ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

事実よりも

2011-04-30 07:54:38 | Weblog
「信じたいこと」4月26日
 東日本大震災についての論文を批評する記事の中で、東大准教授の池内恵氏が取り上げられていました。記事によると、池内氏は、震災関連報道について、『人々が信じたいことを伝えるのが日本のメディアである』と批判しているそうです。
 今回の震災でいうと、「寡黙で粘り強い東北人」「自分を犠牲にして他人を助けた死者」「自制的で隣人と助け合う日本人」「被害に負けず再び立ち上がろうとする被災者」といった人々の姿であり、「無能で決断力のない政府」「被災者のことよりも自分たちの権力や利権のことしか考えない政治家」といったリーダー批判であるということになります。
 確かに、こうした報道が目に付きます。そして当然のことですが、これとは逆の人々や事実もたくさんあるはずです。でも、そうした事実は、国民が信じたくないこと、目にしたくないこと、耳をふさぎたいことであり、そうした事実を報道することは、そのメディアが好まれなくなることだというのです。もっと露骨にいえば、そんな報道をしていては、国民から支持されず、テレビ局はチャンネルを回され、新聞社は購読数を伸ばすことができないということなのです。
 確かにそうした傾向があるように思えます。学校や教員に関していえば、記事になるのは、教員の非行であり、満足に指導ができない力不足の教員の姿であり、たまによいニュースが流されるときは、頑張った子供の姿であり、その指導に当たった教員は無視され、子供たちの力だけが成功や善行の原因であるかのように報じられます。また、教員に関する「よいニュース」の場合も、それは熱心で能力のある教員、いわゆるスーパー教員が頑張ったという形であり、校長や教委の作ったシステムや指導助言援助が後押しをしたという形で報じられることはほとんどありません。
 公立校の教員は怠惰、校長は子供や教員よりも教委の顔ばかり見ている、教委は教員不信で教員を監視し創造的な取り組みを抑制している、たまに素晴らしい教員がいるとそれは教委や管理職に支配を脱した特別な存在というようなストーリーが「ウケる」からだと思います。こうした報道で、教員を批判し、一時的に溜飲を下げてお終い、という繰り返しでは、教育論議は深まりません。普通の教委の、普通の学校の取り組みを継続して報じるといった取り組みこそが求められているのだと思います。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

予備役

2011-04-29 08:02:19 | Weblog
「予備役」4月26日
 東日本大震災について、NPO法人理事長の樋口恵子氏が、インタビューに答えていました。『介護者呼集システムを』という標題がつけられた記事の中で、樋口氏は、『介護職員の有資格者でありながら、働いていない人は全国に会議福祉士で約25万人、ヘルパー1級で約16万人、同2級で258万人もいます。看護師・保健師有資格者を含めて、自衛隊予備役のような非常呼集に応えるシステムをつくることを提案』と語っています。
 こうした意見はよく耳にします。私は、介護については全く分かりませんが、疑問を禁じ得ません。それは、予備役制度が本当に機能するのかという疑問です。
 実は、教員についても同じような提案がなされているのです。都会では、教員が不足し、教員確保に苦労しています。そこで、「教員予備役制度」が構想されているのです。何らかの事情で退職者数に該当する新規採用者を確保できなかった場合や、今回の震災のように教員に大きな欠員が生じたときに臨時教員として活躍してもらうというわけです。
 こうした発想は、教委の人事担当者から出されることが多く、人事担当者は人事行政には詳しくても、指導行政には疎いことが多いのです。そのためでしょうか、彼らは、教員の仕事を何十年と経験した人であれば、即戦力として使えると考えがちです。しかし、私自身の経験からいうと、教壇をはなれて3年経つと、往年の「勘」を取り戻すのに大変苦労します。
 私は、新規教員指導者、教員研究生として2年間授業を受け持たず、3年目に教壇復帰したことがあります。その4月、始業式で子供たちの前に立ったとき、思わず足が震えたものでした。また、私の上司であった元副校長が、退職後、ある学校の荒れた学級の担任を任されたとき、自分の担任時代と子供が変わってしまっているのに驚いた、という話を聞かされたこともあります。また、教委に勤務している頃、担任が突然欠けてしまった学級に退職した元校長を充てたことがありましたが、現役時代実践家として有名だった元校長も子供たちを掌握することができませんでした。
 教職は、子供たちという生きた人間集団を相手にする仕事であり、常に子供と共にいないと「勘」や「コツ」を維持していくことが難しいのです。教員免許という資格があれば、授業ができる、子供の指導ができるというわけではないのです。これは、教職だけの特徴なのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間性重視

2011-04-28 07:48:44 | Weblog
「人間性重視」4月25日
 統一地方選について報じる様々な記事の中に、小さな囲み記事がありました。そこには。『世界ボクシング協会フライ級元王者の坂田健史氏(31)が、24日に投開票された東京都稲城市議選で初当選を果たした。「元チャンピオン」の肩書きを生かした選挙戦を展開。2043票を獲得し2位に食い込んだ』と書かれていました。
 選挙の度に、同じような話を耳にします。私は坂田氏について、特別な感情はもっていませんが、こうした現象にとても疑問を感じてしまいます。記事にもあるように、坂田氏のセールスポイントは、「元チャンピオン」ということです。世界チャンピオンになるためには、ボクシング一筋の青年時代を送ったことでしょう。ということは、政治家に求められる、地方自治や法や財政などについて学ぶ時間はほとんどなかったはずです。そのことは、有権者も知っていたはずです。それなのに、なぜ坂田氏に投票したのかというと、「元チャンピオン」という経歴に付随して坂田氏がもっていると予想される資質に期待したと考えられます。それは、苦しい練習や減量に取り組んできた、集中力とか克己心とか忍耐力などの能力であろうと考えることができます。これらは、地方政治の専門家として求められる資質とは特別な関係はありません。
 その「職」に本来求められる能力や資質ではなく、他の分野での人生経験が、職の遂行にプラスに働くという考え方、私は、日本人はこうした考え方が好きであると感じています。遊びは芸の肥やし、という言葉もあります。
 さらに、こうした考え方は、いわゆる「理系」の職ではなく、「文系」の職において、根強いように思われます。医師や技術者といった人々にとっては、大切なのはあくまでもその分野の専門知識や経験が大切だが、人や組織を対象にする「文系」の仕事では、人間性が重要な意味をもつという考え方をする人が多いということです。
 実は、教員についても、こうした発想をする人が少なくありません。たとえば、社会人経験者を優先的に採用しようというのは、まさに授業力よりも、企業内でもまれた経験の方が、子供の指導に役に立つという考え方に基づいています。
 もちろん、人間の幅が広い方が狭いよりはいいかもしれません。しかし、それはあくまでも授業力が同じであるならば、という条件下で言えることです。授業力という専門的能力よりも人間性が重視されるのは明らかに間違っています。それは、教員という職に専門性を認めないということでもあります。教員研修において、授業力よりも、社会性やコスト感覚、などの向上を目指すような倒錯が起きるのも同じ理由によります。
 授業力は授業によってしか高まることはなく、授業力がなければ、他にどのような経験や資質があろうとも、教員失格でなのす。そのことを確認しておきたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教員加配

2011-04-27 07:53:32 | Weblog
「教員配置」4月24日
 『教員増 福島めど立たず』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『文部科学省は岩手、宮城、福島の3県に対して必要な加配教員を申告するよう指示した』にもかかわらず、『福島県は、「避難している子供たちが地元に戻ってこられるか分からず、教員数が決まらない」』という状況だそうです。
非常時なのだから、適当に申請しておけばよいではないか、という人がいるかもしれません。しかし、そんな簡単な話ではないのです。教員の加配は、一般的にはその分の教員を新たに採用することによって行われます。各都道府県教委は、短期的、長期的に教員の年齢、男女比、専門教科等を勘案して、教員の採用計画を立てています。そして、単なる「数」だけでなく、それに合わせて、研修・育成体制を構築していくのです。ある年に大量採用すれば、その調整のためにその後数年間は教員の採用を大幅に抑えなければなりません。その結果、教員構成に大きな歪みが生じてしまうのです。しかし、ほんとうに意味での問題は以下の点にあります。
 今回のケースでは、加配教員は、精神的ケアにあたることになるそうです。しかし、教員の本務は授業にあります。教員としての基礎を培う若い時期に、授業をする機会が減ることは、教員の授業力向上を図る上で大きな障害となります。
 私は、「指導力不足教員」の研修を担当してきました。そのとき行った実態調査によると、彼らの多くが、様々な事情により、教員としてのスタート時に十分な時間数の授業を受け持たされていなかったということが明らかになりました。俗に、「鉄は熱いうちに打て」と言われますが、教員として必要とされる授業力を身に付けるためには、教員としての「変なプライド」をもっていない若いうちに、毎日の授業で試行錯誤をし、先輩からの遠慮ない指摘を受ける必要があるのです。
 いくら非常時とはいえ、安易に教員を採用し、精神的ケアにあてるのでは、数年後に別の問題、授業力不足教員の大量発生という問題が発生してしまう可能性が高いのです。ですから、大きな事故や事件がある度に、教員加配を考えるのではなく、臨時職の心理職を採用する方が、望ましいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

融通の利かない普通の人

2011-04-26 07:47:06 | Weblog
「融通の利かない人」4月24日
 書評欄に、中井久夫氏著「災害がほんとうに襲った時」について、池澤夏樹氏が書かれた書評が掲載されていました。池澤氏は、その中で、『総じて、役所の中でも、規律を墨守する者と現場のニーズに応えようとする者との暗闘があった。非常に優れた公務員たちに私たちは陰に陽に助けられた』という一文を引用しています。
 当然、「規律を墨守する者」は駄目な公務員であり、「現場のニーズに応えようとする者」は非常に優れた公務員なのでしょう。連日、新聞やテレビで報じられる震災関連のニュースを見ていても、「お役人的対応」は、非難の的になっています。そんな状況デコの指摘を目にすると、すんなりと納得させられてしまいそうです。でも、私には2つ引っ掛かることがあります。
 まず、規律を墨守しようとする頑固者がいなければ、例外的な対応がなし崩し的に広がり、行政が本来もたなければならない「法に基づく公平性」が過度に損なわれてしまう可能性があり、それが別の被害を生むことになりかねないのではないか、という懸念です。融通の利かない公務員の存在がそのブレーキ役になるという「効用」があるのではないかと思うのです。ちなみに私も「融通の利かない」公務員でした。
 また、中井氏が書かれているように、「現場のニーズに応えようとする者=非常に優れた公務員」であるということの意味についても考えてみる必要があります。この場合の「現場のニーズに応える」ということは、被災者に言われたら「はい、分かりました」と何でも言うことを聞くということではないはずです。ニーズと実際に可能な対応を瞬時に判断し、ある部分は我慢してもらうように説得する能力が必要です。複数の相反する要望を調整する能力も必要です。つまり、「優秀」でない公務員が、現場主義で行動した場合、かえって混乱を助長するだけになる危険性が高いのです。
 公務員はすべてその程度の能力をもつべきだ、というのは理想論に過ぎません。そして、同じ理想論として、すべての教員にサリバン先生や吉田松陰のような資質を求める考え方があります。全国に数十万人いる教員がすべてサリバン先生や吉田松陰並みならば、確かに、教育行政は不要になるかもしれません。学習指導要領もいらないでしょうし、教科書検定も不要でしょう。でもそれでは、実際に教育現場は、大混乱に陥ることは必至です。
 今回の震災で、融通や機転、個人の判断力に焦点が当てられ、法や規則に基づく行政執行が「敵役」になってしまった感があります。ある面正しいことですが、行きすぎてはいけません。行政も学校も、法と規則に基づく活動、上司と部下の間の報告・連絡・相談を尊重した運営が基本であることを忘れてはいけません。そして、一定の水準の能力がある人であれば、職務をこなせる組織であり、状態であることが基本なのです。一部のスーパー公務員やスーパーティチャーが注目されるのは、好ましい事態ではないことを肝に銘じたいものです。スーパーマン願望を平時にまで引きずってはいけないのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷静にリスクを

2011-04-25 07:56:42 | Weblog
「リスクの考え方」4月22日
 東日本大震災に関わって、「リスク」についての意見が数多く掲載されていますが、その中の2つに、考えさせられる記述がありました。学校におけるリスク、いじめ問題を例に考えてみたいと思います。
 まず、早稲田大学教授の村山武彦氏の『安心のリスク判断を』という一文です。村山氏は、その中で『安全・危険という二者択一の解釈だけでなく、たとえわずかであってもリスクの程度を示し、他の身近なリスクと比較したり、対応策の有効性を示すなどして、リスクを受ける側にも判断の余地を残すことが、人々の安心につながる一法と考えられる』と述べています。
 そうなのです。「リスクの程度を示す」という考え方を、学校や教委も採用すべきだと思います。「五十歩百歩」という言葉があります。五十歩逃げた者が百歩逃げた者を「臆病者」と嘲笑ったという故事から、どちらも同じ臆病者なのに、という意味で使われる言葉です。でも、百歩逃げた者と五十歩逃げた者は同じではありません。走り続ける仲間を目にしながら、五十歩で踏みとどまるには、それなりに勇気が必要です。この差は、小さなものではないはずです。
 0か100かという危機管理の考え方は、ヒステリックになるだけで、実際の問題の解決には役立ちません。いじめが発生した学校で、「もう二度といじめは起こしませんと誓え」などと、校長を責めるのはなる感情の爆発であって、そこからは何も生まれないのです。
 また、「リスクの程度を示す」という考え方に基づくからこそ、「対応策の有効性を示す」ことも可能になるのです。例えば、いじめへの対応策として毎月個人面談の時間を設けるという対策について考えてみましょう。毎月個人面談をしたところで、いじめはなくなりません。しかし、早期発見には効果があります。早めに発見し、早めに対応することで、深刻化を防ぐことができます。ですから、個人面接は、いじめを防ぐことはできませんが、自殺などの深刻な事態を99%防ぐことができるという言い方ができます。もし、「いじめをなくせ、なくせないなら校長を辞めろ」という発想であれば、こうした対応策が、無駄だと切り捨てられかねないのです。
 次に、関雄輔氏が「記者の目」で、『全村避難求められる福島県飯舘村』という一文を書かれていました。関氏は、その中で、『村は、放射線量が低い地区を除外することや、役場機能を残すことを認めるよう訴えている。放射線のリスク以上に高齢者ら弱者の心身に負担がかかり、主要産業の畜産が途絶するダメージも大きいからだ』と書いています。
 あるリスクに過剰に反応することにより、別のリスクが増大するという矛盾を指摘しているのです。いじめ対策として、休み時間は全職員が廊下や特別教室などを巡視し、死角をなくすことで、いじめの発生を防ぐという対応が求められたことがあります。確かに、いじめの発生件数は減るでしょう。しかし、こうした監視強化は、子供の成長に必要な、「子供社会」を潰してしまう可能性があり、子供の健全な成長に悪影響を与える可能性が高いのです。誰しも憶えがあることですが、子供時代には、大人の目を逃れて「ちょっぴり悪いこと」をする経験をしたはずです。そのことが、建前ではない人間関係を学ぶ機会になったり、人間理解につながったりするのです。学校が、刑務所のような管理社会になれば、子供の社会性は未熟なものとなってしまいます。
 また、子供が在校中のすべての時間を監視するということになれば、教員は授業の準備や評価のために費やす時間を削られることになり、それは授業の質の低下という形で、子供に跳ね返ることになります。
 「リスク」発生時には、被害者と被害の予想に怯える人たちがいます。その人たちの感情に阿り、一時的にその怒りをやり過ごせばよいという発想で、安易にリスク0を宣言してはいけないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

部外者の常識

2011-04-24 08:10:39 | Weblog
「部外者の常識」4月21日
 記者の目に大阪社会部の日野行介氏が、「原子力ムラ」について書かれていました。その中で、日野氏は、『原発の安全規制は、保安院と原子力安全委員会による「ダブルチェック」体制とされる。しかし現実には十分機能していない。チェックする方も、される方も、同じ「ムラ」の構成員なので、業界全体の利益を守ろうという意識が働く』と、批判しています。
 確かにそういう面はあるでしょう。しかし、私は、「教員ムラ」外部の非常識も目にしてきました。私が指導室長をしていたとき、教員による体罰事件が起こりました。私は、「子供の身体に接触する行為があり、子供も保護者も体罰を受けたと認識している以上、処分の内申をだすべきだ」という考えでした。しかし、私の直接の上司である部長は、「どこまでやったら体罰なんだ。なんでもかんでも体罰だと言われたんじゃ、先生方もたまったもんじゃないだろう」と言い、私の判断に疑問を呈しました。また、何回か教員の体罰についての内申が続いた後、私は教委の委員長から、「軽微なことで処分が続くと、先生方が萎縮してしまうのではないか」と言われたことがありました。どちらも、最終的には私の判断を尊重していただきましたが、正直な話、感覚の違いに違和感を感じたものでした。「教員ムラ」の住人である私が、教員に厳しく、「教員ムラ」の住人ではない、部長や教育委員長の方が、教員に「甘かった」のです。ちなみに、部長も委員長も教員経験は皆無でした。
 同じ「ムラ」の住人だからチェック機能が働かない、と決めつけるというのは、間違いであることもあるのです。確かに私は、「ムラ」の住人たちから評判が悪かったようです。でも、チェック役は、憎まれてなんぼ、だと思います。そうした自覚をもって、職務にあたっている者もいるということを理解してほしいものです。もちろん、癒着が生じやすい構造を改善すること自体の意義を否定するものではありません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辞める覚悟

2011-04-23 07:37:10 | Weblog
「指導者の条件」4月21日
 日本相撲協会の尾上親方が酒気帯び運転の疑いで摘発された件の処分が決まりました。この処分について、『ある協会役員は「平年寄10年据え置き」という処分を「軽くないですよ」と評す』という見方がある一方、軽すぎるという意見もあります。私は、軽いか否かというよりも、親方本人の身の処し方について、疑問があります。
 記事によると、尾上親方は、『協会から過去3度、師弟で注意を受けている。八百長問題でも3人の弟子が角界から追放された』という処分歴があるそうです。教委に勤務し、2年間教員の処分に関わってきた者として、処分する側の難しさは理解しているつもりです。世間の感情と実際の処分の間に落差が生じることは避けられません。処分は、その1件だけを取り出して行うわけではなく、恣意的な処分で教員の権利が損なわれることがないように、ある基準に則って行われます。だから落差が生じるのです。そして、長期的な視野で見たとき、たとえ一時的に世間から叩かれようとも、基準に則って公平な処分を行うことによって、教委の公平性、公正性に対する信頼感を維持した方がメリットが大きいということも実感しています。
 ですから、何かと批判されている尾上親方の処分についても、特別な意見はないのです。ただ、尾上親方が、処分を真摯に受け止め、今後の職務にあたるという考えを示していることが理解できないのです。教員の場合、「停職」等の重い処分を受けた者は、その後依願退職するケースがほとんどでした。校長や副校長という管理職に絞ってみれば、ほぼ100%自主的に退職したものです。それは、「そんな事件を起こしておいて、平気で子供たちに教訓をたれることなどできない」「自分が処分を受けるような非行をしておいて、部下の教員に知らん顔で服務の厳正を説くような厚顔無恥な態度は取れない」という常識、せめて子供や部下の見本となるような出処進退をして見せなければという、教育者、管理職としての矜持があるからです。実際には、「停職」等の重い処分が予想される場合、退職願を出しておいて処分を待つというケースが多いのです(処分が決定するまで退職は認められない)。
 大相撲の親方という立場も、指導者であるはずです。自分に対する厳しさを欠いたまま他人を指導することができるほど、指導するという行為は生やさしいものではありません。
 都教委では、月に2回、教員の処分についての情報を公開しています。それを見て、いろいろな考えをおもちになる人がいることと思いますが、免職処分をされなくても、処分後に退職という道を選んでいる教員が少なくないことを理解してほしいものです。そのことで、自己保身を考えている教員が多いという教員観が少しでも変わることを期待したいものです。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分かりました。大丈夫です

2011-04-22 08:01:33 | Weblog
「分かりました。大丈夫です」4月20日
 科学環境部の永山悦子氏が『「大丈夫」の裏側』という標題でコラムを書かれていました。永山氏はその冒頭に『「元気?」と問うと「元気」と答える。「大丈夫?」と問うと「大丈夫」と答える。でも、本当は「元気」でも「大丈夫」でもないのかもしれない』書いています。東日本大震災の被災者について書かれた文章ですが、教員にとっても忘れてはならない指摘を含んでいる言葉です。
 授業中、教員が説明をしたり、板書をしたりした後、「分かりましたか。分かった人」と尋ねることがあります。そこで「はい」とか「分かった」という返事が返ってきたからといって、「子供たちは理解したようだ」と判断してはいけません。ある子供は、「分からないというと頭が悪いと思われる」と考え、別の子供は、「先生の話を聞いていなかったと怒られるかもしれない」と気にして「嘘」をついているかもしれないのです。さらに、そもそも勉強への意欲を失い、面倒臭いから頷いているだけの子供だっているかもしれないのです。
 ある子供がいじめに遭っているという情報を入手したとします。その子供を呼び話を聞いたとき、「大丈夫です。何もありません」と答えることがあります。その答えを聞いて、いじめはなかったようだ、と判断してはいけないのです。子供は、「自分がいじめられるような子供だとは思われたくない」というプライドから「嘘」をつくものなからです。親に知られたくない、認めたら大事になってしまうという恐れが「嘘」をつかせることもあります。先生にチクッたことが分かったらもっとひどいいじめを受けるという恐怖が、本当のことを言えなくすることもあるでしょうし、教員の解決能力のなさに絶望しているのかもしれません。
 子供に訊き、その言葉だけを頼りに行動する教員は、未熟者です。怠け者でもあります。日常的に子供の言動を見つめ、その言動の裏に隠された感情の襞に思いをいたす努力を続けるのが教員だからです。子供の言葉を表面的に聞くことだけなら、そんなことは誰でもできます。人は訊かれれば本当のことを話す、と考えているならば、あまりにも浅く薄っぺらな人間観の持ち主といわざるをえません。
 患者の顔色ではなく、パソコンの画面のデータばかりを見ている医師のようになってはいけないのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

競争

2011-04-21 07:41:09 | Weblog
「競争原理の在り方」4月16日
 『エリート学生 韓国で自殺続発』という見出しの記事が掲載されました。記事では、『韓国科学技術院で今年、4人の学生が相次いで自殺した』ことの背景に、『△全授業の英語化△成績不振者から追加学費徴収-などの新制度』があるという指摘が紹介されていました。そして、韓国紙・朝鮮日報の社説も紹介し、そこには『「世界大学評価でのランキングは06年の198位から09年には69位と年々上昇している」と、競争原理導入によるエリート育成に一定の評価を与える』と書かれているのだそうです。
 私は、この事例をもって、教育に競争原理は馴染まない、という自説を補強しようというのではありません。そうではなく、韓国科学技術院における「競争」と我が国で論議されている、教育における「競争」の違いについて考えてみたいと思うのです。
 我が国でも、学校選択制や保護者による学校評価・授業評価・教員評価、全国学力調査の結果発表など、学校教育への競争原理導入策が推し進められています。しかし、そうした取り組みと今回の韓国科学技術院の取り組むとは決定的に異なる点があります。それは、我が国では、競争するのは、教委、学校、教員であるのに対し、韓国科学技術院では、学生本人に競争原理が適応されているという点です。
 競争原理の導入とは、競わせ、勝ち負けを明らかにすることにし、勝者には報奨を、敗者には罰を与えることによって、努力への動機付けをするシステムをつくるということです。我が国では、異なる自治体の教委同士が競争し、成果が上がらない教委の担当者は批判され肩身の狭い思いをするということになっています。あるいは、同じ教委が管轄する学校同士が競い合い、成果が上がらない学校は、入学希望者が減るというペナルティ(?)を科されることになっています。さらに、教員の場合、業績評価が給与に反映され、昇給に差がつくということになります。いずれの場合も、子供は無関係です。たとえはよくないかもしれませんが、競馬の騎手や調教師は馬の勝ち負けによって自分たちが得る利益が左右されるのに対し、馬は勝とうが負けようが待遇に変化はないということです。
 一方、韓国科学技術院は、勝った馬には好物の人参を、負けた馬には干し草だけを食べさせるというやり方です。教育という営みを表すのに、「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」という表現があります。要するに学ぶ者の意欲を高めること、動機付けの重要性を言っているのです。そのことに鑑みれば、どちらの方式こそが、競争原理の導入と呼ぶのに相応しいかは明らかです。我が国の学校教育における競争原理の導入は、競争させる対象を間違えているのです。
 もちろん、教育関係者は、そんなことは百も承知なのです。ただ、我が国では、子供に競争させること、子供をランクづけすること、子供に「×」印をつけること、「お前は失格」と宣告することなどに対し、国民からの情緒的な批判が強く、教育関係者はその批判を怖れて、競争原理の子供への導入を避けているだけなのです。一方で、教育にも競争原理をという主張を無視することもできず、学校や教員に競争原理を導入して、きちんと改革に取り組んでいますというポーズをとっているだけなのです。
 学校教育に競争原理を導入するというのであれば、子供同士を競わせなければなりません。それを是とするか否かは、また別の問題であり、国民全体で議論すればよいのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする