ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

いくら長くても

2016-09-30 08:52:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それが指導力不足」9月20日
 川柳欄に、下関市のN氏の『丁寧というがクドクド喋るだけ』という句が掲載されました。思わず苦笑してしまいました。以前もこのブログで再三触れてきたことですが、私は教委勤務時代、「指導力不足教員」の研修を担当してきました。そこで接した「指導力不足教員」たちの特徴こそN氏の句とぴったり重なっていたのです。
 彼らは研修当初、自分の話の内容や意図が子供立ちにきちんと伝わっていないと言うことに気がついていません。数回の授業を重ね、その授業記録を作成させる中で、授業下手の原因が、自分の話が伝わらないまま授業を進めようとしていることに気付いていきます。
 そこで彼らは、丁寧に話す、話し後理解できているか確認する、という課題をもつようになります。しかし、課題克服に成功する者は極めて希なのです。それはN氏の句のように、クドクド長く話すだけだからなのです。「分かりましたか?もう一度言いますよ。良く聞いていてください~」というような感じなのです。
 何年生の子供には、一つの話を何秒くらいに終わらせなければならないか、という配慮が足りません。分かりにくい話はそのまま何回繰り返しても分かりにくい、という当たり前のことが理解できていません。訳の分からない話を聞かされたとき、分からなかったからもう一度しっかり聞こうと考える子供は少なく、訳の分からない話なんか聞きたくないと拒絶する子供の方が多いという教員の常識を持っていません。
 その結果、こんなに丁寧に何回も説明しているのに分からないなんて、「この子供たちはやる気がない」「元々バカなんだ」と子供を責めるようになっていくのです。そして、「ちゃんと聞いてましたか」と目がつり上がり、「やる気あんのか!」と怒鳴り出すのです。ここまでくれば、授業はめちゃくちゃです。
 N氏の句がどのような場面を詠んだものなのかは分かりませんが、大人対大人のケースだと思われます。大人でさえ、クドクド長く話すだけと受け取るような話し下手が多いのですから、知識や語彙が乏しい子供に、子供が知りたいと思っているケースではなく教員が知らせたいと思っている場合が多い授業の場では、よほど準備しておかなければ、分かりやすい話はできないのです。
 私は、授業の前には、発問・指示計画を作成させましたが、彼らの多くは、十分な時間を与え、落ち着いて考えさせても、分かりやすい話の音声原稿を書けない者が少なくありませんでした。
 私はそんな彼らを見て、話すこと、意思伝達の基本ができていないのだと思いました。野球選手は単純ななキャッチボールのときに、相手の胸にきちんと届くように1球1球投げる習慣をつけると言います。教員の「話す」も同じです。日常生活の中で、誰に対してもきちんと伝わることを意識して話すという習慣を身につけることが大切です。

 

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子供ファースト

2016-09-29 07:49:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「理由」9月17日
 同志社大教授浜矩子氏が、『グローバル化が生む格差 関心の高まりの裏側は』という表題でコラムを書かれていました。その中で浜氏は、『一様に心配しているのは、端的にいえば、国々における体制の不安定化だ~(中略)~だがそれがなければいいのか。人々がおとなしくその憤まんをのみ込んで、声をあげずにいる限り問題はないのか』と書かれています。
 EUやIMFのリーダーたちが、グローバル化の進展によって生じる格差問題について懸念の念を表明していることを肯定的に受け止めながらも、リーダーたちが心配しているのは、一人一人の市民の暮らしではなく、体制の動揺なのではないか、その場合、実は一人一人の悩みや苦しみには目が向いていないのではないか、と指摘しているのです。
 似たようなケースはあらゆる分野で見ることができます。学校教育の場合も例外ではありません。学校教育の本質は言うまでもなく、今各学校で学んでいる子供たちの「幸せ」の実現です。「幸せ」のイメージは、人様々であり、微妙に異なっているのは当然ですが、将来国民として必要な知識や技能を獲得すること、その中には共感性、前向きな向上心、寛容な心、強い責任感などの心の面も含まれるでしょう。
 さらに、いくら必要な知識や技能の獲得とは言っても、外的な力によって強制的に教え込まれる、敢えて言えばサーカスの動物の調教や訓練的な学校生活を肯定する人はほとんどいないはずです。規律ある中で自主的に学び、成長や達成の実感、喜びを味わうことができるようなシステムを求めていると思われます。
 であれば、学校教育改革は、そうした「幸せ」が実現できるか否かという点が最重要視されなければならないはずです。しかし、実際には、官僚のメンツや政治家の功績づくり、圧力団体ともいうべき各種団体や業界からの要請の調整、市民や保護者への阿り、惰性的な前例踏襲、政治的取引、などによりこの原点が忘れ去られてしまうことがあるのです。
 つまり、関係者と言われる人の都合が優先され、当事者である子供の視点や利益が軽視されてしまうことに鈍感になってしまうのです。特に学校教育は、当事者である子供がまだ社会的に未成熟であり、自ら声をあげることが少ないという性質上、こうした傾向が顕著となりやすいのです。保護者も教員も、子供のためと口にしながらも、無自覚なまま、実は短期的な自分の利益という動機で、改革を求め、あるいは反対していることが少なくないのです。
 小池都知事ではありませんが、本当の意味での「子供ファースト」が大切です。難しいことですが。

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狭い専門家

2016-09-28 08:50:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「細分化」9月17日
 『豊洲市場 委員、空洞認識せず』という見出しの記事が掲載されました。記事には、土壌汚染対策の工法を検討した「技術会議」の委員を務めた東洋大教授根本祐二氏のコメントが掲載されていました。都の『建物下に空間が必要なことは技術者の常識』という見解に対し根本氏は、『自身の専門は公共インフラの老朽化対策などを検討する「公共政策」で、建物下に空間があることが常識だとは考えていなかった』と述べていらっしゃいました。また、同じく委員を務めた産業技術大学院大学長で水位の制御・システム管理が専門の川田誠一氏も、『専門外の話は用語も分からないことがあった』とおっしゃっています。
 つまり、技術会議というイメージから素人が描く、土壌汚染対策の専門家、それも我が国一流のレベル、教授や学長といった自他共に求めるその道の有識者という存在ではなく、ごく狭い研究分野についてのみの専門家であったということです。
 このようなイメージと実態のギャップというのは、何も汚染対策に限らず、様々な分野において存在するように思います。私も教委勤務時代に様々な「専門家による会議」の事務方を務めてきました。児童虐待対策であれば、子供の人権保護の観点から弁護士、子供の心理に詳しいとされる臨床心理士、家庭や保護者の代表としてPTA会長連合会代表、所轄警察署の生活安全課長、虐待の現場を知る児童相談所の相談員、市内にある大学の教授などが委員に委嘱されます。
 確かに彼らは専門家です。しかし、学校の実態については全くの無知であったり、統計的な事実には詳しいが個別の事案については知識がなかったり、その逆だったり、という状況で、全体を俯瞰して語ることができる人が少なかったというのが、正直な印象でした。
  当時の話し合いでそうした発言はありませんでしたが、おそらく上記の川田氏のように他の委員の使う用語さえよく分からないが何となく質問しにくくてそのままにした、というようなケースもあったと思われます。前の発言と何の脈絡もない話が唐突に語られるという場面は何回も目にしてきましたから。
 今回の豊洲市場問題や私自身の経験からして、行政側は、専門家による検討、専門家による提言というものの内容や価値について、本音の部分では重要視していない側面があるのは確実です。都合の良い方向での権威付け、検討したというアリバイ作りという価値しか認めてはいないという場合も少なくないように思います。それは、行政側の意識の問題もありますが、全体を俯瞰できる専門家が少ない、もしくはいない、そして少しでも全体的な視野をもっているのは実は行政側の中間管理職だけ、という実態があるからだと思います。
 「専門家会議」というものについて、根本から見直す必要があります。それは、教育行政についても例外ではありません。

 

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阿諛迎合

2016-09-27 07:11:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「阿り」9月16日
 インターネットイニシアティブ会長鈴木幸一氏が、『「おもねる」ことに未来はない』という表題でコラムを書かれていました。その中で鈴木氏は、小池百合子都知事の、給与半減やリオ五輪出張の際のビジネスクラス利用を取り上げ、『優れた人材にその能力を発揮してもらうには、能力に応じた報酬を与える必要がある』『東京都に期待するのは、とびきり優れた人材を集めて、将来を見据えた政策をつくり実現すること』と批判なさっていました。
 鈴木氏は、給与半減もビジネスクラス利用も、知事が都民に「おもねっている」と言っているのです。私も、確かにそうした面はあると感じています。そして、こうした「阿り」が、公務に携わる者全体に広がっていくことを憂える気持ちもあります。
 以前このブログで、某大学の教官たちが、自らの給与の一部を拠出し苦学生の援助に充てるという動きを取り上げ批判したことがありました。そのときには使わなかったのですが、その根底には鈴木氏の指摘同様、世間への阿りを感じていたのです。我が身を削ってまで教え子のために尽くすということで、教育者の鏡という評価を得る、悪く言えば人気取りです。
 そしてこうした見方は、大学の教官に限らず、小中学校の教員にも当てはめられているのです。朝食を摂らずに登校した子供に自腹を切って菓子パンを与える教員、積立金が払えず移動教室に参加できない子供の参加費を負担して参加させる校長など、「自己犠牲」を美談仕立てに伝える報道は、今も残っています。
 そんな「自己犠牲」は、制度改革を遅らせ、事態を悪化させる行為であるにもかかわらず、教育者というだけで、自己犠牲を求め、美談に仕立てる世間があり、それに阿る心得違いの教員たちがいるのです。だからこそ、鈴木氏の指摘に共感を覚えてしまうのです。
 公職者、教育者は世間から自己犠牲を期待され、本人たちもそれを自らの使命と誤解するという傾向があります。悲壮感に酔うという言い方もできます。そして公立校の教員は公職者であり教育者であるという二重の自己犠牲陶酔症傾向をもつのです。教員が目指すべきは、優れた業績を残し、堂々とそれに見合った待遇を求める姿勢です。もちろん、能力もなく業績を上げられないにもかかわらず、待遇だけを求めるようではいけないことは言うまでもありません。

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世の中の変化の後に

2016-09-26 06:53:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「二重国籍」9月16日
 論説委員福本容子氏が、『二重じゃダメですか』という表題でコラムを書かれていました。その中で福本氏は、蓮舫民進党代表の二重国籍問題に触れ、『日本国籍を取得した人はどうして母国の国籍を捨てる必要があるの?世界と日本をつなげてくれる国家的財産を実は失っていることに気付くべきだ』と述べていらっしゃいます。
 英国の中央銀行総裁や元首相が二重国籍であることも紹介し、我が国の度量の狭さを批判なさっているのです。その主旨には賛成なのですが、一方で身近な問題に引き寄せてみると難しいという気もします。
 例えば、台湾との二重国籍者が、教員になったとき、母国が中国と同じ色に塗り分けられた地図帳、ちなみに地図帳は社会科の教科書と同じ検定を合格した教科用図書です、を基に授業ができるでしょうか。ロシアとの二重国籍者の教員は、クリミア半島がウクライナ領として掲載されている地図帳を基に…、韓国との二重国籍者の教員は、竹島が日本領とされている地図帳を基に…、同じような事例を繰り返しても意味がないのでここで止めておきますが、我が国の学習指導要領に基づいて記述された教科用図書と自己のアイデンティティの間の葛藤をどう処理するのか、竹島は韓国領という授業をされては校長や教委は看過することはできませんから。
 また、学校における様々な儀式には、教員は正装で参加することが求められます。近年一般的になった袴での卒業式列席も、我が国固有の正装という意味で認められてきました。では、韓国との二重国籍者である教員がチマチョゴリで卒業式に出席し卒業生の名前を読み上げたらどうでしょう。民族の正装ということですから拒む理由はありません。しかし、保護者から苦情が出される可能性があります。これは、実際に東京都の某区であったことです。
 福本氏が述べているように、国籍はその人のアイデンティティの一つです。しかし、我が国の公教育では、個人の重要なアイデンティティの一つである宗教については実質的に持ち込み禁止となっています。女性教員が目だけを出し後は黒い布で覆った姿で勤務することを保護者の多数は容認しないでしょう。少なくとも現時点では、二重国籍についても違和感を感じる保護者が少なくないと思われます。
 学校が閉鎖的なのかもしれませんが、学校という場所は本来保守的であるべきであり、世の中が変わってから変わるというのが望ましい在り方であると考えます。教員に二重国籍を認めるという改革は相当先の話でなければなりません。

 

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「彼氏としちゃった」と聞かされて

2016-09-25 07:59:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「プライバシー」9月14日
 日本家族計画協会クリニック所長北村邦夫氏が、『子ども1人の受診 責任持った行動 応援したい』という表題でコラムを書かれていました。その中で北村氏は、15歳の少女の訴えを紹介していました。『かかり付けのクリニックでぼうこう炎と診断されたときに、「彼氏とセックスした」と医師に伝えました。それがぼうこう炎の原因ではないかと考えたからです。その時、親に内緒にしてほしいとお願いしたのに、クリニックから家に電話が入りました。私のプライバシーはどうなっているのですか』というものです。
 北村氏は、『子どもが親に知られたくないと言うのに親を巻き込むことは子どもの権利の侵害になるのは当然』と述べていらっしゃいました。難しい問題であり、北村氏のおっしゃることも十分に理解できます。しかし、私の理性ではなく感覚は、北村氏の見解に強烈な拒否反応を示しました。
 このコラムを読んで、私の頭に浮かんだのは、学校の教員が、教え子の少女から「彼氏とセックスした。親には言わないで」と言われたときにどうすべきなのかということでした。子供のプライバシー権という人権に配慮し、黙っていればよいのでしょうか。黙っていて、妊娠、堕胎というような事態になったとき、その教員は責められないのでしょうか。
 私の常識では、15歳の少女とセックスして平然としている男性は、責任感の乏しいいい加減な人物であるか、自分の衝動を抑えられない未熟な人物であるか、社会倫理など無視した反社会性の強い人物であるか、いずれにしても少女の将来を幸せにすることが期待できる人物ではないという評価になります。私が古風な人間であることは十分に自覚しているつもりではありますが、私ほどではないにしろ、思春期の少女をもつ保護者の多くは、我が娘のセックス体験を好ましいものとは考えないと思います。それだからこそ、娘が「セックスした」という告白を知らせてほしいと思うと考えるのです。
 このプライバシー問題は、教員だけでなく、スクールカウンセラーなどにとっても悩みの種になるはずです。私がその教員であれば、実際上の対応は簡単です。上司である校長に報告し、校長の判断を仰ぐのです。そうすれば全ての責任は校長に移りますから、もう悩まなくて済みます。ただ、本質的な解決ではなく、責任の所在を移しただけですから、校長が悩み、もしかしたら教委に相談し、と次々と責任転嫁の輪が広がるだけかもしれません。
 少女の告白が、覚醒剤使用などという犯罪行為であれば、躊躇うことなく関係機関に通報すればよいだけです。しかし、少女のセックスという行為については、人により捉え方が大きく異なります。それだけに悩ましいのです。子供との信頼関係の問題もあるし。北村氏同様、『読者の皆さんはどう思われますか』と投げかけて終わるしかないのかもしれません。

 

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参加体験型研修で分かること

2016-09-24 07:24:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分かったつもり…」9月13日
 上東麻子記者が『忘れないで』という表題でコラムを書かれていました。その中で上東氏は、『参加者が4人1組になり、2人はおしゃべりをする役、1人は会話に入り込もうとするが、2人はそれを無視して話し続ける。もう1人は観察する』という若者の交流イベントに参加した体験を紹介なさっています。無視され続ける役になった参加者は、『みじめだった』『悲しい気持ちになった』などの感想を述べていたそうです。
 この参加体験から上東氏は、無視され続け意思疎通を図ることができない状態にいる子供たちへの配慮を訴えています。その通りだと思います。私も、教委に勤務し人権教育を担当していたときに行った研修を思い出しました。それは、出席者の教員全員のおでこに講師が何色ものカラーシールを貼り付けるというものでした。自分のおでこを見ることはできませんから、自分が何色かは分かりません。その上で、同じ色同士でグループ作りをするのです。自分の力ではどうすることもできないおでこのシールの色という要素で仲間はずれにされていくという体験をするロールプレイ型の研修でした。
 しかし私が感じたのは、上東氏とは少し異なる感想でした。所詮限られた時間のこと、原因は自分の本質にはない人工的な要因であることなど、本当に集団内で無視され続けている人の苦しみとはほど遠い感覚ではないのか、という疑問を感じてしまったのです。
 こうしたタイプの研修の意義を否定するわけではありませんが、分かったつもりになってしまうことの傲りのようなものが危惧されてなりませんでした。
 今、バーチャルリアリティ、いわゆるVRゲームが人気を集めていますが、そうしたゲームはあくまでも実際の体験とは異なります。当たり前のことで、誰もがそのことを認識し理解しています。それなのに、上東氏が体験したような型の研修会や勉強会では、一定の権威のある主催者、講師の指導などもあり、仮の体験であるにもかかわらず、分かったつもりになってしまう人が多いのです。
 私はこのブログで、教員にとっての児童理解とは、「別個の人間である子供のことが全部分かるはずがない、それでも少しでも分かることを増やそうと必死であがく過程こそが大切だ」という趣旨の主張を繰り返してきました。それは今も変わりません。だからこそ、分かったつもり、が恐ろしいのです。いつか、「このくらいの苦しみなら我慢できるよね」になってしまうのではないかと。参加体験型の研修で感じたことは、ごく一部だということだけは「忘れないで」と思います。

 

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弱者連合

2016-09-23 06:44:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いじめられ仲間」9月13日
 作家津村記久子氏が、『複雑化する職場のモラハラ』という表題でコラムを書かれていました。その中で津村氏は、『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』(マリー=フランス・イルゴイエンヌ著)の内容を紹介していました。私が気になったのは、『横暴に怒鳴り散らしたりする上司の下で、個々が侵害されながらも、慰め合いながら団結している状態というのは、モラル・ハラスメントに遭っているとは言わない』という記述です。津村氏は、これについて、『下の者が理解し痛みを共有し合うことさえできていれば、人間は何とかやっていける』ということを示しているとしています。
 全くその通りだと思います。私は研究生のとき、指導教官の「ハラスメント」に遭っていました。もっとも、当時はハラスメントという概念は一般的ではありませんでしたので、そうした認識があったわけではありませんが、今ふり返れば、間違いなくハラスメントでした。
 食事のとき、皆が麺類を頼んでいるのに私だけカツ丼を頼んだときには、「何でお前は協調性がないんだ」と責められましたし、退勤後部屋のみんなで飲みに行くことになったとき、教官たちと並んで歩いていたら、「速く走って行って店を探すんだ」と怒鳴られました。部屋の慰安旅行では、タクシーで駅に向かう共感たちを走って1km余り追いかけさせられました。彼らの荷物を持ちながら。
 そんな状態でも何とかなったのは、同じ研究生仲間が理解し、「大変だよな」と言ってくれたからでした。私へのハラスメントは研究所内でも有名で、他の部屋の研究生からも声をかけてもらっていました。特に同じ小学校社会科の研究生だったM氏には、毎日愚痴をこぼし合うことで精神的に救ってもらいました。
 私は昔話をしたいわけではありません。ただ、津村氏が紹介した言葉が正しいということは、その逆の状態になれば、どんな精神的にタフな人間であっても耐えられないということを意味すると言いたいのです。逆の状態、つまり、自分と同じ立場にある弱者の誰も理解してくれず、痛みを共有してくれないとき、人は救いのない絶望の中に突き落とされるということです。
 それが、学校におけるいじめなのです。学級や部活を支配するボスがいます。支配され、その顔色を窺う弱い子供たちがいます。彼らの中に何人かは、進んでいじめに加わることで自分を守ろうとします。誉められたことではありませんが、弱い人間の自衛措置であると考えると、無理の内面もあります。そして多くの弱者は傍観者として被害者に救いの手をさしのべることはしません。
 それでも、ボスのいないところでは、「大丈夫?」と声をかけてくれたり、帰宅後「今日は助けてあげられなくてごめん」と電話をくれたり、「今度の日曜日に一緒に買い物に行こう。ただしAさんには内緒でね」とメールをくれたりする子供がいて、精神的な弱者連合をつくることができれば、何とか耐えることができるかもしれないのです。
 そんな見えない仲間もいない、そう実感したとき、いじめは、いじめ自殺につながっていくのです。理想論ではなく、現実的な対応として、見えにくい弱者連合結成をいじめ対策の一つに加え、検討することが大切です。

 

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内向き・外向き

2016-09-22 07:06:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「内と外」9月13日
 『人脈作り「内向き」傾向』という見出しの記事が掲載されました。住友生命が行った会社員の人脈作りに関するアンケートの結果を報じる記事です。記事によると、『大切な人脈を選択式で尋ねたところ「社内」が39.0%と最も多く~(中略)~「社外の異業種の人」は11.0%にとどまった。20年前の調査では「社外の異業種」が38.0%と首位』だということです。
 こうした結果の背景については、経済的な閉塞感という分析がなされていましたが、私の関心は別なところにあります。もしこの調査を教員対象に行うとしたら、どのような結果になるかということです。
 その際、教員にとって「社内」とは何を指すか、ということが問題になります。私は教員時代に社会科の私的な勉強会に所属していました。区の社会科研究会にも所属していました。正直なところ、同じ学校の教員よりもそうした勉強会や研究会に所属している「同好の士」の方が、濃密な人間関係を築いていたように思います。
 同じ区の別の学校の教員は、「社外」でしょうか。これは身内だとしても、他の区市の学校の教員は「社外」でしょうか。勉強会には、私立や国立の教員もいました。彼らはどうでしょうか。また、教委の指導主事となっている先輩もいました。教員ではない彼らは「異業種」でしょうか。
 コネに期待したり、学閥をつくったり、というイメージの人脈ではなく、「社内」では受けることのできない刺激を受け、自己研鑽に生かすという意味での人脈を考えた場合、私の研究会や勉強会の仲間は、「社外」に当たると思います。自画自賛と批判されるかもしれませんが、元々教員としての資質に恵まれていたわけではない私が、教員としてそれなりの実績を残し、教委に勤務して室長を務めることができたのも、こうした「社外」人脈で育てられたからだと考えています。
 今、教員の世界においても、「内向き」志向が強まっているように思います。研究会や勉強会に自主的に参加する若い教員が減っているように思われてなりません。まず足下を見つめるということで、校内で先輩から学ぶということの大切さを否定するつもりはありませんが、それだけでは視野が狭くなってしまう危険性がありますし、配属された学校が問題のある学校であった場合、貴重な若いときを無駄にしてしまう結果になってしまいます。教員は公務員です。経済の閉塞感に囚われる必要性は乏しいはずです。もっと外向きになってほしいものです。

 

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教員の基礎体力

2016-09-21 07:32:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員の基礎体力づくり」9月11日
 『想像力養うストーリーテリング』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『語り手が昔話などの物語を暗記し、本を見ないで子どもに語る「ストーリーテリング」が教育現場などでじわじわと広がっている。子どもの想像力や菊池からが養われるという』のだそうです。
 子供に対する教育効果についてはここでは論じません。私が指摘したいのは、教員の指導力育成という視点から見た「ストーリーテリング」効果です。私には忘れられないシーンがあります。
 大学4年生のときの教育実習でのことです。教務主任を務める40代後半の教員A氏が特別な授業を見せてくれるというのです。学年は2年生でした。A氏は黒板を背にして立ち、お話を始めました。私の知らない昔話のようでしたが、至って単純なストーリーで、普通に筋だけを辿れば、10分もかからないで終わってしまう内容でしたが、A氏は、表情豊かに、身振り手振りを交えて、さらに時折子供たちに「どうなったと思う」などと語り掛け、子供の質問にも答えながら、つまり子供とやり取りをしながら、話をふくらませ、とうとう45分間、一つの昔話で子供たちを引きつけ、飽きさせることなく「授業」を終えたのです。
 今の私であれば、A氏が行ったのは、学習指導要領のどこに位置付くのか、学校の年間全体指導計画との関連は、評価に視点と基準は、などの疑問点を指摘するでしょうが、当時は、A氏の神業のような語り口に呆然とする思いだけでした。何しろ当時の私ときたら、教えたいことは山ほどあり、そのための指示や注意を煩いくらいに繰り返しても、子供たちは耳を貸してくれず、怪訝な顔をしたり、露骨につまらなそうな顔をしたり、少し大人びた子供は私に同情の表情を見せるという有様で、学習指導案も準備もなく(当時の私にはそう見えた)、しかも小さな2年生を45分間引きつけ続けるなどということは、人間業には思えなかったのです。
 神業の種明かしをすれば、A氏は、学生時代から「児童文化部」に所属し、紙芝居で鍛えてきた語りの達人だったのです。その時から私は、教員にとって「話す」「語る」ことの重要性を自分の研究課題としてきました、記事にある「ストーリーテリング」は、教員としての基礎体力のようなものを強化する上で絶好のトレーニングになると考えます。授業の下手な教員だと自覚のある人は、早速取り組むべきです。

 

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