ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

学校で生きる

2023-01-31 09:28:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校という社会」1月26日
 『「つながり」が生むスポーツの価値』という見出しの記事が掲載されました。コロナ禍の東京五輪について考察し、『札幌市が招致を目指す2030年冬季大会で語られるべき意義は何か』を専門家に問う記事です。
 その中に、次のような記述がありました。『ウェルビーイングというと、幸せや健康と訳されがちです。幸せとは一瞬の感情のことを指しますが、ウェルビーイングとは持続する豊かな状態を表す言葉で、意味が異なります。また、ウェルビーイングは心身の健康だけでなく、社会との関係性における健康も含まれます。自分の役割実感や貢献実感、そして自分の居場所の実感などです』。
 このウェルビーイングの概念、これこそ学校という社会の中で実現されなければならないものなのではないでしょうか。心身の健康などは前提条件として誰もが理解していることですが、後段の役割実感・貢献実感・居場所の実感の3点は、案外軽視されているのではないかと思うのです。
 教委勤務中、何回か新規採用教員の面接を担当しました。彼らにどのような教員になりたいかを問うと、「子供が楽しいと思える学校生活を送らせてあげることができる教員」「子供の笑顔があふれる学級を作ることができる教員」といった回答が返ってきたものです。間違っているとは思いませんが、抽象的過ぎます。それを具体化するのが、先の3つの「実感」なのではないでしょうか。
 まず、どの子供にも、学校生活の中で、自分には○○という役割が期待されていて、自分はその役割を果たしているという感覚をもたせることです。それは、公的な係や当番、委員会活動などに限りません。毎日そんな場面がある子供もいれば、年に数回役割を果たすときがくるという子供もいるかもしれません。例えば、足が不自由で歩くのが遅い下級生を集団登校時に一緒に歩いてあげるということに「役割」を意識する子供もいれば、学期に1回の学級対抗球技大会で活躍することが自分の役割だと考えている子供もいるはずです。
 そして、貢献している、つまり誰かの役に立ってるという感覚も、子供を勇気づけます。それは客観的に、あるいは数値に表れて明確なものに限りません。私が高学年の担任をしていたとき、毎日必ず私にボソッと話掛け、それだけで立ち去っていく女児がいました。あるとき、「Aさんは、いつも話しかけてくれるけど、一言だけで話すのやめちゃうけどどうして?」と訊いたことがありました。「先生が寂しそうにしているとき、元気づけてあげてるんだよ」と言う答えが返ってきて驚かされました。確かに、休み時間などに教室の中で、子供たちの輪ができ、私の周りに誰もいないことがあり、そんなときに彼女は声を掛けてくるのです。きっと私が、仲間外れにされて寂しそうに見えたのでしょう。これもまた一つの貢献なのです。
 最後に、居場所、つまりここに、あるいはこの状態にいるとき、自分はほっとする、安心する、寛ぐという感覚をもてるということです。うまく言えませんが、自分の学級だ、自分の仲間だ、自分の先生だ、と思えるということかもしれません。転校生は、当初居場所がありません。どんな形であれ、居場所ができたとき、転校生ではなく一人の子供になるということを考えると分かるかもしれません。
 3つの実感を子供に与えることができる教員は、良い教員です。冷静に振り返ると、私はダメでしたね。ではどうすればよいのか、と考えてみても明確な答えは浮かびません。ただ、子供を管理する対象という発想から抜け出ること、それが必要なことは間違いないと思います。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正念場がくる

2023-01-30 08:09:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「禁止の実効性」1月25日
 『AI応答ソフトに1兆円 マイクロソフト投資へ 「思考力低下」利用禁止する学校も』という見出しの記事が掲載されました。『米新興企業「オープンAI」が開発した人工知能を使った自動応答ソフト「チャットGPT」』に関する記事です。
 記事によると、『対話のスムーズさが話題となり、インターネットの使い方を変える可能性が指摘される一方、思考力低下につながると利用を禁止する学校も現れた』ということです。『学生がリポートの作成などに使用する恐れがあるため』だそうです。
 授業や講義などの際に使用を禁止するのは、イメージが浮かびます。でも、教員の目の届かないところ、放課後や休日に自宅で、となればどのように禁止令の実効性を確保するのでしょうか。別のAIを使って照合すれば、「チャットGPT」を使ったか否かが分かるのでしょうか。でもそれならば、わざわざ禁止と言わなくても、使用したら減点とか、失格とかにすると宣言すれば済むことです。おそらく、将来はともかく、現時点ではそうしたソフトは開発されていないのでしょう。
 もっとも、仮にそうしたソフトが開発されたとしても、次にはそのソフトでも照合できないような高度な「チャットGPT改良版」っが開発され…、といういたちごっこが続くだけという気もします。
 つまり、学校は永遠に「チャットGPT」的なものの存在を前提に教育活動を進めていかなければならない時代になったということなのではないでしょうか。こうしたソフトが我が国に入ってくるのも時間の問題でしょう。ですから、今米国の学校が対応に苦慮していることは、明日の我が国の学校の問題でもあるのです。文科省や教委は、対応に動き始めているのでしょうか。
 記事には、ニューヨーク市教育局の担当者の『(チャットGPTは)批判的思考や問題解決のスキルを育てることはできない』という話が紹介されていました。もしそれが本当であるならば、学校は批判的思考や問題解決のスキルを育てる場となることによって、チャットGPT的なものに対抗できることになります。
 なんのことはありません。今、我が国で進められている、自ら問題を発見したり創造したりして、その問題について多面的に考え、仲間との意見交流を経て自分の考えを磨き上げ、その解を分かりやすく表現して提示する、という学習を深めていけばいいだけのことです。
 それができないというのであれば、今のような学校システムは、チャットGPT的なものに滅ぼされる時を迎えるのかもしれません。正念場です。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽になった、でいいの

2023-01-29 08:51:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どうしてる」1月24日
 大学生が作るページ『キャンパる』に、『「SNSで」が圧倒的多数』という見出しの記事が掲載されました。『年末年始の恒例行事として定着していた年賀状書き(略)SNSを駆使する若者は、年賀状についてどう感じているのだろうか』ということで、アンケート調査を実施した結果について報じる記事です。
 結果は7割が年賀状を出していない、でした。また、『新年のあいさつでLINEやツイッターなどのSNSを利用したかどうか』という問いには、9割が利用したと答えたそうです。そして私が感心したのは、『「友人にはLINEで簡略に、先生などにはメールで」というように相手によって手段を使い分ける』という記述でした。
 これは大学生の話です。彼らは、『年賀状を出さなかった人全員が「過去に出したことがある」』と答えているのですから、年賀状を出さないというこうどうはここ10年ほどの間に急速に広がったと考えることができます。ということは、年賀状を出すような人間関係をもってからまだ10年もたたない小中学生にとっては、年賀状を書くという行為は、とても遠いものになっているということが想像できます。
 では、今、小中学校の教員は、教え子への年賀状をどうしているのでしょうか、という疑問が頭に浮かびました。知り合いの現職教員にも訊いたことがなかったのです。私が教員だった頃、教え子に年賀状を出すのは、とても大変なことでした。その年の干支にあった図柄を考え、全員が同じ図柄にならないように数種類を用意し、一人一人に手書きで一文書くという作業は数日を費やさなければ終わらなかったものです。
 もし、出さなかったりすれば、「うちの先生は子供に年賀状もよこさない。お正月の年賀状の束を見て、一枚一枚確認し、先生から来ていない、と残念そうな顔をする我が子が可哀想でみてられなかった」と3学期の保護者会で嫌味を言われるのは確実でした。
 では、今は時代が変わり、LINEやメールで済ますことができるかというと、そういうわけにもいきません。ごく一部の教員がSNSを使って子供と私的な連絡を取り、不適切な行為に及ぶといった事例が報じられるようになり、私的にアドレスを交換することは禁じられている学校が多いはずです。
 子供の立場からすると、大人に手紙を書くという経験は、そうはあるものではありません。年賀状書きは、子供にとっても面倒臭いものではありましたが、文章を考え丁寧な字で書く、良い勉強の機会でもありました。日本の良き伝統を継承するという意味もあったように思います。
 今、小中学校教員の年賀状事情はどうなっているのでしょうか。どうしていくことが望ましいのでしょうか。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンツーマンではなく

2023-01-28 08:48:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「下支え」1月23日
 『格差の再生産 「学校の力」見つめ直そう』というタイトルの社説が掲載されました。『親の貧困が子に引き継がれることを「格差の再生産」と呼ぶ。密接に関わっているのは教育(略)家庭が貧しいほど授業の理解度が低い生徒が多かった。学力が身につかないと進学もままならない(略)家計に余裕がない家庭のこの学力を下支えする仕組みが欠かせない』という問題意識で書かれたものです。
 全く同感です。そして、『全ての子に学びを保障するのは公教育を担う学校の役目』という指摘もその通りだと思います。しかし、その先が少し違うのです。『学校が困窮家庭の子を支える福祉的機能を高めるには、専門スタッフの手厚い配置が不可欠だ。教師は、子ども一人一人に丁寧に関わって学力を伸ばす指導に専心できるようにしていくべきだ』。日本大教授末富芳氏の指摘です。
 スタッフの手厚い配置は問題ありません。でも、「子ども一人一人に丁寧に関わって学力を伸ばす指導」には危惧を覚えます。それは、この表現が、個別指導や補習授業をイメージさせるからです。家庭の困窮、育児放棄、ヤングケアラーなど、学習に打ち込むことが難しい環境下にある子供に、全体の授業とは別に放課後勉強を教えたり、授業中も別室で取り出し授業をして遅れを取り戻させたり、ということです。
 それは、広義の教育という捉え方で言えば望ましいことかもしれませんが、現在の我が国の学校システムの中で行うべき取り組みではありません。もしこの個別指導的な手法を導入するのであれば、途方もない額の人件費が必要になります。また、必要な教員数を確保することも難しいでしょう。中途半端に取り組めば、それは教員の頑張りや善意、使命感に過度に依存した制度となり、教員を疲弊させ、学校を崩壊に導く結果に陥ります。
 大切なのは、授業を普通に受けていれば、その内容がほとんどの子供に理解できる、という授業レベルを実現することです。別の言い方をすれば、家庭が貧しく塾に通うことができなくても、中学校までの学習内容を身に着けることができる授業ということです。それは、塾に通えなくても、高校に進学するだけの学力を保証し、大学進学も現実的な目標とすることができる環境を与えるということでもあります。
 しかし現実は、教員の多忙化や志願者の質の低下などの要因で、授業のレベルが下がり、決して能力が高いといえない子供にとっては、きちんと45分間教室の椅子に座っていても、授業内容が理解できないという状況があちらこちらの教室で起きているのです。だからこそ、貧困=塾に通えない=学力不足=進学困難=貧困の再生産という図式が成り立ってしまうのです。
 95%の子供に塾なしで分かる授業を、残りの5%については、福祉的総合的アプローチをというのが、現実的な対応だと思います。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体質、個人も組織も

2023-01-27 09:28:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「体質」1月22日
 心療内科医海原純子氏が、『炎上するかな』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、今年の箱根駅伝について触れ、『優勝したチームの監督が6区を走る学生に「男だろ」と声を掛けていたのには衝撃を受けた。翌日その話が新聞やテレビで肯定的に紹介されていたのにもかなり驚いた』と書かれています。
 実は私も同じでした。以前にも「男だろ」発言があり、そのことが報道され、その問題点が指摘されていました。ここで繰り返すまでもありません。性によるアンコンシャスバイアスです。
 私はこうした発言が、まがりなりにも教育者として位置づけられる大学スポーツの監督の口から発せられ、本人が反省の弁を出すこともなく、大学上層部が見解を述べることもなく、駅伝の主催者や陸連等の関係者から批判の声も上がらないという状況に危機感を抱きます。
 正直、私の中にも、男は~、女は~という思い込みはあります。それもかなり強くあります。そう自覚しているからこそ、自分の言動に注意を払っているのです。完全な人間はいません。それは教員も同じです。それは仕方がないことです。ただ、仕方がないと自分を甘やかしてそのままにするのか、自分のダメなところを自覚して不十分であっても、少しでも改善していこうとするのか、教育者は後者でなければならないと思います。
 この監督が、反男女平等的な価値観をもち、昨今のジェンダーバイアスを批判する風潮に反発を覚え、テレビに放映され話題となることを分かったうえで、「男だろ」と叫んだとは思いません。つい、本心が出てしまったのでしょう。人間だもの、仕方がありません。ただ、「不快にさせる発言でした。申し訳ありません」と軽くでも頭を下げる程度のことはしてほしかったと思います。
 教員にとって大切な資質はたくさんありますが、最も重要なのは、自らの過ちを認めて謝罪することができるということだと思います。そうした姿勢をもつ者だけが、指導を受ける立場のものから信頼を得ることができるのです。残念な事例でした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少し違う

2023-01-26 08:16:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「少し違う」1月22日
 『「教員がいじめなんて」 滋賀・市立小 報告書案 現場の思考停止指摘』という見出しの記事が掲載されました。『野洲市の市立小学校で教員による児童いじめが相次いだ問題で、市教育委員会が事案を分析し再発防止策をまとめた報告書案』について報じる記事です。
 その中にとても強い違和感を抱いた記述がありました。『授業や学級経営につまずいた教員らが子供の言動に原因があるとみて障害などのレッテルを貼ろうとする風潮があるのではないか』『小学校では1人の担任が基本的にすべての授業と学級経営を行うため、教室の密室化を招きやすく、担任の児童に与える影響が大きくなると指摘。高学年での教科担任制の導入促進や、中低学年での交換授業などの検討も求めた』の2点です。
 まず最初の記述ですが、「授業や学級経営につまずいた教員」は、子供にも保護者にも支持されていない状態であることがほとんどです。そんな教員が子供や保護者に暴言を吐けば、すぐに反発が起こります。最近のませた子供からは、「先生そんなこと言っちゃいけないんだよ」「教育委員会に通報するよ」くらいの反発が予想されますし、教員の日頃の指導に不満をもち担任交代を望んでいる保護者からは、「知り合いの市議に言って、担任をやめさせましょう」というような声が起きることも珍しくありません。
 そうした指導力に欠け、信頼されていない教員は、いわゆる「弱い立場」にあり、むしろ子供に迎合的にことの方が多いのです。その結果として、子供たちのいじめ、それは多数派が個人をいじめる構図になりますが、多数派に阿って教員もいじめに加担する形で教員によるいじめが行われるというのが、私が教委勤務時代に関わった教員による不適切な対応事案の典型だったのです。
 外から見れば、記事の分析も私の経験に基づく分析も、教員が特定の子供、それも学級内で弱い立場の子供をいじめるという意味で同じですが、原因も経過も異なります。そして、原因等が異なれば、解決のための処方箋も異なってきます。記事にある、『教職員が自らの感覚を見つめ直すきっかけとして障碍者支援団体の活動への参加などを促した』などの対応策は的外れだとしか言いようがありません。障害や障害者への理解不足や偏見が原因ではないのですから。
  2番目の記述については、前段はその通りです。しかし、「担任の児童に与える影響が大きくなる」ことが悪いこととして捉えられていることが問題です。学級担任制には、悪い面もよい面もあるのです。何が良くて何が悪いのか、どのくらい良くてどのくらい悪いのか、比較検討が不足したまま、交換授業の導入を打ち出すのは早計です。授業の進め方、授業中の約束事項などは、教員によって異なります。低学年では、教科毎に異なるルールや約束事に混乱し、授業を受ける基本的な態度が身に付かないことが懸念されるのです。
 なお、これは本筋ではありませんが、問題になった教員によるいじめは2年生で起きています。それなのに対応策として高学年での教科担任制をもち出すのは、効果的な対策は打ち出せないけれど何もしなければ非難されるという思惑が感じられ、苦し紛れという印象はぬぐえません。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたが変わればいい?

2023-01-25 07:47:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「あなたが変わればいい」1月20日
 『博多の女性殺害事件 ストーカー対策再検討を』というタイトルの社説が掲載されました。『なぜ、最悪の結果を防げなかったのか。事件の全容解明と合わせ、警察の対応の検証が欠かせない』と主張する内容です。
 その中に気になる記述がありました。『警察は女性に避難や転職を勧めていたが、被害者が不利益を被るのは筋違いである』という記述です。全くその通りです。ストーカー対策の目的は単にストカー被害をなくすことではありません。被害者の人権と生活を守ることが大前提としてあり、その上で被害防止を考えるのです。もし、ストーカーから被害者の身を守ればいいだけならば、簡単です。被害者を刑務所に収容して、独房に入れればよいのです。でもそれを良しとする人はいないでしょう。
 私はこの記述から、学校におけるいじめ対策を連想してしまいました。同じような事例が珍しくなかったからです。いじめの被害者が転校していく、加害者はそれまでと同じ学校、学級、部活でが仲間と楽しく学校生活を送るという例は枚挙に暇がありませんでした。
 また、多数派(加害側)に阿った教員が、被害者に対し「○○さんも変わらなくちゃ。そうすればみんなも受け入れてくれるよ」などと暴言を吐いて、さらに傷つけてしまうといった事例も目にしてきました。この暴言を吐いた教員は、自分は良いことをしたと思い込んでいたのですから、開いた口がふさがりません。
 いじめ対策は、被害者の人権と生活が守られることを前提に考えなければなりません。分かりやすく言えば、被害者が何を望んでいるのかを把握し、それを実現する方向で考えるということです。被害者が、今の学級や部活に所属し続けることを希望するのであれば、それは尊重されなければなりません。加害者に謝罪と二度といじめはしないという誓いをさせた上で引き続き同じ学級や部活に所属することを望むのであれば、その方向で最大限の努力をしなければなりません。
 そして、努力を尽くした結果、加害者のいじめを根絶させることが難しいと判断したならば、そのことを被害者に説明し納得を得た上で、加害者を転級させるなり、退部させるなりといった別の措置をとることが認められると考えるべきなのです。間違ったいじめ対応がなくなることを強く願います。
 なお、当たり前の話ですが、いくら被害者が望んだからといって、不当に加害者の権利を侵害するような対応は認められません。例えば、加害者を丸坊主にして全校生徒の前で土下座させて謝罪させろ、というような。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2つの選択肢

2023-01-24 08:20:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「同じことを言っている?」1月20日
 『教員残業 月平均92時間 10年前と大差なし「過労死ライン」超え』という見出しの記事が掲載されました。『全日本教職員組合は19日、小中高校などに勤める教職員の1カ月当たりの平均残業時間が92時間34分に上ったとする独自調査の結果を発表した』ことに関する記事です。
 その中に、気になる記述を発見しました。『長時間労働の解消に向けては、教職員の増員(89.7%)▽受け持つ授業を減らす(62.5%)▽少人数学級を広げる(55.8%)-を求める意見が多かった』という記述です。
 3つの選択肢が挙げられているように見えますが、私には同じ回答だとしか思えませんでした。受け持ち授業減を実現するためには、授業の総時間数が変わらない以上、教員数を増やすしか方法がありません。そして、多くの教育課題が次々と学校に持ち込まれる現状からすると、授業時間数を減らす方向で改革が進むことは難しいと思われますから、教員増しか方法がないことになるのです。
 また、少人数学級拡大も、子供の人数が急激に減らない限り、教員増で対応するしかないのです。ですから、結局この3つの回答は、教員を増やせという一つの回答に集約されるということです。
  全教として、この調査結果を基に、どのような要求や提言を行っていこうとしているのでしょうか。結局、教員を増やせという要求になるのでしょうか。しかしそうであれば、その要求は実現されることは難しいと思います。大幅な教育予算増が必要となり、しかも人件費は一時的な経費ではなく、一人の教員を雇うということは今後40年に及ぶ固定費として予算を圧迫するからです。
 私は、全教に限らず、現場からは2つの選択肢を示し、そのどちらを選ぶのか、政治に、世論に訴えるという戦略をとるべきだと思っています。それは、学校を再定義して、その教育活動を大幅にスリム化した上で現在の教員数で進めていくか、教育課題増に応じて教員増=予算増=国民の負担増で対応していくのか、の2択です。
 前者は、部活も給食指導もなくし、いわゆる個における躾は家庭と社会に委ね、学習指導要領改訂においては、スクラップ&ビルドを徹底して、新たな教科、教育課題、教育活動を導入する際にはそれに相応する既存の教科等の削減を行うという原則を制定するということになります。
 後者の路線をとる限り、財政の専門家の前に門前払いが続くことが予想されます。しかし、前者の路線であれば、具体的な学習内容や教育活動については、学校現場やそれに近い地方教委が、具体的な案を提議し、自分たちの土俵で話し合いを進めることができるのではないでしょうか。
 まあ、それができないというのであれば、現状に甘んずるのも仕方がないかもしれません。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笑顔の価値

2023-01-23 08:32:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校は無力」1月19日
 『本当の「サクラ咲く」とは』という見出しの特集記事が掲載されました。『中学受験のリアルが描かれた人気漫画「二月の勝者-絶対合格の教室-」』中で話題となった『君達が合格できたのは、父親の「経済力」。そして母親の「狂気」』という言葉について、教育ジャーナリストおおたとしまさ氏とともに読み解く記事です。
 その中に、とても大切な記述がありました。『(子供の)心の奥底にある本当のモチベーションは、第1志望に受かりたいという気持ちよりも、親の笑顔。受かったら、親がきっと喜んでくれるだろうと思うから頑張れるわけです』というおおた氏の言葉です。
 私は、教員時代に8回6年生を担任し、何十人もの私立中学受験者とその親(主に母親)を見てきました。ですから、おおた氏の言葉がよく分かります。自分のため、自分の夢や将来の理想のためではなく、親に喜んでもらうために受験するなんて間違っている、不純だという指摘もあるかもしれませんが、現実はおおた氏の言う通りのケースが大半でした。
 そして、これは中学受験をする子供やその家族にだけ言えることではなく、すべての子供について言えることだと思います。小学生段階の子供にとっては、親に喜んでほしい、親が嬉しそうに笑う顔が見たいという気持ちこそが、勉強に限らず、何かを頑張る、辛さを我慢して努力を続けるという行為を支えるエネルギーになっている場合が多いということです。
 別の言い方をすれば、この努力のエネルギー源は、家庭しか与えることができないということです。残念ながら、担任の教員の喜ぶ顔が見たいからという動機で頑張るケースはごくわずか、家庭の力には遠く及びません。
 教員失格と言われてしまうかもしれませんが、家庭と子供が良好な関係にあり、相互の信頼と愛情を子供が実感しているときに、子供は自らが内包する成長する知方を開放することができ、教員の努力でできる部分は少ないということです。
 今、こども家庭庁ができ、子供ど真ん中の社会をつくる、社会で子供を育てるという考え方が浸透し始めています。大賛成です。しかしそれは、だから家庭や保護者は子育て空手を引いてもよいという意味ではないと思いたいのです。経済的な支援は必要ですし、それは社会が担うことができます。子育てに優しい意識変革も重要です。ただ、子供は社会の笑顔を欲しているのではなく、保護者の笑顔を見たいのだという事実は変えることができない真実です。逆に言えば、子供に笑顔を見せてること、それだけは保護者の義務だというくらいに自覚してほしいと思うのです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コスト主義にNO

2023-01-22 08:29:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「コストが減った?」1月19日
 東洋大INIAD学部長坂村健氏が、『「迷走」恐れない社会』という表題でコラムを書かれていました。その中で坂村氏は、『日本では一度決めたことを短期間で変更することを嫌う(略)だから時間をかけて検討してからでないと決断できない』と書かれています。
 そして、それに対置させる形でイーロン・マスク氏のやり方を取り上げています。『スペースXの新型ロケットエンジン開発では、とにかく作っては壊しの連続。それによって小型高性能と量産型を両立した新設計のエンジンが短期間で完成した』『新ロケットも、無謀な挑戦と言われ何度も爆発を繰り返したが、数年で完成させた』と。
 この事例から導き出されたのは、『紙と電話とファックスの時代には、業務の手戻りのコストが非常に大きかった(略)しかしインターネットが普及し、さまざまなツールにより、頻繁な変更でもコストが問題でなくなった』現在、『「慎重な決断」では手遅れ。「巧遅より拙速」で、ダメならすぐ直せばいいし、それが可能な時代だ』という結論でした。
 要するに、頻繁な方針変更を迷走と批判するのではなく、思い付いたら即実行、だめならやり直しという文化を我が国にも、ということです。その通りなのかもしれません。しかし、私には、坂村氏の考え方は、コストにばかり目が向きすぎているように思えてなりません。
 ロケットやエンジンの制作ならば、それでよいのかもしれません。しかし私は、制度やシステムの改変の場合、それには必ず「人」の人生がかかっているということを忘れてはならないと考えます。
 学校教育改革がまさにそれに当たります。入試制度でも、新教科の導入でも、実施してみてダメだったら変更するというやり方の方が早く最善のシステムに到達できるかもしれません。しかし、学校にいるのはそれぞれが自分の人生を背負った子供です。制度改革の失敗は、その子供の人生に負の影響を与えますし、保護者や家族にも影響が及ぶかもしれません。
 間違った教科内容の変更で、学力低下が生じれば、その被害を被った子供にとって、結果として最も早く理想的な教科内容に変更することができたのだから、我が国の国力維持、国際的な競争力の維持の面では成功だったと言われても、納得できるものではありません。
 私は、少なくとも、学校教育改革においては、子供をモルモット扱いしたり、全体を数字で把握して、個の思いや願い、感情などを無視したりしたまま進めることは望ましいとは思いません。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする