「無理」11月25日
『中3校内で刺され死亡』という見出しの記事が掲載されました。愛知県弥富市立十四山中学校『3年の伊藤柚輝さん(14)が校内で同級生の男子生徒(14)に腹などを包丁で刺され、搬送先の病院で約2時間半後に死亡が確認された』事件について報じる記事です。
悲しい事件です。亡くなられた生徒に哀悼の意を表します。記事によると、『11月中旬にあった修学旅行には2人とも参加し、これまでにも特にトラブルは確認されていない』、『11月上旬に回収したいじめの有無を問うアンケートにも2人に関する記載はなく~』、『逮捕された生徒について「特におかしなところは全くなくて~」』という状況だそうです。原因や背景は不明ということです。市教委も校長も当惑するばかりといった様子で、少なくとも現時点で学校側の手落ちの隠蔽を疑わせる「雰囲気」はありません。
『市教委は(略)今後、弁護士や医師らによる第三者委員会を発足させ、原因を究明する方針』ということです。一方、この事件について、識者のコメントでは、大阪教育大教授藤田大輔氏が『事件に至る背景の検証が再発防止に不可欠』と語り、教育評論家尾木直樹氏が『刃物を校内に持ち込む予兆をつかめていれば、事件を防げた可能性がある。生徒間のトラブルを把握するためにも、日頃のケアが大切』と話されています。
要するに、市教委も識者も、事件の原因や背景、2人の間のトラブルを知ることが必要だという認識のようです。まあ、当然でしょう。そうしなければ「世間」が納得しないでしょうから。しかし、私はこうした流れに懸念を覚えます。
それは、原因や背景調査が、「原因は○○、教員が生徒の心のケアに努めていれば、事前に察知し、悲劇を防ぐことができたはず」という結論に至る可能性が高いと考えるからです。そしてそうした結論が広く共有されることは、教員や学校を責めることにつながり、教員や学校に過度の負担を強いることになると思うからです。
私は、このブログで、いじめ問題の解決には、教員のいじめ発見能力を信じ、高めていくことが重要だと繰り返し主張してきました。そんな私ですが、今回の事件のようなケースでは、教員が2人の間の「トラブル」に気付くことは難しかっただろうと考えています。いじめは、学級にしろ、部活にしろ、集団の中で起こります。そして、昔から人数が多くなればなるほど秘密が漏れやすいと言われるように、集団の中ではいじめを隠し続けることは難しいのです。子供同士の素早い目線のやりとり、特定の子供に対する他の子供のときとは違う反応、集団の中に流れる嫌な「雰囲気」は、余程未熟な教員でなければ感知できるものなのです。
しかし、2人だけの閉じられた関係の中で生じた「トラブル」を感知するのは、相当アンテナの感度が高い教員でも難しいものなのです。そこには、いじめとは違い、共犯者も、精神的共犯者とも言える面白がる傍観者も、義憤を覚えながらも止めに入ったり教員に告発したりする勇気はもてない悩める優しき傍観者もいないのです。
しかも、「小さな学校」ということは、幼少期から同じ地域で過ごしていた可能性が高いわけですから、そうであれば2人の因縁、確執といったものが何年も過去に遡らなければ明らかにならないということも考えられます。それも、学校外の出来事にまで。
そんなことまで教員は把握するべきと求めることは、不可能を可能にしろと言われているようなものです。出来るはずがないのです。
今、「スナックキズツキ」という番組が放送されています。毎回、平凡な市民が登場し、みんな日常の小さなことの積み重ねの中で傷ついていて、原田知世さんが演じるスナックのママさんに癒されて日常生活に戻っていくというドラマです。そこでは、傷つけられていると感じている「被害者」が、別の場面では傷つける加害者になっているという姿が描かれます。人が他人とのかかわりの中で生きるということは、無意識のうちに誰かを傷つけて生きることなのです。
子供も同じです。学校生活の中で、傷つけたり傷つけられたりして、日々を送っているのです。教員に無限責任を求めるのではなく、常識的且つ可能な範囲の「注意義務」に留める勇気と見識が必要です。