、孫を連れて自宅に来てくれます。私は、女性が社会に出て働くのはいいことだという時代に現役でしたから、子どもの面倒はあまり見てこなかった。それでもいい子に育ってくれて感謝しています』と述べていらっしゃるのです。
 うーん、そうなのか、という感じです。佐々氏がそこまで意識しておっしゃっているのかは分かりませんが、私は社会に出た働き子供の面倒を見なかった→当然の結果として悪い人間に育つはずだ→でも、病気の親に毎週顔を見せに来てくれるようないい人間に育ってくれた、という論理構成で話されているのです。
 女性が社会に出て働き子供の面倒を見なければ子供の出来が悪くなる、という偏見乃至は迷信を信じていることになります。母親が、自分がやりたい仕事で生き生きと活動しやりがいと満足感を感じて生きている姿を見せることが、子供にも前向きに生きる姿勢を培うという好影響を与える、というふうにはとらえることができていないということなのです。
 おそらく、佐々氏は、公式なインタビューで「母親が社会に出て働くことが子供の与える影響についてどう考えますか」と訊かれれば、肯定的な見解を述べられるのではないかと想像します。そこには、佐々氏がこうあるべきと考える価値観が反映されるからです。でも、直接的に働く母親と子供というテーマではない会話の中では無意識のうちに潜在意識下に閉じ込められている価値観が無防備に出てきてしまったのではないでしょうか。
 私は佐々氏を非難しているのではありません。ただ、人々が理性で抑え込んでいるために普段は顕在化しない古くから続いてきた一昔前の価値観のようなものがあるのではないか、そしてそれは、意外に奥深いところで私たちの行動に影響を及ぼしているのではないか、と考えただけです。
 以前、このブログで、指導主事時代に、ジェンダーについて問題意識をもっている女性教員たちと研修会の後に雑談したときのことを書いたことがあります。我が子が小学校に入学するに際して、女の子なのに黒いランドセルを選ぼうとしたので思わず「女の子なのだから赤にしたら」と言ってしまったという話です。
 その女性教員は、「ふだんは偉そうなことを言っているのに我が子のことになると~」と苦笑していました。そのときも、古い価値観が本人も意識しないまま心の中に巣くっているのだと感じたものでした。佐々氏の話にも同じものを感じたのです。
 我々教員は、自分の中に巣食う前近代的な価値観を常に見つめている必要があります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピンチがチャンス

2023-08-30 08:38:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「法は非力」8月25日
 『データ基に いじめ対策を』という見出しの記事が掲載されました。『評論家の荻上チキさん(41)は過去にいじめを受けた経験があり、いじめ問題に関するNPOの代表を務める。荻上さんにいじめのメカニズムを解きほぐしてもらい、どうすれば子どもたちの自殺を防げるのか』インタビューした記事です。
 その中で荻上氏は、『教室にいじめを抑制する規範を維持することが大切』と語り、『教諭の振るまいが非常に重要です。普段の授業で公平にジャッジする姿勢を伝えて信頼関係を築いて、いじめにしっかり対処するという予測を生徒に与える。そういう状況を作ることでいじめの発生を抑制していくのです』と話されているのです。
 全くその通りです。荻上氏の指摘で最も重要な点は、当たり前の教員の態度や行動を重視していることです。いじめ防止対策推進法という法律があります。学校組織としての情報共有や重大事態における対応などを定めています。私はこの法について、懐疑的な論評を繰り返してきました。内容が間違っているというのではなく、的外れであるというニュアンスで。
 それは、いじめ問題に対して、学校内の組織やシステム、手順といったものを重視しすぎているということでした。いじめ担当教員を置き、いじめに関する情報を担任や顧問の教員だけではなく組織として共有し~、ということ自体は必要ですが、教育は人対人、実際に子供に接する教員がどうあるべきか、どのような能力を身につけているべきか、という点を軽視しては、効果は望めない、ということを言いたかったのです。
 そうした意味で、荻上氏が、教員一人一人のあるべき姿に言及していることに共感したのです。では、改めて「信頼関係を築いて、いじめにしっかり対処するという予測を生徒に与える」ためにはどうすればよいのか、ということについて考えてみたいと思います。私の経験では、それは実際にいじめが発生したときの対応に鍵があります。
 いじめは必ず起きます。30人の子供が集団で生活をしている以上、「軽症」のいじめが1年間に一度も起きない、などと言うことはあり得ません。その「軽症」いじめを感知したとき、教員が取る態度にはいくつかのパターンがあります。
 面倒なので気づかないふりをする、「仲良くしなさい」など表面的な対応でお茶を濁す、「気にし過ぎ」「○○さんにも反省すべきところがある」など弱者であり反論してこない被害者にだけ対応し強者である加害者と対峙することから逃げる、「○○先生(SCなど)に相談してみたら」と組織に対応を委ねてしまう、などです。
 こうした対応を子供たちは注意深く見ています。そして、教員を評価し、見放します。しかし、そこで、被害者の声をきちんと聴き、加害者集団から一人一人別々に話を聞き、学級全体にいじめを発生させてしまったことを担任として謝罪し、いじめは絶対に許さないこと・被害者の味方であり続けること・いじめという行為を責めているのであって加害者を憎んだり罰しようと思ったりしているのではないこと・加害者も自分にとっては大切な教え子であること・いじめをなくすためにもっとよくみんなのことを見、話を聞き、相談に乗ることができるよう一緒にいる時間を増やしていくように努力するので、みんなもいじめのないクラスにするためにどうしたらよいか考えてほしいこと、を伝えるのです。
 そのとき、被害者については明らかにしますが、加害者については、明らかにする必要はありません。ただ、いじめ行為については具体的に挙げ、そうした行為がどれほど辛い思いを与えるかということについては、自身の経験や見聞を基に十分に伝えることが必要です。
 いじめ問題にきちんと対応した姿を見せることこそ、荻上氏が言う「いじめにしっかり対処するという予測を生徒に与える」最適な機会なのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国の新聞

2023-08-29 08:07:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「真の国際理解教育」8月24日
 大学生が作る紙面「キャンパる」で、成城大学生A氏が、『日本の存在感』という表題でコラムを書かれていました。その中でA氏は、『フランスの留学しホームステイした。ホストファミリーは私を優しく迎え入れてくれたものの、滞在中ずっと私を「シノワ」(中国人)だと勘違いし、私が日本人であると言っても、日本がどこにあるのかすら知らなかった。日本は海外でも広く知られていると思い込んでいた私はショックを受けた』と書かれていました。
 A氏は、おそらく20歳前後、「失われた30年」の中を生きてきたはずです。私のように、「ジャパンアズナンバーワン」の高度成長期を生き、日本を経済大国と自負してきた世代とは違います。それなのになお、「日本は海外でも広く知られている」と思い込んでいたのです。
 ですから、こうした「日本過大評価」症は、多くの日本人が罹っている国民病である可能性が高いと思われます。私はこの「日本過大評価」症を治すことが、真の国際理解教育の大きな柱になるべきではないかと考えます。
 従来の国際理解教育とは、外国について知ることを目指していました。その国の文化や歴史、宗教や政治・経済、暮らしや人などについて知り、私たちの国とは違うけれどどちらも大切にしていく、という姿勢を培う、そんな内容でした。つまり、日本から外国を見るということです。
 そこに不足していたのは、外国は日本をどう見ているか、という視点ではなかったでしょうか。例を一つ、先週、日米韓首脳会談が行われました。日本のメディアは、「日」米韓と表現します。韓国では「韓」米日でしょう。米国は大国ですから。では、アメリカでは、米「日」韓、なのか、米「韓」日なのか、私はそんなことが気になってしまうですが、つれあいにそのことを言うと、そんなこと考えたこともなかったという答えでした。いくつかの国を並べて記載するとき、どんな順番にするか、そこにはその国なりの他国の序列観が表れていると思うのですが、そんなことは気にしたことがないというわけです。米国のメディアが、以前は米「日」韓と表記していたのに、それを米「韓」日に替えたとすれば、それは大問題であるはずですなのに。
 外国のメディア、新聞やテレビ、現代であればSNSなどを分析し、我が国がどれくらい登場するか、それぞれの国で何番目なのか、順位は上がっているのか下がっているのか、どんな分野の情報が多いのか、情報は正しいのか、好意的な内容が多いのかその逆なのか、そうしたことをデータ化し、子供たちが理由を調べ、話し合い、自分たちがすべきことは何か考える、そんな授業が必要なのではないでしょうか。
 外務省と文科省が協力し、定期的にデータを更新して提供する、そんな取り組みは難しいのでしょうか。唯我独尊は、道を誤ることは歴史が証明していますが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国軍と同じ側

2023-08-28 08:06:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪用?」8月22日
 『「物語」の軍事利用 米研究』という見出しの記事が掲載されました。『物語(ナラティブ)に人を動かす力があるならば、軍事技術に使えないか』ということで、米国防総省で研究が始まっていることについて報じる記事です。
 記事では、01年の米同時多発テロについて、『アルカイダが反米感情をあおるナラティブを拡散させ、西洋社会で差別されるイスラム系移民らの心をつかんだ』事例、アラブの春で『市民が語る貧困と怒りのナラティブがSNSで急速に広がり、独裁政権を次々なぎ倒した』事例などが紹介されていました。
 記事によると、米国では、『標的ごとに最適なナラティブを生成・拡散し、相手の思考を操作して「望ましい」行動へと促すシステムの数式化を目指していた』そうで、中国も『「未来戦争」が脳の領域をめぐる戦いになるとして、「制脳権」や「制脳作戦」について論じている』のだそうです。
 恐ろしい時代になったものです。そう感じるのは私だけではないと思います。しかしその一方で、私自身、こうしたナラティブが人を動かす、脳に強く作用するという特性を利用してきたとも思うのです。もちろん、中国軍や米国防総省のような高度なものではありませんが。
 例えば、歴史の学習です。授業では歴史マンガや歴史読み物などを資料として使ってきました。歴史読み物について言えば、私自身出版社の依頼を受け、何度か執筆さえしています。歴史物語には、毛利元就の三本の矢の話や、後北条氏の飯に2回汁をかけた話、長篠の合戦の鉄砲三段撃ちなどの「有名」な話を取り入れました。
 当時から、歴史的な事実とは異なる、あるいは裏付けが取れていない逸話であることは承知していましたが、子供に受け、イメージが浮かびやすいので使っていたのです。別の言い方をすれば、ナラティブが脳に強く作用するという特性を利用していたということになります。
 これって、ナラティブの悪用だったのでしょうか。社会科に限らず、道徳においても、ナラティブはとても有効な手段でした。理性的に判断して是非を評価することを意図的に避け、人々の行動を「美談」として感動とともに脳に刻み込む、あるいは当事者自身の行動の問題を隠し、悲劇の主人公として扱うことで同情と共感を「強制」する、そんな手法が使ってきたのです。
 特に「悲劇」の活用は、いわゆる「平和教育」では、とても顕著な特徴です。平和教育の教材の多くは、国民の多くが戦争への消極的加担者であったという点を伝えないまま被害者としての側面を強調するというナラティブを利用しているのです。
 つまり、学校、特に小学校においては、ナラティブのもつ脳への強力な影響力を利用して指導に当たるケースが多かったのです。これは、発達段階を考慮した適切な指導法だったのか、論理的に考える機会を奪い情緒に流されやすい人間を育ててしまう問題のある指導法だったのか、改めて考えてみるべきことだと思います。
 自分が、中国軍や米軍と同じ側にいるとは思いたくないのですが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指標の限界

2023-08-27 08:43:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「実態を表す」8月21日
 連載企画『特派員が見た』では、バングラデシュのプロトム・アロ紙東京支局長モンズルル・ハック氏が、『進まぬジェンダー平等』という視点で我が国の現状について書かれています。
 その中でハック氏は、『世界経済フォーラムが世界の男女格差状況をまとめた2023年版の「ジェンダーギャップ指数」を公表していた。日本は対象146ヵ国のうち125位で前年の116位から後退。G7では最下位だ』と指摘したうえで、『母国バングラデシュは59位だった。イランやアフガニスタンを含めた南アジア9カ国の中ではトップとなり、全体的にも比較的上位につけたと言える』と述べていらっしゃいます。
 ハック氏は、自国自慢をしたいわけでも、我が国をあざけるつもりもありません。それは、自国について、『女性はいまだに財産の相続権などで男性と同じ地位が与えられていないなど、女性が前進する上で傷害となる社会的タブーが存在する。さらに法律で禁止されているにもかかわらずなくならない児童婚や、新婦側が新郎側に支払う結婚持参金といった問題がいまだ横たわっている』ことでも分かります。
 そして私が注目したのは、『バングラデシュの順位は日本よりも66位も上回ったが、WEFによる指標がそれぞれの国の現実や実態をそのまま反映しているとは一概に言えないだろう』というハック氏の指摘でした。
  とても公平な態度です。と同時に、指標というものの限界を指摘しているとも感じました。私はバングラデシュの実態について詳しくはありませんが、日本よりも66位も上というのは実態を反映していないと感じます。財産権、児童婚、結婚持参金、いつの時代の話なんだ、と思ってしまいます。
 では、こうした「指標」やデータの数値が実態を正確に反映しないというのは、WEFだけの問題なのかといえば、そうではないと思います。我が国の教育についても、PISAをはじめ、様々な機関がデータを示しています。そしてそれらを基に、我が国の学校教育についての見解や提言が出されるわけですが、それらの中にはピンとこないものが少なくありません。
 私もこのブログで、そうしたデータや報告を使わせてもらっているので偉そうなことは言えません。正直、都合の良いときだけ、あるいは都合の良い部分だけをつまみ食いしてきたという反省があります。ただ、言い訳ではありませんが、個人では、我が国の学校教育全体について独自の調査を行うことは極めて難しいのも事実です。どうしても、どこかの団体の調査結果に依拠することになってしまうのです。
 学校教育について、最もよく実態を反映させた調査とはどのようなものなのか、教育行政や教育財政の専門家、各校種ごとの学校現場の代表、統計・調査の専門家などからなるプロジェクトチームを作り、検討してみる価値はあると思います。
 なお、その際外国の学校教育の専門家を数名加えておくことが重要であることを付け加えておきたいと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私のデータがどこかに

2023-08-26 08:26:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「真逆」8月20日
 川柳欄に、秦野のH氏による『恥ずかしいことはスマホに訊いてみる』という句が掲載されていました。よくは分からないけれど、何となく恥ずかしいことだということは分かる、そんなことを他人に訊くのは恥ずかしい、まして親や家族に訊くのはもっと恥ずかしい、だからスマホに訊いてみる、そんな意味でしょう。この日の秀逸句でした。
 日常によくある光景を詠んだからこそ、掲載され、秀逸句に選ばれたのでしょう。ですが、私はこの作者とは正反対、真逆の人間です。私が小6の頃、詳細は忘れてしまいましたが、「らふ」という言葉が友人の口から出されたことがありました。友人はにやにや笑っています。私は「らふ」とは何か、秘密めいた意味があるのではないかと思い、親には訊かず、当時使い方を習っていた国語辞典を開きました。「らふ」とは「裸婦」のこと、裸の女の人のことだったのです。色気づいてくる年頃です。それからしばらくの間、辞典を調べ、「裸体」とか「全裸」とか「ヌード」とかいった言葉を発見してきては、「○○って知ってるか?」と言い合う遊びが流行りました。親も担任も知りませんでしたが。知られたら、恥ずかしくて自殺を図っていたかもしれません。
 何でこんな昔話をしたかというと、恥ずかしいことは人に訊けない、だから自分で「こっそり」調べるというのが、私の感覚だかということを言いたかったからです。私は、「恥ずかしいこと」をスマホやパソコンで調べることに抵抗があります。それは、履歴に残るからです。
 私が恥ずかしいからといってこっそりと調べたことが、どこかに保存され蓄積され、「○○は~に強い関心をもっている人間である」などとデータ化されていると思うと、怖くて仕方がないのです。ですから、生まれたときからスマホがあり、そこに親も知らない自分の秘密を打ち込むことに何のためらいも覚えない若者たちに対しては、異星人を見る思いがします。
 彼らは、自分がどんな人間であるか、自分さえも意識しないまま、どこかに日々データが蓄積され分析されていく、そんな危惧を抱かないようなのです。それでよいのでしょうか。スマホというものに、危険な臭いを感じる、その上で用心深く使う、そんな態度を身につけさせるのが大切だと思うのですが、時代遅れなのでしょうか。闇バイトも、バイトテロも、スマホへの無警戒さが根底にあるように思うのですが。
 ちなみに私のパソコンの画面には、高齢者向け精力剤の広告がやたらに出てきます。私はそういう人間だと分析されているのでしょうか。嫌だなあ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妄想してみると、怖い

2023-08-25 08:32:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「あったら困る」8月19日
 川柳欄に、亀岡市N氏の『相談欄こうなりました欄希望』という句が掲載されていました。面白い句だと思いました。皮肉が効いています。人生相談欄は、多くの新聞や雑誌にあります。それだけ需要があるということでしょう。
 しかし、回答者が、「~しなさい」「~すべきです」と指示したり、助言したり、あるいは叱咤したりするところまでは掲載されますが、その後相談者がそれらのアドバイスを受けてどうなったか、ということが伝えられることはありません。皆無です。
 でもよく考えてみれば、回答者のアドバイスが正しかったのか、有効だったのかは、その後の相談者の人生がどうなったかということで判断、評価されるしかありません。もし、ある回答者のアドバイスを受けた相談者が悉く失敗したり、不幸に陥ったりしていれば、その回答者は回答者の資格なし、と判断され、別の回答者に代わるはずです。
 そうは言っても、「○○回答者は、そのアドバイスが的外れであったため、交代します」というような記述を目にした記憶はありません。まあ、新聞等の人生相談は、所詮その程度のお遊びだということなのでしょう。しかしこれが、教員だったらどうでしょうか。
 A教員の指導を受けた子供の多くが、「失敗」の道を歩んでいるとしたら、A教員は教員失格なのではないでしょうか。もちろん、子供の人生に影響を与えるのは、一人に教員だけでなく、小中高大と何十人の教員が関わるでしょうし、保護者や友人が与える影響も小さくはありません。でも、300人、400人と統計を取って、やはり「失敗」が多い、という事実が判明すれば、何らかの問題あり、ということになりそうな気がします。
 実際にそんな調査も統計もありません。私などは、だからこそ教員という仕事を続けて来れたような気もします。私は東京のO区のH小学校で、5回卒業生を担任しました。150人以上です。私と同じH小学校で100人以上卒業させている教員を全て集め、その教え子に調査カードを送り、今の状況を調査し比較分析したら、どんな結果が出るのか、私の教え子たちの「失敗」の確率が高かったらどうしよう、そんなことを考えてみることがあります。
 妄想です。でも、教員は子供の人生に大きな影響を与える職です。時にはそんなことを考え、自省する、そんな意識をもつことも無駄ではないような気がします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思う壺?

2023-08-24 08:52:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「術中にはまる?」8月20日
 オピニオン編集部専門記者鈴木英生氏が、『小泉悠さんと小田実の平和主義』という表題でコラムを書かれていました。その中に、『ウクライナから逃げてきた若い男性と出会い、「逃げられてよかった」と思った。ウクライナは18~60歳の男性の出国を禁止しているが、「国家の強制から逃れる自由は、やはり大切です」』という記述がありました。
 考え込んでしまいました。外国から理不尽な侵略を受けた、闘わなければ国が占領され、文化も歴史も思想も価値観も破壊され、自由はなく、支配された下層民として一生を過ごさなければならない、という状況下にあるとき、政府は徴兵制を敷きます。しかし、殺すのも殺されるのも嫌だということで、外国に逃れます。
 私はこうした徴兵逃れを肯定する立場でした。私は老年で兵役につくことはないでしょうが、我が子が「兵隊になるのは嫌だ。外国に逃げる」と言い出したとしたら、それを後押しするでしょう。それどころか、積極的に「逃げろ」というかもしれません。ですから、上述の「強制から逃れる自由」発言にも共感します。
 今まで、私の考えは、その時点でストップしていました。しかし、ウクライナ侵攻を目の当たりにして、その一歩先を考えるようになりました。もし、兵役を逃れて外国に逃げていた者が、祖国が無事侵略者を打ち破り、再び国に平和が訪れたときに戻ってきたとして、自分が、家族が戦い、傷つき、あるいは亡くなってしまった人たちは、逃げた者を仲間として受け入れることができるのだろうか、という疑問が浮かんできたのです。
 裏切者、卑怯者、臆病者という罵詈雑言が浴びせられるのではないでしょうか。あるいは、私自身が国内にとどまっていた側だったとして、そうした悪罵を口にするのではないでしょうか。さらに言えば、兵役逃れをした者に対して、裏切者と叫ぶことはいけないことなのでしょうか。自然な感情の発露なのではないでしょうか。国内にとどまり、苦境を耐えた者たちには、「裏切者」を非難する権利があるのではないでしょうか。そんなことさえ考えてしまいます。
 戦争と平和について考えるとは、こうしたことについて自分事として考えるということなのだと思います。中高生になれば、このテーマで議論し合うことができるはずです。若い人にとっては自分事である、徴兵と兵役逃れ問題、多くの学校で取り組んでみてほしいと思います。
 でも、こうした取り組みをすること自体、「極右の連中」の術中にはまることなのかも、という懸念も抱いてしまうのですが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

評価は不要

2023-08-23 08:26:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「画期的」8月18日
 読者投稿欄に、長崎県H氏による『広がれ通知表廃止の動き』というタイトルの投稿が掲載されました。その中でH氏は、『成長途上の子どもの一時点を切り取り、評価することは子どもの心に深い傷を残しかねない人権問題とも言えるのではないか』と、廃止を望む理由を述べていらっしゃいます。
 とてもユニークな見解だと思いました。通知表廃止を叫ぶ声は少なくありません。しかしその理由は、教員の多忙解消であったり、現行通知票では十分に子供についての情報が伝わらないという指摘であったり、面談や日常的なノートや作品へのコメント、連絡帳を活用した情報提供などの方が優れているという指摘であったりします。
 これらに共通しているのは、学校における学習や行動に対する「評価」を子供自身や保護者に伝えることは必要である、という立場です。しかし、H氏は、「評価」を伝えることは、子供を傷つける人権問題であり、不要だと言い切っていらっしゃるのです。
 なお、本題とはずれますが、私が「評価」と「 」をつけているのは、教育的な意味からすれば、通知表によって伝えられるのはむしろ「評定」と呼ぶべきであるという思いがあるからです。「評価」は、授業中にも、一つの発問、一つの学習活動の度に行われるべきものであり、ABCというようなランク付けではなく、「○○さんは、今の質問の意味を理解せず、違う捉え方をしている」と判断し、新たに別の表現で質問を発する、というようなイメージです。評価のない指導はあり得ず、指導→評価→指導→評価という小さなサイクルで授業は成り立っているのです。ですから、評価のない教育活動はあり得ません。
 本筋に戻ります。H氏が主張するように、評価もしくは評定することは、子供を傷つける行為なのでしょうか。分かりやすく言えば、「褒める」ことも評価の一つです。「頑張ったね」「よくできているね」「面白い発想だね、先生も勉強になったよ」などと言う言葉をかけられたとき、子供は傷つくのでしょうか。
 あるいは、「褒める」ことはよいが、叱る、間違いを指摘するような行為、つまりマイナスの評価や評定は、子供を傷つけるから止めようということなのでしょうか。そうだとしたら、間違いを指摘することなく教育が成り立つのかという根本的な疑問が浮かび上がってきます。
 また、H氏は、「成長途上の子どもの一時点を切り取り」と述べていますが、一時点を切り取らない評価や評定というものがあり得るのでしょうか。もしあるとするならば、それはその人間を生涯不変の存在として評価・評定するということになります。言い換えれば、悪い奴は一生悪いまま、という人間の成長や変化を無視する発想になります。その方が恐ろしいと思うのですが。
 H氏の主張、真意はどこにあるのか、掘り下げてみる価値がありそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己犠牲は美談ではない

2023-08-22 09:07:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それが間違い」8月17日
 読者投稿欄に、和歌山県高校教員M氏による、『生徒のために働くのが教師』と題する投稿が掲載されました。その中でM氏は、『教師に夏休みがないわけではない(略)大抵はサラリーマン並みに取れていると思う。年次有給休暇も結構あり、1日フルで取ることは少ないが、時間単位で取得している。教師は夏休みがあっていいとうらやましがられるのも困るが、休みがなくてかわいそうと同情されるのも考えもの。どんな環境であろうと、我々教師は生徒のために働くのが本意だ』と書かれています。
 昔は、教員は夏季休業日は子供と同じようにお休みと誤解され、今は教員の働きすぎが注目され同情される、という状況は指摘の通りです。誤解はもちろん問題ですし、多忙についての理解が深まるのは望ましいことですが、過剰に注目されるのは、教職志望者減などの負の影響をもたらします。これもまた、問題だということです。
 そこまではよいのです。ただ、最後の「どんな環境であろうと、我々教師は生徒のために働くのが本意だ」という記述は危険です。こうした言い方は、様々な職について使われます。「どんな環境であろうと、我々医師は患者のために働くのが本意だ」「どんな環境であろうと、我々警察官は市民の安心のために働くのが本意だ」「どんな環境であろうと、我々介護士は施設を利用する高齢者のために働くのが本意だ」等々。
 そして、こうした覚悟は美談にされ、社会はその美談を讃え、自己犠牲の精神に甘え、必要な改革の痛みを避け、問題の状況は改善されぬまま、だらだらと続いていくのです。そして、いつか臨界点を迎え、自己犠牲の美談では覆い隠すことが出来なくなって、ようやく改革が始まるのですが、そのときには既に制度疲労は手が付けられないところまで深く、回復には長い時間を要するようになってしまい、社会全体が大きなダメージを背負うことになるのです。
 我が国は特に、こうした「カエルがぬるま湯で煮えてしまう」病が横行する国民性があるようです。ですから、「どんな環境であろうと、我々教師は生徒のために働くのが本意だ」は間違いであり、「我々教員が、余裕をもって子供と接することができることこそ、教育の充実のために不可欠である」と、教員の働きすぎを強制するような現行制度の改革を求めることこそ、教員の良心であるべきなのです。
 教員を巡る労働環境の整備は、教員の自己利益のためではなく、子供のため、ひいては我が国全体のためであるという考え方をまず教員自身がもってほしいものです。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする