ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

呼ぶのは怖い

2021-10-31 09:06:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「スピリチュアル?」10月27日
 『宇宙のハーモニーを聞く』という見出しの記事が掲載されました。笙演奏家宮田まゆみ氏へのインタビュー記事です。その中で宮田氏が語られる言葉は次のようなものです。
 『この世には人間には聞こえない「宇宙のハーモニー」というものがある』『古代の人びとは、神や宇宙や自然からエネルギーを受け取って、いろいろなものを誕生させてきた』『この(笙の)音は宇宙から、自然界から、あるいは自分の体の内側から聞こえてくるように響く』『宇宙の根源の音というものがあるが、普通の人間には聞こえない。でも人は、それに憧れて「人間の音楽」で近づこうとするんです』『目には見えない神と人間の交感から漢字の成り立ちの根源的な姿を解明~』。
 宮田氏は、『日本と海外の相互理解への貢献で本年度の国際交流基金金賞を受賞』した「立派な方」です。記事を掲載したM紙は、良心的な全国紙です。それにも関わらず、私がこの記事を読んで得た印象は、少しいかがわしいスピリチュアルなもの、という感じでした。私の感覚がおかしいのでしょう。
 しかし、もし公立校の教員が、国語の時間に漢字について「目には見えない神と人間の交感から~」などと口にすれば、「頭がおかしい」「新興宗教にかぶれている」などと批判されると思います。音楽の授業で「宇宙の根源の音というものがある」などと自説を述べれば、皆怪訝な顔をするでしょう。
 私が教委に勤務していたとき、保護者からこうした情報を得れば、当該教員には校長を通じて公教育への信頼を損なうような言動を慎むように指導をしたはずです。繰り返せば、何らかの処分を検討することになったでしょう。そう考えるからこそ、先に述べたように、感じてしまったのです。
 外国の事情は知りません。先進国でもアメリカなどでは聖書に記述をそのまま教えるべきという原理主義者が教員の中にもいると言われます。しかし、我が国においては、神や霊的なもの、特定の宗教を連想させる発言は、公立学校ではタブーとされています。それは法規には明記されてはおらず、研修や上司からの指導で触れられることは少ないですが、それでもほとんどの教員の「常識」となっています。
 もし、特別活動で校外の講師を招き、「神が~」などと口にされたら、その場に居合わせた教員は大いに慌てるはずです。「超一流」と言われる人たちの中には、私のような凡人には窺い知れない世界観を持っていらっしゃる方がいそうですが、お呼びするのは怖いですね。

 

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びびっているだけ

2021-10-30 08:22:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「少なさの背景」10月27日
 『コロナ下電子と紙、身近に きょうから読書週間』という見出しの記事が掲載されました。読書週間を迎え小中高生の読書実態について調べた結果を報じる記事です。その中の『本を選ぶ基準「見た目」重視』という章に、次のような記述がありました。『本を選ぶ基準を三つまで選択してもらうと(略)「先生のすすめ」は小学生でも4%にとどまり、中学生はわずか1%、高校生も2%だった』というものです。
 この数字をどのように解釈すればよいのでしょうか。教員のアドバイスは重視されていない、もっと言えば教員の言うことは信用されていないということなのでしょうか。そうかもしれません。そうだとすれば悲しいことです。
 しかし、私はそうは思えません。そもそも教員が子供に対して「こんな本を読んでみるといいよ」と具体的な書物の名をあげて薦めることをしていないのではないでしょうか。今、個人の思想信条を尋ねることはタブーになっています。家で取っている新聞は何かと聞くことはできませんし、図工の時間に必要だから新聞紙を持ってきてと言うのさえ気を遣う時代です。
 そして、尋ねることと同様に、「薦める」ことにも慎重さが求められます。授業で資料として新聞の切り抜きを使うときに、なぜ○紙の記事を使い◇紙ではないのか、という保護者からの問い合わせに対して、きちんと回答することが求められているのです。その回答が曖昧であったり、不適切であったりすれば、偏向教育、特定の価値観の押しつけという非難を覚悟しなければならないのです。
 本には、それが子供向けの物語であっても、ある価値観が強く表れています。笠地蔵の話など何の問題もないと思っていても、仏教思想に裏付けられた話だと言われれば、否定できません。そうした状況を敏感に察知している教員は、自分が良いと思った本を薦めるという行為が、非難を受ける可能性があると考え、躊躇うはずなのです。もし子供から「どんな本を読んだらいいの?」と聞かれたとしても、せいぜい公的な団体が薦める推薦図書を紹介するくらいでお茶を濁すという保身策をとるしかないのです。
 子供が読む本を選ぶときの教員の影響力の小ささは、教員への信用のなさやつながりの薄さを表すものではないのです。

 

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泥沼からの脱出

2021-10-29 08:33:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「振り返って」10月26日
 専門記者大治朋子氏が、『学習性無力感からの脱却』という表題でコラムを書かれていました。その中で大治氏は、学習性無力感について、『抵抗することも逃げることもできないストレスや抑圧を繰り返し経験すると「自分は無力だ」と学習し、逃れようとする努力すらせず無気力になる』ことだと説明し、『無力感はクセになりやすい』としています。
 大治氏は、この概念を使って「自分が選挙に行っても何も変わらない」と投票しようとしない人たちについて論じていますが、私は教員こそこの概念について留意が必要だと考えました。
 私が約30年前に6年生の学級で担任したOさん、彼は国社算理の成績が5段階評価の1、いわゆる勉強ができない子供でした。彼は、とにかく「何かをする」ことが嫌いでした。授業中は私語も手いたずらもしない代わりに、挙手もしなければ、板書を写すこともしません。反抗的というのではなく、教科書を開きなさいと言えば開くし、ノートを広げなさいと言えばノートを広げるのです。しかし、教科書を読み始めても数秒後には止めてしまうし、ノートにもその日の日付を書くとくたびれてしまうのです。
 まだ若く未熟で、素直なお勉強ができる子供が好みだった私は、心の中で彼のことを怠け者と決めつけ、厄介者視していました。とんでもない教員でした。本当に申し訳なく思います。今ならば分かりますが、彼は、学習性無力感に囚われていたのです。
 前担任から引き継いだ彼についての情報は、やはり無気力な怠け者で勉強ができない、全てに向上心がないというものでした。児童指導要録を見ると、3年生のときも4年生のときもほぼ同じ記録が残っていました。つまり彼は、ずっと教員から評価されず「自分は何をやってもダメ」という刷り込みをされてきたのです。その結果としての学習性無力感だったのです。
 当時の私は国語の授業に視写という手法を取り入れていました。またその発展として、速写も行っていました。視写は、黒板に私が書いた教科書の文を一緒にノートに書くという活動で、速写は、指定された教科書の文を決められた時間内にできるだけたくさん写すという活動です。それぞれの活動の狙いはここでは省きますが、両者に共通する特徴は、勉強ができなくても(理解力が不足していても)字が書けさえすればどの子供も同じようにノートが埋まっていくというとこにあります。
 つまり、他の子に後れをとらずに授業に参加することができたという感覚を味わうことができるということでした。Oさんはこの活動に熱心に取り組むようになっていきました。より正確に言えば、この活動にだけ熱心に、です。相変わらず国語の成績は1でしたが。
 私は単に「へーっ、こんな単純なことが好きなんだ」と思っただけで、それ以上深く考えることができませんでしたが、彼は自分も他の子と同じことができる、と学習性無力感から脱する足掛かりをつかみかけていたのだと思います。そのことのもつ大きな意味に気付いてさえいれば、私には次の打つ手があったはずなのに、未熟な私はそのチャンスを逃してしまったのです。
 当時の私のようなへまをしないために、教員は「お勉強のできない子供」に対して、学習性無力感の存在を疑い、その泥沼から引っ張り上げる手立てを考えなければいけません。

 

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本当の姿

2021-10-28 07:34:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本当の姿」10月25日
 川柳欄に、羽曳野市M氏の『懐かしい桑の実食べてがっかりし』という句が掲載されていました。子供のころ食べた桑の実、口の周りを真っ赤にして食べた桑の実、それがとってもおいしかったと思い出しているM氏、そんなM氏がひょんなこと何十年ぶりかで桑の実を食べる機械があり口に入れてみると少しもおいしいと感じない、そんな情景を詠んだものでしょう。
 この句が本日の秀逸句に選ばれているのは、過去を美化しがちな人間の習性を浮き彫りにしたからだと思います。今のように様々な菓子があるわけでもない時代だからこそ、自然の酸っぱい桑の実もおいしく感じられたこと、友達と遊んだ楽しい思い出が桑の実と重なり実際よりも良い思い出になっていることなどの理由で、思い出が美化されているのです。
 これは避けることのできない人間の性ですから、同じことが学校や教員を巡る議論でも言えると思います。我が国ではほとんどすべての国民が「学校」生活を送った経験をもっています。教員との思い出、級友との出来事、学校行事での様々な場面、なぜか脳裏から消えない一瞬の光景、そうしたものが実際の学校生活を歪めて記憶の印画紙に記録しているのです。
 私にもあります。社会科の授業で褒められたこと、授業参観のときの学級会で議長を務めた晴がましい気分、家族全員が見に来た運動会の徒競走でダントツのビリになったときの申し訳ない気持ち。もっとも、私の場合はそうした遠い思い出よりも、自分が教員となってからの学校、教委の幹部となってチェック者として見た学校の方が近しく客観的な学校像となっていますが。
 しかし、多くの人は20年前、30年前、40年前に体感した自分の学校像、狭く一面的で、なお且ついくつかの印象的な思い出によって歪められた学校像や教員像を基に学校教育を語ってしまう傾向があるのです。それでは、議論の基になる事実認識が間違っているのですから、正しい結論には至らないケースが増えてしまうのは当然です。
 私の子供時代と現代を比べると、人々の生き方は多様になってきました。海外の留学したり、学生時代から起業したり、定職に就かず(就けず?)夢を追って当面バイト生活を続ける人、同性婚や事実婚を選択する人も増えてきました。そんなある意味バラバラな人生経験の中で、学校生活だけは皆が共通して体験していることになっているのです。
 それだけに、つい共通の基盤の上で議論ができるように思いがちですが、実はM氏の桑の実同様、事実とは異なる偏ったイメージに基づいた議論になっている可能性が高いのです。学校教育論議は、まず共通基盤を確認するところから始めなければなりません。

 

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外国を真似るコツ

2021-10-27 08:53:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「陥りがちな錯覚」10月21日
 東洋大INIAD学部長坂村健氏が、『日米研究事情』という表題でコラムを書かれていました。坂村氏は、今年のノーベル物理学賞を受賞された真鍋博士の日本の研究環境に対する見解を取り上げて論述されていましたが、その中に2つとても印象に残る記述がありました。
 まず、『中途半端にまねるのは最悪』という指摘です。その具体例として、『日本の研究費は用途が細かく定められ、予算管理や報告書などの雑事は結局自分がやる(略)米国では研究費で必要なだけ事務員やスタッフを雇える』を挙げています。
 つまり、『米国の研究者が競争的環境の中で切磋琢磨し、多くの業績を生んでいた』ことを真似たものの、その真似方が中途半端だったため、我が国では研究者が「雑事」に時間と労力を取られ、肝心に研究が疎かになってしまっていることを指摘しているのです。
 もう一つは、『真鍋先生のコメントは、善しあしではなく、「私に合わない」と言っただけ。問題は制度と研究者との相性だ(略)米国式をまねれば同じ成果が出るというほど、ことは単純ではない』です。そしてその例として、『競争より安定を好む日本人的な人も多い』カナダでは、『薄く広くの研究資金』制が成果を上げていることを指摘なさっているのです。
 非常に考えさせられる指摘だと思います。我が国には「出羽守」という言葉があるように、「アメリカでは~」「欧米では~」と外国に事例を引き合いに出し、そのシステムややり方を導入すべきだと主張することが先進的で世界の潮流だと考える人たちがいます。そうして提言については、実際に学ぶべきところが多い場合がほとんどだと思います。
 しかし実際に導入するとなると、予算の関係、反対する人たちとの妥協、それまでの制度の「良さ」を捨てきれない、システムを運営するノウハウや人材の不足などの理由で、悪い意味で「日本式」になり、それまでのやり方の良さを失い、新しいやり方の良さも現れない、という結果になってしまうことが多いのではないでしょうか。
 学校教育改革においても、同じような傾向が見られます。学校選択制の導入も、インクルーシブ教育の充実も、教科の壁を超えた総合的な学びの拡充も、外国人児童生徒への指導体制の充実も、全て理念としては正しい方向性です。しかし、中途半端に導入・推進を図ることは、学校現場に混乱をもたらし、その理念の正当性にまで疑念を生じさせることになります。
 大改革は、人(教員等)、予算、環境などの教育資源の大規模及び迅速な投入が必要であり、少しずつ様子を見ながら関係者に配慮しつつの少量逐次投入では、うまくいかないのです。
 また、2点目の「相性と善悪」の問題も要注意です。物事の判断には、客観的な善悪だけでなく、主観的感情的な好き嫌いという物差しがあります。真鍋氏の主張は客観的なデータ等に基づく善悪や正誤を述べたものではなく、主観的な好悪を述べたものに過ぎません。それにも関わらず、日本人には、ノーベル賞受賞という権威に幻惑され絶対の真理を説かれたかのように受けてってしまう、そういう悪癖があるのではないでしょうか。
 諸外国の学校教育制度を語るとき、それぞれの国特有の文化や伝統、歴史や価値観といったものを軽視し、PISA○位といったような事実に権威を感じ取り、手放しで模倣しようとする言説がこれに当たります。
 坂村氏の2つの指摘は、教育改革において新しい制度の導入に当たり常に留意する必要があります。

 

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戻るには遅すぎる

2021-10-26 07:39:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「逆回転」10月20日
 批評家浜崎洋介氏が、『「世間」の再構築に向けて』という表題でコラムを書かれていました。その中で浜崎氏は、小中高生の不登校や自殺が増加し続けていることを取り上げ、その背景について『安定的「世間」の崩壊である-この場合、「世間」とは、家庭・職場・学校など狭い共同体のことを指している』と述べられていました。
 そして、『過剰な改革主義の悪循環-日本的共同体の切り崩し-と手を切り、安定的で見通しの効く「世間」の再構築から始めるしかない。人は能力によってではなく、人との交わりから活力を生み出す動物だという常識に立ち戻るべきだ』と主張なさっているのです。
 正直なところ、用語の理解が難しく浜崎氏のおっしゃりたいことがきちんと把握できているか自信はないのですが、なんとなく分かったような気はします。新自由主義と改革主義が共同体を崩壊させているというのですから、その基底を成す考え方、能力主義や成果主義の行き過ぎを正すことによって、「世間」が安定し、そこで暮らす子供の心も安定を取り戻し、不登校や自殺も減っていくはずだということでしょう。
 職場と家庭のことは置いておきます。学校において、能力主義や成果主義の行き過ぎとはどのようなことであるのか考えてみたいと思います。我が国では、学校教育においては建前、あるいは綺麗事、または理想というものが力をもってきました。子供の幸せのためにとか、全ての子供に無限の可能性があるとかいう言説に象徴される考え方です。実際には、名門校に合格だとかテストの点数だとか成績の順位だとかに一喜一憂しているくせに、表向きには綺麗事を口にする人が多いのです。特に、教育学者や教育行政に関わる人、教員などに。
 ですから、学校における能力主義や成果主義の導入は、直接子供に対してではなく、教員に向けられました。業績評価の導入や全国一斉学力テスト、学校選択制などです。地域の教育力や保護者の経済力などを無視して、学力テストの結果が悪ければ、それは教員の能力と努力が足りないためだとして、校長の管理能力を査定し給与や人事で差をつける、学力テストの結果を公表し選ばれない学校の校長や教員の評定を下げるという仕組みを導入することで、間接的に子供も能力主義、成果主義の論理に引きずり込んだのです。
 浜崎氏の考え方に従えば、こうしたやり方を変えていけば、学校という「世間」が人とのつながりを大切にする共同体に立ち返り、不登校や自殺も減ってくるということになります。魅力的な考え方ではありますが、実現することはないと思います。少なくとも社会が変わらずに学校だけが変わるということはあり得ません。我が国の社会は、能力主義・成果主義からつながり重視の戻ることができるのか、自助を重視する限りそれは不可能、流れを逆回転させることはできないのではないでしょうか。

 

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芸術と芸術教育

2021-10-25 08:11:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校で?」10月19日
 連載企画『14歳の君へ わたしたちの授業』は、美術ということで、漫画家ヤマザキマリ氏が担当されていました。その中でヤマザキ氏は、『絵がうまいか下手かは関係ない。描きたいものを描こう。音楽も同じ。表現したいと思うことに意味がある。評価は後の話』と書かれています。
 私は芸術には疎く、ヤマザキ氏のおっしゃることにどうこう言うだけの考えをもってはいません。ただ、図化工作・美術の授業の在り方については、昔からよく考えてきました。そうした視点からすると、ヤマザキ氏のおっしゃっていることは、特別な人の特別な意見という感想をもってしまいました。
 そもそも「描きたいもの」って誰にでもあるものなのでしょうか。自分を振り返ると、例えばきれいな景色を目にしてこの風景を切り取っておきたい、と思うことはありますが、別に写真でも構いません。あるいは、詩に書く、句を詠むという形で表現したいと思う人もいるかもしれません。もちろん、綺麗だなで終わる人もいれば、何も感じない人もいるでしょう。
 そんな人に無理に描かす必要はない、それはそうかもしれません。芸術としてはそれでよくても、授業としてはだめでしょう。30人の生徒のうち、何かを書き始めているのは10人、残りの20人はおしゃべりしたりスマホを見たりというのでは授業とは呼べません。
 うまいか下手かは関係ない、についても疑問ありです。ヤマザキ氏は、音楽も同じとおっしゃっているので、音楽について考えてみましょう。ピアニカも出来ず、リコーダーも吹けない、オルガンも木琴もできない、でも表現するなどということが可能なのでしょうか。私は自分で作曲できたらいいなとは思いますが、演奏できる楽器が一つもないので断念せざるを得ません。本当に下手でいいのでしょうか。
 楽器ができなくても歌を口ずさめばいい、のかもしれません。でも調子外れの悪声の音痴では、歌っていること自体が喜びではなく苦痛になってしまうのではないでしょうか。
 評価は後の話にも「?」です。それでは「後」に行う評価はどのようなものになるのでしょうか。上手い下手はどうでもいいのであれば、技能面は評価しないことになります。となると評価対象は、表現したいものを表現できているかということになりますが、具体的にはどういうことになるのでしょうか。
 画用紙一面に青の絵の具を塗りたくり、夏休みに日光に行ったときに見た空の青さに感動したのでそれを表したかった、と言われたとき、どんな評価が可能なのでしょうか。それどころか、誕生日に食べたモンブランケーキの味を表現しましたと言って5秒間で描いた黄色い渦巻を見せられたら、どう評価するのでしょうか。その評価は本人を納得させられるのでしょうか。あるいはそれを見た他の人を納得させられるのでしょうか。
 もちろん、「わたしたちの授業」とは言いながらも、ヤマザキ氏が語っているのは学校で行われる授業とは何の関係もないお話であることは分かっています。しかし、物理学者や生物学者が語ることが理科の授業について、数学者が語ることが算数・数学の授業について、歴史学者が語ることが社会科・歴史の授業について、何等かの示唆をもたらすように、芸術家の語ることは芸術の授業を考える重要な何かを含んでいると思うのです。そんな期待をしてはいけないのでしょうか。

 

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創造性を奪う

2021-10-24 08:44:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「矛盾」10月18日
 余禄欄は「道草」についてでした。『もし道草をしなかったら、僕の人生はかなり変わっていたに違いない』(ノーベル物理学賞受賞真鍋淑郎氏)、『寺田寅彦は、せっかちな旅人が「途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす」と、道草の効用を説いた』、『予定調和から外れた出来事を喜び自ら学ぶ。道草は子どもが輝く時間』(立命館大客員教授水月昭道氏)など、「道草」の大切さを説く言葉が紹介されていました。
 同感です。ところで、学校における授業は、学習指導要領に基づいて設定された目標を達成するために様々な学習活動を組み合わせて構成された合目的的な営みです。そうした意味で言うと、「道草」を想定せずに計画されたものだといえるでしょう。
 しかしそれはあくまでも計画段階での話です。実際に授業を始めると、どんなに授業力のある教員が綿密に立てた学習指導案であっても、予期せぬ子供の発想やハプニングによって計画通りにはいかず、あちこちで「道草」をくうことになるのです。そして、「良い授業」とはその「道草」を過剰に排除せず、学びの過程として容認評価し、学びの幅を広げ深化ていくものなのです。さらに、「良い教員」とは、合目的性と「道草」の間で絶妙のバランスを保つことができる教員を指すのです。
 しかし今導入が進められようとしているIT機器を活用した授業でには、そうしたバランスを活かすことができるでしょうか。私自身は授業をしたことがないので詳しいことは分かりません。ただ、様々に報じられる先行事例をみていると、コピペで個性のないレポートが「効率的」に大量生産されるといった弊害が指摘されています。そこには「道草」の余地は乏しいように思えて仕方がありません。
 もともとITは、無駄を排し、最短距離でゴールに到達することを最善とする思想に基づいて設計されたものだと思います。つまり余禄欄の「道草」礼賛とは正反対の思想で作られているのです。授業におけるIT活用は、子供の「輝く時間」を奪ってしまうのではないでしょうか。そしてそのことは、今進められている教育改革の理念である、創造的な人間の育成に反するのではないでしょうか。検証が必要です。

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選択肢を増やすこと

2021-10-23 08:36:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「定義は?」10月18日
 『サドベリースクールを見つめて』という見出しの記事が掲載されました。『学びの内容や運営など全てを子供たちが決める民間教育施設「サドベリースクール」を舞台にしたドキュメンタリー映画「屋根の上に吹く風は」が10月から公開されている』ことについて報じる記事です。
 映画は、「サドベリースクール」についてプラス評価だけではなく、『学校教育法が規定する「学校」には該当しない』ことや、『通う子供たちを欠席扱い』とする教委の見解を紹介し、同スクールに通った子供が『高校受験の勉強でも苦労した。本来は学校で教わる学習内容が身に付いていなかった』と述べるなど、解決できていない問題点も公平に提示した内容だそうです。
 記事の中に気になる記述がありました。『学校になじめず苦しんでいる子供もいる。子供の最善の利益につながるように、行政への働きかけは今後も続けたい』という同校スタッフの言葉です。
 「子供の最善の利益」とは何でしょうか。さらっと読み過ごしてしまいそうですが、具体的に説明しろと言われれば、困惑してしまいます。記事の流れからすると、「サドベリースクール」の理念はそのまま「学校」と認める、あるいは「サドベリースクール」への登校を公立校への出席と認めるというような対応を求める意味に受け取れます。
 しかし、同校で4年間学んだ生徒は、上記のように本来ならば中学卒業時に身に付けているべき知識や学力を身に付けることができなかったのです。学力は身に付かなくても、楽しく「学校」に通えれば、それが「最善の利益」なのでしょうか。私はそうは思えません。学びは、学力形成は、学校の存在意義の中核をなすものだと考えるからです。
 公平を期すために書いておきますが、上述の生徒は結局都立高に合格し、高校生活の中で『スクールは自分で考え行動しなければ何も起こらない。高校の課題研究のテーマ設計や、計画的な研究の進め方を考える上で、スクールでの学びが生きている』とも述べています。ですから、一時的に知識不足や学力不足が生じても、長い目で見れば学びの面でも、「サドベリースクール」はプラスの方が大きいという解釈も可能かもしれません。
 しかし私は、学校教育、特に義務教育は、少し学ぶことに時間がかかる、理解がやや遅いという子供にも一定の学力を保証するという制度設計がなされるべきだと考えています。そう考えると、上記の生徒のような優秀な子供の例を挙げることで、「サドベリースクール」的な存在を「学校」と認めるべきではないと思うのです。
 選択肢を広げることは善、そういう考え方もあります。あるやり方、価値観を強制するのであれば問題だが、従来の「学校」と「サドベリースクール」を選べるようにするのであれば問題はない、ということです。しかし、その選択が間違いである可能性が高いとなれば、それは無条件に善ではあり得ません。「サドベリースクール」は、下手をすると単なる「学校」からの逃避者の集まりになりかねない危険性があると思います。不登校からのひきこもり、自殺という地獄の泥沼から逃避できるのならばそれだけで十分と言われてしまえばそれまでですが。
 

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そんなことまで求められても

2021-10-22 08:10:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どこまで拡大?」10月17日
 『コロナと不登校 つながり守る対策が急務』と題された社説が掲載されました。コロナ禍で孤立する子供への対策の必要性を訴える内容です。その中に『オンラインで授業を受けられる環境を整え、学びを守りながら、同級生や教師との関係を保る対策も必要ではないか』という記述がありました。
 もっともな話だと思われる方が多いのではないでしょうか。でも私にはそうは思えません。この提言は、教員に今までにはない新たな負担を強いるものだからです。今まで、教員は授業をし、子供との人間関係を構築し、更に子供同士の人間関係に注意を払ってきました。この3つのうち、授業以外の後者2つは、学校という空間で子供と共に過ごすことで可能となるものでした。
 休み時間、教卓の前の椅子に座っていれば、子供たちが寄ってきます。そしていろいろなことを話しかけてきます。そこでの雑談は、子供もリラックスしており、お互いが「ある程度」自己開示をしながら相互理解を深める場になります。
 また、集まってくる子供たちとやりとりをしながらも、教員の目は教室中を見ています。一人でぽつんとしている子供、いつも一緒にいる「仲良し」とは違う子供集団に入っていく子供、いつもは教室にいることが多いのにさっと出て行ってしまう子供等々、子供同士の人間関係のもつれやほころびに気を配っているのです。
 こうした気配りを子供との時間と空間の共有なしに行うとなると、教員はそのために膨大な時間と労力を費やさなければならなくなります。もちろん、コロナ禍の特殊な状況において緊急避難的に行うというのであれば、仕方がないでしょう。しかし政府は、今後オンライン授業の恒常化を考えています。つまり、日常的に教員の負担増を強いるということです。
 それでは教員は疲弊してしまいます。対面を基本として作られている現在の学校教育の形、教員に求められてきた役割もその中で規定されてきました。もし、オンライン授業を本格的に導入するのであれば、それは学校教育の形を大きく変えることになるのですから、教員の求める役割も見直す必要があります。子供理解や人間関係の調整は、教員の仕事から外し、そのために新たな専門職を導入するか、そもそも学校は子供の学業以外には関与しないことにするか、いずれかを選択する必要があります。

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