ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

カネだけの問題ではない

2016-08-31 07:15:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「カネだけではない」8月24日
 『ゆとりない家庭 魚や野菜少なめ』という見出しの記事が掲載されました。厚生労働省が行った家庭の経済状況と子どもの食事内容の関連を調べた調査結果を報じる記事です。結果自体は、事前に予想されたものです。ただ、私が注目したのは、新潟県立大教授村山伸子氏のコメントでした。
 『ゆとりのない層では大豆製品など安いものも摂取が少なく、お金がなくて買えないだけでなく、健康的な食生活のための知識や意欲、調理技術がないことが影響している』というものです。同感ですそしてこの「知識、意欲、技術」の欠如ということは、子育てにも共通に言えることではないかと感じています。
 私はこのブログで、学力テストの結果を公表し、その責任を学校や教員の努力不足に直結させて非難するという姿勢に疑問を呈してきました。私が教委の指導室長をしていたとき、当該市の中学校が主要4教科すべてで全都1位という結果を挙げたことがありました。多くのメディアが取材に訪れましたが、私の回答は「家庭に知的な雰囲気、好学の気風があること」というもので、あっと驚くような特別な施策を期待していた彼らを失望させたものでした。しかし、学力に及ぼす家庭の影響が無視できないほどに大きいというのは当時から変わらぬ考えでした。
 漸く最近になって、家庭や地域の影響という視点から学力問題を考える傾向が見られるようになってきましたが、その多くが、貧困=低学力という図式に留まっているのです。しかし、当時私が指摘したように、雰囲気とか気風というような数値化しにくいもの、目に見えにくいもの、口に出して論じることが憚られるようなものの影響も無視すべきではないのです。
 保護者の年収や資産だけでなく、保護者がどのような番組を見ているか、ニュースかバラエティーか、新聞を購読しているか、購読しているのはスポーツ新聞か一般紙か、実用書や漫画以外の書籍の数は購入数は、読書に費やす時間は、保護者間で話題になるのは、子育てへの関心は、家庭内にルールがあるか、等々、子供が知的好奇心をもち努力に対する価値を認め学習に正対できる素地を作るのが家庭なのです。
 つまり子供の学力問題として家庭に着目するのであれば、経済力だけでなく、家庭が育む空気のようなものを、指標化し、保護者に自覚を促すと同時に支援する仕組みが必要なのです。広義の教育施策といってもよいでしょう。それこそ政治の役割と責任であり、単純な教員批判に費やす時間とエネルギーを、この点に注ぎ込んでほしいものです。
 もちろん、学校も教員も、学力問題から責任逃れすることは許されません。家庭の学力育成力は同じレベルなのにどうしてA校の子供の学力は低いのか、と問われれば釈明の余地はなくなるのですから。

 

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作用反作用

2016-08-30 06:35:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「作用反作用」8月24日
 法政大総長田中慶子氏が、『省庁の主体的創造』という表題でコラムを書かれていました。その中で田中氏は、『政治に介入しないことは、政治に介入されないことでもある』と述べていらっしゃいます。あくまでも、今上陛下の生前退位に関するお言葉について語る文脈の中での表現ですが、私は学校教育についても噛みしめるべき言葉だと思いました。
 私はこのブログで教委改革について触れ、政治家の学校教育への介入を招くという視点から反対してきました。そもそもどうしてこのような「改革」が進められてきたかと言えば、その要因の一つに日教組に代表される職員団体の政治団体化があるように思うのです。
 昭和40年代から50年代、教職員団体は、当時の社会党を強力に支援していました。東京多摩地区に住む私の叔母が、「担任の先生は家庭訪問に来て選挙の応援依頼をしていく」とこぼしていたのもこのころです。政党支援のビラ、当時の政権与党である自民党批判のビラを配るという活動も一般的でした。校内でも、分会の役員たちが、廊下や階段で立ち話をしていて、通りすがりに聞き耳を立てると、区議会議員の名前を挙げ、情報提供の内容についての打ち合わせだったりしたものです。
 今、地域差はありますが、多くの教職員団体は、かつてほどの力を失っています。政治に介入するほどのエネルギーはないといってもよいでしょう。しかし、かつて教職員団体の政治介入に苦労させられた側、即ち自民党に代表される保守派は、当時のことを忘れてはいません。そして、政治介入には政治介入で、という論理で与党側、首長側の立場から政治介入する機会をうかがっていたのが、今回の教委改革という形で結実し、政治介入を制度化し正当化することに成功したという図式が成り立ちます。
 もちろん、実際には、保守側からの政治介入も激しく、教職員団体側だけを責めるのはバランスを欠くという批判はあって当然ですが、現在の教委改革は、昔の教職員団体の政治介入に遠因があるという教訓は忘れてはならないと思います。
 その教訓を生かすためには、政治介入には政治介入でという闘争ではなく、教育の論理で、教育の専門家集団として、地道な教育実践とその結果の広報を手段として、あるべき学校教育の姿について社会に問題提起していくという非政治的手法に磨きをかけることが求められるはずです。
 学校教育が担うべきなのは、自らの人生や社会の在り方について主体的に考え行動することができる能力資質の育成なのか、企業が求める即戦力養成なのか、例えばこんな問いを立て、学校教育の現状をや教員の努力や工夫を広く伝えていく、そうした発想が、学校関係者の使命だと思うのですが。

 

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3人同じで皆違う

2016-08-29 06:44:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「共通なのに違う」8月24日 
 『論点 「脱ゆとり教育」行方は』というテーマで特集記事が掲載されました。東京大学大学院教授市川伸一氏、女性初の民間出身公立中学校長平川理恵氏、元文部科学省官房審議官寺脇研氏という3氏による寄稿です。
 3氏が共通して語っていることがあります。市川氏は『ゆとりか詰め込みかといった議論から決別』と述べ、平川氏は『「ゆとり」か「詰め込み」かといった二元論的な議論にはあまり意義を見いだせない』と語り、寺脇氏は『「ゆとり」か「脱ゆとりかという論争は不毛だ』と話しているのです。全くその通りです。教育に関する「有識者」の中でも、優れた論客である3氏がそろっておっしゃているのですから、もうゆとりか詰め込みかという二者択一的な議論は止めるべきだと思います。
 一方で、上記のような共通理解に立ちながらも、今後の方向性については微妙に異なっているのです。市川氏は、『知識と思考力の両方を大切にしながら習得と活用、探求のバランスを取る』ことを主張なさっています。平川氏は、『ソーシャルスキルを高める』事を重視し、『教育と世の中をどうつなげていくかが重要』とおっしゃっています。そして寺脇氏は、『「量」ではなく「質」議論したい』という立場を示していらっしゃいます。
 私は市川氏の意見に親近感を覚えます。ただ、寺脇氏の見解も使われている用語が違うだけで、本質的には同じ事を言っているのではないかとも感じています。寺脇氏は量と質という言い方をなさっています。これには、何の量であり質なのかという部分が抜け落ちていますが、「何」にあたるのは知識であろうと思います。私は寺脇氏とは、テレビの討論番組でご一緒したことがあり、寺脇氏の日頃のご主張からそのように推察します。
 そして寺脇氏は、知識の中に、いわゆる純粋な知識、例えば「源頼朝は鎌倉に幕府を開いて武家政治を始めた」というようなものと、方法的な知識、一例を挙げれば、「この人物が活躍できた背景を知るにはこの人物を中心にした系図を調べてみればよい」というようなものの双方をイメージしていると思われるのです。そう考えれば、市川氏と寺脇氏の間に違いはほとんどないことになります。
 一方で、平川氏の提言は少し色合いが異なります。市川、寺脇両氏が、学校教育という枠の中で思考力や問題解決能力の育成を考え、そうした能力が将来良き社会人として生かされていくという発想であるのに対し、平川氏は、まず社会人、職業人として求められるであろう能力資質を想定し、そこから逆算して学校教育で培っていくべき能力を構想するという発想であるように思えます。
 こうした違いは、市川、寺脇両氏が、行政マンと研究家という違いはありながらも学校教育という領域を専門となさってきたのに対し、平川氏は起業家として民間で活動してきたという経歴によると考えるのが妥当です。
 私は、教員、教委勤務と学校教育だけで生きてきたこともあり、市川、寺脇両氏の発想に共感を覚えますが、人工知能やITの発達が社会を変え、職業人としての在り方さえも変える将来に生きる子供たちのことを考えれば、平川氏流の考え方にも十分な考慮をする必要があると思います。
 いずれにしても、ゆとりか詰め込みかという意味のない議論に注ぐエネルギーと時間を3氏のような建設的な議論に方向転換してほしいものです。

 

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テングの鼻

2016-08-28 08:06:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「天狗の鼻」8月24日
 読者投稿欄に名古屋市のK氏による『53歳の転職』という投稿が掲載されました。『15年間勤めた会社を思い切って辞め、今の会社に転職して3カ月目になる』というK氏は、『15年も同じ職場にいると、勝手はわかるし要領はよくなるしで、知らず知らずのうちにテングになってしまう。わかっていたはずなのに、「自分はちょっと仕事ができる」くらいに思い込んでしまっていた』と、転職前のご自分をふり返っていらっしゃいました。
 K氏は、謙虚な人柄なのでしょう。私などは、同じ小学校に9年間勤務していたとき、同じ教育委員会に6年間勤務していたとき、「自分はちょっと~」ではなく、とてつもなく優秀な仕事人であるかのように自己評価していました。これ以上ないくらい、天狗の鼻を伸ばしていたのです。
 しかし、小学校の学級担任から指導主事になったとき、何一つ分からず、指示されてやっと動くも、指示された以外のことに直面するとただ立ちつくす、という日々の連続で、1週間経っても、2週間経っても、指導室内の誰からもあてにされず、期待もされないという状況でした。さすがに自意識過剰な私も、天狗の鼻を折るしかありませんでした。
 次の年、私の後輩としてNさんが指導室に配属されてきました。大変優秀な人でしたが、やはり最初の半月は、意欲だけが空回りし、事務職の係長から、「周りが困りますから、先生がN先生をちゃんと指導してくださいよ」と言われました。そのとき私は、「去年の今頃、私の先輩のUさんも同じ事を言われていたんだな」ということに気がつきました。そして、Uさんは周りの苦情を自分の胸の中にたたみ込み、誰しもが通る道だからと、辛抱強く待っていてくれたのだということを。
 数年後にNさんと雑談していると、Nさんも指導主事になった当初は、かなりの自信をもっていて、それが一旦打ち砕かれ、それからもう一度自分を見つめ直したということを話してくれました。みんな同じだったのです。
 私たちは教員から指導主事になるとき、全く違う仕事に再就職するつもりになれ、と言われました。事実そうでした。そして、この「再就職」という体験が、教員として優秀だったという思い上がりの天狗の鼻を折り、謙虚な姿勢をもたせる上で絶大な効果があったのです。
 教員について、世間知らずとか、教員の常識は世間の非常識などと批判されることがあります。私は必ずしもそうは思いませんが、教員にとっても、中堅にいたり自信過剰気味になったときにもう一度足下を見つめ直すために何らかの「転職」体験が必要であるように思います。主幹や主任任用が、教員の延長上にあるのではなく、そうした面から見直される必要があると思います。

 

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引き延ばすという知恵

2016-08-27 07:28:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「引き延ばす知恵」8月23日
 時論フォーラム欄で、法政大学教授水野和夫氏が、『空洞化する民主主義』という表題で寄稿なさっていました。その中で水野氏は、ドイツの社会学者シュトレークの言葉を紹介しています。『問題を問題として記述している人に対して、分析するなら同時に解決策も示せと迫るのは間違いだ』というもので、『「問題は存在しているが、その解決策は見つからない」ことはありうる』とも述べています。
 また、『勇気をもって事実を指摘しただけ』という、問題点の指摘だけでも価値があるという立場を示唆してもいらっしゃいます。ではどうするのかということが問題になりますが、水野氏は、問題があることを意識し続けながら、時に委ねるという対処法にも目を向けるべきであるという立場のようです。
 私はこうした姿勢に共感を覚えます。この対極にあるのが、問題があるならば事の正否はともかく、まず変えてみようという発想です。変えてみることによってかえって状況が悪化するということに対する考慮を欠いた乱暴きわまりない発想だと考えるのですが、世間にはむしろこちらの考え方を支持する人が多いように感じます。
 私は、学校教育を巡る諸問題については、特に「時に委ねる」姿勢が重要だと考えています。子供はモルモットではありません。大胆な改革を実行してみたが失敗だった、この教訓を生かして次は成功させようというやり方は、失敗の時代に学校生活を送った子供たちを実験動物扱いするものです。
 問題があるということ自体は胸に深く刻み込みながら、実際の対処法としては、微調整、微修正を重ねつつ、人々の意識、社会の仕組み、関係する諸条件、思想の深化などにより、大規模な変革が可能となるときまでなんとか現行のシステムを引き延ばして使いこなしていく、という姿勢こそが本当の意味での保守主義であり、今必要とされているのではないかと思うのです。
 「断固として」とか「必ずやり抜く」といった見せかけの力強さがもてはやされる時代だけに、余計にそう思います。我が国の学校は、満点ではありませんがそこそこうまくいってるのですし。

 

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なぜ無視され続けるのか

2016-08-26 07:26:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自画自賛になるが」8月23日
 記者の目欄に東京社会部記者佐々木洋氏による『学習指導要領改定に向けて 教室の現実踏まえよ』という表題の意見記事が掲載されました。私が以前からこのブログで主張してきたことと重なる指摘が目についたので紹介したいと思います。私自身の見解の正しさを証明する意図ではありませんが、少なくとも私の独りよがりな主張ではないということをご理解いただければ幸いです。
 まず、『学習指導要領は、全国どの学校に通っても一定水準の教育を受けられるように~』という指摘です。あまりにも当たり前のことなのですが、近年、特色ある学校作りが標榜され、同じであることよりも他校と異なることがもてはやされる風潮に対し、私は異を唱えてきたのと同じ立場に立つ発言です。学校の「個性」は、国民との約束である基礎的基本的事項の完全習得の後に目指されるべきなのです。
 次に、『文科省は始業前の15分程度の分割授業~(中略)~細切れの授業で英語の学習効果があるか検証も必要だ』という指摘です。これもモジュール学習のもつ性格と欠点について、以前、問題提起したことと重なります。繰り返しによる習得が中心となったとき、本当に英語が好きになり、中学校以降の本格的な英語学習にプラスとなるのか、疑問です。
 そして、『限られた時間で新しい内容を教えようとするなら、何かを削ることも必要ではないか』という指摘です。これも私が再三、足し算ではなく引き算の発想で、と主張してきたことと同じです。詰め込む一方の学校改革は、教員を疲弊させ、学校教育を崩壊させる地獄への道なのです。
 同じことですが、佐々木氏は、『例えば環境教育など「何々教育」というものが次から次に入ってくる。先生の疲労感は強くなるばかりで、実現可能性を考えてほしい』という有識者会議での発言を紹介してもいます。私が、「○○教育」というのは、10年前の時点でも、80程になると指摘したことが、有識者の間でも危機感を持って認識されているのです。
 このように列挙してくると、冒頭で「私の主張の正しさ云々」と書いたことが恥ずかしくなってきました。私の~と言うまでもなく、普通の人が常識に基づいて少し考えれば気付くことばかりだからです。それなのにどうして、佐々木氏のような真っ当な指摘が無視され続けているのでしょうか。夏の怪談話というオチでは済みません。

 

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プラットフォーム

2016-08-25 06:10:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「楽しさや創造性」8月21日
 書評欄に、斎藤環氏による『仙人と妄想デートするー看護の現象学と自由の哲学』(村上靖彦著)の書評が掲載されていました。その中に、『現場の看護師は規則や人間関係といった無数の制約のもとにあって、対人関係の持ち方や実践のスタイルといった、「自由な実践の土台」を個別に作り出している。良質のプラットフォームは規範の下で看護師が楽しさや創造性を実現するうえでもきわめて重要なものである。これは何も、看護師に限った話ではない。臨床家は多かれ少なかれ、自分自身のささやかなプラットフォームの上で、治療する自由を創造するのだ』という記述がありました。
 斎藤氏の書評は、医学的な知識や経験のない私のようなものには難しく、全体がすんなり理解できたわけではありません。ただ、『「自由な実践の土台」を個別に作り出している』、という記述と、それが、『楽しさや創造性を実現するうえでもきわめて重要』という記述が強く印象に残りました。
 看護師は看護の専門家であり、個々の看護師は共通の土台として看護学を学び、看護実習を経験しているわけです。しかし、実際に看護師として経験を重ねる中で、自分なりのスタイルのようなものを作り出していくというのです。それは、教員も同じだと感じたわけです。同じ大学で同じ教授の「○○教科教育法」を学んでも、教職について5年もすれば、一人一人が異なるスタイルに基づいて授業をし、学級経営をするようになっているものです。
 そしてそのスタイルが「良質」である者は、教員として授業や生活指導、学級経営といった職務において、自分なりの独創的なやり方=創造性を発揮するようになり、そのことゆえに、やらされてしかたなくやるという受け身の姿勢ではなく、学習指導要領や上司の命令、学校の方針といった規制の下にありながらも自由な実践家としての充実感や楽しさを感じることができる、ということです。これは私自身の実感とぴったりと適合します。
 学習指導要領や校長の経営方針といった規制を、教育に対する介入だと反発する教員がいます。教員時代には同僚として、教委に勤務するようになってからは偏向教育の確信犯として、そうした教員に接してきました。その時感じたのは、ここでいうところの「良質のプラットフォーム」をもつことができなかった人たちなんだな、ということでした。良い意味での教員としての自分のスタイルを作り損なった者が、当然な規制をも敵視し、敵視攻撃することによってしか自分らしさを発揮することができているという実感をもつことができないということです。
 人は生活やカネのためだけに仕事を続けることはできません。必ず、仕事に楽しさを感じることが必要です。楽しさは一時的なものはともかく、自分が創造的に取り組んでいるという感覚をもつことが不可欠です。その創造性を規制に逆らうという形でしか実感できないのが、彼らだったのです。
 教科書通りの授業でも、学校の年間計画に沿った授業でも、そこに授業の専門家として独創的な試みを織り込むことができる教員は、毎日が楽しいはずです。

 

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小学校でも

2016-08-24 07:22:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知っていますか」8月21日
 『玉川上水「世界遺産に」』という見出しの記事が掲載されました。多摩美大の渡部一二名誉教授の講演についての記事です。記事によると、渡部氏が『玉川上水の歴史を解説しながら「世界遺産として登録されるべきだ」とその歴史的価値を強調した』そうです。渡部氏はその理由として、『標高の高い分水嶺に沿って精密に切開された点を評価した。江戸の人口100万人を養った水路網が、現在も活躍している素晴らしさをたたえた』そうです。
 玉川上水に関するこの事実を知っている方はどれくらいいるでしょうか。都民版の記事ですから、都民だけに限定しても、1300万人の中で何人の方がご存じだったでしょうか。おそらく、1/3以下の方しか知らないのではないかと思います。しかし、現時点で、都内の公立小学校の5年生の子供に限ってみれば90%以上がこの事実を知っているはずです。
 ほとんどの小学校で、4年生の2学期に「玉川上水」について学ぶからです。そこでは、江戸初期の人口急増による水不足、私財をなげうって上水開削を願い出た兄弟の物語、開削の苦労、少ない高低差にもかかわらず水が流れるようにする工夫、上水が通じたときの江戸庶民の喜びなどを調べていきます。特に提灯を並べ高低差を看るシーンは印象深いはずです。
 私も授業で取り上げましたし、35年近く昔のその時点で、多くの先輩たちの実践記録が蓄積されていました。私の社会科研究仲間も、国会図書館まで出向き、何冊もの資料を読み込んでいました。私も休日に現地に出かけ、写真を撮り授業で使いました。
 小学校の授業というと、大人なら誰でも知っていること簡略化し教えているだけという印象をもっている人も少なくないと思います。そうではないのです。私も教員になり、4年生を担任するようになり、教材研究を重ねる中で上記のような事実を知りました。教える側も、教わる側も、普通の大人が知らないような深い内容に触れているのです。
 実は私自身、教育学部で学んでいる大学生時代には、子供を管理・統制することに不安は感じていても、小学校で教える内容自体は何も難しいことはないと考えていたものですが、小学校の教員、少なくともあるレベル以上の教員は、身近な地域のことについては、かなり深く掘り下げているものなのです。

 

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これだけはできなかった

2016-08-23 07:22:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「できなかった」8月20日
 『氏の悲しみと向き合う』という見出しの特集記事が掲載されました。グリーフサポートについて現状と課題を紹介する記事です。記事によると、『サポートで重要なのは、ピア、シェア、モデル、エンパワーの4要素』だそうです。詳細はここでは述べませんが、30年以上前のことが鮮烈に思い出されました。
 私は、当時、5年生を担任していました。教え子のMさんの父親が亡くなりました。なくなった際の詳しい状況は伝えられませんでしたが、どうやら自殺だったようでした。私は、通夜と葬儀に参加し、Mさんは2日ほど休んだだけで、登校してきました。
 教員になって8年目、教え子の保護者が自殺という形で亡くなるというのは、私にとって初めての経験でした。Mさんとどのように接したらよいのだろう、と私は悩んでいました。「元気を出して」と言うのはMさんに無理をさせることになってしまうのではないか、「大変だったね」では他人事過ぎるのでは、「何かあったらいつでも言ってきて」いうのは突き放しすぎている感じだし、とMさんの顔を見るまで、悩み迷い続けていました。
 Mさんは私の顔を見た途端、「先生、大変だったねなんて言わないでよ」と言い、笑顔を見せて、友達との会話に入っていきました。結局、私は何も言えませんでした。今でも、あのときの自分の対応はどうあるべきだったか、分かりません。ただ、30年経って冷静に分析すると、当時の私は、「どのように対応すれば、教員として正しいのか」というように、校長や同僚、保護者や子供たちから自分がどのように評価されるかということを気にしていたことを認めざるを得ません。Mさんの視点で、というよりも自己保身的な視点で考えていたのです。嫌らしい奴です。
 教員として、指導主事として、指導室長として様々な出来事に対処してきた今の自分は、体罰でもいじめでも、自分なりのハウツーを確立しているつもりです。しかし、保護者や兄弟など親しい人を亡くした子供への対応については、通り一遍の表面的な対応しか思いつかないのが実情です。
 教員が行うべきグリーフサポートについて、教員研修で取り上げたこともありませんし、自信が学んだこともありません。私は子供の心のケアをSC任せにする今の風潮に疑問を呈してきました。そうであればなおさら、教員のグリーフサポートについて、教委は具体的な研修の場を準備すべきだと考えます。

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神にあらず

2016-08-22 07:03:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教育の役割」8月17日
 『相模原殺傷事件 長男が障害を持つ野田聖子衆院議員』という見出しのインタビュー記事が掲載されました。その中で野田氏は、『セクハラは昔は当たり前のように横行していた。そして女性は泣き寝入り。それが今は「それセクハラ!」って言えるでしょう。男の本音は昔と同じかもしれないけど、建前は変わりました。そこに意味がある』と語り、『誰しも心に毒はある。でも大人になるというのは、心の毒を見せないことだと思う。毒を隠し、建前を大切にできる。それが成熟した大人、国家です』と続けていらっしゃいました。
 この野田氏の発言をどのように考えるでしょうか。心に毒を隠した人なんて信用できない、偽善者の勧めだと反発を覚える人もいるかもしれませんが、私は、野田氏の発言に全面的に賛成です。
 私は、野田氏の発言をどのように評価するかというのは、教育とは何かという問題と深く結ついているように思います。相手の心の中まで影響を及ぼし、心の在り方まで変えていくことが教育の役割であると考える人は、野田氏の発言を批判するでしょう。一方で、人の心なんか変えることはできない、ただ社会の中で第三者に迷惑を及ぼさず、社会生活を行えるように訓練していくことが教育の本質である、と考える人は、野田氏に共感するという図式が成り立つのです。私は、後者です。
 私は宗教的な感性に乏しい人間ですが、人の心を変えるということは神の領域であり、人間がそんなことを試みるのは不遜であるという感覚をもっています。心を変えるのは、悪いイメージでいえば「洗脳」であり、百歩譲って肯定的に見るとしても、それは教育の役割ではなく宗教家の仕事であるとしか思えないのです。
 野田氏は、『私も嫌いな人はいます』と語っていらっしゃいますが、もちろん私にも嫌いな人、嫌な奴はいます。たくさんいると言った方がいいかもしれません。非難を受けそうですが、教員時代には、担任している子供の中にも、生意気で虫の好かない奴だ、と感じていた子供がいたものです。でも、それが人間というものではないでしょうか。
 私は虫の好かない子供に対して差別をしたことがあったと思います。お気に入りの子供を贔屓したこともあったでしょう。しかし、それは未熟な私が無意識に行ったことであり、意図的に行ったことはありません。私には、「教員は教え子を差別してはいけない」という建前が染みこんでいましたから。その建前が建前でなくなるくらい自分を戒め続けた結果、教員経験を重ねるに従って、「差別をしない先生」と言われるようになりました。心の中は全く変わっていないのに、です。それでよいのではないでしょうか。
 私は子供に対し、「みんな仲良く」的なことは言ったことがありません。たまたま同じクラスになっただけで、みんなと気が合うはずはない、でも学級という社会の中で共に過ごす者同士、相手を不快にさせないというルールは守ってほしい、という姿勢で臨みました。心は変えられなくても、表面に表れる言動を変えていくのが教員の務めだと思っていたからです。
 こんな考え方は教員失格でしょうか。

 

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