ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

高校生でも、中学生でも

2022-08-31 08:47:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「小中高でも」8月24日
 『就活イベント、サッカー練習… カルト学生勧誘巧妙』という見出しの記事が掲載されました。『世界平和統一家庭連合と政治の関りが問題になる中、カルト団体による勧誘の実態が注目されている。専門家によると相手の不安に漬け込むのが常とう手段(略)さまざまな誘い文句で忍び寄る。その手口とは』ということで、大学で横行しているカルト勧誘の実態を報じる記事です。
 ここでは詳細は触れません。記事では大学が取り上げられていましたが、これは小中高では関係ないと無視してよいことなのか、不安に感じました。いわゆる「宗教2世」は、小中高にも多数在籍しているはずだからです。彼らの中には、保護者の信仰に疑問をもち、悩み苦しんでいる人も多いでしょうが、まだ判断力が未熟なうちに、保護者から教義を刷り込まれ、熱心な信者になり、一人でも多くの信仰仲間を獲得することが使命だと「洗脳」されている者もいると考えるのが自然です。もちろん、保護者の信仰に疑問を感じながらも、逆らうことができず保護者の言いなりに勧誘行為を行う者も無視できません。
 もっとも初歩的な手口として、友達に対し、「うちに遊びにおいでよ」と誘い、訪ねていくと、お菓子を出してくれ、ゲーム機があり、楽しく遊ばせてくれる。そしてまた遊びに誘われ、訪問を繰り返すうちに、教義の話をされたり、教義を漫画風にまとめたものを読まされたり、あるいは教義に関わるアプリをダウンロードさせられたり、そして最終的には集会に一緒に行こうと言われ断れなくなってしまうというようなことは十分に考えられます。このような手口は、小学校の高学年から中高まで、どこで行われていても不思議はありません。
 しかし、こうした認識の下、危機感をもって対策を立てている教委や学校はほとんどないのが現実です。対応の仕方によっては、「宗教2世」の子供を攻撃し、排除することになりかねませんし、そうなれば人権侵害として責められることも考えられます。実際、勧誘を受けた子供の保護者からどうにかしてほしいと言われたとき、任せておいてくださいと言える教員は非常に少ないはずです。
 しかし、今まではともかく、今回旧統一教会の問題が注目を集め、カルト勧誘にも厳しい視線が集まっている以上、小中高の学校や教員が「私たちには関係のないことだと思っていました」と言い訳することは許されないでしょう。都道府県教委レベルで対策委員会を立ち上げ、早急に対応策をまとめるとともに、教員や管理職、区市町村教委幹部を対象に研修を行う必要があります。ことは急を要します。

 

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民主主義だから「民」が戦う?

2022-08-30 08:19:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「望ましいのは?」8月24日
 論点欄のテーマは、『戦争と平和 あなたは戦えますか』でした。『ロシア軍に「専守防衛」で抗するウクライナの状況は、思いもよらなかった問いを突き付けた。私たちは戦えるのか』という問題意識の下、3人の識者が自説を展開していました。
 偶然なのかもしれませんが、その中の2人が言及していたのが、『第7波世界価値観調査(17~20年)』でした。この調査によると、『「戦争になったら国のためにすすんで戦うか」という質問に対し、「戦う」と答えた日本人は13.2%で57ヵ国中、最低だった』ということです。さもありなんという数字です。
 この結果を基に、元陸将山下裕貴氏は、『日本が外国の軍に侵攻されたのは、第二次大戦の沖縄の例があるが、その後、日本を占領したのは民主的な米軍だった(略)何度も戦火に巻き込まれ侵略された経験のある欧州や、植民地化された中東やアジアとは歴史的背景が違う。また、戦後教育の中で、軍隊イコール悪だと教えられてきた』とその背景を説明し、『環境が変われば、国のために戦うという人が増える』と述べていらっしゃいます。
 その通りだろうとは思います。しかし、それでよいのかという思いもしてきます。山下氏の指摘は、日本人はその場の雰囲気に流され侵攻されれば戦うという世論が形成され、反対の人もその同調圧力に押されて、武器を取ると言い出すと言っているのですから。そこに主体的な判断はありません。天皇の臣民であった戦前ならばともかく、国の主権者である国民として、世論に流され、同調圧力に押されて、というのでは問題です。
 一方、早稲田大教授野上元氏は、徴兵制という切り口からこの問題に迫っています。『米国の独立戦争での民兵やフランス革命後の国民軍など、市民の戦争参加や徴兵制は民主主義の歴史と関係が深い。ところが日本の徴兵制は、明治維新で「上から」唐突に導入された(略)日本は「市民が戦う」ことについて民主的な議論の経験が乏しい』と問題点を指摘し、『民主主義と軍事の歴史的経緯を意識することは大切だ』としていらっしゃいます。
 私は、野上氏の指摘こそ、学校教育で生かすべきだと考えます。私はこのブログで、我が国の学校教育における平和教育が、悲惨、悲しいなどの感情に過剰に訴える情緒的平和教育だとして批判してきました。そして、過去の戦争、それは我が国だけでなく第一次、第二次世界大戦における欧州諸国の動向なども扱いながら、戦争への道を歩み始める兆候を知り、早期に戦争の芽を摘むための具体的行動について学ぶ「戦争阻止教育」へと転換すべきだと訴えてきました。
 しかし、そんな私も、国民の戦う意思という問題について、学校教育ではどのように対応すべきかということについて考えたことはありませんでした。今、改めて考えてみても、子供に、自分の家族や大切な人を守るために銃を取って戦うべきだ、と教えることにはどうしても抵抗があるのです。かといって、国が滅ぼされ、国民が外国軍に奴隷のように扱われても、決して銃を取って人を殺すことはするな、と言い切ることにも迷いがあります。
 もちろん、結論を押し付けるのではなく、基になる事実を提示し、子供に考えさせ各自の判断を尊重するということになるのですが、それでもどうしても教員の価値観が滲み出て、子供に影響を与えてしまうことは避けられません。
 そんな中で、野上氏の徴兵制という切り口は、子供に考えさせるためには「良い教材」だと思うのです。お隣り韓国のBTSを巡る問題などから導入し、子供たちが調べ話し合う、誰かそんな実践をし、議論のとっかかりをつくってくれないでしょうか。

 

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案の定

2022-08-29 07:29:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「案の定」8月23日
 『実行の決意「最近」 渋谷刺傷容疑の中3』という見出しの記事が掲載されました。『渋谷区円山町の路上で母と娘が刺された事件』についての続報です。私はこの事件の犯人が中3の少女だと知ったとき、「出るぞ」と思いました。
 案の定、記事の中に『少女の通う中学のある戸田市教育委員会は22日、会見を開いた』という記述が出てきました。教育長は、『事件を防ぐ手立てはなかったのか。原因究明と子どもたちの心のケアに務めていきたい』と話しています。この内容も「案の定」でした。
 何で、教委が会見を開く必要があったのでしょう。教委、即ち学校には関係のない事件である、というのが私の考えであり、会見は必要ないと思います。また、仮に会見を開くとしても、「事件を防ぐ手立てはなかったのか。原因究明~」は必要のない発言です。教育長の発言は、学校や教委に原因究明や事件防止の責任があると言っているのですが、私は、そんな責任はないと考えるのです。
 記事によれば、近所の人は、『家族3人で外食に出掛ける姿をよく見かけた。(少女は)会えば会釈をしてくれて、母親が仕事の時には代わりに洗濯を干したり、ゴミ出しをしたりしていた。トラブルは聞いたことがない』と話しているのです。
 仲が良い家族に見えたにもかかわらず、少女は事件の動機を『自分の母と弟を殺すつもりだったが、本当に人を殺せるか試したかった』と話しているのです。理解不能です。こんな事例にまで、学校や教員が子供の内面を知り、事件発生を防がなければならないとしたら、教員は超能力をもった預言者にでもなければ務まらないことになってしまいます。
 学校でのいじめや教員による不適切な指導が原因だとでもいうのであれば学校の責任が問われます。また、母親による児童虐待が疑われる状況であったのであれば、対応する必要があります。また、母親から事件を予感させる何らかの相談を受けていたのであれば、学校の対応が問われるべきでしょう。しかしそうではなかったのです。
 殺意の対象となっていた母親や弟でさえ気づかなかったものを、家庭の様子を24時間監視しているわけでもない教員が気付くことなど不可能です。我が国の学校や教委は、子供に関することは全て自分たちに責任があるとして背負い込む習性があります。それは多忙な学校と教員をさらに追い込む自殺行為です。
 学校内のことではなく、家庭における人間関係のトラブルであり、近隣住民も気づくことができなかった事例であり、学校としては対処するすべのないことであると考える。教育長はそう言い切るべきだったのです。もっとも、教委にいた人間としてそんなことをすればバッシングの嵐になってしまうことは痛いほど理解しています。本当にこう言える日が来ることを待ち望んでいます。
 

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総論で反対する人はいないだろうが

2022-08-28 09:11:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「同じ?」8月22日
 『外国籍教員 続く差別待遇』という見出しの記事が掲載されました。『公立の小中学校、高校では、外国籍の教員は管理職になれず、日本人と異なる待遇を強いられている』ことを、『「多文化共生」理念と逆行』しているという問題意識で報じる記事です。
 記事の中に、『外国人や障害者、性的少数者など多様な人で地域社会は成り立っています。公立学校はその縮図であり、いろいろな教員がいて当たり前』という記述がありました。私も、このブログで、教員の男女比の問題、特に女性管理職が少ないことなどについて取り上げ、社会と同じであるべきという主張をしてきました。ですから、「公立学校はその縮図」という考え方には基本的に賛成です。
 ただ一方で、社会の縮図というのであれば、誰でも教員として採用されるべきかというと、ちょっと待てよと思ってしまうのです。例えば、前科のある人です。前科があっても、その罪を悔い改め、定められた期間服役することで、罪を償った人は、社会の一員として差別を受けるべきではありません。
 では、前科のある人も教員として採用されるという制度を人々は支持するでしょうか。理屈はともかく、反対だという人は相当程度いるような気がします。前科のある人の人権保護は人権課題にも挙げられているのに。
 また、過失傷害や横領など犯罪の種類によっては認めてもよいという人も、小児に対する性犯罪で逮捕された者の採用には断固反対するでしょう。犯罪の種類で受け入れたり拒絶したりすることは、差別にはならないのでしょうか。
 話を変えます。障害のある方も少数ですが、教壇に立つようになっています。私は、このことについてもこのブログで取り上げ、視覚障害者が教員になった場合、周囲の教員の負担は増える、その分を補うためには、人員や施設設備などへの予算措置が必要になるが、そのことについて納税者の理解を求めることが必要であり、それは教委の責任だと述べてきました。
 教委が納税者への説明を怠ったまま、障害者を教員として採用し、そのことに要する予算計上額を知った納税者が反対するというような事態は避けなければならないからです。では、眼球以外ほとんど動かすことができない重度の障碍者を教委として採用することについてはどうでしょうか。国会議員として職責を果たされている人がいるのですから、何らかの補助手段を講じれば、教員の職を務めることはできると思われます。そうした方が教壇に立つことが子供の与えるメリットもあるはずです。しかし、予算措置はかなりの額が想定されます。人々の賛否はどうでしょうか。
 学校は社会の縮図という考え方には賛成でも、個々のケースでは、意見が分かれることもあるはずです。一度、徹底した議論が必要な気がします。

 

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似ているから、嫌ということも

2022-08-27 08:14:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「鏡を見るようで」8月21日
 心療内科医海原純子氏が、『真夏の世の夢』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、『趣味や考え方が全く異なるように見えても共通点を探そうとしていると何か見つかったりする。見つかるとちょっとした微笑みが生まれ相手との間に親密感が生まれる』と書かれています。
 また、『普段の生活の中では、相手との違いや相手の許せないことに注目しているものだから共通点など見つかるわけはなく~』とし、『「共通点がないか」ということを念頭に置いて会話していないと見つかることがない』と、常に共通点探しを意識して人と接することの人間関係構築における大切さを説いていらっしゃるのです。
 海原氏の指摘が正しいのであれば、共通点探しという手法は、教員が子供や保護者との信頼関係をつくる上でも有効だということになります。同じ趣味をもっている、同じことに関心をもっている、出身校や出身地などに共通点がある、ある事柄に対して同じ意見をもっている、同じような成功・失敗体験をもっている等々、意識して会話をしていけば、親密感が湧いてくる、そして親密感は信頼の土壌になる、ということです。
 一方で、少し違うのではないか、という気もするのです。例えば、「この子を見ていると、私の子供時代と同じで、ぐずぐずしているくせに頑固で自分を曲げない意固地なところがそっくりだと感じ、嫌なものを鏡で見せられているような気がして、憎たらしくなってしまうのです。母親失格でしょうか」というような愚痴というか悩みを打ち明けられることもありました。
 似ている、共通していることでかえって反発を感じてしまうという心理は、小説などでもよく目にするテーマです。私自身を振り返ると、目の前の相手と何か共通点を見出したことで親密感が増したという経験がほとんどないのです。とはいえ、私は自分と共通点がある人が嫌なわけではありません。正確に言うならば、自分と共通点が多い人の集団の中にいることは好きで心地よいのです。
 教委勤務時で言えば、スーツにネクタイという人の集団にいるのはリラックスできるのですが、ポロシャツにチノパン、ブレザーという人たちの中では緊張してしまうという感じでしょうか。○○ちゃんとか、下の名前で呼びかけてくるような人たちの中にいると居心地が悪く、△△さんときちんと姓で話しかけてくるような人の集団の方が安心感がありました。しかしあくまでも集団であって、個人ではありませんでした。
 話を個人対個人に戻しますと、教員と子供、特に小学生の場合、共通点探しは可能なのでしょうか。子供のころ野球が好きだったから今少年野球チームに入っている子供と親密感を深める、というような経験はありませんでした。勉強ができたから勉強ができる子供に、というのではかえって教員としてよくないように思いますし。チビで運動音痴だったからと言って同じ様な悩みを持つ子供と傷をなめ合うのも後ろ向きな気がしてしまいます。海原氏の言う共通点探しは大人と子供との間では通用しないのでしょうか。
 かといって、保護者とヤクルトファンということで盛り上がっても、その子供の指導にプラスになるとも思えませんし。まだまだ探求が必要そうです。

 

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最近の教員は熱意がない?

2022-08-26 08:20:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「元凶」8月21日
 『指導者の質確保が課題』という見出しの記事が掲載されました。教育専門家原田隆史氏に、『(部活が)地域移行されることによる課題などを聞いた』記事です。正直、がっかりするとともに、怒りが沸き上がってくる内容でした。
 特に問題だと感じたのは、原田氏の次の言葉でした。
 『部活を通じて、生徒指導で人間力を高めるためにやっている教師と、そこまでの熱意はない教師とにはっきり分かれてしまった。昔は部活で生徒指導を頑張ると教員の誇りや、やりがいといったところにつながっていたと思う』という言葉です。
 原田氏のような価値観が、部活問題を深刻化させ、教員の疲弊化を招く元凶だと言えます。原田氏の説に従えば、部活に消極的で、部活が教員の過重負担につながっているという主張をする教員は、熱意がなく、生徒指導に誇りもやりがいも感じないダメな教員だということになってしまいます。
 実際、地域住民や保護者の中には、原田氏と同じ価値観で教員を評価する者が少なからずいます。そうした人々からの無言の圧力が、教員たちが部活改革の声を上げる際の障害となってきたのです。
 しかし、彼らは所全外部の人間です。校長や教委が防波堤となることもできます。皆さんはそうおっしゃるけれども、教員の仕事は増えるばかりで皆さんの子供時代の教員とは違うのです、と反論することも可能です。でも、元教員である原田氏は、内部の人間です。
 原田氏が、部活改革を支持する教員は熱意や誇りに欠けるというニュアンスの発言をすれば、教員側にも自分たちと同じことを言っている人がいるじゃないか、と部活墨守派の保護者や市民に力を与えてしまい、結果として部活改革を後退させたり、骨抜きにさせたりすることに力を貸してしまうのです。
  しかも、原氏が言う『荒れている学校では部活指導が治安や秩序をつくるのに有効だった』という指摘は、私がこのブログで再三指摘し批判してきた「攻める部活」そのものであり、部活という手段で生徒の時間とエネルギーを消耗させ、問題行動を抑えるという手法で、古い囚人監護に通じる非教育的な方法なのです。
 また、『現在の若い教師は、自分の私生活を犠牲にしてまでも、子どもたちに時間をかけるという考え方をあまりとらない』という指摘も、世代論で過去の間違い、教員の聖職者意識を悪用しただ働きを強制するシステム、について不問に付す態度と言わざるを得ません。
 以前も指摘した、「部活は日本が世界に誇るシステム」と並び、「部活を嫌がるのはダメな教員」は、部活改革を阻む2大迷論なのです。

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おしゃべり

2022-08-25 08:06:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「おしゃべり」8月19日
 特集ワイドは、評論家與那覇潤氏へのインタビューでした。『濃淡ない社会の危うさ』というタイトル通り、濃淡のグラデーションなく、白か黒か、善か悪か、敵か味方かと決めつける風潮に懸念を示す内容でした。
 とても興味深い内容でしたが、私が注目したのは、最後に付記された次の記述でした。『人の心を知るのに、インタビューはどうなのだろう。尋問みたいで、聞き手がいつも物欲しそうだ。最善はその人がポツリと漏らした独り言だが、盗み聞きなどそうそうできない。だとすれば残るのはおしゃべり。テーマを決めず、浮かんだ言葉をキャッチボールしていると、時に、その人の本音がこぼれ落ちる。結論や成果を考えず、ひたすらおしゃべりしていたい。そんな人たちを訪ねるしりーずです』。
  教員の仕事は、授業でも、学級経営でも、生活指導でも、根底には子供を理解するということがあります。子供理解には様々な方法があります。私も、一人一人の子供の個人カルテ的なものを作ったり、アンケート調査をしたり、授業記録を残したり、いろいろと試行錯誤してきました。そうそう、エゴグラムを作ったり、ソシオメトリック調査をしたこともありました。
 しかし、教員として経験を重ねていくと、○○法と名付けられた調査方法などよりも、いわゆる「子供との触れ合い」こそが、子供理解を深める最善のやり方だと思うようになりました。私は小学校の教員でしたから、一緒に遊ぶというような触れ合いもできましたが、やはり最も適しているのは、「おしゃべり」だったのです。
 5分休み、10分休みのちょっとした時間、子供たちが教卓にいる私の周りに集まってきて、「昨日ね~」「○○って、おかしいんだよ~」「ねえ、××って知ってる~」などと話しかけてきて、だらだらと続くくだらない話、そんな「おしゃべり」こそ、子供を理解し、教員である自分を理解してもらう機会だったと思うのです。
 相談や面接とは違い、教員も理解してもらえるからこそ、相互信頼が深まり、それがまた子供たちの自己開示を促す、という好循環が生まれれば、もう学級経営は半ば以上成功したようなものです。
 最近、教員の多忙化が問題になっていますが、あまり意識されないことですが、こうした「おしゃべり」の時間が真っ先に失われていくことの弊害は、長い目で見たとき、確実に学校の教育力を低下させます。多忙化への対応として無駄と削ることが言われます。そのとき、「おしゃべり」の効用を知らない者が、「おしゃべり」を削ることを考え出すと、学校は土台を崩されていってしまうのです。
 外部の人が学校を訪れるといつも教員は子供とくだらない話をして「怠けて」いる、そんな批判を聞くことがありますが、そうした表面的な見方は、教員の仕事の本質を理解していない愚論なのです。
 「おしゃべり」のある学校、そんなことを経営理念に掲げる校長はいないものでしょうか。

 

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定説化?

2022-08-24 08:28:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「定説となった?」8月18日
 『メタバースで授業没入』という見出しの記事が掲載されました。『「メタバース」について、教育界でも活用を模索する動きが始まっている』ことを報じる特集記事です。記事の本筋とはあまり関係がないのですが、とても気になる一文がありました。『今後のメタバース教育の可能性について、「技術的問題よりは日本の社会で『対面でないと伝わらないものがある』という価値観がまだ強いため、すぐに普及はしないだろう」』という一文です。
 この一文は、私の言語感覚では、「対面でないと~」という価値観は時代遅れで間違っているが、我が国では古い価値観を捨てきれない人が多く、そうした人々はメタバース教育を問題視し、その進展を拒もうとするので、その妨害により普及には時間がかかる、という意味に受け取れたのです。
 つまり、「対面でないと伝わらないものがある」というのは間違いであるということが前提となった見解だということです。私は「対面でないと~」を支持する立場です。より正確に言えば、「対面でなくても伝えられるが、よりよく伝えるには対面のほうがよい事象や場面がある」という考えです。
 例を挙げれば、社会科の「伝統的な技術を生かした工業」の単元で、伝統的な技術の継承という主題の下で授業をする際に、メタバース教育でも、工夫や努力、必要性や問題点などを理解させることはできるでしょうが、働く人の誇りや願い、不安や希望、喜びや悲しみといったものは、実際に工房に出向いてその人に会い、仕事の様子を観察して話を聞くことの方が理解が深まるという考え方です。
 教育研究も日々進んでいます。研究が進み、現時点では「対面とメタバース」の間にはいかなる差異も生じない、という結論が研究者の間では常識になっているのかもしれません。しかし、まだそこまでの結論は得られていないのであれば、上記の一文のように、あたかも「対面とメタバース」問題についての結論が確定したかと思わせるような書きぶりはミスリードだと思うのです。
 現時点では、どのような結論になっているのでしょうか。

 

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それは学校には無理

2022-08-23 08:18:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「政治家を批判できない?」8月18日
 『旧統一教会団体小学校で講座 大阪・箕面の1校』という見出しの記事が掲載されました。『大阪府箕面市の市立小学校1校で17年前から、世界平和統一家庭連合の関連団体が子ども向けの科学実験講座を開いていたことが分かり、学校や地域住民で作る運営委員会がこの講座を取りやめることを決めた』ことを報じる記事です。
 起こるべくして起きた事件だと思います。30年ほど前から、「開かれた学校」が推奨されてきました。いろいろなレベルでの「開かれた」がありましたが、その初期段階が、地域の人を学校に招き入れその教育力を活用するという考え方でした。分かりやすく言えば、地域の人を講師として招き、子供たちに話をしたり、技術を伝えたりするということです。
 私も、地域の人に地域に伝わる昔の話をしてもらったり、地域の伝統行事である○○凧の作り方を教わったりという活動に取り組んだことがありました。
 そしてその上のレベルになると、学校理事会や評議会という名称で、学校の教育計画・運営に住民代表が関与するという形になります。地域の方を講師に呼ぶとき、学校側はその人物について深く知る方法がありませんでした。多くの場合、地域の方から紹介されるという形になるので、いろいろと調べるというのは紹介者を信用していないということになりかねず、「○○さんの紹介だから」ということでフリーパスになってしまうのが普通だったのです。
 また、学校理事会等で推薦があった場合は、上記のケース以上に「詮索」は難しくなります。つまり、「開かれた学校」の理念を掲げる限り、地域のさまざまな人が子供に直接影響を与えるということは避けられなくなるのです。このことにはもちろんメリットがありますが、同時に問題のある団体や人物が、子供に好ましくない働きかけをする危険性が増えるというデメリットが増すことも事実なのです。
 私が経験したケースでは、道徳の授業で某教団の○田大作の教えを子供に話して問題になったということがありました。道徳と宗教、何となく近い感じがしますが、今回の事件では、科学実験講座に旧統一教会というのですから、学校側が安心してしまったのも無理がありません。子供にサッカーを教える人がどのような団体の属しているのかなんて、普通は考えません。
 今回の旧統一教会を巡る騒動で、今後学校と外部の団体の関係にも厳しい目が注がれるようになるはずです。その対応と責任を学校だけに押し付けるようなことがあってはなりません。社会的に問題のある団体とその構成員について、行政の側がきちんと情報提供するような仕組みも検討する必要があります。信教の自由や平等権の問題もあり難しい部分もありますが、だからと言って学校任せは無責任です。

 

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悪知恵合戦

2022-08-22 07:54:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「宿題は?内申点は?」8月18日
 東洋大INIAD学部長坂村健氏が、『AIにできないこと』という表題でコラムを書かれていました。その中で坂村氏は、ミッドジャーニーという作画AIを取り上げていらっしゃいました。ミッドジャーニーは、『キーワードや情景描写の文章などのテキストの「お題」を与えると、それに沿った絵を描いてくれる(略)生成された「作品」は人間のプロが描いたと言っても見分けがつかない美麗さだ』なのだそうです。
 坂村氏はここから人とAIのできることできないことという議論を進めていくのですが、私はもっと低レベルのことが気になりました。それはこうしたAIが広く普及したとき、学校の図画工作・美術の授業はどうなっていくのかということです。例えば、長期休業日の課題として風景画を描いてくることを指示したとして、子供が自分で描いた作品とミッドジャーニーを使った作品との見分けがつかなければ、どのように評価するのか、ということです。
 あるいは作品展です。ある美術教員がミッドジャーニーを使って子供に作品を作らせ、それを展覧会等に出品させ、入賞させるということをするかもしれません。多くの教え子に入選する絵画力を育てた名教員としての名声を得るために。あるいは、学校ぐるみで、美術教育に熱心な学校という特色づくりのために。全国規模の作品展での入選歴は受験の際の内申書等に特記事項として記載することができます。子供にもメリットがあり、保護者などからの苦情もないはずです。
  さらに発想を飛躍させれば、絵画以外の美術作品、彫刻や版画、粘土造形など、いくらでもAI活用による作品作りが可能になってきそうですし、美術以外では、書道作品、あるいは読書感想文などの作文においても、コンクール出品を含め同じことが起きても不思議ではありません。
 各学校や教委は、今から対策を考えておく必要があります。もちろん、AIも道具や学習用具の一つと割り切り、積極的に活用を推進するという選択肢もありだとは思いますが。

 

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