ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

迎合と忖度の私

2018-06-30 08:00:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「私にはできない」6月21日
 夕刊の特集ワイドで、映画「ゲッベルスと私」が取り上げられていました。『あなたなら抵抗したか』という見出しがつけられたイントロ部分に、『ナチス・ドイツの宣伝相の秘書として働き、独身のまま106歳まで生きた女性は映像の中でこう語る。「あの時代はまるで波間にいるようだった。考えたのは私の命や運命。自分のことしか考えてなかったわ」』という記述がありました。
 また彼女は、『今の人たちはよく言う。「自分たちがあの時代にいたら、もっと何かをしていた。虐殺されたユダヤ人を助けたはずだ」と。でも、彼らも同じことをしたと思う。当時、国中がガラスのドームに閉じこめられ、みんな巨大な強制収容所にいたのよ』とも語っているそうです。こうした発言を前提に、「あなたなら抵抗したか」という見出しがつけられているのです。
 文章は、全体的に彼女の「言い訳」に対して否定的なトーンで貫かれていました。酷な話だな、というのが私の実感です。私が彼女の立場だとしたら、「抵抗」はしていないと思います。自分に危険が及ばないようにじっと身を潜め、目立たないように心がけて生きていくと思います。もし、反抗分子として目をつけられそうになれば、進んで反ユダヤのふりさえしたと思います。私は弱い人間で、自分ファーストですから。
 恥ずかしい話です。でも、こんなに弱い卑劣漢は私だけなのでしょうか。他人を自分のレベルにまで引きずり込むようで気が引けますが、正直なところ、世の中の大部分の人が私の同類なのではないかと考えています。目の前に不当に差別されている人がいて、その人に向かって銃の引き金を引けと命じられ、拒むならばお前もお前の家族も殺すと言われ、それでも正義を貫き通す、という鋼鉄のような意思をもつなんて、人間離れした怪物だとしか思えないのです。
 人間は弱く、一つの方向に激流となって流れている社会の風潮にたった一人で逆らうことなどできないというのが私の認識です。だからこそ、戦争や差別・排除といった流れが激流となる前に、チョロチョロと流れる濫觴を見て危険を察知し、小さな流れを止めるために小さな石を置くことができる人間を育てることが大切なのだと思います。
 学校教育は、この点を意識し続けることが必要です。私が長年研究してきた社会科は、民主的な社会を構成する市民として必要な公民的資質の基礎を育成することを教科の目的としています。公民的資質については、様々な説明や定義づけが可能ですが、一番シンプルな説明は、最大の人権侵害である戦争に至る危険な気配を察知し食い止めようとする能力態度である、と考えています。
 歴史を学ぶことも、政治の仕組みを知ることも、この能力態度を身に着けさせるために必要とされているのです。歴史教育や政治教育について様々な議論が交わされていますが、この本質からそれていないか、常にそのことを意識してほしいと思います。

 

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居場所としての

2018-06-29 07:48:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「世間は広い」6月20日
 『論点「日大アメフット問題」』で、3人の方がインタビューを受けていました。その中で、作家・演出家鴻上尚史氏の語られている内容が気になりました。鴻上氏は、『背景に、日本的な「世間」がある。日本は会社や隣近所、クラスなど、狭い「世間」の集合体だ』と指摘なさっています。その通りだと思います。そして、この指摘自体は特別目新しいものではありません。ただ、鴻上氏はそこに止まらず、『ならば逆に、他人に同調、追随したがる文化を今後の希望にできないか』とおしゃっているのです。
 どういうことかというと、宮川選手の記者会見での発言は、『インターネット上の「指示があった」とのうわさに背中を押されたから』であり、現代社会には『ネットという広い「世間」』が存在するというのです。つまり、IT機器の発達と普及により、物理的に狭い範囲に限定されていた「世間」が、無限の広がりをもった「世間」に変わったというのです。
 鴻上氏の指摘を目にし、私は指導主事選考試験を受けていた25年前を思い出しました。当時は地域に根ざす学校という考え方が主流で、如何に地域と連携するかということが大きな教育課題とされていました。その際、地域という言葉からイメージされる学区域のような物理的なエリアを想定するのではなく、卒業し他地域に居住しながら学校に関心をもっている卒業生や同窓会組織なども心理的な地域として考えるべきだというような議論が交わされていたのです。
 また、私が長年研究してきた社会科教育の分野においても、「身近な教材の開発」に取り組む際には、心理的な身近という概念に配慮すべきだとされていたものでした。例えば、学区域にある名もなき寺社よりも、大河ドラマで取り上げられた厳島神社の方が身近な存在であるかもしれない、というような考え方です。
 話が逸れてしまいました。私は、鴻上氏が指摘した「ネットによって形成された世間」という考え方を学校教育の場においても研究していく必要があると感じています。例えば、いじめ自殺対策です。20年程前、いじめ自殺が問題になったとき、いじめはどこの国の学校にもあるが、自殺にまで至る国は少ないという指摘がなされました。そして、アフリカのある国の例が示され、その国の子供が、「いじめは辛いけど、家に帰れば、家族がいるし、近所の友達もたくさんいるから楽しい。いじめのことは忘れていられる」と語っている姿が紹介され、学校以外に生きる場所が広がっていることで、心の傷が深刻化しなうのだと説明されたものです。
 そうであれば、地域社会のつながりが希薄化していると指摘される我が国でも、ネット上の「世間」に、居場所を確保することによって、いじめそのものは防げなくても、いじめによるダメ-ジの深刻化を防ぎ、自殺を減らすことが可能になるのではないかと考えることは間違ってはいないと思います。
 そういえば、卒業させた女の子が中学生になってから、突然手紙をよこし、それとなくいじめられていることを示唆し、助けを求めてきたことがありました。まだ20代で未熟だった私は形式的な励ましの返事を送っただけで援助の手を差し伸べることはできませんでしたが、彼女にとって私は、その時点では物理的に離れてしまっていても、自分が生きる「世間」だったのかもしれません。
 ラインによるいじめ相談などの試みが行われるようになってきましたが、相談ではなく、居場所としてのネット世間の生かし方について、取り組みを始めるべきだと考えます。

 

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その国の当たり前

2018-06-28 08:06:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「その国の当たり前」6月16日
 論説委員野沢和弘氏が、『日本の医師は忙しすぎる』という表題でコラムを書かれていました。その中で野沢氏は、スウェーデンの医療事情に触れ、『子どもが熱を出しても「家で寝ていれば治る」と診療を断られるという。命に別状がない病気やけがでは10日待たされることも珍しくない(略)人々は病気になってもめったなことでは病院で治療してもらえないのだ』と書かれています。
 そして、それに比べて日本では、『医師は正当な理由がない限り治療を拒否できない』『患者はどの病院にも自由に行ける』ので、『日本の医師は忙しい。患者にとっては病院で何時間も待たされ、ほんの数分しか診察してもらえない』ということになると分析なさっています。野沢氏は、日本とスウェーデンのどちらがよいかという判断は示していません。淡々と事実を並べているだけです。ただ、両国の違いが、日本の医師の過労死を生み、スウェーデンの医師が過労死について理解できないと首を傾げるという差になって表れていると指摘して、コラムは終わっています。
 私は高齢の父に付き添って病院に行ったとき、9時に受付を済ませて、診察室に入ることができたのは13時だったという経験をしています。そのとき、隣にいた男性が待合室の状況を見渡して、「今日は3時間は待つな」と平然と口にしているのを耳にし、まさかと思ったのですが、実際には4時間待ちだったのです。ですから、我が国の医療制度に何らかの問題があるという気はします。一方で、不安で病院に行っても家で寝てろと言われることにも耐えられそうにありません。
 要するに一長一短ということであり、こうした医療システムが最善という答えはないのでしょう。ですから両者の違いは、文化の違い、価値観の違いと言うしかないのだと思います。同じようなことは、学校制度や教員の職務についても言えそうです。
 我が国では多くの国民が、子供に関することは何でも学校で、という感覚をもっています。休日だろうが放課後だろうが、子供の問題行動が発生すれば、教員が駆けつけるのは当たり前だとされています。部活の顧問しないとでも言えば、それだけで熱意のない教員視されることは間違いありません。盆踊りなど地域のイベントに顔を出さなければ、「○○先生は来てたのに、どうしてこなかったの」と参加するのが当然という前提で訊かれます。そして、教員は忙しくなり、授業の準備や丁寧な評価に時間を割くことができなくなり、教育の質が低下します。
 だからといって、教員が退勤時に喫煙している教え子を見かけても、「今は私の勤務時間ではない」と何の指導もせずに通り過ぎる(かつて欧米の教員を象徴するエピソードとされた)状況にも違和感を感じます。やはり、これが最適という正解はないのです。後は文科や価値観の問題、つまり国民の選択次第ということです。何でも学校へ主義は、確かに便利ですが、持続可能なシステムではありません。やがて限界を迎え成り立たなくなるはずです。そのことを踏まえた上で、我が国に相応しい教育の形、学校・家庭・地域の分業を考える必要があります。

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美味しい?

2018-06-27 07:54:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「音楽のオンは」6月15日
 客員編集委員近藤勝重氏が、『ミュージックはあるがソングはない』という表題でコラムを書かれていました。なおこの表題は、昭和を代表する作詞家阿久悠氏の言葉だそうです。コラムの中で近藤氏は、『歌が人の心に残るのは詞なんだと言い、その時代にしか似合わない言葉を自然に表したものが歌だ』という阿久氏の言葉に共感を示し、『8ビートの昭和歌謡で育った人にとって16ビートの曲に乗る歌詞は意味をもった言葉ではなく、単なる音にすぎない歌もある』という平尾昌晃氏の嘆きを紹介しています。
 私は近藤氏と同じ世代です。近藤氏の感じ方は私が常日頃感じていることでもあります。昔の歌謡曲はよかった、は私の切実な思いです。しかし、これには世代による感覚の違いがあるでしょうから、いくら言っても今の若者にはピンと来ない話でしょう。
 ただ、学校教育に携わってきた者として、歌における歌詞が、音楽教育の中でどのように指導されてきたのかという点は気になります。端的に言えば、歌を構成する重要な要素として重きを置かれてきたのか否か、ということです。以前も書いたことですが、楽譜通り正確な音程で歌う、正しい息継ぎと発声法で歌う、ということに留意した音楽の授業というのは何回も見てきたのですが、歌詞の意味を正確に理解させることに労力と時間を割いた授業というのを目にした記憶がないのです。
 歌詞がつくられた時代背景、作者のおかれた心情、使用されている言葉の意味、描かれている情景のイメージなど、子供に説明し考えさせる場面は、ほとんどなかったように思えるのです。兎追いしかの山~が、兎美味しかの山~であっても気にしない授業が行われてきたのではなかったか、という懸念が捨てきれないのです。
 ちあきなおみの「喝采」、ばんばひろふみの「イチゴ白書をもう一度」、竹内まりやの「駅」、私はこれらの歌が好きです。カラオケでも歌います。歌詞を聞くと頭の中に映像が浮かんできます。登場人物の表情まで。そうした力のある歌詞抜きに、これらの曲の魅力はを語ることはできないだろうと思っています。
 ミュージック「偏重」の音楽教育でもよいのでしょうか。分かりません。私のような姿勢では、言葉の分からない外国の歌は、魅力が半減してしまいますから。

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親というもの

2018-06-26 08:00:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「お祖父ちゃんと教員」6月15日
 プロデューサー残間里江子氏が、『孫との生活で変わる男親』という表題でコラムを書かれていました。その中で残間氏は、『最近は、男親が実家に戻った娘を歓迎している事例が増えている』と述べ、孫との生活を楽しむイクジイたちの状況を紹介なさっています。その上で、『いざとなれば親に「返却」できる孫育てと、何があっても逃げられない子育ては根本的に違う』と指摘なさっています。
 私たち夫婦には子供がいません。つれあいは甥や姪の子供を見て「可愛い!」と言い、「一日だけでいいから預からせて」と言って、甥や姪を困らせています。イクジイと同じです。ですから、残間氏の指摘が腑に落ちます。それはそれとして、私は、残間氏の『何があっても逃げられない子育て』という言葉の重みを、全ての保護者に噛みしめてほしいと思っています。
 親も教員も子供の成長に関わり、影響を与える存在です。しかし、親と教員では、子供に向かい合う心構え、子供に対して負う責任の重さが全く違うのです。私はあまり良い教員ではありませんでしたが、仮に日本一の教員であっても、保護者の代わりをすることはできません。良い教員であればあるほど、全ての教え子に平等に接しようとするはずです。そうであれば、親と子供が過ごす1時間は、3人兄弟(現代ではほとんど見かけないが)の場合、子供一人当たり20分となるのに対し、教員が子供と過ごす1時間は子供一人当たりで考えると、60÷30=2分しかないことになります。勝負になりません。
 しかも、親子の関係は、出生から義務教育修了までで15年以上もあるのに対し、教員は多くて数年です。さらに、現代では15歳で自立する子供はほとんどなく、30歳近くまで密着して過ごす親子も少なくありません。
 最近、理解できない犯罪を犯す若者が増えています。新幹線で3人を殺傷した22歳の男性、ネットの闇サイトで集まり看護師の遺体放棄事件で逮捕された40代の男性、いずれも親がメディアの取材を受け、謝罪し、それでも非難されています。一方、何人もいたはずの小中学校の担任が、何を教えていたんだと非難されるということはありません。世間の人は、特に意識することなしにそれを当然と考えています。つまり、子供の人格形成における親の影響力をそれだけ強いと考えているのです。教員は、10年後、20年後の子供の将来にまでは責任を問われないし、負うこともできないのです。
 子育て経験のない私がいうのもおこがましいですが、子育ては大変だと思います。私の教え子たちの多くは、現在子育て中です。子育てと仕事や家庭との両立で苦労している彼らに、さらに精神的負担を負わせるのは酷なことだと思っています。子育てを親だけ、特に母親だけが抱え込む時代だとも思いません。地域社会や保育園等の子育て機関、ベビーシッターや祖父母の助けを借りたり、小児科医やカウンセラー等専門家に頼ることも否定されるべきではないと思ってもいます。それでもなお、我が子に対する親の影響力の大きさを自覚することは必要だと言いたいと思います。

 

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凡人らしく生きたい

2018-06-25 08:11:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「9割の人」6月15日
 経営共創基盤CEO冨山和彦氏が、『就職人気ランキングの光と影』という表題でコラムを書かれていました。その中で冨山氏は、『東大・京大生就職人気ランキング調査の最新版』について触れ、『トップ10に(略)2社以外はすべて超実力主義のプロフェッショナル型組織』であることを紹介し、『東大や京大の学生たちは終身年功型企業に見切りをつけつつある』と指摘なさっています。
 つまり、『プロ型組織を志望する傾向が、文理を問わず優秀な学生ほど顕著』であり、『実に好ましいこと』であるとおっしゃっているのです。そして今後の在り方について『トップ層の人材については、終身年功制と本気で縁を切り、プロ型の人事組織モデルに大転換する』べきだと主張しているのです。
 私の甥も、転職を繰り返し、現在は外資系のコンサルティング会社に勤務して高給を得ています。子供の頃から成績優秀でした。最初に就職した企業も誰もが知っている名門企業でしたが、今の方がやりがいがあるようです。ですから、冨山氏の指摘は正しいように思います。
 ただ、勘違いしてはいけないのは、冨山氏が言っているのは、優秀な大学生や院生のことだということです。大学入試時の偏差値が優秀さの証明なのかという疑問をもつ人がいるかもしれませんが、偏差値と優秀さの間にはかなりの相関関係があるということは事実だろうと思います。そして、東大と京大を卒業するのは、同世代の1%しかいないということを考えると、両大学以外にも同程度の優秀さをもつ大学生等がある程度いるとしても、トップ層を形成する「優秀さ」をもつ人は、せいぜい同一世代の5%もいればよいほうでしょう。逆に言えば、9割以上の若者は、別の働き方、おそらく従来型の働き方をする人たちであるということになります。
 そうであれば、学校教育を変えていく場合、1割に満たないトップ層を形成する人をイメージして学校像を描いては大量の不適合者を生んでしまうことになります。小中高大のどの段階から始めるのが最適かは分かりませんが、エリート教育機関、従来型の教育機関、特別な支援が必要な人の教育機関というようなコース制を採ることが賢明であることになります。そのとき、量的に大きな部分を占めるのは従来型になるはずです。もちろん、全く今のままでという意味ではなく、カリキュラムに必要な修正を加え、システムの見直しをするのは当然です。ただ、勤勉で責任感が強く、他者と協業することができ、民主主義社会の構成員として最低限必要な知識と判断力といった知的能力を有する人の育成を目指すというスタンスは変えないということです。
 全ての「凡人」に、新しい時代を切り開きリードしていく人材たることを求める教育は、過剰な負担を強いる教育であるということを忘れてはなりません。

 

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背中を追って

2018-06-24 08:16:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「伝わらないこと」6月13日
 放送作家たむらようこ氏が、『背中見せてくれる先輩どこへ』という表題でコラムを書かれていました。その中でたむら氏は、知り合いのプロデューサーから『最近、誰も会社に来ないんだよねー』とこぼされたと書かれています。番組編集会社では、『個人のパソコンに編集ソフトを入れて編集できるようになった頃から状況が一変』したそうなのです。
 いわゆる『時間や場所に縛られずに働ける「テレワーク」』です。新しい働き方として注目されている「テレワーク」ですが、問題があるというのです。たむら氏はその点について、『編集機材の使い方などは講習会でもすれば伝えられるのですが、仕事とはそう単純なものではありません。取材先への電話のかけ方、交渉の仕方、礼儀、不測の事態の対処の仕方、謝り方。手本ばかりではなく、かつては先輩の失敗も教材でしたが、今は背中を見せてくれる先輩が席にいない。これは実際、すでに新人たちが無礼な態度で取材先を起こらせる案件につながっています。またメディアの常識としてやっていいこと、やってはいけないことの区別を教えられないまま育てば、データの取り違えや、無意識の捏造などもまねきかねません』と具体的に書かれています。
 「テレワーク」は、学校には関係ありません。でも、この事例から学ぶ点はあると思います。それは、先輩が背中を見せること=人が協業することで伝わることとして列挙されているのが、対人コミュニケーションや職業人としての心構えだということです。電話のかけ方や礼儀、交渉、謝罪など、講習会でも伝えることができそうですが、それでは上辺の型を伝えることしかできないということです。「相手の目を見て」「腰は45度に曲げて」「名刺を受け取るときは両手で」など、マナー講習会などで学ぶことだけでは、実際には役に立たないと言っているのです。
 また、職業倫理についても同様です。例えば捏造について、それはいけないことだと教えることは簡単です。数分もあれば、なぜいけないか、捏造によってどのような事態が引き起こされるか、など口頭で説明可能です。そもそも、捏造がいけないことなど、メディア志望の者なら一般的な常識として入社以前に知っているはずです。でも、頭で知っている、理解しているということと、体感として骨の髄まで染み込んだ教訓としてもっているという状態は全く異なるのです。
 教員でいえば、体罰はいけないということは教員採用試験を受ける者の99.99%は知っています。でも、体罰はなくなりません。いじめは被害者の立場になって、ということは各教委作成のパンフレットや資料に明記されています。でも、被害者の訴えに対して「気のせいだよ。考えすぎだ」と口走ってしまう教員がいるのです。これらは、単に知っているという状態が如何に無力かということを示しているのです。
 よい先輩の振る舞いを見て盗む、職人の世界で行われてきた「良き伝承」は、今の時代にこそ再評価されるべきなのです。私は教員の仕事は職人芸だと主張してきました。教員の資質向上に当たっては、良き先輩による良き伝承機能を生かす仕組みづくりを真剣に考えるべきだと思います。

 

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フリマを知ってる?

2018-06-23 07:43:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「大切に、の中身」6月12日
 今回取り上げるのは、森下裕美氏作の夕刊の連載4コマ漫画『ウチの場合は』です。絵抜きでニュアンスを伝えるのは難しいのですが挑戦してみます。ミト(女)『このヌイグルミ、パパに買ってもらったの』友達「うわ~、おっきい」→ミト『触りたかったら手をよく洗ってきてね』友達『ハイハイ』→ミトの父『ミトが大切にしてくれてよかったぁ』ミトの母(うなずく)→ミト(ヌイグルミに触れながら)『ネットのフリマに出す時に汚れてたら値が下がる(心のつぶやき)』というものです。
 念のため解説すれば、ヌイグルミを買ってあげた父は、愛娘がヌイグルミを大切に扱ったいる姿を見て気に入ったのだと思い喜んでいるのに対し、娘は飽きたらネットで売るつもりできれいに使おうとしているというギャップをオチにした作品です。
 私はこの漫画を見て、2つのことを感じました。一つは、今は小学校低学年の子供でも、スマホを自由に使いこなすようになっている、ということです。私の姪の1歳半の女児も、姪のスマホに興味を示し、風船を破裂させて遊ぶアプリを喜んで使っています。こうした環境で育ってきた子供は、それ以前の子供とどのような点が違ってくるのか、正の変化と負の変化を明らかにする研究が必要であり、その研究成果を学校教育に反映させることが肝要になると感じました。
 そしてもう一つは、解釈ということの危うさです。子供時代にネットもフリマも経験していない父は、ヌイグルミを大切に扱う娘をみて、気に入っているという「解釈」をします。それは、自分の経験から割り出した判断でしたが、間違っていました。人は他人の行動について、常に小さな判断を重ねて生きているものです。教員も同じです。子供の言うこと、することを観察し、子供の心情や興味関心、理解度や言葉の虚実などを判断し、その判断に基づいて、対応を決めているのです。それは、授業中も、行事の際にも、係り活動のときも、生活指導中も、同じです。
 しかし、自分の経験だけに基づいてすぐに結論を出そうとすると、ミトちゃんの父のようなミスを犯してしまうのです。そこで必要になるのが、結論を出す前に何回も観察を積み重ねることなのです。ミトちゃんの例で言えば、ヌイグルミだけで判断するのではなく、身の回りの様々な物に対するミトちゃんの行動を見ていれば、お気に入りなのに大切に使わないモノがあることに気付き、その違いは何なのだろうと考えることによって、フリマで売る、という意図に行き着くことができるということです。
 これまでも何回も書いてきたことですが、よく見る、見たことを積み重ねるという行為を不断に続けることが、よい指導、よい関わり方を生むのです。

 

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弱さや矛盾こそ

2018-06-22 07:57:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「無理解」6月12日
 精神科医香山リカ氏が、『「無理」が言えない労働者』という表題でコラムを書かれていました。働き方改革における裁量性導入について学生と話し合ったという内容です。ちなみに、学生たちは裁量性支持が少なくないのだそうです。
 『労働時間の上限もなくなって、成果が出るまで働かなければならないかもしれないよ』と裁量性の問題点を指摘する香山氏に対し学生は、『そんなことしません。疲れたと思ったらさっさと帰ります』と答えるのだそうです。こうした発想について香山氏は、『社会に出たことのない学生たちはなかなか理解してくれない』と嘆くのですが、私は違う受け取り方をしました。
 それは、人間というものに対する無知、無理解です。学校では、相変わらずいじめが問題になっています。いじめ加害者や傍観者に事情聴取すると、被害者がそんなに嫌がっているとは思わなかったという趣旨の言い訳をすることがあります。そして、「そんなに嫌だったのなら、嫌だ、やめろと言えばよかったのに。そうすればすぐにやめたのに」と続け、自分たちの行為を正当化するのです。
 今、私は「言い訳」「正当化」という表現を使いました。彼らの主張を真っ当なものだとは思っていないということです。つまり「嘘」であり、嫌がっているのは分かっていたのに、気付かないふりをしていじめを続けていたと捉えていたということです。
 しかし、香山氏のコラムを読み、もしかしたら「超新人類」が誕生してしまったのではないか、と不安になりました。つまり、集団内における孤立した人間の心理というものについて想像することができず、嫌だったら嫌と言うはず、と単純に思い込んでいる「超新人類」が、です。香山氏が相対した学生たちは、複雑な人間心理を理解できず、思ったこと感じたことはそのまま口にするという生き方をしてきており、自分がそうだから他人もそうであるはずと考えているのではということです。それは私など「旧人類」から見ると、新人類を通り越した「超新人類」、あるいは異星人だとしか思えません。
 最近20年くらい、学校教育は周囲の雰囲気に阿ることなくきちんと自己主張できる人を育てることを目指してきました。間違っていないと思います。しかしそのことと、周囲の同調圧力の前で自分の考えを述べることの難しさの理解、同調圧力に押しつぶされそうで苦しんでいる人の心情の理解を欠くことの是非とは別の問題です。非言語コミュニケーションの能力こそ、人間がAIに勝る部分であるはずです。
 全く飛躍した連想ですが、名作「火垂るの墓」を見て、主人公の兄妹の行動選択が愚かであると批判する感想をもつ若者がいるという話を思い出しました。人間の心の弱さや矛盾こそ人間を人間たらしめているということを大事にした人間理解教育的な発想で教育改革を考える必要があるのではないでしょうか。

 

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一人でもいい?

2018-06-21 07:21:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教育実習での間違い」6月10日
 読者投稿欄に久留米市K氏の『教育実習で学んだこと』というタイトルの投稿が掲載されました。その中でK氏は、ご自身の教育実習時の経験を語っていらっしゃいます。『担当の先生から「2週間の短い期間で立派な授業などできるはずがない。一人でも生徒をつかまえることができればいい」と言われた。授業の準備はもちろん大切だが、生徒ときちんと向き合い、理解しようとする姿勢の大切さを教えてくださったのでは』と。
 「うん、そうだ」と頷かれる方が多いような気がします。これから教員を目指す若者や若い教員の中にも。しかし、残念ながらそうした考え方は間違っていると思います。それは、2つの理由からです。
 まず、「授業の準備は大切だが~」という考え方です。こうした考え方の中には、授業の準備と子供と向き合い理解しようとするという2つのことを別の概念だとする意識があります。この2つは同一線上に並ぶべきものなのです。子供のことを真剣に思うのであれば、大切な子供たちのために分かる授業、考え解決する喜びを味わわせることができる授業を実現してやろうと考えるのが教員というものだからです。私は子供に向き合い理解しようとすることに一生懸命で授業の準備にまでは手が回らない、と言う教員がいるとすれば、それは自分の能力不足、努力不足の言い訳に「教員の良心」らしきことを使っているだけの話です。
 次の理由は、「一人でも~」という考え方です。これも教職について語るときによく使われるフレーズです。意地の悪い言い方ですが、これは30人いる学級の中で、1人の子供にとってだけ「良い教員」であれば教員として許されるという考え方です。私は、300人近い子供を卒業させてきました。卒業しても訪ねてきたり、以前の学校を異動したにもかかわらず探し当てて会いに来てくれた教え子がいます。結婚式に呼んでくれたり、退職後にわざわざ会いに来てくれる教え子もいます。とても嬉しいです。
 そうした事実をもって、私は良い教員だと密かに誇っていいものなのでしょうか。そんなはずはありません。もしそうであるならば、99%の教員は良い教員だということになってしまいます。
 私がかつて勤務した学校にいたA教員は、学校全体の申し合わせを無視し、何でも子供の自由に任せるだらしのない教員でした。テスト直しが終わった子供は遊んでもよいとし、他の学級が体育の授業中であるにもかかわらず、その学級の子供は校庭で我が物顔に走り回っていましたし、安全のためにストーブの操作は教員が行うと決まっていたにもかかわらず、その学級だけは11月の初めから子供が勝手にストーブをつけていました(ストーブは12月以降という約束だった)。
 そしてA教員は休み時間には教員室でたばこを吸って教室にはいませんでした。A教員の後、私がその学級を担任しましたが、ごく一部の子供は、A先生は何でも好きにやらせてくれたのに、と言い、A教員を慕っていました。A教員のずぼらさゆえに。どんないい加減な教員でも、その教員がいいという子供はいるものなのです。
 また、私が「指導力不足教員研修」を担当していたときに指導したB教員は、授業は全くダメでしたが、自分が担当する歴史部の指導には熱心で、休日も4人の部員を連れて、旧蹟や寺社を巡り、その生徒たちと撮った写真を見せながら、「私は子供たちに好かれているんです」と言っていました。彼はオタク的な歴史好きで、確かに歴史部の生徒の評判は悪くないようでしたが、特別な嗜好をもつごく一部の生徒に指示されていることで教員として合格であるというのであれば、誰でも教員が務まります。
 あくまでも理想であり、建前論かもしれませんが、教員は常に一部ではなく前提の子供のことを考えていなければならない存在であると考えます。もちろん、全ての子供の心をつかむなどということができるはずはなく、合格レベルの教員でも、実際には半数の、あるいは1/3の子供の~ということになるのですが、全ての子供の~という理想を最初から捨てていたのでは、教員自身が切り捨てを容認していることになってしまいます。
 もちろん、私も良い教員ではありませんでした。でも、一人でよい、子供と向き合えば授業なんてどうでもよいなどとは考えていなかった点だけは、まともだったと思っています。

 

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