「信じたいこと」4月26日
東日本大震災についての論文を批評する記事の中で、東大准教授の池内恵氏が取り上げられていました。記事によると、池内氏は、震災関連報道について、『人々が信じたいことを伝えるのが日本のメディアである』と批判しているそうです。
今回の震災でいうと、「寡黙で粘り強い東北人」「自分を犠牲にして他人を助けた死者」「自制的で隣人と助け合う日本人」「被害に負けず再び立ち上がろうとする被災者」といった人々の姿であり、「無能で決断力のない政府」「被災者のことよりも自分たちの権力や利権のことしか考えない政治家」といったリーダー批判であるということになります。
確かに、こうした報道が目に付きます。そして当然のことですが、これとは逆の人々や事実もたくさんあるはずです。でも、そうした事実は、国民が信じたくないこと、目にしたくないこと、耳をふさぎたいことであり、そうした事実を報道することは、そのメディアが好まれなくなることだというのです。もっと露骨にいえば、そんな報道をしていては、国民から支持されず、テレビ局はチャンネルを回され、新聞社は購読数を伸ばすことができないということなのです。
確かにそうした傾向があるように思えます。学校や教員に関していえば、記事になるのは、教員の非行であり、満足に指導ができない力不足の教員の姿であり、たまによいニュースが流されるときは、頑張った子供の姿であり、その指導に当たった教員は無視され、子供たちの力だけが成功や善行の原因であるかのように報じられます。また、教員に関する「よいニュース」の場合も、それは熱心で能力のある教員、いわゆるスーパー教員が頑張ったという形であり、校長や教委の作ったシステムや指導助言援助が後押しをしたという形で報じられることはほとんどありません。
公立校の教員は怠惰、校長は子供や教員よりも教委の顔ばかり見ている、教委は教員不信で教員を監視し創造的な取り組みを抑制している、たまに素晴らしい教員がいるとそれは教委や管理職に支配を脱した特別な存在というようなストーリーが「ウケる」からだと思います。こうした報道で、教員を批判し、一時的に溜飲を下げてお終い、という繰り返しでは、教育論議は深まりません。普通の教委の、普通の学校の取り組みを継続して報じるといった取り組みこそが求められているのだと思います。
東日本大震災についての論文を批評する記事の中で、東大准教授の池内恵氏が取り上げられていました。記事によると、池内氏は、震災関連報道について、『人々が信じたいことを伝えるのが日本のメディアである』と批判しているそうです。
今回の震災でいうと、「寡黙で粘り強い東北人」「自分を犠牲にして他人を助けた死者」「自制的で隣人と助け合う日本人」「被害に負けず再び立ち上がろうとする被災者」といった人々の姿であり、「無能で決断力のない政府」「被災者のことよりも自分たちの権力や利権のことしか考えない政治家」といったリーダー批判であるということになります。
確かに、こうした報道が目に付きます。そして当然のことですが、これとは逆の人々や事実もたくさんあるはずです。でも、そうした事実は、国民が信じたくないこと、目にしたくないこと、耳をふさぎたいことであり、そうした事実を報道することは、そのメディアが好まれなくなることだというのです。もっと露骨にいえば、そんな報道をしていては、国民から支持されず、テレビ局はチャンネルを回され、新聞社は購読数を伸ばすことができないということなのです。
確かにそうした傾向があるように思えます。学校や教員に関していえば、記事になるのは、教員の非行であり、満足に指導ができない力不足の教員の姿であり、たまによいニュースが流されるときは、頑張った子供の姿であり、その指導に当たった教員は無視され、子供たちの力だけが成功や善行の原因であるかのように報じられます。また、教員に関する「よいニュース」の場合も、それは熱心で能力のある教員、いわゆるスーパー教員が頑張ったという形であり、校長や教委の作ったシステムや指導助言援助が後押しをしたという形で報じられることはほとんどありません。
公立校の教員は怠惰、校長は子供や教員よりも教委の顔ばかり見ている、教委は教員不信で教員を監視し創造的な取り組みを抑制している、たまに素晴らしい教員がいるとそれは教委や管理職に支配を脱した特別な存在というようなストーリーが「ウケる」からだと思います。こうした報道で、教員を批判し、一時的に溜飲を下げてお終い、という繰り返しでは、教育論議は深まりません。普通の教委の、普通の学校の取り組みを継続して報じるといった取り組みこそが求められているのだと思います。