ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

背負いきれないほどの重荷

2024-03-31 08:55:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「重荷」3月23日
 『中学教科書にQR増加 文科省検定 進むデジタル対応』という見出しの記事が掲載されました。『国の「GIGAスクール構想」で、生徒1人1台のデジタル端末の配備が進んだことから、教科書からオンライン上の教材にアクセスできる二次元コードを載せた個所数が増えた』ことが文科省の教科書検定結果から明らかになったことを報じる記事です。
 記事によると、『デジタルコンテンツは教科書の外に置かれているために検定の対象外だが、教科書各社はその充実を図ることで、各学校が使う教科書として選んでもらいたい考えだ』とのことです。当然の発想でしょう。今後、こうした傾向はさらに進んでいくことが予想されます。
 私がこの記事を目にして真っ先に頭に浮かんだのは、教委は大変だな、ということでした。小中の教科書は、その設置者である区市町村の教委が、採択権をもちます。通常、5名の教育委員が、公開された教育委員会の場で全ての教科につき、数社、教科によっては7~8社の教科書の中から、最も適していると思われる1社を選定します。
 もちろん、いきなり委員の前に教科書が積み上げられて「さあ選べ」となるわけではありません。当該教委が管轄する学校の校長や教員からなる採択資料作成委員会のようなものが組織され、そこで参考となる資料が作られますが、決定するのはあくまでも教育委員の合議によってです。
 教育委員は、医師や弁護士、PTA会長など、「素人」がほとんどを占めます。その彼らが、多くの市民、それも教科書採択問題に強い関心をもち、様々な運動を繰り広げている活動家の人たちが注視する中で、きちんと意見を述べ決定していくのです。
 私も指導主事や室長として関わったことがありますが、ほぼ全員の教育委員が、「こんなに大変なものだとは思わなかった」と疲れ切った顔を見せたものでした。また、採択結果については、市民だけではなく、区市町村議会の議員も強い関心を寄せています。国旗国歌の扱い、同性婚や選択制夫婦別姓問題の扱い、自衛隊や日米安保の扱い、LGBTQについての記述、性教育における性交や避妊の取り上げ方等々。 
 いわゆる保守派とリベラル派が、目を光らせて、自分たちの主張の反する見解についての発言を取り上げ、議会でも追及攻撃するのです。こうした状況下、今まででも教委は胃が痛くなるような思いで採択事務を行ってきたのです。それなのに今後は、QRコードの内容についてまで、市民や議会の目を意識しなければならなくなるのです。
 もちろん、記事にあるように、QRコードは検定の対象外ですから、採択にあたってもその内容は検討項目には含まないという考え方をすることは可能ですが、市民や議員から、「A社の教科書のQRコードの内容に、コンドームの装着方についての解説が図入りである。そのことを知っていてA社の教科書を選んだのか」というような質問がなされ、知らなかった、検討材料ではないという答弁では済まされない自体が想定されるのです。
 かといって、全ての社の全てのQRコードの内容をチェックするということは、膨大な作業になります。小さな教委ではとても不可能です。どう対応していくのか、各教委の見識と能力が問われます。

 

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義務教育とその後

2024-03-30 08:26:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「違う!気がする」3月22日
 『無料塾 スタッフのジレンマ』という見出しの記事が掲載されました。教育ジャーナリストおおたとしまさ氏が感じた『塾に通わないと土俵に上がることすらできない過酷な競争を強いる社会ってどうなの-?』という疑問に向き合う記事です。
 その中に次のような記述がありました。『5教科で満遍なくいい点数をとらなくてはいけない国公立大学の入試制度を例に挙げ、おおたさんは「人の得意に焦点をあてるのではなく、苦手分野がないゼネラリストを高く評価するマインドセットを構築してしまっている」と指摘する。「それぞれの得意分野を伸ばして、苦手な分野はそれを補ってくれる人とチームになればいい。でも、ゼネラリストを育てる教育システムが社会全体に広がり
今はそのルールの中でたまたま勝った人たちが、偉そうにしているように見えます」』
 そうなのかな、という思いがしました。私の認識は、かつての我が国の学校教育は、良い意味でゼネラリストの育成を重視していたが、近年は、デジタル分野などの国際競争力強化に直接役立つようなスペシャリスト育成を重視するように変わってきている、というものです。つまり、おおた氏とは反対の立場なのです。
 ゼネラリスト育成は、教養の重視に重なります。教養の定義は様々ですが、直ぐに何かの仕事に役立つ即効性を重視するのではなく、その人の内面を耕し、人生を豊かにするイメージであることには反対は少ないと思います。ですから、先人の築き上げてきた文化や思想、価値観を包含する文学を軽視し、契約文書や取扱説明書の理解を重視するような改革は、教養の軽視であり、ゼネラリスト育成軽視であると考えるのです。
 また、学校教育について考える際に、幼稚園から大学院まで全てをひっくるめて考えるのではなく、義務教育とそれ以外に分けて考えることが必要です。法的には義務教育は中学校までですが、現状に基づけば、高校までがほぼ義務教育化していると考えてよいでしょう。つまり、高校までと大学以降で分けるということです。
 私は、義務教育とは、現代日本の、自由と人権と法治の原則によって築き上げられた社会の良き形成者として必要な資質を身に付けさせることを目的とした営みだと考えています。ですから、高校までは、その子供が得意なことや興味関心があることだけではなく、幅広く学ばせることが必要だと考えています。ゲームが好きで、ゲーム作りに深い関心をもっている子供がいるからといって、小学校の低学年からゲームにのめり込ませて他のことはしない、というのは問題があるということです。大学以降は逆に、個性や興味関心、能力に合わせて、特定の分野を深く掘り下げるのが望ましいことになります。
 ゼネラリストとスぺシャリスト、教育が目指すものについて、校種に応じた精緻な議論が必要だと感じます。

 

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教員は敏感でなければならない

2024-03-29 07:53:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「罪を憎んで人を憎まず」3月22日
 『試験カンニング生徒自殺提訴へ 両親、学校に賠償求め』という見出しの記事が掲載されました。『生徒が試験でのカンニング後に自殺したのは、教師らの不適切な指導が原因だとして、両親が近く、学校側に計約1億円の損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こす』ことを報じる記事です。
 この生徒はカンニング発覚後、『全科目0点▽自宅謹慎8日▽写経80枚▽反省文の作成』といった処分を受けていますが、両親が問題にしているのは別のことです。両親は、『教師らがカンニングをする人間を「ひきょう者」と表現していたことが生徒を心理的に追い詰めた』と訴えているのです。
 考えさせられる内容です。まず初めに思ったのは、カンニングをするのは卑怯な行為ではないのか、ということです。どう考えても「卑怯」だというのが私の結論です。もちろん、いろいろな事情はあったはずです。そのときの心理状況もよく分かりません。この高校は進学校として有名な学校だそうですから、特にプレッシャーが強くかかるような雰囲気があったのかもしれません。そうだとすれば、学校側も過度に試験の結果を重大視する気風を生んだことを反省すべきなのかもしれません。しかし、それでもなおカンニングは卑怯な行為と言って指導することに問題があるとは考えられません。
 では何がいけなかったのか。それは卑怯「者」という言い方、表現だったのではないでしょうか。昔から「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。人は誰でもミスや過ちを犯すものです。人生で一度も過ちを犯したことはないという人などいないはずです。ですから、ミスや過ち自体は厳しく責め、追及し、その意味を自覚させ、反省させることは必要ですが、そのことがその人そのものの存在を否定するものであってはならないのです。特に子供を育てる教育の場である学校においては、「今回君がしたことは悪い。断じて許すことはできない。しかしだからと言って私(教員)にとって君が大事な生徒、教え子であることには変わりはない。私にとって愛すべき大切な存在であることは今まで通りだ」というメッセージを伝えることが重要なのです。
 具体的に言えば、「カンニングは、努力をせずに成果だけを盗み取ろうとする卑怯な行為だ。私は、学校はカンニングを許すことは絶対にできない。君は罰を受けるべきだ。でも、私は君を信じている。この罰を乗り越え、必ず信頼される人間になってくれることを期待している」という趣旨のメッセージを伝えなければいけなかったのです。卑怯者という表現はその人を否定する表現であり、卑怯なことというのは行いだけを責める表現です。教員はその違いに敏感でなければなりません。

 

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私は姓で呼ばれたい

2024-03-28 08:42:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「押し付け」3月21日
 読者投稿欄に、福岡県S氏による『ニックネームには効果がある』と題された投稿が掲載されました。その中でS氏は、『大学時代英会話教室に通っていた時、イングリッシュネームをつけ、それで呼び合っていた』『アメリカで短期間生活した。彼らはファーストネームで呼び合っていた』『おのおのをニックネームで呼ぶゲームをしばらくした。だからその仲間はニックネームで呼び合うようになった(略)姓で呼ぶより親近感が一段と深まる』といくつかの例を挙げ、『知り合った人と親しくなるには、ニックネームやファーストネーム呼びは効果がある』と結んでいらっしゃいました。
 私はこのブログで何回か「あだ名・ニックネーム」のことを取り上げてきました。担任時代に、女児グループでお互いを愛称で呼び合おうという流行があり、ボスから嫌な愛称「オズマ(漫画「巨人の星」に登場する黒人大リーガーの名)」を押し付けられても不服を言えず、自分のことを「オズマはね~」と話すことを強要されたKさんを例に、あだ名・ニックネーム呼びがいじめにつながりかねないという指摘をする内容でした。
 S氏はニックネームの効用を強調していますが、私は同意できません。かつての教え子Kさんのこともその理由の一つですが、もう一つ最近になって思うことがあります。それは、拒否する権利のことです。人は自分が好きな呼び方で呼ばれる権利があるということです。当然のことながら、自分は姓で呼んでほしい、下の名前で呼ばれたい、馴れ馴れしいのは嫌だから〇〇さんと言ってほしい、親から呼ばれて慣れているから〇〇ちゃんがいい、など、人が好む呼称は様々であるはずです。
 しかし、ニックネームで呼び合おうということが学級なり、その人の属する集団で決まってしまえば、〇〇さん派の人は違和感を覚えるでしょう。そのとき、ニックネームで呼び合うことは親しみを増す良い方法という考え方が浸透していれば、異議を唱えることは難しくなってしまいます。せっかくみんなで関係を深めようとしているのに邪魔をする人と見なされてしまうからです。
 ですから、間違っても教員がニックネームで呼び合うことを提案したり、推奨したりすることがあってはなりません。昔は、子供を愛称で呼ぶ教員がいました。子供も保護者も文句を言いませんでしたが、嫌な思いを押し殺していた人はいたはずです。現代の教員は人権に鈍感であってはいけません。

 

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実績をあげた人にこそ

2024-03-27 08:34:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学歴過信」3月20日
 『院卒教員 奨学金返還免除 不足解消へ文科省方針』という見出しの記事が掲載されました。『教員確保策を議論している中央教育審議会の教員養成部会は19日、教職に就いた大学院修了者について、奨学金の返還を免除するよう求める案をまとめた』ことを報じる記事です。
 『免除を呼び水に、高い専門知識を持つ大学院生により多く教職に就いてもらうことで、教員不足の解消とともに質の向上につなげる』狙いだそうです。相変わらずだな、というため息が出そうです。
 記事では、『不登校の生徒が急増したり、授業でデジタル端末の活用が広がったりと、多様化する学校現場の課題に対応できる教員の確保も求められている』とあり、文科省がこうしたことについての「専門知識」を大学院生に期待していることが窺われます。的外れだと思います。
 奨学金の返還免除には反対しません。しかし、教員不足の解消を目的とするのであれば、院卒にこだわることなく全ての教員採用者に適応した方が効果があるのは自明の理です。ですから、院卒者にこだわるのは、大学院で学ぶことで「高い専門知識」が得られるという思い込みがあるからだと思われます。
 ここでいう「高い専門知識」とは、どのような学問・分野の知識でもよいわけではなく、教員として有意な知識を指すことは論理的に当然です。そうであるならば、全ての院卒者ではなく、具体的に児童心理学とか、教科教育学とか、教育工学などといった分野を指定するべきでしょう。
 さらに、不登校への対応は、不登校についての知識があれば適切に行えるというような単純なものではありません。子供は文献に書かれているような存在ではありません。一人一人が異なる個性をもち、その何十通りもの個性が複雑に化学反応を起こして、学級内の人間関係が生まれるのです。それを把握し臨機応変に対応するためには、知識だけでなく経験が必要になります。私が拙著で「教員の仕事は職人芸」といったのはそういう意味なのです。
 ですから、大学院で学んだ者が教員として「質」が高いというのはあまりにも学歴偏重な偏った見方です。もし、奨学金の返還免除を呼び水にしたいと考えるならば、教員になってから5年間の業績評価が一定以上の者について免除を申請可能とするというようなシステムにすべきです。
 私は教委勤務時代に「指導力不足教員研修」を担当していましたが、その中にはいわゆる有名大学卒の「高学歴者」や、高い英会話能力資格をもっている者や企業でデジタル端末を日常的に活用する部署に勤務していた者がいました。学級経営も授業も生活指導もできない人たちでしたが。
 院卒に奨学金免除は愚策です。

 

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頼りになる有能な教員と思われたい

2024-03-26 08:24:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「求められているのは」3月20日
  『認知症を診ずして人を診よ-医師・繁田雅弘- 家族の声 本人目線に』という見出しの記事が掲載されました。認知症専門医繁田雅弘氏を追った記事です。その中に考えさせられる記述がありました。
 『かつて家族の口から出るのは症状への対処法を尋ねる質問がほとんどだった(略)最近は、本人に安心して過ごしてもらうためにはどうすれがいいか、といった家族を思いやる内容が多い。繁田医師は自身の対応も変わったという。「昔は家族から『(本人が)興奮したり、歩き回ったりした時にどうすればいいか』と聞かれれば苦し紛れにいろんなことを答えました。でも今は『それに関しては僕は何もしてあげられないな』と言える。具体的な回答を示さないことには勇気もいりますが、今の自分には本当の意味で家族の思いを聞く大切な仕事があるんだと自信を持って言えます」』。
 私はこのブログで、教員の専門性について、抽象的な精神論ではなく具体的なアドバイスができる、を挙げたことがあります。例えば、「もっとお子さんと向き合いましょう」ではなく、「登校するときには、玄関のドアの外に出て、お子さんが角を曲がるまで見送りましょう」とか、「子供が話しかけてきたら、必ずそのときしていることを止め、子供の方に向き直って話を聴きましょう」というようなことです。
 しかし、繁田氏は、具体策を答えないという在り方を打ち出していらっしゃるのです。もちろん、子供と認知症の高齢者という違いがありますし、関わる家族も子供の親と高齢者の配偶者や子供という関係性の違いもあります。それでもなお、気になるのです。
 繁田氏は、かつてのご自身の対応を「苦し紛れに」とおっしゃっています。実は、私自身も「苦し紛れ」であったことがほとんどなのです。何かそれらしいことを言わなければならないという思いが強く、本で読んだり研修会で学んだり、他の教員から聞きかじったようなことを、子供や保護者の思いを深く考えもしないまま、もっともらしくアドバイスを口にしていたのです。
 それだけに、繁田氏の「本当の意味で家族の思いを聞く大切な仕事」という言葉に心を揺さぶられてしまうのです。ええかっこしいの私は、話を聴くだけの教員なんて頼りないと思われてしまうのではないか、という考えが浮かんできますが、そうした考え方こそ、子供や保護者のことより自分への評価や他人からの見え方を気にするという自分の欠点なのだとも思います。
 子供について悩む保護者に対し、快刀乱麻の答えを示すのか、保護者自身も明確に自覚できていない「本心」を引き出してじっくりと話を聴くのか、望ましい教員はどちらなのでしょうか。今は後者に心惹かれるのですが。

 

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彼は安全

2024-03-25 08:15:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「十把一絡げ」3月20日
 『性犯罪歴照会 現職も 「日本版DBS」閣議決定』という見出しの記事が掲載されました。『政府は19日、子どもと接する仕事に就く人の性犯罪歴を照会できるシステムの導入を柱とした「こども性暴力防止法案」を閣議決定した』ことを報じる記事です。
 同法案は、『採用時に性犯罪歴を照会し、確認された場合は、子どもに直接関わる業務に就かせないなどの措置を講じなければならない』とするものです。一つ素朴な疑問があります。同法案については、子供を守るという視点と憲法に保障された職業選択の自由との兼ね合いを図るということで協議が難航した経緯があります。そこでこんなケースを考えてみました。
 小学生の男児に性的な関心をもち、性器を触る等の行為を繰り返していた教員がいるとします。彼は女性には関心がありません。彼を女子高校の教員に採用したとして、生徒に性的な行為を仕掛ける可能性はとても低いはずです。もちろんゼロとは言い切れませんが、多くの異性愛者である男性教員に比べれば、女生徒にとって安全な人物だと言ってよいのではないでしょうか。
 これとは逆に、小学生の女児にしか性的関心を示さない教員の場合、男子校の教員に採用しても問題は起こさないはずです。性的な関心の対象は、本人の「努力」で変えられるものではなく、基本的に不変でしょう。そうであるならば、教員としての指導力には問題がなく、あるいはむしろ優れている人物であれば、上記のようなケースにまで、採用を制限するのは、職業選択の自由に反する人権侵害となるのではないでしょうか。
 もし、子供に性的な関心をもつ「変態」なのだからとにかく要危険人物だ、というような思い込みがあるとすれば、それこそ「偏見」というものです。私は異性愛者の男性教員でした。教え子の女児に性的な行為をしたことはありません。それは、そうしたことは人間として最もしてはいけないことだという自覚があり、己を律していたからです。それはあくまでも人為的な努力であり、元々男児にしか性的関心を抱かない「彼」とは、女児にとっての危険度は違うはずです。「彼」の方が安全なのです。
 こうした点について、どのような議論がなされたのか、伝わってきません。気になります。

 

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基準は人の数だけ

2024-03-24 08:28:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「基本はそこに」3月19日
 『「下克上」中央学院 ユニークな石垣島合宿』という見出しの記事が掲載されました。6年ぶりに甲子園に挑む『中央学院ナインは2月、石垣島に滞在していた。暖かな南国で練習漬けの日々なのかと思いきや、練習量はむしろ抑えていたという(略)「秘密の特訓」を追った』記事です。
 いくつかある「秘密」の中で、私は『部活内部活』という取り組みに注目させられました。それは『野球部の中に「部活」を作って活動するというユニークな試みで、ボイスパーカッション▽ダンス▽お笑い▽クッキング▽ジム▽植物▽英語▽ラップ-の八つがある』のです。
 記事には、『ユーチューブを何度も再生して振付をチェックしながら一緒に手足を動か』す5人のダンス部員の様子が紹介されていました。こうした動きが野球の技術向上に役立つわけではありません。では何のための「部活」なのか。監督は、『野球のうまさでチーム内の序列を作りたくない』と語っています。 
 私は、「これだ!」と思いました。学級経営の難しさは、子供たちの人間関係の構築にあります。一番やってはいけないのが、子供たちの中に序列や階層を作ってしまうことです。学級内カーストという嫌な言葉がありますが、30人の子供たちの中に、数人のボスとそれぞれのボスに数人の取り巻きやお気に入りがいて、それ以外の平民階級のその他大勢といじめやからかいの標的になる数人の奴隷や家畜がいるという状況です。
 ボスたちは自分の力、影響力の強さを誇示するために、奴隷や家畜を痛めつけ、それを目撃している平民たちは、自分が奴隷の境遇に落とされることを恐れて、迎合する、奴隷や家畜は地獄のような毎日をひたすら耐えて、ときには笑顔さえ見せてボスやその取り巻きに阿るが、状況は改善せず、抜け出すために不登校を選ぶ、という惨状を呈するのです。
 この地獄に、ときには教員自身も加わって加害者となってしまう、そんな事例がメディアで報じられています。その根源が、子供たちの中にある一つの、もしくはごく少数の基準で序列が作られていますことにあります。勉強ができる、可愛い、家庭が金持ち、依怙贔屓する教員のお気に入りなどの基準で序列ができ、下位に位置付けられた子供はが奴隷となるのです。
 そうさせないための方策は何か。その解が、「野球のうまさでチーム内に序列を作らない」という発想なのです。部活は学級以上に、一つの価値観、上手いか下手か、勝利に貢献できるか否かで、序列が生まれやすい場です。だからこそ中央学院の「部活内部活」が意味をもつのです。
 野球ではレギュラーになれないけれど、ダンスではリーダー、そんな存在が部内で認められていけば、ボスも奴隷も生まれないのです。全ての教員が、この「部活内部活」の考え方を学級経営に取り入れていくべきです。

 

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ネグレクト?ヤングケアラー?それとも…

2024-03-23 08:53:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「虐待?」3月19日
 読者投稿欄に、習志野市の42歳の保育士M氏の投稿が掲載されていました。その中でM氏は、長男が小学校に入学したときの状況について、『次男が幼稚園に入園し長女はまだ乳飲み子。私は授乳やら次男の世話やらで毎日クタクタ、寝不足でフラフラ(略)そこで私は、入学前の長男に朝食作りを教えた。パンの焼き方、ご飯のトッピング、レンジで作る目玉焼き、ヨーグルトやシリアルのアレンジ(略)食べることが大好きな長男は「何を作ろうかなー」と楽しそうに朝食を作るようになった。皿洗いまで完ぺきにこなし、投稿していく彼の姿は神に見えた』と書かれていました。
 賢い長男さんの生き生きとした表情までが浮かぶようです。親子や兄弟の助け合う関係の良好さも感じられ、お子さんは3人とも思いやりのある良い子に育つに違いないとも思いました。
 でも、ここで視点を変えてみたらどうでしょうか。まだ6歳の子供が、朝食も準備してもらえず、母親に放置され、危険で火を使うことができないにもかかわらず、自分でパンを焼き、目玉焼きを作って朝食を済ませ、おまけに食器まできれいに洗ってから毎日登校している、温かい味噌汁も焼きたての焼き魚も、新鮮な野菜サラダも口にすることはなく、同じようなメニューの繰り返しに耐えている。こう書くと、急に悲劇的な状況、ネグレクトが疑われる虐待の一種であるという雰囲気になってしまいます。あるいは、家事の一部を担い続けるヤングケアラーという捉え方もあり得るかもしれません。
 私の捉え方は前者ですが、見方によっては後者に感じる人もいるかもしれません。もし、長男の担任教員が、「僕のうちはね、お母さんが弟の面倒を見ていて忙しいから、朝ご飯は僕が自分で準備して食べて、お皿も洗ってくるんだよ。ときどきじゃないよ。毎日だよ」という話を聴いて、「ネグレクトかもしれない」と校長に相談し、警察や児相に通報したとしても、不思議ではありません。そんなことになれば大騒動ですし、学校と家庭の信頼関係も損なわれてしまうでしょう。学校の保護者の間や地域で変な噂が流れるかもしれません。
 行政は、虐待等については、間違っていても構わないから少しでも疑いがあれば積極的に通報してほしい、と言います。メディアも、悲惨な虐待死が発覚する度に、周囲はサインに気づけなかったのか、という趣旨の報道を繰り返します。でも、実際には、判断の難しいケースはあるのではないでしょうか。
 私も教委の指導室長時代に、某小学校の子どもが虐待を受けていたのを学校が気づけなかったと非難されたことがあります。学校は、教委は、どのようにアンテナの感度を挙げていくか、常に考えていかなければなりません。

 

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お得意様には嫌われたくない

2024-03-22 08:09:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どこへもっていく?」3月19日
 『小中高生過半数 足りぬ睡眠』という見出しの記事が掲載されました。『約7700人の小中高生の睡眠の状況を機器で測定した結果、半数以上の子どもが、国が推奨する睡眠時間を満たしていないことが分かった』ことを報じる記事です。
 さらに、記事によると、睡眠時間だけでなく、『一定数の子どもが、平日と休日で起床時間などがずれる「社会的時差ぼけ」の状態にある』ことも判明したそうです。この社会的時差ぼけは、『日中の強い眠気や集中力の低下、将来の健康リスクにつながる』のだそうです。
 私がこの記事を読んで気になったのは、こうした個々の情報についてではありません。研究グループは、問題の大きさに警鐘を鳴らし、対策を提唱しているのですが、その対象が書かれていないことでした。つまり、睡眠時間の確保と睡眠リズムの乱れを抑えることを、誰に対して求めているのかが不明だということなのです。
 私は、当然、家庭、保護者に対して対策をとるよう求めるべきだと考えます。就寝は家庭でのことですし、保護者が管理する時間帯での出来事だからです。行政や学校・教員が家庭での夜の時間にまで干渉するのは不可能ですから。
 子供自身に直接訴えかけたとしても、小学生にそこまでの自己管理を求めるのは無理ですし、既に生活習慣の乱れが定着している中高生についても、保護者の助けなしには改善は難しいでしょう。
  しかし、新聞の主な読者である保護者に対して、強く責任の自覚を促す文言はどこにもなかったのです。どうしてなのでしょうか。私の下衆の勘繰りなのかもしれませんが、面倒なこと、子供の反発を受けそうなこと、保護者自身も生活習慣を改めなければならないことについて、保護者に要求し、余計なことを言うなと反感を買うことを恐れる気持ちが背景にあるのではないかと思ってしまうのです。
 我が国では、長年、子供に関することは学校に丸投げし、何かあれば学校に責任を追及するという体質が顕著でした。本来、家庭・地域・学校という3者がそれぞれの特性を発揮して子供の成長を支援していくのがあるべき姿なのですが、我が国ではそのバランスが崩れ、学校ばかりが大きな責任を負わされてきたのです。
 そして、こども家庭庁が設置され、子供は社会で育てるという考え方が定着しつつある現在、今度は学校と社会に責任を負わせて、家庭には責任を求めないというように変化しつつあるように思えてならないのです。
 食事や睡眠、そんな基本的なことすら家庭が、保護者が担う必要はないというのであれば、子供の健全な成長は望めないと考えます。私の考え過ぎであればいいのですが。

 

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