ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「事実」は問題ではない

2017-04-30 08:34:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「結果の問題ではなく」4月25日
 『国交省発注事業 天下り受け入れ落札率上昇』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、近畿大などの研究チームが、『国土交通省からの天下りを受け入れた企業は、その後公共事業に入札した際に落札できる「勝率」が上昇していた』との研究結果をまとめたということです。
 こうした結果について、近畿大准教授中林純氏は、『天下りの受け入れが公平性に影響を与えている。市場経済に対する信頼を失わせる恐れがある』と語っていらっしゃいます。その通りだと思う一方で、少し違う見方も必要だと考えます。
 もし、中林氏らの研究が、「天下り受け入れと落札率の間には何の関係もなかった」という結果だったとしたらどうなるのか、と考えてみたのです。天下り受け入れと落札には関係があったから問題だという論理であれば、関係がなかったら問題ないという結論に結びつくことになります。実際、こうした理屈でルール破りが正当化されることは過去にもありました。
 そうではないはずです。影響の有無が問題なのではなく、何らかの疑いを招くこと、それ自体が問題であるという意識をもつべきなのです。私は教委勤務時代に教員の服務事故に関する職務に就いていたことがあります。ある校長は、移動教室の際の荷物運びを出入りの写真店に無償でやってもらっていたことで処分を受けました。その業者が卒業アルバムの製作を受注したのは、無償の荷物運びという「賄賂」を贈ったためと指摘されたからでした。校長はそれとこれとは別であるという主張をしました。私の経験から見ても、校長の主張は真実だと思いました。私の勤務していた学校でもごく普通に行われていたことで、「無償奉仕という賄賂」などという認識をもつ学校関係者はほとんどいなかったからです。
 おそらく、業者の方も長年の慣行という感覚であったはずです。移動教室の写真を撮るためには、機材などをもってライトバンで現地に行かなければならないのですし、そこに総重量10kg程度の模造紙や筆記具、レクで使う物や養護教員の救急措置用の薬品など積み込むことは、負担とも感じられなかったはずです。しかし、これは外部から見れば、慣習などの言葉で済まされることではなく、癒着を疑われても仕方がないことです。こうした疑いは放置すれば、金品の授受があったのではないかなど、さらに大きくふくらんでいき、学校教育に対する信頼を損ないます。
 学校関係者は脇が甘い者が多いのは事実です。そして、問題を指摘されたとき、癒着はないと言い訳します。実際にないケースがほとんどです。しかし、癒着の有無ではなく、疑惑をもたれること自体が問題だという意識をもてば、こうした行為は防げるはずなのです。大事なのは結果として特定の事実があったか否かではないのです。

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体育からの訣別で部活はどうなる

2017-04-29 08:09:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分けて考えた後は」4月21日
 『体協改め「スポーツ協会」検討』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『日本体育協会は20日、東京都内で理事会を開き、「日本スポーツ協会」への名称変更を検討していると明らかにした』ということです。その理由として、『体育は学校教育の意味合いが強く、見直しが必要と考えた』が挙げられています。
 賛成です。ただ気になるのは、体育とスポーツは別物と位置付けた後、スポーツと体育の関係をどのように見直すのかということです。簡単に言えば、中高の運動系の部活は、体育に含まれるのか、スポーツに位置付けられるのか、ということです。
 文部科学省は、部活は学校教育に一部であると明示しています。また、文化系・芸術系の部活も運動系の部活も共に「部活」なのですから、両者の間で性格を変えることはできません。とすれば、運動系部活は学校教育の範疇に収まるはずです。そうであれば、あくまでも、生徒が自ら計画し、仲のよい仲間と体を動かす楽しさを味わいながら、健康と人間関係を良好に導くという役割を担うことになり、望まない生徒に教員が練習を強制したり、長時間拘束したり、大会での成績を競わせたりすることは慎まなければならないことになります。
 週に1回、1時間くらい楽しくポーンポーンとボールを打ち合い、気持ちよく汗をかいたら、友達をおしゃべりをしながら後片づけをして帰る、という参加の仕方を非難することはできなくなるはずですし、そうした生徒と全国大会出場を目指して猛練習も厭わないという生徒のどちらの希望にも添うような運営が必要となるはずです。そのためには、1校のテニス部の中に、テニス遊び部、テニス同好部、テニス技能向上部、テニスセミプロ養成部というような多様な性格をもつ部活を設置運営しなければならないことになります。可能でしょうか。
 答えはもちろん「不可能」です。テニスコートが2面しかないにもかかわらず、生徒の多様なニーズに応えるような体制を取ることができる学校はないはずですから、必然的に部活の在り方が見直されることになります。丸刈りを強制され、朝練に休日の練習を義務化され、クタクタになるまで練習して帰宅後は寝るだけ、というような形を好む生徒は少数派ですから、当初は様々な形が見られるでしょうが、数年を経た後には、多くの学校において、大会で好成績を収め、その結果が部活顧問の実績となったり、入学希望者増への手段となったり、エリートスポーツ校への推薦入学につながったりするというような在り方は姿を消さざるを得ないはずです。一部のスポーツエリート校は、ますますアスリート養成校化するでしょうが、そのことを承知で進学する生徒や保護者からは不満は出ないはずですから、問題はありません。
 顧問教員の負担は軽減され、その分教員の本分である授業準備や分析評価に費やすことができる時間も増えますから、授業の質的向上と生徒の学力向上も期待できます。副次的な効果ですが、部活の閉鎖性が軽減されることによって、部活を場としたいじめや体罰が減ることも確実です。伝統ある部活の顧問ということで教員異動の原則を超えて長年特定の学校に居座る「名物教員」もいなくなり、正常な学校運営がもたらされることにもなります。
 そして、週1回意時間では物足りないがハードな練習で拘束されるのも嫌という生徒のためには、学校とは無縁な組織が運営するスポーツ教室が準備されることになるはずです。そこまできて初めて部活の社会教育化という長年の課題が解決されるのです。
 まあ、おそらくそうはならないでしょうが。

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やり直す理由

2017-04-28 07:49:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「公平性」4月21日
 『青森いじめ自殺の調査やり直しへ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『葛西りまさんがいじめ被害を訴えて昨年8月に自殺した問題で、青森市の小野寺晃彦市長は20日、自殺の背景を調べている市いじめ防止対策審議会の委員を交代させ、調査をやり直す意向を明らかにした』そうで、その理由として『最終報告書案の内容に遺族が不満を示し、委員の一部交代やさらに調査を求める要望書を提出する考えを表明していた』と書かれていました。
 短い記事なので、省略されていることがあるのかもしれませんが、大変疑問を感じました。その理由は、被害者遺族の不満で、委員交代や再調査が行われるのであれば、いつまでたっても報告書は完成しないということです。最終報告書には、何人もの利害関係者がいます。雑な分け方をしても、被害者側、加害者側、周辺関係者、教員等の学校関係者、です。
 公正かつ公平な調査のためには、手続が重要です。ある利害関係者の不満によって再調査等を行うのであれば、他の利害関係者、この場合でいえば加害者とされる生徒やその保護者、いじめに対して適切な対応をしていなかったとされる教員、被害者の苦境を知りながら援助の手をさしのべなかった級友などです。裁判においても、被告か原告一方の要求だけに耳を傾けることはあり得ません。ですから、今回被害者側からの不満により、再調査となれば、新しい委員の下での再調査結果について加害者側から不満が出されれば、再び調査のやり直しをするのが筋であり、三回目の結果報告に対して教員側から不満が表明されれば、三度やり直しということになるというのが、論理的帰結です。
 自殺に追い込んだ加害者の肩を持つのか、という感情的な反発を受けそうですが、もし我が子が加害者と名指しされていたと仮定すれば、私は当然の権利として再調査を要求するはずです。我が子の名誉と、今後の人生のために。人権について常識のある人であれば、加害者には人権はないというようなむちゃくちゃな主張をするはずはありません。教員についても同じです。
 現実には、加害者側や教員が不満を漏らすことは少ないでしょう。それは、被害者側に立つ圧倒的な世論の圧力を感じているからであって、とりあえず頭を下げ続けているのが利口なやり方だ、と判断しているだけのことです。そこには本当の意味での反省はあり得ません。
 私のこのブログを読んでいただいている方は、私がいじめ加害者や無能無責任な教員に厳しい意見を述べてきていることをご存じだと思います。私は加害者や教員を擁護するつもりは全くありません。ただ、被害者の言い分だけを重んじる調査では、加害者や教員に無用な被害者意識を持たせることになるということを指摘しているだけです。それは正義ではありませんし、いじめ防止対策としても拙劣なやり方なのです。
 首長でも教育長でも、被害者にも加害者にも阿ることなく、自らの責任で調査結果を判断し公表し、そのことについての批判を自分が受け止めるという覚悟をもつべきだといいたいのです。今回の再調査や委員交代が、一部の利害関係者の思惑への過剰な配慮に基づくのではなく、市長の責任ある判断であるということであったら何も問題はないのですが。

 

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ラインで責任転嫁

2017-04-27 07:11:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「能力と覚悟不足」4月19日
 日本能率協会総合研究所客員研究員岩村暢子氏が、『家族に見る みんなの知らない日本人』という連載コラムが始まりました。岩村氏の書かれるものは、詳細な調査とそれを分かりやすく示す具体例によって、私のような者にも多くの示唆を与えてくださいます。大いに期待したいところです。
 その第1回は、『LINE1本、ばらばらに』というタイトルで、LINEがもたらす家族の変質についての問題提起です。その中で岩村氏は、『食事中も「食べながら各自のラインを見ている」光景は見慣れたものとなった』『家の中でも必要な事をラインで言い合う親子や、「親子でもラインの方が何でも言える」「文字よりスタンプをバーンの方が気持ちが分かる」という母親もいたりする』『夜になって子供から「友達の家に泊まる」「バイトの先輩とカラオケでオール」とラインが入ると、容認する親が増えた。「一応メールで生存や所在は確認したから」とあまり深く関与しない』などと具体例を挙げていらっしゃいます。
 これらの事例から見えてくることは何でしょうか。まず、直接顔を合わせて行うコミュニケーションの欠如です。その特徴は、相手の反応を無視できるということです。相手の不快な表情、何か不平不満を言いたげな様子、自分に対する嘲りなどの非言語コミュニケーションに囚われることなく、定型文を送って済ますことができるのです。
 こうしたコミュニケーションを繰り返していけば、相手の心情や立場を慮る能力が失われていきます。教員が子供を叱る、注意する、諭すといった行動を取り、そこで示す怒りや悲しみ、心配や願い、期待といった思いを感じ取れない子供が増えてくるということです。子供を叱りながら泣きそうになり目を充血させている教員を見て、「先生、どうかしたんですか」と真顔で尋ねるような子供が増えてくるということです。
 また、本来親がもつべき教育機能の最たるものである「壁」としての役割が消滅していくという面も無視できません。子供の望ましい成長のためには、大人が子供の壁となり、子供がその壁を自分の力で乗り越える体験が不可欠です。門限は「壁」の象徴でした。もう子供じゃないんだから、よそのうちでは10時なのに、自分の子供を信じていないの?など、子供は門限の廃止や延長を求め、親がその要求を真っ正面から受け止め、ぶつかり合うというような体験が、社会のルールを内面化させる上で重要だったのです。ラインさえしておけば、という安直さは、こうした機会を奪ってしまうのです。
 さらに、子供側だけへの影響ではなく、親=大人側の意識事態も変えていく危険性があります。それは、ラインしておいた、ということで責任を果たしたと考える責任逃れ的な態度に慣れ親しんでしまうことです。子供が問題を起こしても、注意しておいたのですが、ラインにはそんなことは書いてなかったので、と保護監督責任を放棄してしまう親=大人が増えてしまうということです。親とせずに、親=大人としたのは、教員の中にもそうした者が増えつつあるように感じるからです。対面で指導し、後日問題が発生して指導責任を問われたときには、証拠がないために言っておいた聞いていないという水掛け論に陥る危険性があります。その点、ラインであれば、確かな証拠が残ります。人間は弱い存在ですから、自分の責任が問われるような事態は避けようとするのが普通です。教員も例外ではありません。となれば、大事な指導事項こそラインで、となりかねないのです。
 むしろ、校長などの管理職が、学校の責任を問われないようにラインでの指示を優れた危機管理として推奨するようになる可能性さえあると思います。一時的にはそれでうまくいくかもしれませんが、長い目で見ると、学校のもつ教育機能の低下を招くことは必至です。何しろ、責任を負わないのは保護者も同じなのですから、保護者が自らの責任を棚に上げ、学校を今まで以上に責めてくるのは確実です。そして学校と親の責任の押し付け合いの中で、子供は、自分は大事にされていないという実感を持つようになっていくのです。
 ラインによる影響について、岩村氏は、主に家庭の問題として述べていらっしゃいますが、学校関係者も学校における影響の広がりについて調査検証と対策構築に乗り出すべきです。

 

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先輩といううっとうしい存在

2017-04-26 07:58:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「人情」4月18日
 『先輩証「やめました」 文科省「天下りの温床」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると「先輩証」とは、『「文部科学省先輩証」という名称と、持ち主の名前が記載されたカードで、入り口で見せると省内に自由に出入りできた』というものだそうです。記事は、今回の天下り問題の温床となっていたという反省の下、「先輩証」を先月末で廃止したということを報じるものでした。
 セキュリティの面からも考えられない慣習ですが、ここでは別の視点から論じてみたいと思います。それは、OBと現役、先輩と後輩という関係が及ぼす影響についてです。
 私もその一員であった指導主事の世界は、年次がものをいう社会でした。出身大学や年齢に関係なく、1年でも早く指導主事となった者が、後輩に対して全ての面で優越するというのが不文律でした。職務上はもちろん、アフターファイブにおいても、先輩の指示は絶対でした。「行くぞ」と一声掛けられれば、親が危篤とでもいうのでない限り、飲み会の誘いを断って帰宅することなど考えられないという世界です。したがって、他の部署に異動になった後でも、下の職場を訪ねれば、後輩指導主事が最敬礼で「歓迎」してくれます。これが気持ちよいのです。
 しかし逆の立場から見ると、威張り散らしていた先輩がやっといなくなってくれたのに、またでかい面をしてやってきて、仕事ぶりにあれこれ口を挟んだり、教訓を垂れたりするのですから、後輩にしてみればたまったものではありません。私は優秀な指導主事ではありませんでしたが、自分が「先輩」と呼ばれる立場になってから、異動後も古巣を訪ねるのは止めるという点だけは、自分のルールとしていました。自分が見ていて見苦しいと思ったことは繰り返さないという決意でした。
 指導主事ほどではなくても、校長や副校長というのも、年次がものをいう社会です。私自身も、退職した校長が、何かというと訪ねてきて、校長室で話を聞かされるので困っているという現役校長の話を度々聞かされたものでした。ある校長は、前任の退職校長が訪ねてきたとき、「少し失礼します」と言って、職員室で副校長と打ち合わせをしていたら、まだ5分ほどしかたっていないのに、「お客に失礼だぞ、校長が忙しく動き回らなければならないような学校は、校長の力が足りないからだ。私なんかいつでもゆったりとした姿をみせていたものだ」と怒鳴られたと、こぼしていたものでした。
 前官待遇という言葉があります。退職後も、退職前の地位に準じた待遇を与えるということです。元々は戦前、軍人や官吏が対象とされていたものですが、今でも政治家、高級官僚、民間企業の重役など、制度としてではなくても周囲の人たちにこうした対応を求める弊習が残っています。個人対個人の私的な関係に留まっているのであれば、第三者が口を挟むことではありません。しかし、前官待遇的な在り方が、表向きの手続とは別に行政の決定に影響を与えるということはあってはならないことです。
 私は、指導室長時代に、何人もの大先輩から、教員の人事や非正規職員の採用に際して、「こういう人がいるんだけど、履歴書を置いていくから見ておいてくれ」と言われたことがあります。受け取るだけは受け取って引き出しに入れっぱなしにしておきましたが、それは「先輩」といっても余り深い関係の方ではなかったからできたことでした。もし、直接指導を受けた先輩だったら断れたかどうか自信はありませんでした。
 校長も指導主事も、まして指導室長などはの職にあった者は、かつての職場を訪れることは慎むという自省が必要です。教育行政に対して不信感をもたれないようにするためにも。それが後輩に対する最大の配慮なのですから。

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変化の時代だからこその「そもそも論」

2017-04-25 07:41:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そもそも論」4月17日
 『「がんは学芸員」撤回』という見出しの記事が掲載されました。山本幸三地方創生担当相が、『外国人観光客らへの文化財などの説明、案内が不十分として「一番のがんは文化学芸員」などとした発言』を撤回し謝罪したことを報じる記事です。
 山本氏は、発言の趣旨について『学芸員の方々に観光マインドをもってもらう必要がある』と弁解していますが、自分の理解不足から特定の職業の人々を不当に貶める表現の拙さは、大臣としてというレベルではなく、普通の大人としての常識を疑わせるレベルの失言です。
 それはともかくとして、私は山本氏の「本意」について考えさせられました。つまり、学芸員も観光マインドを、という主張についてです。記事にもありますが、学芸員の職務は、博物館法に「学芸員は、博物館資料の収集、保管、展示及び調査研究その他これと関連する事業について専門的事項をつかさどる」と定められているとおり、専門職です。この博物館法第4条には、観光マインドを連想させる記述は一切ありません。
 同法は、65年以上前に施行された古い法律ですから、時代の変遷によって、博物館に期待される役割や学芸員に求められる資質が変化していくことは十分に考えられます。山本氏は、観光立国として海外からの観光客の誘致を経済発展の重要なツールとして活用するアベノミクスを推進する立場から発言したとされていますから、ある意味時代の要請を踏まえた発言だと考えることができます。学芸員に、外国人観光客誘致のために役立つ文化財の生かし方という新しい任務を期待しているのです。その根底には、極端なことを言えば、外国人が喜び、たくさんやってきて、多くのお金を遣ってくれさえすれば、文化財の保護など軽視してもよいくらいに思っているのでしょう。
 こうした事例、特定の目的のために設けられている専門職に対して、本来の任務を軽視し、時代の変化を理由に異なる役割を期待するという動きは、他の分野でも目につきます。例えば、学校教育の場においても、養護教員や司書教員に対して、子供が安心して過ごすことができる居場所を提供する役割が期待されています。以前このブログで紹介した不登校児への対応で本来の役割が疎かになってしまった養護教員の例を挙げるまでもなく、こうした動きは、虻蜂取らず、二兎を追う者は一兔をも得ず、という結果に陥りかねません。
 また、教育改革家を自称する藤原和博氏のように、教員は生活指導に重点をおき、学力向上は、授業力の高い塾や予備校の講師に委ねるべきという提案をする人もいます。これなどは、専門職としての教員の存在を否定するものです。
 さらに、学校というシステムそのものについても、学びの場というよりも、本来家庭や地域が担うべき、躾や基本的生活習慣、人間関係調整力などを育む場という性格を強調したり、全ての国民に民主的社会の形成者としての基礎を身に着けさせることを目的とする義務教育段階においてさえ、画一的であるよりも個性的であることを求める方針、特色ある学校づくりを求める風潮が広がっています。
 社会の変遷に伴って組織や人の役割が変わることを否定するつもりはありません。ただ、きちんとした議論もなく、ある問題が起きたり、課題が提起されたりするとそれに合わせて勝手な解釈変更が積み重ねられて、専門職の専門性を無視して、いつのまにか本来の趣旨とは異なる役割を負わされている、というのは憂慮すべき事態だと考えるのです。
 子供に基本的な知識と学び方や学ぶ意欲を身に着けさせるのが教員の仕事だなどと古い考え方に凝り固まった教員こそガンだ、と言うようなことがいわれる日が来てからでは遅すぎるのですから。

 

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いじめ、差別的価値観を肥料にして

2017-04-23 08:46:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「原発だけ?」4月17日
 『原発避難児童らへのいじめ 大人の無理解の反映だ』という表題の社説が掲載されました。いわゆる「原発いじめ」について論じたものです。その中に『子供は大人をよく見ている。私たち大人の「ざらついた心」が、いじめを誘発することをもっと意識しなければならない』という記述がありました。
 その通りだと思います。と同時に、このことが「原発いじめ」についてだけ言われることには強い違和感を覚えます。いじめすべてについて、大人の「ざらついた心」の影響を厳しく見つめる必要があるはずです。
 いじめ問題については、さすがに最近は表だって口にされることは少なくなりましたが、「いじめられる子にも問題がある」という見方をする人がいます。いわゆる被害者責任論です。協調性がないから、不潔な印象を与えるから、勉強ができない(バカ)だから、何をやってものろまでみんなの足を引っ張るから、生意気だから、イケてないから、などの理由を挙げ、いじめを正当化したり、加害責任の軽減化を図ったりする事例は少なくありません。そして、それは加害者の子供の口から発せられることもあれば、我が子の庇おうとして加害者の保護者から訴えられることもあります。
 このような指摘をすると、自分が追い込まれたとき、弁解や言い訳をしようとするのは人の性だという見方をされてしまうかもしれませんが、実態は違うのです。保護者の価値観、「○○でない人はダメな人だから、それに相応しい処遇を受けて当然」という差別的価値観が先にあり、それが子供同士のグループや派閥形成の基準になって、特定の子供の排除や無視、つまりいじめにつながるというケースが多いのです。
 以前も書いたことがありますが、私が担任していた6年生の学級で、ある女児のグループが、「2軍の子たち」という言い方で、いわゆるイケてない女児たちを差別排斥しようとしていたことがありました。その後家庭訪問で被害加害双方の子供の保護者に会って話をするうちに、加害者側の保護者に共通してある優越感が感じられることに気付かされました。ファッションや異性・恋愛の話を好むおませな我が子を自分の分身のように愛でる感覚、そうでない女児は既に人生の落伍者とでもみる感覚が鼻についたものです。もちろん、私自身の価値観がそうした感覚に反していたことも影響しているはずで、その分は割り引かねばなりませんが、女性を1軍と2軍に分ける捉え方は母子に共通していたのです。そういえば、加害者側の母親たちも仲良しグループを作っていました。
 外国人やLGBT、障害者や貧困家庭など、子供の差別、排除、攻撃、無視の原因となり価値観は大人が刷り込んでいるケースがほとんどなのです。残念ながら、その大人には教員も含まれています。大人、中でも多くの子供に影響力をある教員という立場の人間の間違った価値観がいじめに、そしていじめ自殺という悲劇につながっているという自覚をもって、自分自身を見直すことが全ての教員に求められています。

 

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不確か、自己本位、身内受け、矮小化

2017-04-22 07:53:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「失敗した危機対応」4月14日
 『ユナイテッド航空を提訴検討』という見出しの記事が掲載されました。同航空が定員オーバーを理由に座席を譲るように求めた乗客に断られ、強制的に引きずり下ろし怪我をさせた事件について報じる記事です。
 記事によると、同航空オスカー・ムニョスCEOに対し辞任を求める声が高まっているそうです。その理由として、『乗客について、同氏は従業員に宛てたメールで「混乱を起こし、けんか腰だった」と中傷した』『同氏の「乗客を振り替えなければならなかったことを謝罪する」という当初のコメントが「謝罪に当たらない」などと批判』が上げられています。
 危機対応における典型的なミスです。同氏の発信はいずれも事件直後に行われています。素早い対応だったといえるかもしれません。しかし、初期対応におけるミスの典型例なのです。
 まず、事実関係を複数のルートで正確に把握する前に発信してしまったことです。被害者が、尾骨骨折、脳しんとう、前歯2本欠損という怪我をしていることを十分に認識していなかったとしか思えません。
 次に、自己本位の視点での判断です。組織の長として最低限必要なのは、常に被害者側、世間の目で事件を見つめる習慣をもつことです。通路を引きずられ、血を流して叫ぶ被害者の映像を見た人々がどのような反応をするか、メディアはどのように報じるか、ネット社会において映像がどのようなスピードで拡散するか、想像した上で発信しなければなりません。
 また、「身内受け」も陥りやすい落とし穴です。組織を率いていくためには、組織の成員の支持が欠かせません。しかしそのことにばかり目が向いてしまうと、成員に阿り、「君らは悪くなかった」といってしまうようになるのです。それが乗客側に原因があるかのようなメールになってしまったのでしょう。
 さらに、矮小化への誘惑という問題が生じます。つまりどう言い繕っても、自分たちの非を認めざるを得ない状況の中で、できるだけ事件を小さく見せ、責任を軽くしたくなるという心理です。そこで、職員による暴行で怪我をさせるという重大事故ではなく、オーバーブッキングと振り替えという瑣事について謝罪するという過ちを犯してしまったのです。
 ムニョス氏は、前任者が不祥事の責任を取って辞任した後、他社から引き抜かれてCEOに就いた方のようです。つまり、本来ならば危機対応にも優れた手腕をお持ちだったはずです。それでもこうしたミスを起こし、傷口を広げてしまったのです。
 私が接してきた多くの校長たちは、そのほとんどがメディアへの対応を求められるような事件を経験していませんでした。校長会の主要ポストを占め、学校経営に自信をもっていて、実際に成果も上げていた校長が、事件への対応で、我を忘れオロオロとしてしまう姿を何回か目にしてきました。校長職にある方々には、今回の事件を自らを省みるよい契機にしてほしいと思います。

 

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あなたの全てを知っている

2017-04-21 07:52:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知り尽くす」4月14日
 インターネットイニシアティブ会長鈴木幸一氏が、『プライバシーが犯罪の温床』という表題でコラムを書かれていました。その中で鈴木氏は、相次ぐテロを受け、『プライバシーを無視することによってしか安全を得られないとすれば、徹底した監視社会を望むようになるかもしれない』と述べ、『すべての個人・組織の情報を、完璧な監視下に置くことが可能であれば、犯罪は減るはずである』という考え方が支持される未来社会を描いていらっしゃいました。
 十分に現実性のある予想だと思います。私が教委に勤務していたとき、既にそうした考え方をする市民や保護者がいました。いじめが問題化すると、学校内に死角が生じないように監視カメラを設置しておけば、いじめ常習者もいじめを控えるようになるはずだという電話を受けたのです。一時の感情による「提案」ではなく、人による監視よりも長い目で見ればランニングコストは安いはずだという試算の上での「提案」でした。
 また、教員の体罰や暴言などについても、各教室に監視カメラを設置すればよいという体罰被害者の保護者の申し出を受けたことがあります。教員時代の知り合いと酒席でこの話をしたところ、「いつも私語をして授業の邪魔になっている子供の保護者に見せれば、子供もおとなしくなるかもしれませんね」と半分真顔で言われたこともありました。
 もしこうした仕組みを導入すれば、教員は授業中に脱線することもなくなるでしょうし、校長としては教育課程管理がしやすくなるかもしれません。案外、賛成する校長がいるかもしれませんが、校長室にも監視カメラとなったら反対に回るような気もします。
 それはともかく、私は学校内で監視を強化しようという発想には反対です。監視はその根底に不信があるからです。学校に限らず教育に相応しいのは信頼であり、不信に基づく教育などあり得ないと考えるからです。とはいえ、それは理想論に過ぎないことも理解しているつもりです。
 もし、私立校なり、特定に教育委員会などが、監視カメラつき学校というセールスポイントを打ち出せば、必ず一定数の支持を得ることは確実に思えます。そして、いじめゼロ、体罰ゼロ、おしゃべりゼロを売り物にした監視カメラつき学校がテレビや新聞で取り上げられ、注目を集めれば、特色ある教育活動が推奨される現状では、それに続く学校が現れるのは極めて自然なことです。
 我が国では、完全を求める風潮が特に強いと言われています。もし校長が、「400人近い子供がいるのだからいじめゼロというのは無理」という認識を示せば、それが現実であるにもかかわらず厳しい非難に晒されることを考えると、監視カメラでいじめゼロは魅力的なのです。
 数年後には、学校と監視カメラは大きなテーマになると思われます。

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意味と語感

2017-04-20 07:40:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「語感」4月13日
 東京大東洋文化研究所教授安富歩氏が、『「パワハラ」では軽い』という表題でコラムを書かれていました。その中で安富氏は、『上司のセンター長から「死ね」などの暴言や、殴るなどの暴行といったパワハラを頻繁に受けてうつ病を発症し、15年1月に自殺した』という記事における「パワハラ」という言葉の使い方について、『上司と部下といった力関係を背景に嫌がらせするのが「パワハラ」なのだが、死ねなどの暴言や、殴るなどの暴行は「嫌がらせ」で済む話なのだろうか~(略)~こんな身も凍るような悪魔の所業を、「パワハラ」という軽い言葉で済ませるのは、私には不適切に思える』と疑問を呈しています。
 私もそう思います。そして、同じように不適切な例として、学校教育の現場で使われるいくつかの言葉が浮かびました。「いじめ」であり、「体罰」であり、「服務事故」であり、「問題教員」です。
 まず、「いじめ」ですが、いじめっ子という言葉が示すように、いじめという言葉から受けるイメージは、子供同士のからかいや仲間はずれ、傷跡が残らない程度のごく軽い暴力などです。実際、そうしたいじめは昔から多くの学校で、学級で、毎日のように起きてきました。一方で、小学生が100万円を超える高額を脅し取ったり、病院通いしなければならないような怪我をさせられたりするような行為も単に「いじめ」と呼ばれています。これは、恐喝や暴行という刑法上の犯罪行為です。犯罪と本来のいじめを混同することから、いじめ対策が実効性を失ってしまっているということは、このブログで何回も指摘してきたことです。
 また、「体罰」についても、元々は授業が終わるまで立たせてておく、尻を平手で叩く、おでこを指で強くはじく、耳を引っ張るというようなある意味「可愛げ」のある牧歌的なイメージでした。もちろん、こうした行為であっても学校教育法に反する行為であり、教員は罰を受けなければなりません。ただ、新聞やテレビで報じられる、痣ができるほど殴ったり、木刀や竹刀を使ったり、鋸や金槌などの凶器で脅したり、というような行為とは明らかに一線を画していました。ここでも、体罰なのか暴行罪や傷害罪が適用されるべき事例なのか、混同して語られている現状があります。
 さらに、「服務事故」という行政用語ですが、体罰も、卒業式の規律命令に従わない事例も、遅刻や無断欠勤を繰り返す行為も、勤務時間外の交通事故も、全て同じ「服務事故」事案として処理されます。それどころか、痴漢や窃盗、住居侵入や強姦、殺人といった凶悪犯罪も「服務事故」なのです。つまり行政罰対象事例と刑事罰対象事例が同じ用語で括られているのです。実際、覗き行為で警察に逮捕された教員についての保護者説明会で、「服務事故」という表現が保護者から猛反発を受けたことがあります。
 最後に、「問題教員」「M教員」という言葉です。指導力不足教員も、偏向教育を行う教員も、「服務事故」を起こす教員も、病気が原因で正常な勤務ができない教員も、すべてひっくるめて「問題教員」としてしまうことが、個別に適切な対応策をとることを難しくしてしまっているという問題は、私が拙著「教員改革」でお知らせしたとおりです。
 学校現場で起きている様々な問題を、個別に分析し考察することなく、簡単な言葉で表すことは、考えることを省き物事を理解してような気にさせてくれるという働きがありますが、それでは本当に対策や解決策を考えることにはつながりません。言葉は考える手段であり、前提です。学校現場で使われる言葉を再吟味してみることは、学校改革の第一歩かもしれません。

 

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