ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

やっている感を出す

2020-02-29 08:29:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分かったらいいのだが」2月21日
 『小説は書き手の本質さらす』という見出しの記事が掲載されました。吉本ばなな氏、島田雅彦氏、若竹千佐子氏などの著名な小説家を育てた名編集者根本昌夫氏へのインタビュー記事です。その中で根本氏は、『文章指導は一切しない』と言い、『編集者だから、この人が本当は何を書きたいのかということはわかる方だと思います。すると、書いているものと書きたいものとの距離がわかり、それを埋める手伝いをしているのです。その人が伝えたいことに、その人自身がどうすれば近づけるかということです』と語っていらっしゃいました。
 すごいな、と思いました。私は教員として、様々な機会に作文指導、文章を書く指導をしてきました。先行実践事例などを学び、いろいろなやり方を試行錯誤してきました。カードに見出しを書かせて文章構成を考えさせたり、教科書の「名文」を写させたり、子供同士で読み合わせ相互批評させたり、短文で新聞記事へのコメントを書かせたりと。しかし、こうした指導をしていても、隔靴掻痒、何だか核心を外した指導に終始しているという感覚がありました。子供たちも「そうか!」という感じで書きだすことはほとんどありませんでした。
 今になって振り返ってみると、その理由が分かります。私は逃げていたのです。適切な指導助言ができないので、教員が前面に出ず、とにかく子供が鉛筆を動かすように仕向け、教員が過度の介入をせずに子供の自主性・主体性を尊重するという美名の下、指導しているポーズをとっていたのです。
 ではなぜ指導ができなかったかというと、根本氏流に言えば、子供が本当は何を書きたいのか、ということが分からなかったからです。「好きなように書いてごらん」という教員がいます。こうした指示を受けた子供はほぼ例外なく途方に暮れたような顔をします。子の指示は、本当に書きたいものがあり、それが何か自分で分かっている場合にだけ有効なのです。でもそれが分る子供はごく少数です。彼らが何も感じていなかったり、考えていなかったりするわけではありません。読書感想文でも、遠足で感じたことでも、社会科見学で考えさせられたことでも、敬老の日の祖父母への思いでも、上手く言葉にできないけれど何か形にならないモヤモヤしたものが頭に浮かんでは消えているのです。
 もし私にそれが分かっていれば、もっと違うアプローチができたはずです。しかし実際には、予定の時間が近づいても筆が進まない子供に対しては、待つことすらできず、「こういうことなのかな?」と疑問文の形をとりながら類型的な、そして私の感性に合う物語に誘導してしまうのでした。
 私のつれあいは、国語科の指導で、研究員、開発委員、研究生を経験し、区の国語科研究部長も務めた「国語指導の専門家」です。でも、彼女も子供の書きたいことが分かった経験はないといいます。根本氏のような能力をもった教員はいるのでしょうか。そうした能力を獲得するためには、どのような経験を積む必要があるのでしょうか。私だって2000冊以上の本を読んでいるのですが。

 

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前例、内規、条例のプロ

2020-02-28 08:52:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それぞれの職分」2月21日
 『豊島区職員24人警視庁書類送検 廃棄物不正処理容疑』という見出しの記事が掲載されました。区の職員が『無許可業者に区役所で不要になったソファなどの廃棄物処理を依頼した』という件で書類送検された事件について報じる記事です。記事によると、『全員が容疑を認め、「法律違反だとは思わなかった」「処理の仕方がわからなかった」と話している』そうです。
 それだけの事件です。悪意はなく、無知と無能が引き起こした事件です。でも私はとてもショックを受けました。以前にもこのブログで書いてことがあるのですが、私は教員を経て指導主事になったとき、指導室の事務職員と接してとても驚かされたことがありました。彼らの事務処理能力、つまり事務職員としての専門性の高さに、です。私と同じ時に採用された短大を出たばかりの女性は、3週間職場には姿を表さず、研修を受けていました。そして、4週間目に私の向かいの席に座ると、その日からきびきびと事務処理を始めました。初めの数週間こそ、先輩に聞きながらの処理でしたが、1か月も経つと自分の職務範囲については、ほとんどだれにも頼らずに処理するようになりました。
 その頃の私はまだ指導主事の仕事の1割も理解できず、特に自分が経験してきた小学校の教育課程や授業法に関すること以外は、電話を受けてもその場では答えられず先輩に質問してから折り返し連絡するのがやっとという体たらくでした。私は、一人前に仕事をこなし、ときには先輩の指導主事や室長や係長、管轄下の校長からの問い合わせにもよどみなく応じる彼女に嫉妬さえ覚えたものでした。
 彼女は、自分の職務に関する前例や内規、条例や法規などについて、よく理解して自分のものにし、私たち指導主事の仕事が円滑に進むようにフォローしてくれました。私もずいぶん助けられました。指導主事を何年か経験するうちに、彼ら区の事務職員たちがいてこそ指導室の業務が滞りなく進んでいくのだということを実感しました。学校や議会、区民や保護者など外部から見ると指導室の業務は指導主事ばかりが目立ち、「先生」などと呼ばれますが、実際には事務職員の皆さんが、内規や条例に無頓着な教員気質を引きずった指導主事の弱点をカバーし、適切に軌道修正してくれるからこそ、大きな問題を起こすことなく指導行政が進んでいくのだと分かったのです。
 それだけに、区の職員が食味に関する法律を理解せず、ベテランの課長や係長といった管理職さえそのレベルであったという事実にショックを受けたのです。教委を巡る議論では、いじめや体罰など指導主事が関与する部分ばかりに焦点が当てられがちですが、事務職員のレベル確保はできているのでしょうか。

 

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私の貧困な想像力

2020-02-27 08:42:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「考えたことがなかった」2月18日
 『新型肺炎 中国新学期を延期 オンライン授業に大わらわ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると『新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、中国各地の学校では17日に予定されていた新学期の授業開始が延期された。教育現場では、生徒らが登校せずに自宅で受けることができるオンライン授業への切り替えなどの対応に追われている』とのことです。
 私はこのブログで、ビデオ等を活用した遠隔授業について否定的な見解を述べてきました。今でもその立場に変わりはありませんが、この問題を考える際に、今回のような感染症の拡大で学校閉鎖状態が長く続くという事態を考慮したことはありませんでした。近年、地球温暖化の影響と思われる自然災害が相次ぎ、学校に登校して授業を受けることができない事態が発生することまでは想定していました。しかし、そうした状況下でも、他校の一部を間借りしたり、プレハブ校舎で授業をしたりするという対応が可能であり、そもそも子供たちを集めることが危険であるという、今回のような事態は頭の片隅にも浮かばなかったのです。貧困な想像力を恥じるばかりです。
 考えてみれば、今世紀になってからだけでもこれで3回目の人から人へ感染する大規模な感染症が発生したことになります。国境を超えた人の交流が深まり、人対人の感染症発生リスクは、今後増すことはあっても減ることはないでしょう。そうであれば、危機対応の一環としてオンライン授業(遠隔授業)について検討しておくことには反対できません。
 まず環境整備です。全ての子供が等しく授業を受けることができるためには、子供一人に一台パソコンなどの端末(?)が必要になります。複数の兄弟がいる場合でも、他の兄弟が授業を受けている最中に他の子供は遊んでいるという訳にはいかないのですから、人数分確保しなければなりません。小中高で1000万台、オンライン授業用に特化した安価な機種を開発したとしても、数十億円が必要です。さらに、実際に使用するときに壊れていては意味がないので、定期的な補修点検制度を構築する必要があります。
 環境整備が済んだとして、次に問題になるのは、授業の単位です。一学年3学級の小学校を想定した場合、同じ学年でも1組と2組とでは、各教科の進度に違いがあるのが普通です。また、授業を進めるルールや約束事も違います。ですから、学級数分だけ授業映像が必要になるのです。つまり、15学級の学校では、毎日6×15=90コマの撮影が必要になります。授業者に撮影等を担う補助者1名が必要と考えれば、30名の人員が必要になります。管理職や養護教員、事務職員等を総動員すれば何とか確保できるかもしれませんが、それだけの人が集まるとなれば、そこで感染が拡大してしまう危険性があります。
 どうもイメージできません。今回の感染が収まった後、文科省は関係者を派遣し、中国で行われたオンライン授業の実態を把握し、分析しその情報を各教委や教育学部のある大学等に提供してほしいものです。

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軽い藁の積み重ねが背骨を折る

2020-02-26 07:44:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見えないものを」2月17日
 『牛乳パック再生かごみか 納入業者回収取りやめ』という見出しの記事が掲載されました。学校給食で供される牛乳パックの回収から業者が撤退し、その処理に現場が混乱していることを報じる記事です。再生が可能となるように生徒が使用後の牛乳パックを洗うという取り組みをしている中学校もあるようで、そのことについて次のような記述がありました。
 『教育現場からは「教員の働き方改革に逆行するのではないか」という懸念も出ている(略)教員は、給食後に牛乳パックを洗って干す作業について「教員が付いて作業を見てあげることになる。多くの時間を割かれるわけではないが、こうした小さな業務の積み重ねが、教員の大きな負担になっている」と訴える』というものです。
 この指摘に対して、世間の反応はどうか、気になります。そんな少しの時間のことをと非難する声もあるでしょうし、都教委は『リサイクルの意識づけをすることは、環境教育の観点でメリットがある』とパック洗いを推進する立場を明らかにしています。そもそも生徒の作業を見守る時間は昼休みに当たり、一部の教員は職員室で休んでいるのではないか、という指摘(誤解?)もありそうです。
 しかしそうした意見の是非ではなく、私は、この教員の「小さな業務の積み重ね」という指摘に着目したいと思います。最近、家庭における家事について、炊事・洗濯など分かりやすいものだけでなく、余り家事をしない男性が理解していない「見えない家事」が話題になっています。
 私の義父は昔気質で、一切家事をしない人でした。義母に対して「一日中、家にいて何をしているんだ」というような人でした。一から会社を立ち上げ、社長として多くの人に会い、部下を指揮する毎日を過ごしていた義父には、専業主婦はよほど暇に見えたのでしょう。義母が亡くなって数か月後、義父は家の仕事がこんなに忙しいものだとは思ってもいなかった、と話しました。「見えない家事」が見えてきたのです。
 私も義父と同じです。共働きで校長職にあったつれあいの多忙さを知りながら、家事全般を任せっぱなしにして甘えてきました。退職後、少しは手伝い(手伝いという発想自体が問題だが)たいと思ってはいますが、トイレットペーパーの補充やレンジ内の掃除、醤油や調味料の補填、浄水器のパック交換など、細かいことには気が回りません。そして、そうした細かいことが10作業、20作業と積み重なるのが実際の家事であり、それなしには家事がうまく回らないということがやっと少し見えてきという状況です。
 この教員が言いたいことは、何もパック洗い作業の指導が嫌だとか面倒臭いとか意味がないとかいうことではないのです。教員の仕事には外部の人では気付けない、それ自体は数分で済むような、それだけに声高に言うのが気恥ずかしくなるような小さな仕事がたくさんあり、その一つ一つを見直していかない限り、働き方改革など絵に描いた餅に過ぎないということなのです。
 教育行政側は、教員の見えていない仕事についての認識をきちんともたなければなりません。教員を正しく守ることができるのはあなたたちだけなのですから。

 

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予期せぬところに弊害が

2020-02-25 08:05:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「解釈変更」2月15日
 『解釈 1981年答弁を変更』という見出しの記事が掲載されました。『黒川弘務・東京高検検事長(63)の定年を延長した閣議決定は「法解釈を変更した結果」』だという政府の答弁を巡る混乱についての記事です。私はこの問題について、とんでもないことだという立場ですが、ここではそのことにはふれません。
 この問題では、一般法である国家公務員法と特別法である検察庁法の関係が一つの焦点になっています。私は指導主事になるときに、教育関連法について初めて真剣に勉強しました。そのとき、初めに知ったのが特別法と一般法の関係でした。当時勉強に使った冊子には、次のように書かれています。「特別法優先の原理である。法律には一般法と特別法がある。例えば、地方行政に関しては地方自治法が一般法で、地方教育行政法が特別法となる。また、公務員に関する一般法として国家公務員法と地方公務員法があるが、教員に関しては特別法として教育公務員特例法が制定されている。一般法と特別法の間では前法・後法の関係なしに、特別法が優先するルールになっている」。
 これだけでは何が問題なのかよく分からないかもしれません。しかし、教委に勤務するようになってみると、この規定は大きな意味をもっていることが分かりました。それは教員の政治活動の制限についてです。公務員についての定めである地方公務員法では、「当該職員の属する地方公共団体の区域外において(略)政治的行為をすることができる」とあり、投票の勧誘や署名活動等をすることができるとされています。しかし、教育公務員特例法で、「地方公務員法第36条の規定にかかわらず、国立学校の教育公務員の例による」とされており、区域外でも政治活動が制限されるという規定になっていたのです。
 もしこの優先ルールがなかったとしたら、教員が隣の区市において大規模な投票勧誘や署名活動をしていても抑止できないことになります。学校の教員が特定の政党や政治家の応援をしているとなれば、保護者は偏向教育が行われているのではないかという疑念を捨てきれなくなりますし、同じ政党を支持する保護者の子供が有利な扱いを受けるのではないかという不安を抱くでしょう。保護者と学校・教員が信頼関係を築くことは難しくなります。
 安倍政権は今回、この特別法と一般法の関係を崩す蟻の一穴となり得る解釈変更に手を着けたように映ります。そのことは一見何の関係もなく見える学校教育行政にも、いくつかの影響を及ぼす可能性があります。とても不安です。

 

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学校への導入はどうなる

2020-02-24 08:50:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校へは?」2月15日
 『「日本語教師」国家資格に』という見出しの記事が掲載されました。『国の文化審議会の小委員会は14日、外国人らに日本語を教えるための新たな国家資格「公認日本語教師(仮称)」を創設する報告書案の大枠を了承した』ことを報じる記事です。記事によると、『教育の対象は、外国人労働者やその家族、日本語指導が必要な児童生徒~』とされています。ということは、小中学校にも配属されるということなのです。
 大変喜ばしいことです。しかし、この新資格がどのようなものなのか、あまりよく分かりません。記事では、資格要件として『判定試験への合格▽45コマ以上の教育実習▽学士(大卒)以上-を定めた』とありますが、これではイメージは浮かびません。キーポイントは、判定試験の内容ですが、この点が不明なのです。
 そもそも、外国人に教えるということですが、何語を母語とする外国人を指しているのかが不明です。学校現場では、英語を母語とする子供であれば何らかの対応は可能ですが、スペイン語、ポルトガル語、タガログ語、中国語、韓国語などになると非常に苦労するというのが現状です。これら全ての言語に対応した人材というのは非現実的ですから、実際には一言語かせいぜい2言語対応可能な者というところでしょう。しかし、地域により偏りがあり、年度によっても必要とされる言語は異なります。ある言語の日本語教員はあまり、別の言語の日本語教員は不足するということになりかねないと危惧します。
 また、日本人を相手とする一般の教員でも、幼小中で免許は異なります。中学校の数学教員であれば小学校1年生の算数の授業を指導することができるかといえば、子供の対応に苦労するケースは多いでしょう。日本語教員を校種別に確保するというのは無理でしょう。その点をどのように考えているのでしょうか。
 立場の不安定さの解消ということも今回の制度新設の背景にあるということですが、そうであれば当然正規雇用ということになるはずです。正規の公務員ということになれば、昇進の扱いを定めなければなりません。数十年務めても昇進はなく、同僚である他の教員は主任、主幹、副校長、校長と責任ある立場になっていくのに、自分は~というのでは、意欲低減の原因になりかねません。
 方向性には大賛成ですが、具体的な制度運用について、早急に全体像を提示して欲しいものです。そのためには、文化審議会での検討に委ねるだけではなく、中教審等での議論が必要だと考えます。

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創意工夫が生む悪習

2020-02-23 09:19:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「独自ルール」2月14日
 『児童答案 学校HPに 奈良・市立小 学校だよりと誤る』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『学校のホームページに、男子児童の算数テストの答案用紙を学年だよりと間違えて掲載(略)クラスや氏名、点数が分かる状態が半日ほど続いた』ということです。あってはならないミスですが、私が注目したのはミスそのものではなく、当該校に於ける悪しき慣習でした。
 ミスに至った状況について、記事では、『学年主任が6日、学年だよりをHPに掲載するよう別の教員に依頼した(略)HPへの掲載作業は管理職がするルールだが、他の教員らにパスワードなどを伝えて任せていたという』としています。つまり、教委が定めた手順を勝手に変更し、そのことについて問題視されることもなく、長年続いてきたという実態があったということです。
 おそらく同じような状況は他校でも見られるのではないかと思います。それは、我が国の文化に深く根ざした組織の体質とでもいうべきものに遠因があるからです。我が国では、細部に拘らず、部下を信頼して任せ、何かあれば俺が責任をとるから心配するな、というのが望ましい上司の姿とされてきたのです。西郷隆盛的な人物像です。
 私が若いころに勤務していた学校でも、校長公印が入っている引き出しの鍵を教頭がもっており、校長不在時に公印が必要になると、教頭が引き出しを開け押印してくれたものでした。誰もそれを不思議なことと思いませんでした。もちろん私も、です。校長が替わり、公印の引き出しの鍵を教頭に預けなかったことがありました。教頭は「信用されていないのか」と落ち込みましたし、私たち教員は、仕事が滞ると文句を言ったものでした。しかし、正しいのは新たに赴任した校長の方であることは言うまでもありません。
 もう一つの文化的伝統としては、仕事を円滑に進める創意工夫が良いこととして評価され、その傾向が行きすぎるあまりルールの意味が忘れられてしまうということです。司馬遼太郎氏の著書に、先の戦争時の陸軍のエピソードが綴られていました。構造的に戦車のエンジンを冷やす水冷タンクの水が漏れやすく、前線の兵士が水に糠を混ぜると循環しているうちに穴に糠が詰まりある程度水漏れを防ぐことを発見し、そのやり方で当座をしのいでいたが、構造的欠陥として上層部に進言するという発想はなかったという話です。
 我が国で初めて死者が出た原発事故の際にも、マニュアルを「改良」し、危険な放射性物質をバケツで移すという作業手順が長年続けられていたことが発覚しました。放射線被曝を防ぐというマニュアルの意義が軽視され、作業の円滑化だけが重視されたのです。
 今回のミスの背景に、管理職から主任、主任から他の教員と権限の下部委譲がおき、学校が多くの個人情報を管理する機関であるという原点が忘れられていたのでしょう。
 もちろん、日々の職務の中で効率的なやり方を工夫していくのは悪いことではありません。しかし、そのことばかりに目が向き、ルールやマニュアルが存在する意味が忘れ去られるとき、事件が起きてしまうのです。管理職は安易な権限委譲を慎まなければなりません。まして、職務の円滑化ではなく、自分が楽をするためであれば、それは決して許されることではないのです。

 

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部活王国

2020-02-22 07:57:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自己基準」2月14日
 『50代教員、生徒に暴言 八王子市立中 運動部顧問外す』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『部活動中、何度か、プレーでミスするなどした複数の男子部員に「僕は下手です」と言わせながらスクワットさせた』『練習中に何度か、複数の部員に「へたくそ」「あほ」などと言った』ということです。
 おかしな言い方ですが、体罰・暴言事件としてはよくあることです。私も教委勤務時代に同じようなケースにいくつも対応してきました。それにもかかわらず、今回この記事を取り上げたのは、次の記述に着目したからです。『(教員は)「自分が目指す部活動のレベルに達していなかった」と理由を説明した』というものです。
 この事件には、普通の体罰・暴言事件に加え、もう一つ重大な問題が潜んでいます。それは、学校で行われるある教育活動について、教員個人が達成レベルを設定することが常識のように認められているということです。学校生活の大半を占め、最も重要であるとされる授業においては、学習指導要領によって達成すべき内容が決められています。その基準に基づいて、学校ごとの年間指導計画によって、各単元で達成すべきことが具体的に示されているのです。
 複数いる数学の教員の中で、A教員とB教員では、同じ学年であるにもかかわらず、目指す達成レベルが異なるなどということはあり得ませんし、保護者も生徒も認めないでしょう。しかし、部活となると、そのときの顧問教員が勝手に達成レベルを設定しているのです。そしてこの達成レベルについて、校長を含め他の教員がその適否を検討吟味するシステムにはなっていないのです。つまり、生徒の現状からみて不適切な目標を立て、その目標に到達しないからという理由で体罰や暴言を行うという構造が温存され見過ごされているということなのです。
 おそらくこの教員は、市の大会優勝、都大会出場、関東大会代表というような目標を掲げ、到底そこには及ばない現状にイライラを募らせていたのでしょう。もちろん、そんな教員に注意をしたり助言したりする同僚や管理職の存在が必要だったことは否定しませんが、そもそも論でいえば、この教員が勝手に設定した達成レベルについて、学校内で共有し、その問題点を指摘し、適切なレベルに修正させる機能が、学校には必要なのです。
 学級担任制の小学校が「学級王国」と言われ、学級内で担任が独裁者になってしまう傾向があると言われるのに対し、中学校では「部活王国」になりやすい体質があるのです。特に、担当教員がその部活指導を専門にしていたり、他にその部活の指導経験がある教員がいなかったりした場合、今回のようなケースが発生しやすくなります。
 もし、普通の公立中学校の英語の教員が、うちの学校の生徒には全員英検1級を合格させるという達成レベルを設定し、そこに至らない生徒に罵詈雑言を浴びせたとしたら、誰もがおかしいというでしょう。しかし、部活ではそうした声は起きにくく、むしろ熱心な先生、目標を高くもって指導に当たっている熱血漢的な評価がなされやすいのです。
 私が経験したケースでは、バスケットボールの名門校という伝統があった中学校で、OBも保護者も区大会では優勝以外を認めない雰囲気があり、過去の栄光に縛られた顧問教員が行きすぎた指導にはしったという例がありました。こうなると、学校ぐるみで不適切な達成レベルを設定していた事例となってしまいます。まさか、今回の事例がそうであったとは思いませんが。

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支える人を育てる

2020-02-21 08:32:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「支える人を育てる」2月13日
 日本リザルツ・ケニア駐在員長坂優子氏が『ナイロビごみ問題に知恵を』という表題でコラムを書かれていました。その中で長坂氏は、ナイロビ市の状況を『街には至るところにごみ山があり、悪臭を放っている。これが、コレラや下痢、感染症などの原因となって、人々の命を奪っている』と書かれています。
 その改善に取り組む長坂氏は、改善を阻んでいた問題点として『定期清掃の習慣がなく、ごみをごみ箱に捨てるという認識すらない』という住民の意識の低さをあげています。ごみの分別というようなレベルではなく、ごみ箱という概念すらないというすさまじさなのです。幸い、長坂氏らの活動により改善がみられるようになってきているようですが、大変なご努力だと頭が下がる思いです。
 と同時に、このことは住みよい社会を建設するためには、制度や施設を整えるだけではなく、人々の意識や習慣、考え方が、制度やシステムを生かすレベルになければならないという事実を示していると考えることが必要です。分かりやすい言葉で言えば、民度ということになります。
 我が国は、民度が高いと言われます。私たちにとっては当たり前で、かえって気付きにくいことですが、そうした事例はいくつもあります。例えば、順番を守って行列を作って待つことができる、というのもその一つです。こうした「資質」は、災害時にパニック状態に陥るのを防ぐうえでも大切です。無人販売所で誰も見ていなくてもきちんと料金を払うというのも社会に信頼が根付いている証と見ることが可能です。
 ごみ捨てのルールが守られているかどうかは、その地域の住民の民度を測る指標として住宅購入の際の注意点になっているほどで、ほとんどの人が気を付けています。病院の待合室で、自分より後から来た症状の重い人が先に呼ばれても、事前に張り紙で周知されていれば怒り出す人はほとんどいません。
 もし、こうした常識や習慣がなかったら、我が国は随分住みにくくなっていることでしょう。こうしたことは、何も社会のこまごまとした習慣だけでなく、国の在り方についても言えます。アラブの春が失敗したのは、国民に民主主義を理解し受け入れるだけの準備が整っていなかったからでしょう。一方、戦後、我が国が民主主義国家にかじを切ることができたのは、当時の我が国の国民が、新しい思想である民主主義を理解し順応するだけの能力が備わっていたからです。これもまた一つの民度です。
 我が国の学校教育は、この「民度」を育む上で大きな役割を果たしてきたと思います。その功績を忘れるべきではありません。近年、グローバル化を受け、優秀なトップを育てる教育が重視される傾向にありますが、学校教育、特に義務教育が果たす民度の高い一般大衆層を形成する役割を軽視するべきではありません。優秀な平凡人を育てるのが公教育の一番の責務なのですから。

 

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短所は直さずに

2020-02-20 08:39:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「短所は変えなくてもよい?」2月12日
 法政大総長田中優子氏が、『多様性を生かす「配慮」』という表題でコラムを書かれていました。その中に考えさせられる記述がありました。『元陸上選手としてアスリートと社会をつないでいる本学卒業生の為末大さんは、この特長はいる場所によって、短所か長所かが決まると指摘』という記述です。
 言いたいことは分かります。ある場面では優柔不断と非難される特長が、別の場面では慎重・熟慮と評価されることがあるというようなイメージでしょう。しかし、こうした考え方を推し進めていくと、ある人の「短所」を変えたり矯正したりする行為は必要なく、その人の「短所」と言われている特長が生きるような環境整備や条件設定をすることが重要である、という考え方になるのではないかという疑問が生じてしまいます。
 もしそうであるならば、そもそも教育とか指導とかいった概念そのものが否定されてしまうのではないでしょうか。自己主張が強く屁理屈をこねてでも決して自分の誤りを認めないという子供には、ディベートばかりさせておく(本当のディベートはそういうものではありませんが)、すぐ暴力をふるい何でも力で解決しようとする子供はボクシング部に入部させて殴り合いをさせておく(ボクシングは暴力ではありません。念のため)。そうして自分の特徴が十分に発揮され、そこで自分の存在が認められ、自尊感情が芽生えて、「短所」がより穏やかなものに変わっていく、というのであればそれも一つの教育の手段と言えるかもしれませんが、私の経験が、そんな甘いものではない、と告げています。
 私は「短所」の多い人間です。ケチで、嫉妬深くて、助平で、プライドが高くて素直に過ちを認めることができず、偏見や差別感情をどうにか抑え込んでいるだけで本当は排他的な価値観をもっている、怠け者で努力するよりも幸運を待つ無気力な人間です。家族は大切だと思っていますが、赤の他人には冷たい冷血漢でもあります。
 それでもそうした「短所」を少しずつ抑え込んでいかなければ広い意味で社会に受け入れてもらうことができず、生きていくことができないということを自覚した結果、自制を重ね、ある意味仮面をかぶって今日まで無事に生きてきました。そうさせてくれたのは、広い意味での教育、両親や姉、祖父母、学校の先生方、職場の先輩や上司などの指導や叱責、注意のお陰だと思っています。
 個性を尊重し伸ばす教育、それは多様性を生かす教育でもあるわけですが、そうした教育は短所の矯正を放棄した教育なのでしょうか。そんなはずはないと思うのですが。長所を伸ばすことについて、異議のある人はいないでしょう。しかし、短所をどうすべきなのか、この点については、意見が分かれ立場が異なるような気がします。教育に関係する者の間で議論が望まれます。その際、短所も捉え方次第で長所になるというような結論に逃げ込まないことが大切です。

 

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