ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「友達」に囲まれていても寂しい

2020-11-14 08:17:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「千差万別」11月9日
 『「非モテ」研究会が活動報告書刊行 男性の苦しさ 考える軌跡』という見出しの記事が掲載されました。『「モテないけれど生きてます」。そんなタイトルの本が青弓社から刊行された』ことを報じる記事です。『「モテない」悩みに絡み合う多様な生きづらさを時にユーモアを交えて描く』ものだそうです。
 記事の中に、『自身の生きづらさを「不本意出家」という言葉で分析したリュウさんは非モテ当事者の差異に言及し、「その差異こそが孤独の苦しみであり~」』という記述がありました。つまり、モテないという共通項がありながらも、「非モテ」研究会のメンバー一人一人が置かれている状況や苦しんでいたり悩んでいたりする事柄は違っていて、非モテ仲間がいることでも孤独感は解消されないということです。
 最初は「非モテ」という言葉に引きつけられて記事を読み始めたのですが、読み終えてみると、教員にとっても留意しなければならないことがあることに気づかされました。それは、子供たちをある視点や基準で一つの集団として見ることに潜む恐ろしさです。
 現実問題として、多くの教員は子供たちを様々な集団として把握しています。勉強ができる子供と出来ない子供、不良と優等生、明るい子供と暗い子供といった誰でも思いつくような集団分けもあれば、色気づいた子供とまだ性への関心が薄い子供、おしゃれな子供と無頓着な子供、過保護にされている子供と放任されている子供、一人が好きな子供と大勢で群れたがる子供などの集団で学級を把握している教員もいることでしょう。
 私は今まで、子供にレッテルを貼り、この子はこういう子と決めつけてしまう姿勢を非難してきました。上記のリュウ氏がいうように一人一人に差異があることを無視しているからです。しかしそれだけでなく、これもリュウ氏の指摘にあるように、同じ属性をもつと思われる集団に属し共に行動をしていながらも、そこにも孤独の苦しみがあるということについては言及してきませんでした。というよりも、考えてもいなかったのです。
 私は小学校の高学年を受け持つことが多かったです。この時期の子供は個人差が大きく、いわゆる色気づいた子供とそうでない子供がいるものです。ある女子グループは、誰が誰を好きだとか、誰と誰がデートしたとか、デートのときは男の子におごってもらうとか言った話題や、ネイルやリップなどの化粧、大人っぽい下着の話などで盛り上がっていて、ときどき担任である私にも、「靴下は→ソックス、6はシックス、最大はマックス、じゃああれは?」などという謎々を出し、私は一瞬詰まっていると「あれはザット。先生なんだと思った?」などとからかってくる、そんな感じでした。
 私は彼女たち一人一人がそうした共通点を持つ一方で、家庭環境や親の束縛、進学先や成績、容貌や性格などについて、それぞれに悩んだり不満をもっていたりすることは理解しているつもりでした。しかし、彼女らが上記のような話で盛り上がっているとき、お互いにその場の雰囲気を大切にし表面的に周囲に合わせている部分があるとは分かっていましたが、そのときに仲間といても孤独というような感情を抱いているまでと想像することはほとんどありませんでした。
 「また、楽しそうにやっているな、塾だ受験だと大変なことも抱えているのだから、休み時間のバカ話がストレス解消になればいいや」くらいの気持ちだったのです。そうしたグループに属せず、早く休み時間が終わるのを待っているような子供について、孤独や寂しさを懸念することはあっても、いつも集まって笑っている彼女らがその瞬間にも寂しいと感じているとは思いもしなかったのです。そして、家庭訪問や個人面談では保護者に対し、「お子さんはいつも大勢の友達に囲まれて楽しく学校生活を送っています。安心してください」などと伝えていたのです。
  何人もの「友達」に囲まれていれば寂しくない、そんな薄っぺらな子供理解は、教員として恥ずかしい限りです。

 

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