ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

どこにある?物語型学校

2021-05-31 08:00:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「6年間は」5月22日
 『人生の目標 正しく選ぼう』というという見出しの記事が掲載されました。前回に引き続き、マルテラ氏へのインタビュー記事です。またまた良い言葉を紡ぎ出してくれています。『「我々がやりがちな間違いは、人生をプロジェクトとしてみることです」。プロジェクトは、大きな目標を定め計画を立て、ひたすら努力する。人生をプロジェクトとしてとらえると、人生の価値はプロジェクトが成功するかどうかで決まってしまう。マルテラ氏はこう続けた。「人生はむしろ物語とみるべきなのです」。良い体験も悪い体験も物語の一部。プロジェクトも、あくまでも物語の躍動感を高めるためのものなのだ』と。
 とても考えさせられました。まず、マルテラ氏が言う「人生」とは何なのか、という疑問についてです。生まれてから死ぬまで、という意味なのでしょうか。もしそうであるならば、人生全体は物語だが、人生のある時期を切り取って考えたとき、それはプロジェクトであるという考え方が成り立ちます。
 なぜそんなことに拘っているかというと、学校教育はプロジェクト型だからです。目標があり、それを達成するために意図的、計画的に営まれるものなのですから。俗な言い方をすれば、掛け算九九も覚えさせずに小学校を卒業させることは、プロジェクトに失敗ということです。
 もし、マルテラ氏が人生のどの時期を切り取ってみてもプロジェクトではなく物語であるべきだというのであれば、学校教育は幸せをもたらさないシステムであるということになってしまいます。
 あるいはこんな解釈もできます。人生は物語だが、ある部分はプロジェクトだという解釈です。人生100年の中で小学校時代も当然物語だが、小学校時代にも、家庭での生活、地域での生活があり、意図的な教育の場ではない家庭や地域における生活が物語であれば、生活の一部に過ぎない学校がプロジェクトであっても構わないという考え方です。この考え方を採用すれば、学校は幸せな場ではないが必要悪として、存在する意味があるということになります。必要のしろ「悪」というのは少し寂しい気がしますが、完全に否定されるよりはましという気がします。
 地域や民族が異なっても、学校というシステムはいつの時代もどこの文明でも、その原型をみることができます。つまり、人類にとって学校は不可欠なものなのだと思います。そして、学校と名がつくものは、ほとんどがプロジェクト型のシステムになっています。しかし、その学校が幸せをもたらさないものであったり、必要「悪」であったりするというのは、納得がいかないのです。それとも私が不勉強なだけで物語型の学校が世界には存在するのでしょうか。
 おかしなことを考えてしまいました。

 

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幸福な授業

2021-05-30 08:08:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「幸せな学校生活」5月21日
 『意味ある人生送れてますか』という見出しの記事が掲載されました。幸福度世界一のフィンランド、そのフィンランドで哲学者、心理学研究家として活躍なさっているフランク・マルテラ氏へのインタビュー記事です。その中でマルテラ氏は、幸福感と意味ある人生を両立させるためにはどうすればよいかという問いに答えています。
 『①自分で人生を選択し、人生を作り上げる自律への欲求②取り組んでいることがうまくできるようになり、自分に自信を持つ能力への欲求③他人と互いに世話をし合うなど親密な関係性への欲求』を満たせばよいというのです。
 なるほど、です。ということは、子供が学校生活を充実したものだと感じるためにも、この3つの欲求充足が大切だと言えます。教員として学級を、授業を、また校長として学校全体を考えるときに、こうした視点から見てみることが効果的なのではないでしょうか。ここでは、教員レベルで考えてみます。
 ①について言えば、課題選択型の学習過程を積極的に取り入れることが考えられます。学級全体でインパクトのある共通体験の場を設定し、その体験から子供たち一人一人が感じた感動や疑問を、学級全体の大きな学習問題に発展するとともに、そこに構造的に結びつく各自の学習課題をもたせるのです。
 課題解決のための調べ学習においても、一人一人が図書館や資料室、ICT機器などを活用して解に近づく場面とそれぞれの解をもちよって集団討議する場面を交互に設けていくというようなイメージです。
 ②については、スモールステップで学習目標を設定する工夫が考えられます。最終的なゴールまでに、十数段階の小目標を設け、aをクリアしたらbへ、bを達成したらcへ、cを解決したらdへ、というような形で子供が事前に把握できる具体的な形で、学習の見通しをもたせ、ここまでやり切ったという満足感を与えるのです。体育などの実技系の授業では特に導入しやすいでしょう。
 ③では、共同作業を増やしていくことが考えられます。昔の暮らしを再現しよう、という趣旨で行った、海水から塩をつくる、一人で入れる竪穴式住居をつくる、といった授業をしたことがありますが、子供たちは自分がやりたいこと、できそうなことを考え、役割を分担して取り組みました。リヤカーを曳いて海岸まで行き海水をくみ上げて学校まで運んでくる、海水を熱する大きな容器をブリキでつくる、海水を熱するために砂場で薪を燃やし続ける、2日間かかって大きな塩の塊を手にした子供たちは、お互いを讃え合い、絆を深めたものでした。
 学習指導要領にある目標を達成することに合わせ、こうした視点から教育活動を見直してみる、これこそ教員の醍醐味です。

 

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総理大臣と子供は違う

2021-05-29 08:15:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「正しさの外側で」5月21日
 ベルリン支局念佛明奈記者が、『独の性暴力、議論の契機 「少女像の波紋」』という表題でコラムを書かれていました。『慰安婦を象徴する少女像がドイツの首都ベルリン(の公有地)に設置されて半年がたつ』という書き出しで始まるコラムで念佛氏は、『ドイツでは、日韓間の問題というより「議論の場」として、像の意義を認める方向に向かいつつある』と述べていらっしゃいます。
 『ドイツにも性暴力加害の歴史があるがきちんと議論されてこなかった』ということです。具体的には、『女性専用の強制収容所から連れてこられた収容女性』との性交渉が許可されていた、ということです。多くは、ドイツやポーランド、ソ連出身の女性たちで、『こうした事実は研究者の間で議論され、書籍も出版されているが、賠償や補償、謝罪はされていない』のだそうです。
 そして、念佛氏は、日韓関係に詳しいドイツ人の日本史学者、ボン大学ラインハルト・ツェルナー教授の提案、『日本がドイツと一緒に女性に対する性暴力問題を共同研究してはどうか』を紹介し、共感なさっているのです。
  私は慰安婦問題はあったと考える立場です。旧日本軍の関与の程度や中韓が主張する「慰安婦」の中にいわゆる「売春婦」が含まれていないのかなど、いくつか明解でない部分があるとは感じていますが、「慰安婦」そのものの存在を否定するのは間違いであるし、否定する行為は我が国の名誉を守るどころか、国家の品格を貶める行為であると考えているのです。
 では、念佛氏が言うように、ドイツと共同研究し、戦争中の軍の性暴力について、賠償や補償、謝罪をすべきかというと、少し迷う自分がいます。それは、悪いことしたのは自分だけなの?という素朴な感覚によるものです。
 右派メディアは、ベトナム戦争時における韓国軍のベトナム女性に対する性暴力を指摘し、「偉そうに被害者面しているが、自分たちだって~」という非難をしています。そのことについて語るだけの知識もありませんが、一部の右派メディアのように、自分のしたことを棚に上げ、相手の非をあげつらう行為はみっともないもので、日本人として同調する気になれません。
 しかしそれは理性の話です。感情面では、悪いことをした奴らは他にもいるのに、なんで俺だけが責められて謝らなければならないんだ、という思いは捨てきれないのです。第2次世界大戦とそれ以降の戦争において、女性への性暴力を行った国は我が国以外にもあり、そのことで謝罪していない国もあるはずなのに、日本だけが謝れと言われているのは不合理だ、というような感情です。
 国と国との関係は感情ではなく理性が勝るべきです。ですからこれ以上はみっともないので言いません。ただ、教員時代に子供を叱るとき、子供が抱く「自分だけじゃないのに」という感情には配慮が必要だったことを思い出しました。そのとき、「人のことはいいから、自分がやったことについて考えなさい」「他にもやった子がいるから、自分がやったことの責任が軽くなると思っているのか」などと責めるのは、理屈としては正しくても、子供の心に届きません。
 自分だけが損をしている、不公平な扱いを受けている、先生は自分のことが嫌いなんじゃないか、先生は○○さんのことを依怙贔屓しているんだ、などという目で睨み返されるのがオチです。そこで教員が力づくで謝罪させても、本当の反省にはつながりません。若いころは、そんな人情の機微が分からず、子供の反発を買ったものでした。
 子供相手と、国対国の問題では、望ましい対応は異なるのです。

 

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能力低下認定は悔しくないか

2021-05-28 08:18:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どう感じている?」5月19日
 『論点』のテーマは、『深刻化する孤独問題』でした。3人の識者の中で、NPO法人「あなたのいばしょ」理事長大空幸星氏が語られていることに共感しました。大空氏は、『「孤独」と「孤立」は同じではない。家族や地域とほとんど接触のない状態を指す「社会的孤立」という概念では、友達がいても寂しいという若者や親に虐待されている子どもたちは救えない』と述べています。
 全くその通りです。私は、孤独問題への対応は必要だと考えていますが、ある客観的・数値的な基準を設け、それによって孤独か否かの判定をし、マニュアル的に対応を定めるというような仕組みには反対です。それは、学校におけるいじめ問題への対応の失敗が頭に浮かぶからです。
 いじめ問題が社会的に大きな関心事となった25年ほど前、各教委が本格的にいじめ対応に乗り出しました。私が勤めていた区教委でも、いじめ防止対策検討委員会を設け、指導資料を作成し、全教員に配布しました。そこには、「いじめの問題は、いじめられた児童・生徒の受け止めや立場に立ってとらえることが基本です」と明記され、『心の痛みを親身に受け止め共感的な態度で接する』という留意点も記されています。
 つまり、何らかの基準に当てはめ、機械的にいじめの有無を判断したり、深刻度を決めたりするなということです。同じ状態であっても、感じ方は子供一人一人異なります。教員の感覚で、「その程度のことで~」と思えるようなケースでも、自殺まで思いつめる子供もいれば、「よくこんな状況に耐えてきたな」と感じるケースでも、さほど深刻に捉えていないという場合もあるのです。
 ですから、教員一人一人に子供をよく見つめ、小さないじめも見逃さない感度の良さが求められたのです。しかし徐々にこうした姿勢が失われ、教員が子供を見ていじめの兆候を発見するというよりも、定期的なアンケートの実施、いじめ目安箱的な仕組みによるいじめ発見が重視されるようになっていきました。その結果、いじめによる自殺や自殺未遂というような重大事態が発生しても、「前月に行ったアンケートではいじめがあるとの記述はなかった」「自殺未遂をした生徒はいじめを訴えてはいなかった」などという「言い訳」が学校や教委から堂々となされるようになってきているのです。
 法や規則によって定められた制度を整え、きちんと運営していたのだからいじめを発見できなかったのは学校の責任ではない、という理屈です。こうした姿勢の裏には、今の教員にはいじめを見抜く力、子供の気持ちの寄り添う力はない、という考え方があります。教員の能力低下があるという認識です。個々の教員の能力低下をシステムを整えることで補おうということです。
 寂しい話です。大空氏は、「望まない孤独」という概念を提唱し、外から窺える条件で線引きすることなく、つらい思いをしている当人の主観に寄り添うことを主張なさっています。いじめも同じです。もう一度原点に立ち返り、いじめられている子供の感じ方に着目し、教員が自らのアンテナの感度を磨く努力を惜しまず、アンケート頼みを脱却して、いじめを発見し対応する、そんな形を復活させるべきです。

 

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感じているのは紛れもない「事実」

2021-05-27 08:36:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「読み取り方」5月17日
 特別編集委員山田孝男氏が、『ワクチンと竹ヤリ』という表題でコラムを書かれていました。出版社の宝島社の広告についての内容です。その広告は、『長刀訓練の写真にウイルスをあしらい、「ワクチンもない。クスリもない。タケヤリで戦えというのか。このままじゃ、政治に殺される」と書いてあった』ものです。私も見ました。
 この広告について山田氏は、『広告の認識、政治観には疑問を感じる』としています。そして、その理由として、『国民皆保険の医療制度が機能している(略)医療従事者は奮戦し、注意深い国民は会食を避け、ウイルスの遮断が弱いウレタンやガーゼではなく、不織布のマスクを着けている。患者本位の医療制度、職業倫理、用心-は竹ヤリではない。日本中が、独裁政権の<神がかり>に支配されているかのような理解は正しくない』と見解を述べられていました。
 ここでは山田氏の見解の是非については述べません。ただ、私が感じたのは、ある資料の扱い方の難しさということです。私は教員時代に社会科の指導法を研究していました。指導主事になってからも社会科を中心に研究員等の指導に当たってきました。社会科の指導法の中に、1枚の資料を見せ、そこから分かることを徹底的に書きださせて話合わせるという手法があります。私もよく使いました。
 例えば、幕末にペリーが来航したときに瓦版を提示し、当時の人々の感じていたことを想像させるというやり方があります。同じ人間なのに鬼のように描かれた絵を見て、子供たちは当時の人々の恐怖心、排外主義、あるいは世界情勢への無知など、様々な意見を述べてゆきます。
 もし、5年後、6年生の政治単元の授業で、この広告を使い、「新型コロナウイルスパンデミック」のときに人々が感じていたのはどんなことだろうという問いかけをして授業を展開したとしたら、どうなっていくかと考えてみたのです。
 多くの子供は、政治の無策を指摘するでしょう。そしてその疑問を基に当時(つまり現代)の新聞やニュースの映像等をみて調べていくと、経済活動の維持を重視するあまり感染防止対策が後手にまわったという「事実」を探り当てるはずです。
 この展開は私を含め多くの国民を納得させると考えます。しかし、山田氏のように、使われた資料そのものが間違いを多く含んだ問題のあるものだという指摘もあり得るのです。そうした立場から見れば、殊更政府の失政をフレームアップする意図に基づいた偏向教育であると言われてしまうかもしれません。
 菅内閣のコロナ対策に対する世論は厳しいものです。欧米を含む6カ国のコロナ対応に対する評価でも我が国は最下位です。しかし、それでも評価する人はいます。そして政府の対策に深入りすれば、どちらの結論に近づいても、他方からは偏向という批判にさらされるのです。そのことが一般の教員に、生の社会事象を取り扱うことを躊躇わせるのです。
 社会科や総合的な学習の時間に宝島社の広告を使った実践をする教員は現れるのか、教育班の記者の皆さんに追いかけてもらいたいものです。そして山田氏の見解はその実践を行うにあたって影響があったかなかったかも尋ねてほしいものです。

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想像力を養う?

2021-05-26 07:53:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そこが論点」5月18日
 連載企画『14歳の君へ わたしたちの授業』は『全国の中学生に、さまざまな分野で活躍する人が語る「授業」』です。今回は国語で、作家瀬尾まいこ氏が語られていました。その中に、『国語では、人の気持ちを考える想像力を養えます。本を読むと、病気の人や旅行した人、大人の気持ちも分かります。いろんな境遇や時代の人の心を知り、想像力を身につければ優しくなれます』という記述がありました。
 瀬尾氏は10年前まで十数年間中学校の国語教員をなさっていた方です。国語科というものを十分に知っての発言です。それだけに、大胆な発言だと感じました。国語化については、従来から2つの立場から論争が繰り返されてきました。それは、端的に言えば、日本語という言語に関する学びであるべきという立場と、日本語という言語で記された文学に触れることも重視すべきという立場に分けることができます。
 そして実際に日本語教育学会と国語教育学会が別組織として存在するのです。近年は、前者が勢いを増し、今回の学習指導要領改訂において、契約書や説明書など、実用的である反面無味乾燥な文章が授業で扱われる割合が増してきています。そしてそれに対し、後者の立場からの反論がなされているという状況です。
 こうした論争の背景には、国際化が絡んでいますし、英語教育にも関連があります。グローバル化した社会では、母語以外の言語を身につけなければならない人が増えてきます。ではそうした人が母語以外の言語を身につける際にまず何を求めるのか、それは母語以外の言葉を使って生活ができる能力ということです。
 私が英語圏の国に行ったとします。まず、部屋を借りる交渉をしなければなりませんし、騙されないためには契約書を読めなければなりません。役所に各種の届け出をしなければなりませんが、そこでも提出用紙に書かれた説明文を理解する必要があります。スマホを購入し、電気ガス水道も当局に手続きを申し込まなければなりません。病気になれば、病状を告げることができなければ命にかかわります。
 そうしたときに必要なのは、英文学の古典を読み取る力でもなく、英語で書かれた難解な現代文学を読み解くことでもありません。実用英語が重要になるのです。同じように、日本語を母語としない人たちが我が国に来て生活をする際に、必要なのは、村上春樹や森鴎外の小説を読んで理解できる能力ではなく、まして万葉集や源氏物語を味わう能力でもありません。読み取り理解することが必要なのは賃貸契約書であり、家電の説明書であり、薬の処方箋なのです。
 そうした実務的な言語力こそ、まず優先的に身につけるべきであり、それ以上の能力は、それを必要とする者がその次の段階で学べばよい、というのが多くの国において行われている言語教育だというのが、国語ではなく日本語派の主張なのです。ここでは、読むことを中心に述べていますが、聞く話す書くについても同じです。
 ちなみに、英国では英語の授業が行われ、フランスではフランス語の授業が行われており、その国の言葉という意味で「国語」の授業は行われていない、ということがよく言われています。あら、日本語の授業を、そして実用言語をという主張になるわけです。
 瀬尾氏は、自らが作家ということもあるのでしょうか、明らかに後者、日本語ではなく国語派です。実は私も同じです。しかし、瀬尾氏は上記のような国語教育を巡る2つの潮流を意識した上で、中学生を対象に国語派としての自説を披露なさっているのでしょうか。聞いてみたい気がします。

 

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そもそも違う、優劣ではない

2021-05-25 07:56:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そもそも違うのでは」5月16日
 『デジタル庁でも紙・メール 霞が関「文化」民間人は戸惑い』という見出しの記事が掲載されました。その中に両者の文化の違いについての、東京大先端科学技術研究センター教授牧原出氏の分析が掲載されていました。『「まずは商品やサービスを形にし、何か不具合が起きたら直していけばいい、というのがデジタルの世界」と説明し、スピード感重視のIT業界と「失敗しないこと」にこだわる霞が関の違いは大きい』ということです。
 正しい分析だと思います。ただ、記事全体が、霞ヶ関文化を乗り越えIT業界を見習うべき、という論調で書かれていることが気になりました。本当にそうなのでしょうか。私は、両者のいいとこどりを目指すのは当然でも、霞ヶ関文化のよさを軽視し過ぎてはいけないと思います。
 両者に優劣はなく、それぞれの良さと欠点があると考えるべきです。例えば、医療に関して、良さそうな技術が開発できたからまず使ってみよう、それで失敗し患者が死んだり重篤な後遺症が生じたら修正していけばいい、という発想で臨まれてはたまったものではないと、誰でも思うはずです。また、この記事を書かれている新聞というマスコミ業界においても、注目されそうな特ダネを入手したから急いで出し、もし誤報だったら訂正記事を出せばいい、という姿勢で業務に従事している人はいないでしょう。
 つまり、それぞれの「業界」ごとにある文化が存在するのは、それなりの歴史と理由があるのです。教育についても同じです。例えば塾と学校を比べてみるとします。世間には、市場の競争にさらされている塾の方が、競争がなくぬるま湯の学校よりも充実した授業をしており、学校は塾に、教員は塾の講師に学ぶべきだという意見をもっている人もいます。
 その是非は置いておくとしても、両者の文化は全く違います。進学型の塾は落ちこぼれを気にしません。市場にさらされるのは、どれだけ有名校・難関校に合格したかです。数%の子供が塾に不満を抱き、あるいは適応できなくて辞めていったとしても、そのことは塾の広告に掲載されて、切り捨てたと追及されることはありません。
 一方、学校では、様々な事情で学校生活に適応できなくなり、登校できなくなった子供を無視するわけにはいきません。100人中の1人であっても、学校は何もしてくれなかった、と責められ糾弾されるのです。もし、3%が不登校になったとして、1学年60人規模の小学校では、10人以上になり、それは確実に学校への追及が始まるでしょう。
 この塾と学校の違いを誰も不思議に思いません。そういうものだと納得しているのです。そしてそうした認識の中で当然のこととして両者の文化は違ってくるのです。最近はやや下火になりましたが、以前は学校は民間を見習え、塾に学べ、という声が盛んでした。その通りです。学ぶべき部分はあります。しかし、それは優劣ではありません。そのことを忘れてほしくありません。
 ちなみに私は、学校は同じように人に接する職として、介護の学ぶべき点が多くあると思っていますが、それは介護と学校教育の優劣の問題ではないと考えています。当たり前でしたね。

 

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鳥は鳥らしく、虫は虫らしく

2021-05-24 07:53:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「虫の視点」5月16日
 作家島本理生氏が、『「モテ」という現象の深層』という表題でコラムを書かれていました。その中で島本氏は、鈴木涼美著「ニッポンのおじさん」を取り上げ、『戦争を他人事のように俯瞰して論を展開する優秀な学生に対して著者は、「人の死を悲劇やノスタルジーではなく、数字で把握できるその「アタマの良さ」はすなわち、死と隣り合わせになったことがない人間、身近な死によって自分自身が変容するという経験がない人間の所業だと私には思える」と指摘する。最近SNS上でも見られる、頭がよいと見なされる振る舞い、に違和感があった私は心救われた思いがした(略)近頃では若い人にかぎらず、アタマの良さに固執する人はたしかに私情混入を嫌悪しているようにさえ思えると私は思った』と書かれています。
 島本氏が書かれたこの部分を読み、私は2つのことを思い浮かべました。一つは、お役人と教員の違いです。お役人は学校や子供について語るとき、数字を基に話します。不登校が○名、前年度に比べて△%増加、いじめの発生件数は○件、そのうち重大事態に該当するのは△件といったぐあいです。
 そこから、スクールカウンセラーの配置をどうするか、そのための予算はいくらになるか、と対策を肉付けし、実現していきます。その過程に、いじめられているのに頑としてその事実を認めようとせずに歯を食いしばっていたAさんの顔も、学校に行こうとしても体が動かなくなる我が子について涙を浮かべながら話す保護者Bさんの姿も存在しません。考えようともしません。それでこそ有能なお役人と言われるのです。
 一方、教員は何人かのAさんやBさんをイメージしながら、「カウンセラーが週1回では、本当に困っている子供を救えないんです。ようやく相談しようという気になってもその日にカウンセラーがいなければ、次の日にはもういいよ、と口を閉ざしてしまうんです」と訴えるのです。どちらがよいではなく、そういうものだということです。
 そしてもうひとつ浮かんだのは、若い教員が、アタマの良い人になりつつある傾向が強まっているのではないかということです。最近、大きな病院に行くと、医師は患者の顔も見ずに、データが表示されたパソコンの画面ばかりを見ているという批判がありますが、若い教員も子供を見ずに、アンケート用紙や調査用紙ばかりを見て、「大きな問題はなし」「特段の対策が必要な事案はなし」などと判断してしまっているということです。いじめが自殺等に発展すると、アンケートには記載はなかった、子供向け調査でもいじめがあるという記述は見られなかったなどと「言い訳」する例が多く見られます。
 困惑する子供、悲しむ子供、絶望する子供、嘆く保護者、怒りをむき出しにする保護者に接し、そのことで教員としての自分が変わっていくというような生々しい体験をしていない教員が増えているのではないかという危惧を覚えるのです。
 昔サラリーマン教員という言葉がありましたが、お役人教員に置き換わっていくというのでは笑い話にもなりません。

 

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理想は昭和の株主総会?

2021-05-23 08:22:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪いのは何?」5月15日
 『方針急転換 野党猛批判』という見出しの記事が掲載されました。『政府が新型コロナ分科会で専門家から反対され、当初方針を急きょ変更したことに対して、野党からは「見通しが甘い」などの批判が集中した』ことを報じる記事です。
 記事によると、『みっともないし、不適切だ。政府のメッセージ性が毀損する。専門家や自治体との意思疎通が不十分だ』『政府の認識が甘かったということだ。政府の対応が後手後手になっている』『政府が消極的な姿勢に見える』などの批判が浴びせられたようです。
 私も菅内閣のコロナ対応には不満をもっています。ですから今回の政府の対応についても、大いに問題ありと考えています。ただ、政府の方針が分科会での反対を受け転換されたということ自体を非難するのは疑問だと考えています。それでは、分科会の反対を押し切って強引に政府の方針を貫き通せばよかったというのでしょうか。そうではないでしょう。
 政府には各種情報を分析し、政治的に判断をして総合的に結論を出すという機能が求められています。一方、分科会には医学の専門家、感染症の専門家の立場から感染拡大の抑止という観点から提言が求められています。両者が一致しないという事態は当然のことですがあり得るはずです。逆に言えば、常に一致するのであれば、分科会など必要ありません。そもそも民主主義国家の統治は、民意を代表する選挙で選ばれた者と特定の分野において深い専門的知見を有する専門家とが協力補完し合って行い、最終判断は政治が行うというのが望ましい姿です。そうした考えからすると、今回の決定は、政府は政府として判断し、その判断に引きづられることなく専門家は自らの知見に基づき提言し、政府はその提言を受けて自らの統治者としての責任をもって決定するという、至極まっとうなものだったのではないでしょうか。
 それをおかしいと感じるのは、政府と分科会は事前にすり合わせをしておくべきで、意見のぶつけ合いは水面下で済ましておき、外部には一枚岩であることを強調するという、根回しを良しとする伝統や文化があるのではないでしょうか。
 そうだとすれば、それは会議の形骸化につながり、本当の意思決定を見えにくくする、隠蔽体質に通じる愚行だと思います。私も教委勤務時代に、校長会や教頭会、市民の代表、學校から選ばれた教員による○○委員会や△△検討会といった会議を主管してきました。そのとき、一番気を遣ったのが「落としどころ」でした。つまり、教委側が望む結論があらかじめあり、その結論があたかも校長や教員、市民などの意見を取り入れた上で決められているという偽装工作であり、アリバイ作りであったということです。
 弁解にしかなりませんが、限られた時間内では、どうしてもそうした下準備や根回しが必要なこともあるのです。しかし、言うまでもなく望ましいことではありません。今回の、政府と分科会の見解の相違は、そういう意味では、むしろ望ましいことであるという一面もあるのです。
 むしろ、私が今教委の人間だったとしたら、こちらが事前に準備した結論を覆したり、全く違う視点を与えてくれたりする委員会や検討会を行いたいと思いますが。

 

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クラッシャーが学校も変える?

2021-05-22 08:28:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「平等という感覚」5月14日
 『河野氏「完全に僕の失敗」 高齢者予約 混乱受け陳謝』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、河野氏は『新型コロナウイルスワクチンの高齢者向け接種の予約が各地で殺到していることについて「効率性より(住民の)平等性を重んじる自治体が多かった。これは完全に僕の失敗だ」と陳謝した』ということです。
 さっと読んだだけではよく分かりませんでした。河野氏の「理屈」は、平等性を重んじるのは間違いであり、効率性の方が大切である。ワクチン担当相である私が、そのことをきちんと自治体に指示・指導しなかったために混乱が生じた。混乱は私の指示・指導不足が原因であるので、責任を感じ謝罪する、というようなことになると思われます。
 私が引っ掛かってしまったのは、平等性重視は間違いという河野氏の価値観なのです。我が国の学校教育については、長い間、悪平等主義への批判が根強く行われてきました。この批判は主に右派から行われ、戦後民主主義の行き過ぎた弊害、アメリカからの押しつけ憲法による行き過ぎた平等偏重の結果というようなニュアンスで語られてきたのです。その象徴が、運動会の徒競走で順位をつけると子供が傷つくということで全員が手をつないでゴールインする指導が行われている、という「事例」でした。この話は国会審議等でも繰り返し使われましたが、実際にはある時ある学校で行われたことがあるという特殊事例であることが後日判明しました。
 ですからこうした極端な悪平等に侵された学校というのはデマなのですが、私は、学校の体質として平等という概念が深く浸透しているのは事実だと考えています。勉強のできる子供も理解の遅い子供も、豊かな家庭の子供も生活が苦しい家庭の子供も、その違いゆえに恥をかいたり、悩んだり、劣等感を抱いたりすることがないように「平等」に接していこうというのは、教員にとってある種の性のようになっています。
 そしてこうした考え方は、学校教育に関しては、ある程度国民の多数が支持していると思われるのです。飛び級や落第(私は賛成だが)の話を持ち出すと、多くの国民は子供が傷つくという理由で反対します。給食の廃止を言うと、「家庭の事情でお弁当を持ってこられない子供が辛い思いをする」というような反対論が出されます。標準服をやめて自由な服装を認めようというと「貧しい子供はいつも同じ服で肩身の狭い思いをする」という声が聞こえてきます。
 私はこうした声が本音ではなく、実際には「弁当作りは面倒くさい」「自由服になったらお金がかかる」というのが本当の理由ではないかと思っていますが、それでも少なくとも「みんなが同じに」という平等重視は建前としての有効性をもち続けていることは確かです。
 だからこそ、平等より効率という考え方に対して、理屈では理解できても違和感を覚えてしまったのだと思います。河野氏は次期総理にという期待度が第一位の政治家です。また、既存の制度をぶち壊すクラッシャーとしても有名です。これからの学校は、効率優先に姿を変えていくのか、そんなことまで気になってしまったのです。

 

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