ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

私がもつ大きな力

2020-05-31 08:18:31 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「大きな力を手に」5月23日
 書評欄に、東京大教授藤原帰一氏による『「あなたと原爆 オーウェル評論集」秋元孝文訳(光文社古典新訳文庫)』についての書評が掲載されていました。その中で藤原氏は、『(オーウェルが)英領ビルマで警察に勤めていた時の経験を踏まえた初期のエッセイ、「像を撃つ」』について触れていらっしゃいます。
 『像が市場で暴れている、何とかしてほしいと求められた「私」が現場に駆けつける。着いたとき像はもう静かになっていたので、撃つまでもないと考えるが、周りの人々は警察官が像を撃つことを期待している。群集の期待、あるいは圧力に屈した「私」は、像を撃ってしまう』という内容です。
 そしてこのエッセイから、『馬鹿にされないため、笑われないため、不要であることを知りながら力を行使する』『支配を行う側が支配される側に支配され、それによって自分の自由を失ってしまう逆説は政治見直の本質にほかならない』という見解を示されているのです。
 私はこの記述を目にし、以前読んだ第一次世界大戦開戦時の話を思い出しました。当時、欧州の国王や政治家など支配層は誰一人として本気で戦争を考えていなかったにもかかわらず、熱狂した庶民が政府に王宮に押しかけ、義勇兵に応募が殺到し、武器が足りなくなって棍棒を渡す事態に陥り、その熱気を抑えきれず、人類初の世界大戦が始まっていった、という話を。
 国民が主権者である民主制下であるならばともかく、超越的な力を持っていたと考えられる国王でさえ、『群集の期待、あるいは圧力に屈し』てしまうのです。まして、国民が主権者であることが明確に意識されている民主制下では、国民はとてつもない大きな力をもっているということを、この話は示しています。
 今、我が国の国民の多くは、自分たちの力なんて何の影響力もなければ意味もない、と考えていると言われています。話は少し飛ぶようですが、コロナ禍の今、パチンコ店に出掛けたり、県外に遊びに行ったり、マスクをせずに外出したりする人たちも、政治とは別の意味で、自分一人の行動が与える影響力を極小化して考える癖が染みついていると言ってよいと思います。
 自分一人くらいルールを守らなくても大勢に影響なしという意識も、自分一人が何か声をあげても何も変わらないという意識も、自分という存在を小さく見るという意味では同根であると思います。しかし、実際には、「像を撃つ」のエピソードから明らかなように、第一次大戦の例で明らかなように、そして最近では「♯~」で検察長・総長の恣意的定年延長を撤回させたように、一人の力の意味と大きさを自覚すべきなのです。
 学校で行われようとしている主権者教育は、この自覚をもたせることに留意し、歴史や文学に土台を置くように心がけていく必要があると考えます。

 

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どちらの未来が

2020-05-30 08:36:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どちらの未来」5月23日
 ベトナム簿記普及推進協議会理事長大武健一郎氏が、『岐路に立つ「ホワイトカラー」』という表題でコラムを書かれていました。その中で大武氏は、『日本は高齢化と人口減少ででますます人手不足が顕在化してくる。その時、海外から労働力が入ってこなければ、これからITの普及で余剰となっていく「ホワイトカラー」の人々が、農業や介護などの現場で働く仕事に転換を図ることが不可避になる』と書かれています。
 コロナ禍を受け、今後、国境を超えたヒトの移動が縮小していくことを見越しての提言です。大武氏の描く未来では、今、3K職場として人気のない介護や農業が多くの人の雇用を引き受けるのです。もしそうであれば、学校教育における「人材育成」は、農業や介護を担う若者を育てる方向にシフトチェンジしなければならないことになります。
 もちろん、未来の介護や農業は、ITやAIを駆使し、今の状況とは大きく変わっていることでしょう。作物の生育状況をAIが管理し、最適な肥料や農薬の種類や量を算出し、機会が散布するというような形が一般的になっているでしょう。介護現場でも、利用者のバイタルチェックは一瞬で終わり自動的に記録され、問題のある利用者はそのデータが、医師や栄養士、看護師などに送られ、最適な対応が指示されるというようなことが実現しているでしょう。
 当然、ITやAIについての知識や技能が必要になりますし、利益の上がる事業として農業経営者にも経営や営業、商品開発やマーケティング等の能力が必要になるでしょう。販路拡張には外国の事業者との交渉等が必要になりますから、英語など語学力も十四になっているかもしれません。そうした意味では、今進行中の教育改革は間違ってはいないのかもしれませんが、農業から体を使う部分がなくなることはないでしょうし、介護から人と人との触れ合いを必要とする本質が失われることもないでしょう。
 そうした部分を重視した学習内容構成の見直しが必要になるはずです。また、いわゆる「ホワイトカラー」を想定した普通高校と職業高校の区分けや比率も見直しが必要になってくるはずです。そして、独創性だけでなく、勤勉性や協調性の価値についても再評価が求められるようになるのではないでしょうか。それは、現在進行形の教育改革の方向性に修正を迫ることになるかもしれません。
 未来はどっちなのでしょう。

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率ではなく、実数で

2020-05-29 08:10:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「計算が合わない」5月23日
 『都立校 段階的に再開』という見出しの記事が掲載されました。都教委の学校再開後の基本方針を報じる記事です。そこには、『区市町村立の小中学校も同様の対応を取るとみられる』とあったので、気になる点を指摘しておきたいと思います。
 まず、『再開当初は投稿を週1日程度、在校時間は約2時間とし、一度に滞在する生徒の割合を6分の1程度に抑える』とあります。この指針に従えば、最大1日に3回転で6時間となりますから、十分に対応できます。そして次のステップでは、『登校を週2~3日、在校時間も半日に増やし、生徒は3分の1程度にする』とされています。半日に1/3ですから、1日では2/3の生徒が登校することになり、5日間では、10/3>3、即ち一人の生徒が3日登校することが可能です。
 そして、その次のステップでは、『週3~4日、在校時間は丸1日、生徒は2分の1から3分の2程度』とされています。1/2の生徒しか登校させない場合は、3回登校の実現は不可能ですが、2/3とすれば、5日間では10/3回となりますから、4日は無理でも3日ならば登校日を確保できることになります。ぎりぎりです。
  ここまでであれば、都教委は何とか実現可能な指針を打ち出したことになります。しかし、記事では、『登校せずに、自宅に滞在している時間についてもパソコンを活用したオンライン学習を実施する』とも書かれているのです。つまり、第一段階はともかく、第二段階以後、常に通常と同じ授業(人数は少ないが)を行いつつ、同時並行でオンライン授業も行うという計画なのです。一般的に12学級の小学校の場合、教員数は、担任12人、専科教員3人、養護教員1人という構成になります。擁護教員は授業を行えないケースがほとんどですから、常に授業がない教員は3人しかいないのです。その3人で、少なくとも6学年、つまり6コマの授業をオンラインで行うということは不可能です。
 どうするつもりなのでしょうか。6年1組と6年2組を合同授業とし、残りの一人をオンライン授業に回すという方法を取ることができればよいのですが、それでは教室は密の状態になってしまいますから、このやり方は使えません。都立高校や都立の特別支援学校であれば、教員数も多く、何らかの工夫の余地はありそうですが、小規模の小学校ではやり繰りは大変そうです。
 私は、一学級の児童・生徒数を考慮せずに、一律○/△と決めるのではなく、小学校ならば教室に15人まで、25人まで、35人までというように人数で決めることを認めたほうがよいと思います。40人の学級で1/6は7人ですが、22人ならば1/3が7人です。どちらも、同じ大きさの教室に同じ数の子供がいるのに、基準を墨守すれば、差が生じてしまいます。人数基準にすれば、小規模校では、工夫の余地が生まれます。

 

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支離滅裂

2020-05-28 08:11:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「支離滅裂」5月22日
 9月入学制について、識者へのインタビュー記事が掲載されました。『個別教育転換の好機』という表題の下、教育評論家尾木直樹氏が、賛成の立場から見解を述べていらっしゃいましたが、どうにも理解しがたいものでした。尾木氏は、『9月入学のメリットの一つとしてよく挙げられるのは、秋入学の多い他国への留学がしやすくなり、グローバル化が進むことだ(略)私の言うグローバル化とは留学だけの話ではなく、もっと子どもの学びを保障するため、日本の教育制度の思想、ひいては国のあり方も変えていこうという考えだ』とおっしゃっています。
 そして、ご自身の考えるグローバル化についての説明として、『日本では4月になったら、学習の遅れている子も、精神的に未熟な子も一斉に進学・進級させている。学びのできていない子も、課程を終えれば学校から出してしまうことになる。こうした1年たてば進級する学年主義、あるいは履修主義に対し、他国は、精神年齢や生活力、学力がOKとなったときに進学・進級させる修得主義が基本だ(略)一斉に進級させなくても、個別でいい』と論を展開していくのです。
 私はこのブログで、再三履修主義を批判し、修得主義への転換を主張してきました。ですから、そうした意味では尾木氏の主張には賛成です。でも、どうして4月入学では修得主義への転換は難しく、9月入学にすると、修得主義への転換が進むのでしょうか。その点が理解できないのです。
 「日本では9月になったら、学習の遅れている子も、精神的に未熟な子も一斉に進学・進級させている。学びのできていない子も、課程を終えれば学校から出してしまうことになる」。先ほどの尾木氏の言葉の、4と9を入れ替えただけの文章ですが、何の抵抗もなく理解できます。9月にしたところで、それだけで修得主義への転換ができるというのは、どう考えても何か重要なピースが抜け落ちている論だとしか思えません。
 履修主義への転換を実現するためには、以前橋下徹氏が主張した、留年と飛び級を実現させることが不可欠です。教員が頑張りさえすれば、授業時間を十分に確保しさえすれば、オンライン教育等の環境整備に務めれば、などといくら条件整備をしても、学習指導要領に定める内容に到達できない子供は出てきます。そうしたケースでは留年を、逆に4年生なのに6年生の学習内容を理解できる子供には飛び級を、という制度にしなければ、本当の意味での修得主義は実現しないのです。そして、この留年と飛び級には、国民の多数からの反対が予想されるのです。
 国民の反対を説得する、もしくは押し切るという難業、荒業に挑む覚悟がもてるか否かが、修得主義への転換の鍵を握るのであり、入学時期は全くの別問題であるというのが私の考えです。
 もし、9月入学にすることで履修主義への転換が進むという理屈を説明できる方がいれば、是非ご教授願いたいものです。

 

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専門家集団のプライドが泣く

2020-05-27 08:18:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「逃げ得」5月22日
 『黒川検事長 きょう辞職 賭けマージャン引責』という見出しの記事が掲載されました。黒川氏が、『都内の新聞記者宅で賭けマージャンをしていたとされる問題で、黒川氏は21日、辞職願を提出した。森雅子法相は同日、黒川氏が賭けマージャンをしていたことが確認されたとし、黒川氏を訓告処分にしたと明らかにした。辞職は22日の閣議で承認され、正式決定する見通し』であることを報じる記事です。
 ひどい話です。私は教委勤務時代に、体罰やわいせつ行為、公金着服、信用失墜行為などの服務事故を起こした教員の研修や処分に関わる仕事を担当していたことがあります。こうした不祥事はあってはならないことですが、そんなことを言ってみても始まりません。大切なのは学校における教育活動を円滑に進めるために必須な都民からの信頼を取り戻すことです。そこで重要になるのが、きちんとした調査と処分です。
 教員の懲戒処分は、重い方から免職、停職、減給、戒告となります。一番軽い戒告は、戒められるだけですが、その事実は教職にある間ついて回ります。当然、異動や昇任などに負の影響が及びます。減給は給与が減らされますし、停職はその間無給となります。管理職が処分を受ける場合、停職以上が予想されるケースでは、ほとんどの人が即座に辞職願を提出します。反省の意を表し、処分軽減を狙う意図からです。
 しかし、その時点で辞職を認めることはありません。辞職を認めてしまえば、それ以後、その教員は一民間人となり、教委は何ら働きかけることができなくなります。簡単な事実確認さえ本人の同意がなければできなくなり、事実関係の確認は不可能になってしまうからです。また仮に、きちんと調査できていれば詳しい事実が見つかり、免職処分にふさわしいような事案でも、自主的な退職で済んでしまい、退職金が満額支払われることになってしまいます。それは都民感情から言っても許されることではありません。
 こうした考え方を基に、黒川氏のケースについて考えてみると、全く理解不能ないい加減さが目につきます。そもそもなぜ退職届ではなく、辞職願なのかを考えてみる必要があります。届は一方的に届けることで完結します。しかし、願ということは、お願いを受け許可するかどうかは受け取った側が判断するということを意味します。つまり、黒川氏の場合、願を受け取った内閣側が認めるか否かの判断、いつ認めるかの判断をする権利があり、しばらくの間願を預かっておいて、じっくりと調査することが可能であり、そうすることが国民の信頼回復には絶対に必要だったのです。
 それなのにわずか1日の聞き取りで処分を決定しているのです。私が教委にいるとき、のぞき行為で逮捕された教員の事案を担当しました。捜査権がなく、被害者の民間人から接触を拒まれ、警察からの情報収集や釈放後の本人からの聞き取りしかできず、事実関係の確認には大変苦労しました。しかし、黒川氏のケースは検察庁です。教委の調査には応じてくれない人でも、検察庁の調査依頼には応じるはずです。そして、検察庁には調査や聞き取りのプロがそろっているのです。それなのにどうしてたった一日の聞き取りだけで済ますのでしょうか。相手側の記者、新聞社に協力依頼もしていません。黒川氏の携帯は押収したのでしょうか。自宅や職場のデスクにメモや文書はないか調べたのでしょうか。黒川氏を知る同僚や部下からの聞き取りはしたのでしょうか。
 学校や教委は、組織体としての自覚が乏しく、法にも無知で、世間の常識が通用しない特殊な世界だと非難されてきました。しかし、今回の事例を見れば、少なくとも法務省や検察庁よりはきちんとした対応ができる組織です。そう言われて悔しければ、もっと調査の専門家集団としての意地を見せてほしかったです。
 繰り返しますが、教委や学校は法の専門家集団である法務省や検察長よりは不祥事にはきちんと対応しています。

 

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おかしさに気付かないおかしさ

2020-05-26 08:00:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「おかしい、とは思わない?」5月21日
 1面トップは『夏の甲子園中止』、2面は半分以上を占めて『球児の安全 不安拭えず』、5面には社説で『夏の甲子園も中止 部活の成果発揮する場を』、スポーツ面は紙面の3/4以上を占めて『「代替大会」地方が模索』、地域面では『春に続き夏までも 都内の球児、関係者ら落胆』、社会面の22面では6行取りの大活字で『球児の夢 コロナ奪う』、続いて23面には同じく大活字で『最後の夏 願い届かず』、いずれもコロナウイルスの感染拡大を受け、高校野球の夏の甲子園大会が中止されることが決まったことに関する記事です。
 コロナ禍、黒川東京高検検事長の賭けマージャン事件、WHOを舞台にした米中対立、私たちの生活に直結する多くの出来事を大きく上回って報じられたのが高校野球の中止という紙面構成に大きな違和感を覚えました。
 以前もこのブログで触れたことですが、甲子園で行われる高校野球の全国大会は、あくまでも部活動の一環であるにすぎません。学校教育は、当然の前提として生徒の健康・安全を確保して行われなければなりません。その前提に基づいて、既にほとんどの運動系部活で全国大会も地方大会も中止が決定されています。それらは、小さな活字で数行報じられただけです。また、文科系の部活においても、発表会や展示会の中止が決定されています。それらの中には全国紙で報じられることもなく、ネット等で検索して初めてしることができるケースもあります。どうして高校野球だけ、と思わざるを得ません。
 そして忘れてはならないのが、学校の教育活動の中核をなすのは教科の学習、授業であり、それについては学習指導要領で内容や時間数が決められているのに対し、部活は、別にやってもやらなくてもよい「付け足し」のようなものだということです。野球部など置かなくてもよいのですし、週に1回か2回しか活動しなくても、1時間でやめても、30分しかやらなくても構わないという軽い扱いです。もちろん、対外試合など一切しなくても構いません。それなのに、甲子園大会中止は、まるで天下の一大事にような報道ぶりです。
 そして記事の内容を見てみると、地域面では、都内の球児という見出しにも関わらず、取り上げられているのは、国士館、小山台、国学院久我山という、強豪校だけです。社会面でも、13年連続出場記録更新中の聖光学園、10年連続出場を果たした作新学園、春の選抜に選ばれていた県岐阜商といった強豪校が取り上げられ、「球児代表」的に取り上げられているのはプロ野球投手を父にもつ強豪校エースのY君です。
 記者の視野には、地方大会出ると負けの高校で、もとより甲子園出場など考えてもいない、野球が好きだから体を動かすのなら野球部で、部員が足りなくて知り合いに誘われた入部したけど仲間と一緒に練習するのが楽しくて、といった高校野球部員の大多数を占める生徒たちは見えていないのでしょうか。ここ1.2か月の状況から見て、甲子園は無理だよな、部活なんかできるわけないよ、と冷静に考えていたであろう、多くの生徒たちは、球児ではないのでしょうか。
 部活動は、そして野球という特定の種目の部活動が、こんなにも注目を集めるということは、その注目も甲子園という全国大会に出場する一部のエリート校やエリート選手に集まっているということは、とても歪なことです。学校教育を論じる際に軽重をつけるのであれば、その教育的な位置付けや効果に応じたものになるべきです高校野球だけに、特別な教育的効果があるというデータはありません。高校野球に対する関心の高さは、プロ野球予備軍としての側面でしか説明が付きません。それが学校教育を歪めているということに気付くべきです。
 全ての地域で休校解除が済んでもいないのに、そして授業時間の確保も危ぶまれているときに、全国大会を開催するなどと考えること自体、本末転倒の発想です。

 

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監視強化

2020-05-25 07:36:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「監視強化」5月16日
 隅俊之記者が、『コロナと外交』という表題でコラムを書かれていました。隅氏はその冒頭で、『「画面の向こうで録音されているかもしれない。以前は対立していても立ち話で本音を探ることができたが、それもない」。国連安全保障理事会のメンバー国の外交官がこぼした。新型コロナウイルスの影響で、国連でも会合はテレビ会議だ。コロナ禍は外交のあり方も変えた』と書かれていたのです。
 はっとしました。今まで考えたこともなかったからです。今、コロナ禍を受け、オンライン授業の推進が叫ばれています。私もオンライン授業については、このブログでいくつかの問題点や克服すべき課題について指摘してきました。しかし、隅氏が書かれている「画面の向こうで録音~」ということについては、全く考えていませんでした。
 オンライン授業というのは、授業参観と同じなのです。保護者は画面に映らないところで、授業の一部始終を見ていることが出来るのです。そして、子供と教員のやりとり、あるいは子供と子供のやりとりを、録音したり、録画したりすることも可能なのです。悪意のある言い方だと思われるかもしれませんが、学校や教員に対する監視の目が強化されるということです。
 もちろん、公教育は国民の税金で営まれる公的な事業であり、主権者であり納税者である保護者に対して説明責任を負うものです。そうした意味で公開は拒めるものではなく、むしろ望ましいと考えるべきだということは理解しています。しかし、それは建前に過ぎません。実際には、子供を叱るとき、間違いを指摘するとき、保護者の前ではやりにくいと感じる教員は少なくないはずです。一般的には抵抗が少ないと思われる褒める行為でさえ、他の保護者の目を意識して「あの程度のことで褒めるなんて贔屓している」と思われるのではないか、と気になるケースもあり得ます。
 そもそも褒めるにしても叱るにしても、良い教員は、その子供の現状を把握した上で、Aさんがここまで出来たのは素晴らしいことだ、Bさんはこの程度では物足りないと判断して声かけ等をしているのです。分かりやすくいえば、いつも30点のAさんが50点をとればよく頑張ったと笑顔を向け、いつも90点のBさんが80点ならば、どうしたんだと声を掛けるものなのだということです。そんなときにも気を遣わなければなりません。教員も人間です。必要最低限のことしか話さず、揚げ足を取られないように、と考え出せば、授業は失敗です。
 授業の内容についても問題があります。学習指導要領や学校の指導計画からのちょっとした脱線や逸脱にも気を遣い、その結果つまらない授業が増えることも考えられます。さらに、保護者が連携し、全ての教員の授業を録音・録画し、他の教員の授業と比べて評価するようになれば、教員間の人間関係や教員と子供の信頼関係にも影響があるでしょう。
 こうしたことに関するマイナスの影響を、文科省は研究分析しているのでしょうか。絶対に必要だと思うのですが。

 

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究極のつじつま合わせ

2020-05-24 08:00:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「究極の辻褄合わせ」5月16日
 『文科省 学習遅れ対策例を通知』という見出しの記事が掲載されました。『新型コロナウイルスの感染拡大によって学校教育の遅れが深刻化していることを受け、文部科学省は15日(略)全国の教育委員会などに通知した』ことを報じる記事です。このことについては、14日付「格差がくっきり」でも触れました。今回は、さらに新しい内容が加えられていたので、そのことについて述べます。
 『小学校は45分、中学校・高校は50分とされている1コマの時間を5分間短縮して1日の授業のコマ数を増やすことも例示した』というのです。小学校高学年の場合、通常は1日6コマの授業があります。それを、40分×7=280分にするということだと考えられます。本来の45分のまま7コマに増やすと、45分×7=315分となり、あまりにも学校が拘束する時間が長くなってしまいます。かといって、40分と45分の2通りの時間が存在するというのでは、子供も慣れませんし、混乱が生じることになります。そこで40分で7コマという案が浮上したというわけなのでしょう。しかし、元々小学校の授業は45分という区切りで一まとまりということで計画されているものなのです。授業のなんたるかを知らない者は、たかが5分くらいと思うのかも知れませんが、5分削るということは、全ての授業についての学習指導案を作り変えることに等しい大変な作業なのです。
 このやり方にはもう一つ隠された「利点」があります。学習指導要領では、年間に行うべき授業数について、コマ数で示されています。例えば、年間210というのは210コマ(週6コマになる)ということです。本来、45分×210=9450分授業をするはずのところが、40分×210=8400分ですから、1050分少なくても、コマ数は足りていることになります。ちなみに1050分というのは、45分間授業で考えると約4週間分の授業に当たります。つまり、コロナウイルス感染による休校で失われた11週間のうち、1/3以上に当たる分を補うことができたことになるのです。
 ここまでくれば、残り7週間分を取り戻せば、年間授業のコマ数を補うことができる計算です。ところがここにもカラクリがあります。年間授業コマ数は、一年間に35週授業をするという計算に基づいています。ですから、先ほど例に挙げた週6コマは、6×35=210となるわけです。しかし、実際には、学校は年間42週程度教育活動を行っています。365日-(夏休み42日+冬休み13日+春休み11日)=299日、299日は約42週ということです。元々7週間の余裕があるのです。この分を充当すれば、きれいに35週分の授業コマ数を確保できることになるのです。さらに、長期休業日を短縮すれば、卒業式等の儀式や遠足や社会科見学等の行事を行っても、規定のコマ数を確保できることになるわけです。
 実際、今でも一部の学校では、大きな行事等があるとき、特別時間割という名称の下、40分で6時間授業とし、早く下校させてしまう、あるいは学校行事を行うというような手法を取っています。それを恒常的に行うというわけです。しかし、コマ数は足りていても、実際の学習に費やせる時間は少ないのですから、サギのようなものです。
 我が国の学校は、習得主義ではなく履修主義を取っています。分かりやすく言えば、どれだけの知識や能力を身に着けたかではなく、何時間授業を受けたかを基準に進級・卒業を認めるというシステムです。以前、高等学校で世界史の授業が規定通りに行われていないということが発覚し、大問題となったことがありました。このブログでも取り上げました。そのとき取られた対応策は、卒業式後に生徒を集め、世界史以外の教員、倫理社会や政治経済、歴史や地理の教員も総動員して、補習授業を行うというものでした。進路も決まり、成績に影響するわけでもない中、だらけた気分の生徒を相手に、専門外の教員が授業をする、そんなことで本来期待する知識や能力が身につくはずがないことは、誰にでも分かります。しかし、教委はそれでよしとしたのです。形式的な履修主義の典型事例です。
 でも今回の1コマ当たりの時間短縮は、時間という形式さえも守れず、コマ数という学びの時間とは直接関係もないものを基準にする、まさに究極の履修主義、形式主義です。もちろん、非常事態ですから、それでもよいと国民が判断するのであれば構いませんが、こうしたカラクリは知っておく必要があります。
 

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永遠に右肩上がり?

2020-05-23 08:21:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教育にこそあてはまる」5月17日
 総合研究大学院大学長長谷川眞理子氏が、『ポストコロナの価値観 「競争信仰」転換に期待』という表題でコラムを書かれていました。その中で長谷川氏は、『私たちは、近代の数世紀にわたって、他人に打ち勝つ、他社に打ち勝つ、他国に打ち勝つ、という目標のもと、より多くの富を生み出そうとしてきた』と競争原理が社会を支配してきたことを指摘し、『競争社会に住む人々の多くに、精神的ストレスと不幸と矛盾をもたらしてきた』という問題点をあげ、コロナ後の社会は変わらなければならないと主張なさっています。
 最近、よく耳にする主張です。それだけならば、特に注目することもなかったでしょう。しかし、長谷川氏は、続けて『こうして永遠に右肩上がりを実行することは不可能なのだ。一つしかない地球の上で、永遠に富の増加を求めることは不可能である』述べていらっしゃるのです。たしかに、限りある地球という思想から、現に地球を酷使し続けた結果の環境破壊、地球温暖化などを考えると、「永遠に増加、右肩上がり」の経済を追い求めるのは難しいことは私のような素人でも分かります。
 しかし、学校教育はどうなのでしょうか。私は、このブログで、競争原理によって学校教育を活性化させるという方向性に対して反対の立場から、数多くの意見を述べてきました。学校選択制も、教員の業績評価も、住民による学校評価も、全国学力テストの結果の扱い方も、その根底にある「競争信仰」への懐疑に基づいて述べてきたのです。
 今回、長谷川氏は、脱競争信仰を掲げていますが、その理由は「永遠に増加、右肩上がり」の否定です。でも、学校教育という分野に限って言えば、この「永遠に増加」は可能ですし、必要なのではないか、という考え方が成り立つように思うのです。
 私たちの子供が学ばなければならないこと、考えなければならないことは日々増加しています。ITのこと、AIのこと、遺伝子操作のこと、そうした新しい技術の開発によって生じる課題についての人文科学的な様々な考察、生命倫理や新しい権利のことなど、学ぶべき事柄と分野は今後も急速に拡大していくのです。それは少なくとも、今後数十年という単位で考えれば、ほぼ無制限に、永遠に、拡大し続けると考えて間違いありません。
 長谷川氏の「永遠に増加」否定に基づく論からすると、学校教育だけは例外となり、引き続き競争信仰が有効に働くのかというのが、私が引っかかった点なのです。もちろん私は、学校教育という器は有限であり、何かを盛り込むならば何かを削るべきであるという立場であり、それは今も変わりません。ですから、今の幼・6・3・3・4・院を変えないのならば、何を削っていくかの検討を早急に始めるべきだと思います。削れないのであれば、学校に通う年限を拡大し、少なくとも義務教育を12年、15年と延長していくべきだと考えます。
 しかしそうした制度の手直し的なことではなく、根本的な事柄として、競争信仰と学校教育の関係について、多くの意見を聞きたいと思うのです。

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「伝聞」活用の難しさ

2020-05-22 07:56:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校では難しい」5月16日
 川柳欄に、高槻市ぎくう氏の『伝言の方がうれしい褒め言葉』という句が掲載されました。説明するまでもなく、意味が分かる秀句です。私自身、教員として、あるいは教委に勤務するようになってからも、人づてに聞かされる「良い評価」は、とても嬉しいものでした。直接聞かされると、お世辞や社交辞令ではないか、その場の雰囲気や人間関係に配慮した発言ではないかなどと勘ぐってしまいがちですし、そもそもどう反応してよいのかも難しいものです。そのまま肯定するのも気恥ずかしいですし、嬉しそうな顔をしながら否定するのも謙遜が過ぎ嫌味な感じを与えてしまいがちだからです。
 こうした状況は子供の場合も同じです。私はこのブログで、教員の指導力の大部分は評価力が占めるという趣旨の主張をしてきました。そして評価力とは、多くの人がその字面から連想するような、良い悪い、出来ている出来ていないという判断だけを指すものではなく、そのことをどのように相手に伝えるかという伝達力も含むということも指摘してきました。
 そうした考え方に立つと、教員はこの「人づてに褒め言葉を伝える」という手法をうまく活用すべきだということになります。しかし学校の場合、これが難しいのです。例えば、他の子供の前で「Aさんは遠足のとき、ベビーカーを使っていた女の人の荷物をもって階段を上がり、ホームまで運んであげていた。困っている人に優しくとは言ってあったけど、具体的なことは何も言っていなかったのに、自分で考えて行動できた。勇気もあるし、言われていないことでも自分で判断できると言うのは素晴らしいことだね」と言ったとします。そのとき、その話を聞いていた子供たちがどう思うか、感じるかについて配慮が必要になります。
 そういう行動が大切なんだ、と考え自分もそうしようと思う子供もいるでしょう。しかし一方で、何で今いないAさんのことなんか話して、私のことについては言ってくれないのだろうと考え、贔屓だと思い、自分はAさんのように先生に好かれてはいない、と考えてしまう子供もいるからです。そしてそのことがニュアンスを変えて保護者に伝わると、「先生は贔屓する」「うちの子は無視されている」などという風説につながっていきかねないのです。
 また、Aさん自身も戸惑ってしまうことがあります。友人から「先生が褒めてたよ」と聞かされても、自分は聞かされていないのですから、「どうして直接、そのときに褒めてくれなかったんだろう」という疑問が生じて、何かモヤモヤした感じが残ってしまうのです。こうしたことは、大人と子供の発達段階の違いに起因します。子供が小さいときほど、タイミングをずらした「他人からの伝聞」による評価を耳にする機会が少なく、その意味を解することが難しくなってしまうからです。ですから、特に小学校の低学年では、この手法は難しいのです。
 その子供の、そして周囲の子供たちの発達段階や人間関係、教員である自分との関係などを勘案し、慎重に使わないと、逆効果になることがあるのです。普段から贔屓していると思われているような教員には使えないことを忘れてはなりません。

 

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