ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

日本のルール

2018-09-30 08:18:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「何法の何条に」9月24日
 高井瞳記者による『違う「理由」を知る』という表題のコラムが掲載されました。その中で高井氏は、日本語初期支援校を取材したときに耳にした『ブラジル人は雨が降ると学校を休む』というエピソードについて触れています。
 『生徒が休む度に家に電話をして理由を聞いた。すると、ある保護者が「ブラジルでは一定程度出席すればいい」と教えてくれた。サボっているのではなく、日本の学校のルールを知らなかったのだ』と言うのです。私が気になったのはこの「日本の学校のルール」という表現でした。
 日本の学校には、出席についてどのようなルールがあるのでしょうか。『日本では理由なく休んではいけない』と教員は説明したそうですが。私が不勉強なだけかもしれませんが、「理由なく休んではいけない」というルールを目にしたことも耳にしたこともありません。関係のありそうな法規といえば、就学義務に関することが考えられますが、それはあくまでも義務教育書学校に子供を就学させることを保護者に課すという規定であり、しかも就学=出席ではありません。
 また、細かいことに拘るようですが、「休んではいけない」という表現は、子供を念頭にされた表現です。保護者を対象にしたのであれば「休ませてはいけない」となるはずですから。そして、子供に関しては、法規上、就学や出席について一切の義務はありません。
 さらに、「理由なく」という表現がなされていますが、「理由」について定めた規程等ももありません。「雨が降ったから」という理由が認められず、「咳が出るから」という理由が認められるという根拠はどこにもないのです。
 要するに、「理由なく学校を休んではいけない」というのはルールではなく、何となく多くの人が思い込んでいることであるというにすぎないのです。しかも、実際には崩壊しています。小中学生の芸能人が撮影のために休んだり、スポーツの全国大会や国際大会で休んだりしても、誰も問題にしません。そんな特殊事例でなくても、小学校6年生の子供が、中学受験を控え、1月の後半学校を休み風邪を引くのを防ぐなどという行動も珍しくありません。
 学校での人間関係の悩んで休むという行為は、いじめ問題が深刻化し自殺に至る悲劇を防ぐという趣旨において言えば、むしろ推奨されているといってもよい状況です。例えその状況が子供の過剰な思い込みや誤解に基づいているとしても、です。
 高井氏のコラムは、ブラジルと日本両国の文化や慣習、考え方の違いを相互理解で乗り越えていこうという趣旨で展開していきますが、その前に我が国の学校にまつわるルールなるものの実態について、今日的な意味について考えてみることも意味があると思います。

 

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集団心理の3側面

2018-09-29 08:10:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「3つの視点から」9月23日
 川柳欄に、下降の天使氏による『善人も群れて知らずに悪をなす』という川柳が掲載されました。人間の本質を端的に表した秀句だと思いました。かつて、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というフレーズが流行りましたが、群れたときの人間の恐ろしさについて、教員はよく知っておくべきです。それはさまざまな面で生かすことができるのです。
 まず、いじめ対応です。いじめは極悪人が引き起こすのではなく、普通の子供が「小さないじめ」を、無意識に、あるいは怖々と始めることがきっかけであるケースがほとんどです。この時点では個人のいじめです。火事で言えば小火のようなもの、バケツ一杯の水を掛けるだけで消すことができるのです。
 しかし、そこに何人かの同調者が加わり、群れを形成したとき、小火は大火となり、消すためには大きな労力が必要になります。その群れに、傍観者という消極的加害者が加わり、さらに大きな群れとなってしまうと、教員一人の力では消火できず、学校ぐるみの体制を組んでの総力戦が必要となってしまうのです。つまり、群れ化の恐ろしさを知って初期消火に努めることがいじめ対策の基本ということです。
 また、いじめに限らず、学級経営一般においても、群れの恐ろしさを意識しておくことは重要です。学級内に悪い意味での群れを作らせないということです。イメージは悪いのですが、分断統治ということです。かつて話題になった「学級崩壊」は、学級の中にボスがいて大きな群れに影響力を行使できる状態のときだけに起こる現象でした。教員が何を言っても、ボスが承認し同調しない限り、教員の指示は受け入れられないという状況は、既に担任一人の力ではどうにもならないのです。私が教委に勤務しているとき、そういう状況に陥った学級があり、学校レベルに止まらず、教委からも人員を派遣して、ボスとその周りの群れを分離させ潰すことにまるまる1カ月以上を費やしたものです。
 さらに、少し毛色が違いますが、平和教育を行う際に踏まえておくべき基本的な考え方でもあります。戦争は悪い軍国主義者が起こしたという捉え方で臨むのではなく、善良なる一人一人の国民が群れとなったとき、冷静に理非を判断する能力を失い、集団心理の熱情の中で戦争への道を選択し突き進んだという捉え方で臨むとき、真の平和教育が実現するのです。自分たちを被害者予備軍とするのではなく、加害者側に立つかもしれないという立場で考えさせるとき、傍観者的ではない当事者意識が芽生え、主体的に考えさせることが可能になるのです。
 いじめ、学級経営、平和教育と統一性なく語ってきたようですが、人間は群れになると一人のときには考えられなかったような悪行も平気でする、という人間の本質を理解することが大切という意味では共通しているのです。

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自己保身の焦り

2018-09-28 08:17:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「仲直り」9月22日
 『子ども向け「六法」出版へ』という見出しの記事が掲載されました。『刑法の暴行罪や侮辱罪などを易しい条文で紹介する「こども六法」の出版に向け、一橋大学大学院社会学研究科修士課程の山崎総一郎さんが、インターネット上で出版費用を募っている』ことを報じる記事です。山崎氏は『小学生時代にいじめられた経験があり、「問題解決の一助になれば」と願って』、この取り組みを始めたそうです。
 記事の中に、気になる記述がありました。山崎氏自身の経験として、『加害児童側は謝罪し、それ以降暴力によるいじめは収まったが、「謝ったのだから許してやれ」という教師のおざなりな対応には疑問を覚えた』という記述です。私はこのブログで、いじめ問題に対する教員の対応として、被害者と加害者に握手をさせて、「同じクラスの仲間なんだからこれで仲良くしよう」と、形式的な関係修復を演出するような安易なやり方を批判してきました。山崎氏も、上辺だけの形式的なやり方に判然としない感情を抱いたのだと思われます。そうした意味では、私の指摘に対して、被害者側の立場から、その間違いを立証してくれたとも言えそうです。
 しかし、そう思う一方で、「謝ったのだから許してやれ」という発言は、教員が多用しがちなフレーズであり、この言葉について、もう少しきちんと考えておく必要があるとも思うのです。例えば、休み時間にサッカーをやっていて、強く蹴ったボールが花壇で水やりをしていた子供に当たり、その子が泣き出したという場面を考えてみます。
 その場に居合わせた教員は、泣いている子供を保健室に連れて行き、けがの有無を確認した上で、ボールを蹴った子供に対し「わざとじゃないのは分かったけど、当てて遺体思いをさせたのは確かなんだから、きちんと謝りなさい」という趣旨の指導をし、謝罪の言葉の後、例の「謝ったのだから~」という言葉を、泣いていた子供に対して発するというのはよく見られる光景です。
 この教員の対応を問題視する人は少ないはずです。では、「謝ったのだから~」発言が、サッカーボール事件では容認され、いじめ問題では許されないのはなぜなのでしょうか。加害行為が、意図せぬ行為と意図的な行為という違いがあるのは確かです。また、その場限りの一過的な行為と継続した行為(多くのいじめは一定期間継続する)という違いもありそうです。しかしそれらは本質的な理由ではありません。
 私は、最も重要なのは、教員の自己保身を図る心情の有無だと考えています。サッカーボールの件では、教員の責任が問われることはほとんどありません。もちろん建前上は、学校管理下の自己は全て学校側に責任があるのですが、保護者や世間一般の感覚、子供自身の感じ方でも、教員を責めるという発想は浮かんできません。
 一方、一定期間継続したいじめでは、教員は把握できなかったのか、把握していたのに対応しなかったのか、対応しようとしたが有効な策を取ることができない指導力不足だったのか、など教員の責任や資質を問う声が予想されます。それだけに一刻も早く問題を解決したいし、大きな問題も小さく見せたいという思いが募ってくるものなのです。そこで、「謝ったのだから~」という発言が出てくるのです。
 我が国は、禊ぎという言葉や忘年会という発想に象徴的なように、いつまでも相手を責めるのではなく過去は水に流し許す、という姿勢を評価する文化が存在します。子供も保護者も周囲の人も、多かれ少なかれこうした文化に染まっています。そこでは、加害者が謝っているにもかかわらず相手を許さないという態度は非難され、被害者が悪者に転化してしまう逆転現象が起きてしまうのです。教員はそのことを知っており、被害者の子供もそのプレッシャーに曝されていることを知っているのです。つまり、自分の「謝ったのだから~」発言は非難されないし、被害者の子供も受け入れざるを得ないはずだ、という計算で、教員は形式的和解を受け入れさせようとしたということを、理屈ではなく本能で悟ったからこそ、そこに保身の臭いを感じたからこそ、山崎氏は、疑問を感じたのです。
 いじめはどこの学級でも起きます。そのこと自体は、教員の恥ではありません。教員にとって恥ずべきなのは、被害を受けた子供のことよりも自己保身を優先させる発想と行動なのです。そして、自己保身を図る言動は、被害者とその保護者の信頼を損ない、本質的な解決を遅らせ、結果として教員自身の評価を下げる自殺行為なのです。そのことを理解し、自己保身の心情を捨てること、人間の本能として難しいことではありますが、これさえできれば自然と解決の道が見えてくるのも事実なのです。

 

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相手の土俵で

2018-09-27 07:25:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「痛くもかゆくもない」9月18日
 『小中44%が「学テ対策」 全教調査 過去問を使い指導も』という見出しの記事が掲載されました。全教が、『全国学力テストへの各校の対応状況を調べたアンケート結果を公表した』ことに関する記事です。記事によると、全教はこうした状況に対して、『テストの傾向や解答方法に習熟する学校あれば、児童生徒の核力や課題を客観的に把握することができない』と指摘し、学テの中止を訴えているとのことです。
 全教の主張をもう少し細かく見ていくと、『学校別平均正答率の好評が可能となっていることで「教員が順位を気にするなど競争に毒されている」』『教科学習が苦手な子どもの自尊心が傷つけられる』『年度初めの多忙な時期に行われるので教員の作業負担が重く授業進行が遅れる』などの声があることを中止要請の根拠としているようです。
 私も、学テには問題が多いと考えています。それはこのブログでも再三指摘してきたところです。ただ、今回の記事で紹介されている「問題点」では、学テ推進派にとって「痛くもかゆくもない」というところでしょう。
 まず、「教員が順位を~」ですが、それこそが推進派のねらいだからです。競争のない横並びのぬるま湯体質だから、教員は自らを高めるために切磋琢磨する気概に乏しく、それが授業の質の低下、学力の伸び悩みにつながっている、というのが推進派の認識です。ですから、「順位を気にして」とあれば、やっと効果が出てきたか、と意を強くするだけなのです。
 また、「子供の自尊心が~」について言えば、学テ以外にもテストは数多く行われ、作文やレポートといった類についても評価は行われているはずなのに、どうしてそれらについては自尊心が傷つかないのか、と反論されてしまいます。学校教育の中から、テストや評価を完全に排除するという方向性を目指しているのならばともかく、そうではない以上、この指摘には説得力がありません。
 さらに、「作業負担~」に至っては、本来行うべきではない「学テ対策」を行っているからこその負担であり、学テ対策をやめるべきという自らの主張が実現すれば問題とはならないことなのです。
 学テ推進派が、注目しているのは、この施策によって本当に学力が向上しているか否か、という点です。もし、学力が向上していない、ということになれば目的達成に相応しくない手段であるということになり、見直しをせざるを得なくなるのですから。つまり、全教としては、学力とは何か、これからの時代に求められる学力はどのようなものか、そうした学力を測定する最適な方法はどのようなものか、といった根元的な問いに対して、明確な回答を示し、学力を独自に測定し、その方法と結果をすべてオープンにし世間の評価を仰ぐという方法しかありません。
 そのくらいのことはできるだけの人的、資金的能力はあるはずなのですが。

 

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多様性の維持

2018-09-26 08:36:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「まさか」9月18日
 専門編集委員与良正男氏が、『主権者教育はどこに行く』という表題で社説を書かれていました。その中に、『今、企業が採用で重んじているのは「コミュニケーション能力」だそうだ。他人とうまく意思疎通ができるといった意味のようだが、これを上司に意見を言ったり、仲間と激しい議論をしたりしないことだと勘違いしている人が多いという』という記述がありました。
 まさか!と思いました。正反対ではありませんか。与良氏は、正しいコミュニケーション能力を、主権者教育を支えるものとして重視されているようですが、私も同じです。そして、それは主権者教育という範囲に止まらず、民主的で自由な社会の構成者として最も必要である能力だと考えています。言い方を変えれば、我が国の学校教育において、あらゆる教科や領域を通して培っていくことが求められている能力だということです。
 改めて言うまでもありませんが、コミュニケーション能力とは、自分の意思や考えを分かりやすく正確に伝えることと相手の発言を通して相手の意思や考え、感情を正確に理解することで成り立つ能力です。議論を避けたり、イエスマンになったりすることは、本来のコミュニケーションから最も遠いところにある行為です。
 確かに、ある組織の一員として行動する際には、最後まで持論を曲げず、全体としての決定にも従わず、自分勝手に行動することは許されることではありません。しかし、決定に至る前の段階では、例え99対1であっても、自分の考えを述べることは、むしろ組織の多様性を維持するためにも必要なことなのです。それも、どうせ無駄だと思って言うのではなく、自分の考えの意味を皆に理解してもらおうという意思と意欲をもって、です。
 このことは、表面的な修辞法や語彙の豊富さ、身振り手振りや表情といった非言語コミュニケーションの技術の習得よりももっと大切なことです。私自身、コミュニケーション能力が高いわけではありませんし、教員時代にコミュニケーション能力育成に長けていたわけでもありません。ただ、コミュニケーション能力について、上司を忖度し、空気を読み、波風を立てないことだと考えたことはありませんし、そんな指導をしたこともないつもりです。
 もちろん今でも、全ての教員が私と同じ考えでコミュニケーション能力育成に取り組んでいると思うのですが。不安になりました。

 

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フリーにすれば

2018-09-25 07:36:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「フリーにしたら」9月17日
 『フリーアドレスで創造的に』という見出しの記事が掲載されました。フリーアドレスとは、職場に決まった席(机)を作らず、その日の気分や仕事内容によって自分が選んだ場所で職務に当たるやり方のようです。取り上げられた企業の様子について、『出社するとロッカーからパソコンを取り出し、「足の向くまま」に席を決める。一般的なワーキングスペースか、もう少しリラックスしたカフェゾーンか。それとも個々の机が吸音壁で囲まれた会話禁止の「集中スペースか」。その日の仕事や気分次第。同じ場所に終日いる時もあれば、移動することもある』と書かれていました。
 そんな環境の中で働いた経験がない私は、へぇーと驚くばかりです。私が着目したのは、このフリーアドレス制が、縦割り意識の解消につながったという成果についてです。実は学校という組織は、縦割りの典型のようなところなのです。教員室では、同じ学年を構成する教員の机が固まって配置されているのです。もちろん、個人的に仲のよい教員同士、気が合う教員同士は、更衣室やお茶をいれる場所などで会話をしますが、それは私的な会話であり、職務に関することはあまり話し合われません。仕事の話は学年で、となっているのです。
 そのことの欠点は、学び合いが進まないことです。学校の教員には様々な経験や技能をもったものがいます。また、教科の研究や過去の勤務校などを通じ、その人独自の人間ネットワークももっています。私は、そうした経験や技能やネットワークを相互に利用しあい、そのことを通して教員として成長するというのが望ましい姿だと考えています。
 私の勤務した学校でも、英国の学校で勤務した経験をもつ者、教育相談の上級資格をもち不登校児道の対応に経験豊富な者、社会科の研究会の所属し、多くの実践例やユニークな実践者の知り合いをもち、工夫して作成された資料を入手できる者(私です)、学級経営の達人、水泳の救命措置の経験者、警察官出身で所轄署にコネのある者など、多彩な人材がいたものです。
 しかし、学年という「ムラ」が違えば、職務上の交流は少ないのです。フリーアドレス制はその突破口になるのではないかと期待したのです。単によその学年のこと、他の学年の子供のこと保護者のことについての情報交換でも、学ぶことはあるはずなのです。
 とはいえ、一方で教員にとって最良の研修はOJTです。日々の職務の遂行自体が研修であるという考え方からすれば、同じ課題を抱える同学年の教員間のコミュニケーションが密であることは、それもメリットがあることです。
 学校におけるフリーアドレス制、どこか先進的な私立校か国立の付属校あたりで導入してみるところはないのでしょうか。

 

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本当は感情をぶつけただけなのに

2018-09-24 07:35:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そのまま言えば」9月17日
 『熱中症対策 教員の意識は』という見出しの記事が掲載されました。群馬県の中学校で駅伝練習中に起こった事故について報じる記事です。その中に値抽象そのものとは関係ないのですが、気になる記述がありました。『練習中、教員は練習についていけない女子生徒らに「バカ」「アホ」などの暴言を吐いていた。教員は保護者に「頑張ってほしいという気持ちを込めた」と釈明した』というものです。
 政治家の失言でもそうですが、問題となる失言について、その言葉本来の意味ではなく別の意味で使った、という言い訳をよく耳にします。理解できません。ある作家が、表現のもつ微妙なニュアンスについての例え話をしていました。
 発展途上国に対する援助に関して、その国への援助が、将来我が国に対する何らかの利益となって返ってくることを期待して「豚は太らせてから殺す」という言葉を口にすれば、猛烈な非難を浴びるだろ、しかし、小さな木を大きく育て、果実を実らせてから共に収穫すし美味を味わう、と言えば反感ははるかに少ないはずだ、と言うのです。「豚は~」も「果実は~」も意味はほぼ同じです。ただ、受け取る側の心情は違います。こうした違いであれば、そんな意図ではなかったという言い訳も通じるかもしれません。
 しかし、「バカ」から頑張ってほしいという含意を感じろというのは、あまりにもかけ離れすぎています。こんな言い訳が通用するなら、「死んじまえ!」も「人間のくず」も「お前なんか学校やめさせてやる」も「殺すぞ」もすべて「頑張ってほしい」だということになってしまいます。
 そうだとすれば、言葉によるコミュニケーションなど意味をもたなくなります。「借金は10年間で完済してください」は「1年以内に年利10割で返せ」という意味でした、というのでは、社会は成り立ちません。「バカ」を辞典で調べると、おろかなこと、役に立たないことと書かれています。「アホ」は阿呆の省略形で、バカと同じ意味とされています。どこにも、頑張れという意味はありません。この教員は、日本語を解さない人だったのでしょうか。
 教育においては、教える者と教わる者との間の言葉を媒介とした伝達機能による部分が大きいものです。言葉を自分勝手な意味で使う者に教員の資格はありません。こんな醜い言い訳は二度と聞きたくありません。
 

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調査・捜査と判断・評価

2018-09-23 08:22:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「専門家はどこに」9月17日
 教育の窓欄では、『「知りたい」に応える調査を』という見出しで、いじめ第三者機関を取り上げていました。その中に、『都道府県知事に行ったアンケートでは「(自治体が設ける第三者機関は)公平・公正性に疑義を持たれる」「専門性に優れ、第三者機関の解散や再調査もなくなる」などの理由で、全国規模の第三者機関の創設を望む意見があった』という記述がありました。
 よく分からない点が2つありました。まず、第三者機関の構成員に求められる専門性とは何か、ということです。第三者機関が行うのは、主に聞き取り調査です。この専門家といえば、被疑者の取り調べをする警察官であり、検察官でしょう。いじめ自殺した子供の遺族が、容疑者不詳のまま刑事告訴すれば、こうした専門家の手によって聞き取り調査が進むはずです。別に第三者機関を設ける必要はありません。
 また、刑事告訴にまで踏み切りたくないという遺族のためには、各都道府県、政令指定都市ごとに、警察官や検察官のOBを登録し、その中から委員を委嘱すればよいだけのことです。しかし、実態は、弁護士や小児精神科医など、犯罪行為が行われていたのではないかという疑いの下に行う取り調べを生業とする人ではない方々が委嘱されているケースが大半です。こうした実態を考えると、知事らが第三者機関の構成員に求めている専門性のイメージが湧かなくなるのです。
 次に、全国規模の第三者機関の創設ということです。地方自治と関係の深い総務省や学校教育を管轄する文科省から独立した省庁、例えば内閣府などの下に「全国いじめ自殺調査第三者機関」というような組織を作り、各自治体のその支局を置くというようなことなのでしょうか。そうした機関を求めるということは、地方自治の否定につながるのではないかと考えます。私自身は反対の立場ですが、近年の教育改革で、地方教育行政は首長の権限下に置かれるようになってきました。多くの首長がその改革の方向性を支持してきました。そうであれば、自分の自治体で起こったいじめについて、国による調査を進めようとするのは、大きな矛盾だと言わざるを得ません。
 もし、政府とは無関係に、民間の「全国いじめ自殺調査第三者機関」設置をイメージしているのであるとするならば、矛盾は解決されます。しかしその場合、民間有志やNPOなどによって作られた組織が、真に公平・公正であるか否か、誰がどのように保証し、監視するのか、大変な難問を背負うことになります。さらに、実際の活動に当たっては、組織を維持していくためにある程度の予算と人員が必要になりますし、その負担をどうするのか、知事としては要望するだけで、他人任せにはできないと考えます。
 なお蛇足ですが、見出しである『「知りたい」に応える調査を』について、誰が何を知りたいのか、考えておく必要があります。自殺した子供の遺族の「知りたい」に応えるのか、公教育を支えている有権者の「知りたい」に応えるのか、今後の教育活動の改善に生かすために学校や教委の「知りたい」に応えるのか、いじめ問題を研究する行政関係者や教育学者の「知りたい」に応えるのか、いずれなのでしょうか。このことがはっきりしていれば、情報開示の問題も大部分が解決されます。
 何を、については、いじめが自殺の原因であるか否か、なのでしょうか。どのような行為、暴言や無視、暴力や金銭の要求などがあったかなのでしょうか。教員がどのように対応していたか、なのでしょうか。校長や教委の対応についてなのでしょうか。この中で、後の3つは、事実の確認ですから、その第三者機関の調査能力内で明記することが可能です。Aという生徒からこういう目撃証言があったが、それを裏付ける他の証言は得られなかった、というように確定事実として示すことはできないまでも、調査の結果を示すことは可能です。しかし、最初の原因であるか否かについては、事実の調査ではなく、事実を元にした判断です。判断ですから、同じ事実からでも異なる判断が下される可能性はあります。第三者機関を調査機関と位置付けるのか、判断・評価機関と位置付けるのか、非常に重要な問題になってきます。その点の合意が十分ではないように思えてなりません。

 

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権利があれば、決まりがなければ

2018-09-22 07:37:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「もう一つの協調性」9月16日
 書評欄に、『「日本の醜さについて 都市とエゴイズム」井上章一著(幻冬舎新書)』についての松原隆一郎氏による書評が掲載されました。その中で松原氏は、『周囲を無視して好き勝手に建築する日本人はよほど個人主義的で、いまだに爵位を持つ人が存在し地権者の自由を制限する西欧は集団主義的だ』という著者の見解を紹介しています。
 著者の指摘は、西欧では建築委員会による外観の審査にパスしなければビル一つ新築できないのに対し、我が国では街並みや景観についての共通理解はないに等しく、その結果が「日本の醜さ」となって表れているということです。その原因は、地権者の権利が重視され、法や条例に違反しなければどんな奇抜な家でも建築可能という制度であり、そうした現状を個人主義的と表現しているのです。
 通常、我が国は集団主義的で、西欧は個人主義的をされるのですから、常識とは逆のことをいっていることになります。面白い着眼点です。私も、学校教育に関わる中で、この「個人主義的」を感じることがありました。
 確かに我が国の学校は、集団主義的な部分があります。そうした集団主義に対して、自分の子供だけ別の行動を認めてほしい、異なるルールを適用してほしい、と訴える保護者が少なくないのです。その際に必ずといってよいほど口にするのが、「そうしなければいけないという法律があるのですか」「そうしろというきまりがあるのなら見せてください」といった類の言葉なのです。
 つまり、先ほど述べた「法や条例に違反しなければどんな~」です。他者に対する配慮、全体を見渡しての視点などというものはなく、権利の有無が全てという発想です。それに比べて、著者が指摘する西欧の景観への配慮という発想は、全体を構成する一員としての自分の責任を考えて、権利の行使を自制するという考え方です。保護者のこうした発想は子供自身にも影響を与えており、子供同士の軽微なトラブルや言い争いにおいても、「そんな決まりあんのかよ」というフレーズがよく使われています。口にしている当人も、内心では説得力がない、屁理屈だなどと感じながらも、一種の免罪符的に使われているのです。
 さらに情けないのは、教員の一部にもこの決まりの有無を過剰に重視する傾向があり、新卒採用面接で、「ピアスをして茶髪にして登校してきた子供にどのように対応しますか」と訊かれ、「校則はどうなっているのですか。校則に定めがないのであれば指導はできません」などと答える人が増えているのです。
 言うまでもなく望ましい個人主義とは、社会を構成する一員であるという自覚と責任の下、自分の権利や欲望と自分を含んだ社会全体の利益との調和や妥協点を考えて行動したり発言したりできるであるはずです。それは民主的な社会を維持する上で必須の資質でもあります。つまり、現在の学校が育てるべき資質ということです。
 全国の教員は考えてみるべきです。あなたが育てているのはどちらの個人主義なのかを。

 

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ピアス→脱毛→タトゥー

2018-09-21 08:42:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「受け入れが善?」9月14日
 『日本の「入れ墨ノー」なぜ?』という見出しの記事が掲載されました。記事は、『タレントのりゅうちぇるさんが両肩にタトゥーを入れたことを写真共有アプリ「インスタグラム」で公表し、批判が相次いだ』という書き出しで始まり、『現代の日本でこれほどタブー視されるのはなぜなのか』を探る内容となっています。
 記事の中に気になる記述がありました。都留文化大山本芳美教授の『人類の誕生以来続く文化を排除することは不可能。20年に東京五輪・パラリンピックが控える中、さまざまな価値観や異文化を受け入れることが今後ますます重要になる』という指摘です。具体的に言えば、現在広く実施されている、入れ墨をしている人の入店や入浴を断るという措置は見直すべきということでしょう。
 私自身の入れ墨について思い出すのは、子供の頃、銭湯で全身に入れずにを彫り込んだ男性を見ていたら、父親から「あの人の方を見ちゃダメ」と小声で注意されたこと、教員になって、自宅に遊びに来た卒業生が、向かいの家のご主人のランニングシャツから入れ墨がはみ出しているのを見て「すげえ!」と言ったときに慌てて窓を閉めたこと、くらいです。もちろん、入れ墨を入れている人=怖い人という考え方が根底にありました。
 つまり私は、入れ墨否定派です。もちろん、刑罰としての入れ墨と芸術としての刺青が違うものであることは理解しているつもりですし、軽い気持ちで刺青をし後悔している人やかつて暴力団に属したときに刺青を入れ今はまじめに生活している人がいるということも分かっています。外国では、入れ墨がファッションになり、著名なスポーツ選手がタトゥーを入れていることも知っています。今年行われたサッカーW杯でも、多くの選手がタトゥーを入れていましたし。
 それでもなお、やはり入れ墨や刺青への嫌悪感は消えません。私個人のことであれば、私が我慢をすればよい話です。しかし、社会全体として入れ墨や刺青を受け入れるということは、学校においても寛容でなければならないということを意味します。
 記事ではこの点について、東京未来大准教授鈴木公啓氏が、『ピアスや茶髪もファッションとしてある程度定着した。タトゥーが話題に上るということ自体、評価が過渡期を迎えているということかもしれない』と述べていらっしゃいます。ピアスを認めている学校もありますし、放課後につけることはほぼ問題にされません。とすれば、タトゥーも、校内で他人の目に触れないようにすれば個人の勝手ということになっていくことが考えられます。
 理屈では分かります。しかし古い人間である私は、「身体髪膚これを父母に受く」という言葉が浮かび、拒否反応が生じてしまいます。20年の五輪後は、タトゥーを入れた高校球児が甲子園で活躍などという光景が現実のものになるのでしょうか。さらに10年後には、我が子にタトゥーを入れさせて「可愛い!」などという親が現れるのかもしれません。既に小学生の女児が親に勧められて脱毛エステに通う時代ですから。
 老兵は去りゆくのみ、なのかな。

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