「大きな力を手に」5月23日
書評欄に、東京大教授藤原帰一氏による『「あなたと原爆 オーウェル評論集」秋元孝文訳(光文社古典新訳文庫)』についての書評が掲載されていました。その中で藤原氏は、『(オーウェルが)英領ビルマで警察に勤めていた時の経験を踏まえた初期のエッセイ、「像を撃つ」』について触れていらっしゃいます。
『像が市場で暴れている、何とかしてほしいと求められた「私」が現場に駆けつける。着いたとき像はもう静かになっていたので、撃つまでもないと考えるが、周りの人々は警察官が像を撃つことを期待している。群集の期待、あるいは圧力に屈した「私」は、像を撃ってしまう』という内容です。
そしてこのエッセイから、『馬鹿にされないため、笑われないため、不要であることを知りながら力を行使する』『支配を行う側が支配される側に支配され、それによって自分の自由を失ってしまう逆説は政治見直の本質にほかならない』という見解を示されているのです。
私はこの記述を目にし、以前読んだ第一次世界大戦開戦時の話を思い出しました。当時、欧州の国王や政治家など支配層は誰一人として本気で戦争を考えていなかったにもかかわらず、熱狂した庶民が政府に王宮に押しかけ、義勇兵に応募が殺到し、武器が足りなくなって棍棒を渡す事態に陥り、その熱気を抑えきれず、人類初の世界大戦が始まっていった、という話を。
国民が主権者である民主制下であるならばともかく、超越的な力を持っていたと考えられる国王でさえ、『群集の期待、あるいは圧力に屈し』てしまうのです。まして、国民が主権者であることが明確に意識されている民主制下では、国民はとてつもない大きな力をもっているということを、この話は示しています。
今、我が国の国民の多くは、自分たちの力なんて何の影響力もなければ意味もない、と考えていると言われています。話は少し飛ぶようですが、コロナ禍の今、パチンコ店に出掛けたり、県外に遊びに行ったり、マスクをせずに外出したりする人たちも、政治とは別の意味で、自分一人の行動が与える影響力を極小化して考える癖が染みついていると言ってよいと思います。
自分一人くらいルールを守らなくても大勢に影響なしという意識も、自分一人が何か声をあげても何も変わらないという意識も、自分という存在を小さく見るという意味では同根であると思います。しかし、実際には、「像を撃つ」のエピソードから明らかなように、第一次大戦の例で明らかなように、そして最近では「♯~」で検察長・総長の恣意的定年延長を撤回させたように、一人の力の意味と大きさを自覚すべきなのです。
学校で行われようとしている主権者教育は、この自覚をもたせることに留意し、歴史や文学に土台を置くように心がけていく必要があると考えます。