「私にはできない」6月21日
夕刊の特集ワイドで、映画「ゲッベルスと私」が取り上げられていました。『あなたなら抵抗したか』という見出しがつけられたイントロ部分に、『ナチス・ドイツの宣伝相の秘書として働き、独身のまま106歳まで生きた女性は映像の中でこう語る。「あの時代はまるで波間にいるようだった。考えたのは私の命や運命。自分のことしか考えてなかったわ」』という記述がありました。
また彼女は、『今の人たちはよく言う。「自分たちがあの時代にいたら、もっと何かをしていた。虐殺されたユダヤ人を助けたはずだ」と。でも、彼らも同じことをしたと思う。当時、国中がガラスのドームに閉じこめられ、みんな巨大な強制収容所にいたのよ』とも語っているそうです。こうした発言を前提に、「あなたなら抵抗したか」という見出しがつけられているのです。
文章は、全体的に彼女の「言い訳」に対して否定的なトーンで貫かれていました。酷な話だな、というのが私の実感です。私が彼女の立場だとしたら、「抵抗」はしていないと思います。自分に危険が及ばないようにじっと身を潜め、目立たないように心がけて生きていくと思います。もし、反抗分子として目をつけられそうになれば、進んで反ユダヤのふりさえしたと思います。私は弱い人間で、自分ファーストですから。
恥ずかしい話です。でも、こんなに弱い卑劣漢は私だけなのでしょうか。他人を自分のレベルにまで引きずり込むようで気が引けますが、正直なところ、世の中の大部分の人が私の同類なのではないかと考えています。目の前に不当に差別されている人がいて、その人に向かって銃の引き金を引けと命じられ、拒むならばお前もお前の家族も殺すと言われ、それでも正義を貫き通す、という鋼鉄のような意思をもつなんて、人間離れした怪物だとしか思えないのです。
人間は弱く、一つの方向に激流となって流れている社会の風潮にたった一人で逆らうことなどできないというのが私の認識です。だからこそ、戦争や差別・排除といった流れが激流となる前に、チョロチョロと流れる濫觴を見て危険を察知し、小さな流れを止めるために小さな石を置くことができる人間を育てることが大切なのだと思います。
学校教育は、この点を意識し続けることが必要です。私が長年研究してきた社会科は、民主的な社会を構成する市民として必要な公民的資質の基礎を育成することを教科の目的としています。公民的資質については、様々な説明や定義づけが可能ですが、一番シンプルな説明は、最大の人権侵害である戦争に至る危険な気配を察知し食い止めようとする能力態度である、と考えています。
歴史を学ぶことも、政治の仕組みを知ることも、この能力態度を身に着けさせるために必要とされているのです。歴史教育や政治教育について様々な議論が交わされていますが、この本質からそれていないか、常にそのことを意識してほしいと思います。