ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

スナックキズツキ

2021-11-30 08:32:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「無理」11月25日
 『中3校内で刺され死亡』という見出しの記事が掲載されました。愛知県弥富市立十四山中学校『3年の伊藤柚輝さん(14)が校内で同級生の男子生徒(14)に腹などを包丁で刺され、搬送先の病院で約2時間半後に死亡が確認された』事件について報じる記事です。
 悲しい事件です。亡くなられた生徒に哀悼の意を表します。記事によると、『11月中旬にあった修学旅行には2人とも参加し、これまでにも特にトラブルは確認されていない』、『11月上旬に回収したいじめの有無を問うアンケートにも2人に関する記載はなく~』、『逮捕された生徒について「特におかしなところは全くなくて~」』という状況だそうです。原因や背景は不明ということです。市教委も校長も当惑するばかりといった様子で、少なくとも現時点で学校側の手落ちの隠蔽を疑わせる「雰囲気」はありません。
 『市教委は(略)今後、弁護士や医師らによる第三者委員会を発足させ、原因を究明する方針』ということです。一方、この事件について、識者のコメントでは、大阪教育大教授藤田大輔氏が『事件に至る背景の検証が再発防止に不可欠』と語り、教育評論家尾木直樹氏が『刃物を校内に持ち込む予兆をつかめていれば、事件を防げた可能性がある。生徒間のトラブルを把握するためにも、日頃のケアが大切』と話されています。
 要するに、市教委も識者も、事件の原因や背景、2人の間のトラブルを知ることが必要だという認識のようです。まあ、当然でしょう。そうしなければ「世間」が納得しないでしょうから。しかし、私はこうした流れに懸念を覚えます。
 それは、原因や背景調査が、「原因は○○、教員が生徒の心のケアに努めていれば、事前に察知し、悲劇を防ぐことができたはず」という結論に至る可能性が高いと考えるからです。そしてそうした結論が広く共有されることは、教員や学校を責めることにつながり、教員や学校に過度の負担を強いることになると思うからです。
 私は、このブログで、いじめ問題の解決には、教員のいじめ発見能力を信じ、高めていくことが重要だと繰り返し主張してきました。そんな私ですが、今回の事件のようなケースでは、教員が2人の間の「トラブル」に気付くことは難しかっただろうと考えています。いじめは、学級にしろ、部活にしろ、集団の中で起こります。そして、昔から人数が多くなればなるほど秘密が漏れやすいと言われるように、集団の中ではいじめを隠し続けることは難しいのです。子供同士の素早い目線のやりとり、特定の子供に対する他の子供のときとは違う反応、集団の中に流れる嫌な「雰囲気」は、余程未熟な教員でなければ感知できるものなのです。
 しかし、2人だけの閉じられた関係の中で生じた「トラブル」を感知するのは、相当アンテナの感度が高い教員でも難しいものなのです。そこには、いじめとは違い、共犯者も、精神的共犯者とも言える面白がる傍観者も、義憤を覚えながらも止めに入ったり教員に告発したりする勇気はもてない悩める優しき傍観者もいないのです。
 しかも、「小さな学校」ということは、幼少期から同じ地域で過ごしていた可能性が高いわけですから、そうであれば2人の因縁、確執といったものが何年も過去に遡らなければ明らかにならないということも考えられます。それも、学校外の出来事にまで。
 そんなことまで教員は把握するべきと求めることは、不可能を可能にしろと言われているようなものです。出来るはずがないのです。
 今、「スナックキズツキ」という番組が放送されています。毎回、平凡な市民が登場し、みんな日常の小さなことの積み重ねの中で傷ついていて、原田知世さんが演じるスナックのママさんに癒されて日常生活に戻っていくというドラマです。そこでは、傷つけられていると感じている「被害者」が、別の場面では傷つける加害者になっているという姿が描かれます。人が他人とのかかわりの中で生きるということは、無意識のうちに誰かを傷つけて生きることなのです。
 子供も同じです。学校生活の中で、傷つけたり傷つけられたりして、日々を送っているのです。教員に無限責任を求めるのではなく、常識的且つ可能な範囲の「注意義務」に留める勇気と見識が必要です。

 

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右というのはね…

2021-11-29 08:29:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教えるべきか」11月24日
 論点欄は、『衆院選を振り返る』というテーマで、3人の識者が自説を展開なさっていました。その中で、早稲田大准教授遠藤晶久氏が語られていることが気になりました。遠藤氏は、『各党の主張を細かく判断するのは難しく、コストも高い。そこで「保守」「革新」、「右」「左」などイデオロギーの「ラベル」が有効だが、これが混線している』と指摘されているのです。
 その具体例として、『30代以下は、もっとも「革新」的な党を維新と見る。漠然と、「革新」=改革=何か現状を変えること、と理解している。逆に、護憲派は「現状を変えない」と主張するのだから「保守」』という若者の認識を挙げているのです。さらに、維新に次ぐ革新は自民だというのです。
 20代の頃、卒業式で国歌斉唱をすべきと主張し、「保守反動」呼ばわりされた私としては、驚くべき感覚ですが、現実はそんなものなのでしょう。こうした現状に対して遠藤氏は、『上の世代は、政党の区別が昔よりはるかに難しいと理解したうえで、日常的に、丁寧に政治を話題にすべきだ』とし、それが『混線を解く鍵となる』とおっしゃっています。
 つまり、混線状態は好ましくない、だから混線を解消しなければならないという認識です。私も好ましいとは考えません。そして、好ましくないのならその問題点を指摘し訂正するのは、「上の世代」の仕事だというのも頷けます。では、それは誰が担うのでしょうか。親が子に、あるいは地域社会で大人が子供に、ということなのでしょうか。おそらくそれは無理でしょう。となれば、学校教育で、ということになります。
 しかし、私には「混線を解消する授業」はとてつもない難事に思えるのです。それは、「革新」として若者に支持されている維新や自民の政治家から、自分たちの支持を減らそうとする政治活動と捉えられる可能性が高いからです。
 本来は、保守と革新の間に優劣はありません。どちらにも支持者と批判する勢力がいるのが当然でした。保守と言っても必要があれば変化を求めますし、革新と言っても良いことは変えずに残していきます。ただ単に、残すべきと考えるものと変えるべきと考えるものが違っているだけです。それをイデオロギーと言ったのです。
 しかし、遠藤氏の指摘によれば、今の若者は革新=何かを変えることと考えて、支持しているのです。何を変えるかの「何」は問われずに、変えることだけが支持のポイントなのです。そして、「変える」についても、どう変えるかは問題ではなく、「変える」こと自体が評価基準なのです。悪い方向に変える、ということもあるはずなのですが、そんなことは視野にはなく、変える=善なのです。
 つまり、「護憲派」は、憲法という重要課題について変えない人たちであり、悪なのです。そうした考え方は「革新」である維新と自民に有利であり、だからこそ混線状態の継続を望み、その解消を目指す動きは目の敵にされることになるというのが、私の予想なのです。
 悲観的に過ぎるでしょうか。

 

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男には男を、女は女を

2021-11-28 08:46:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「偏見助長?」11月23日
 『性被害防止策明文化3割』という見出しの記事が掲載されました。『児童相談所を設置している自治体のうち、職員と子どもが不適切な関係になるのを防ぐためのルールやガイドラインを明文化しているのは3割程度にとどまる』ことについて報じ、課題を指摘する記事です。
  その中に気になる記述がありました。『マニュアルに個別連絡の禁止を盛り込んだり、「職員の居住地を教えない」「原則同性職員を配置する」といった内容を記載したりしている』という記述です。
 児相も学校も、指導的立場にある大人と子供が長時間共に過ごす場という共通点があります。ですから、児相で問題になることは、学校でも問題になるのです。職員による性被害という問題も同様です。だから気になるのです。
 同性職員を配置する、という考え方に問題はないのでしょうか。女児には女性職員を、男児には男性職員を、ということです。一見すると妥当な措置のようですが、そこには、偏見が潜んでいるように思えてなりません。女児に性的な行為をするのは、女性を性的な興味関心の対象とする男性だという思い込みがあるのではないでしょうか。しかし、実際には、女性を性的な興味関心の対象とする女性もいるわけです。女性の同性愛者です。もちろん、男性の同性愛者も。
 そして実際に、男性職員や男性教員による男児への性的な行為は各地で摘発されています。私の知人の元教員も、退職後にスタッフとして参加していた児童活動で男児の裸の写真を撮るという行為で逮捕されました(なぜか、女性スタッフや教員が女児に、という犯罪は聞いたことがありませんが)。
 つまり、「同性職員を配置」という考え方は、児相という公的な機関が、この世に同性愛者は存在しないという前提に立っている、同性愛者の存在を否定している、差別や偏見に加担しているということになるのではないか、というのが私の抱いた疑問なのです。
 差別をしているという意識無しに差別をし、そのことについての自覚がない、それが一番恐ろしいことです。「同性職員を配置」はその一例なのではないでしょうか。だからといって、移動教室で女児の入浴指導を男性教員に行わせるわけにはいかないのですが。

 

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信用される存在に

2021-11-27 08:29:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「それこそが財産」11月22日
 特集ワイド欄は、ドイツ人歴史学者ヤン・プランパー氏へのインタビューでした。インタビューの中で、「感情史の始まり」の著者であるプランパー氏は、『直感をライフワークにする心理学者によると、直感、勘、思いつきといったことは決して非合理ではなく、知識の蓄積の結果です。英語でガット・フィーリングと言いますが、人生で何かを決める際、実はこの直感が大事で、たまたま出てきたものではなく潜在意識ですでに組み立てられた知性の表れなのです』と語っていらっしゃいました。
 とても貴重な指摘だと思います。私は前日このブログでいじめ対応について書きました。その中で、定期的なアンケートや相談窓口への申し出などに頼るのではなく、教員が自らの目と感覚でいじめを見つけ出すことの大切さに触れました。このことを逆に捉えると、現状は教員のいじめ発見能力よりも、アンケートや相談窓口など、客観的、明示的な証拠品の方が重用されているということを表していることになります。
 その背景には、教員の直感や勘などは取るに足らない非合理的・非科学的なものであると軽視する考え方があるように思います。それは、文科省や教委といった教育行政側に、教員の経験や能力への不信感、教員の専門性への低評価が拭い難く存在しているということなのです。
 そして、そうした風潮は教員側の意識にも及び、長年子供と触れ合いってきた経験から得た知識の蓄積に自信をもてなくなっているのです。そしてそれは、教員自身がいじめがあるのではという疑いを感じても、「もし間違っていたら問題になる」「本人からの訴えもないのに…」と具体的な行動に移さず、アンケート等で「事実」が明確になってから動き出すのが賢い大人のやり方だという意識につながっていくのです。
 しかしそうした態度は、目の前で苦しんでいる子供を放置することにもつながります。いじめ被害を訴えられない子供は、永久に救われないことになります。しかも、いじめ被害を訴えなかったことで、訴えなかった落ち度を責められることにさえなりかねないのです。いじめに苦しみ自殺しても、どうして訴えてくれなかったんだ、と被害者が悪いかのように言われてしまうのでは、本当に救われません。
 犯罪捜査では、刑事の勘で逮捕、起訴することは避けなければなりません。国民の基本的な人権を制限する行為なのですから、慎重さが求められるのは当然です。多くの真犯人を取り逃がしても一人の冤罪被害者を生むな、という考え方が基本なのです。
 しかし、いじめ問題は違います。教員の直感がいじめを感知したら、躊躇わずにいじめがあるのではないかという立場で対応に乗り出す、そうした姿勢が望ましいのです。そのためにも、教員の直感を重く見る雰囲気を作っていかなければなりません。もちろん、教員側も自らの直感=いじめ発見能力を磨き続ける努力を怠ってはなりません。

 

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これだ!

2021-11-26 08:21:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これだよ」11月22日
 連載企画『学校とわたし』は、アーティスト・俳優の仲万美氏へのインタビューでした。その中で仲氏は、中学生時代の部活でいじめに遭ったときのことを書かれていました。
 『ある時、顧問の先生が部員を集め「いじめているのは誰?隠すんじゃない」と叱ってくれました。何も相談していなかったのに異変に気付いていたようなのです。そして「でも、万美もそう。隠して内で何でも話して」と声を掛けてくれた。相談できなかったことを反省し「すみませんでした」と謝りました。熱い思いを持った先生に助けられました。同級生の心にも響いたようでした』。
 これだ!これですよ。私は、仲氏の述懐の中に、いじめ対応のあるべき形が詰まっているように思いました。いじめ問題について、法律を作ったり、アンケートの実施を奨励したり、相談窓口を設置したりと様々な対策が取られています。悪いことではありません。しかし、学校や教員側に義務を課すようなやり方には限界と反作用があります。義務化は、それさえやっていればよい、という意識を生みやすく、「アンケートには書かれていなかった」「相談窓口への相談はなかった」と、何かあったときの責任転嫁、言い逃れのために使われる道具となってしまい、教員の子供を守るという意識と能力を低下させてしまう危険性があるのです。
 仲氏の恩師は、被害者からの相談がない状況でも、子供たちの様子を注意深く観察し、元気のない被害者の様子、集団の中に流れるおかしな雰囲気を察知し、対応に乗り出しているのです。しかも、何があったのかなどといじめの理由を調べようとするのではなく、いじめは絶対にいけないという姿勢を「いじめているのは誰?」という言葉で示しているのです。いじめの理由などを聞いていくと、いじめられる側にも問題があるという方向に流れていきやすく、解決が曖昧なまま終わってしまうことがあります。そうではなく、いじめという事実を指摘し、まず有無を言わさずいじめはだめというメッセージを発することが大切です。
 もし、この恩師がアンケートや相談窓口からの情報でいじめを把握したとしたらどうでしょう。それは、被害者に「先生は私が悩み悲しんでいることには気づいてくれなかったんだ」という感情を生じさせるでしょう。そうであれば、いじめ対応は、教員への不信感かたスタートすることになってしまいます。これだけのことで、その後の対応は難しくなるのです。
 加害者側も、「先生も気づかなかったくせに。私たち生徒のことよく知りもしないくせに」という反発と「学校にチクりやがったな」という被害者への逆恨みを抱きます。これでは、教員の指導も心に響きません。
 いじめは解決して終わりではありません。いじめ問題を解決する過程で、教員が子供たち、被害者はもちろん加害者に対しても、よく目を配り、いつでも悩みや苦しみを相談してほしいという態度でいてくれるという信頼感を与えることで、次のいじめの予防にもつながるというのが望ましい形なのです。
  いじめ対応の根本は、教員の子供たちに対するアンテナの感度を上げることにあるのです。

 

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教員に成長は無縁?

2021-11-25 08:48:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「成長はできない仕事」11月20日
 書評欄に、歌舞伎町商店街振興組合常務理事手塚マキ氏による、『「ケアマネージャーはらはら日記」(岸山真理子著・三五館シンシャ)』についての書評が掲載されました。その中の次の記述が気になりました。
 『著者はこの道21年のベテランだが、自分を「成長できていない」と振り返る(略)介護職とはある意味で成長しようのない職業なのだとわかる。なぜなら、常に違う人を相手にしないといけないからだ。いつだって一人一人に向き合い、新しい関係を作らなければ成り立たない』というものです。
  教員も同じです。何年教職を続けようと、決して同じ子供と再び向き合うことはありません。私は6年生を8回担任しましたが、使う教科書や教材は同じでも、同じ授業は一度もありませんでしたし、同じ一日もありませんでした。でも、私は自分自身についても、指導主事になって教員を指導する立場になっても、「教員は成長できない」と考えたことはありませんでした。
 むしろ、そう考えることは自分の生き方の否定につながるとさえ考えていました。成長できないのならば努力する意味はありませんし、教委の一員として研修を企画実行することも無駄な営みになってしまいます。でも、改めて岸山氏の介護職についての捉え方に接すると、妙に納得してしまうのです。
 話は飛躍するようですが、教員退職者はつぶしが利きません。定年を迎え第二の人生を、と思っても出来る仕事はほとんどありません。退職者の多くが、嘱託という形で数年学校勤めを継続し、それで職業人としてはお終いです。もし、教職が成長できる職であるならば、そこで30数年、真面目に努力し自己研鑽を重ねてきた人が、つぶしが利かないなどということはないはずだと感じているのです。
 「成長」という言葉が相応しいかどうかはともかく、教員も変化はします。新卒時代の私と指導主事になる直前の私は確かに違っていました。私はそれを成長だと思っていたのですが、違っていたのかもしれません。その証拠に、教員生活最後の一年間、授業も学級経営も、そんなにうまくいっていなかったという実感があるのです。
 20代半ば、最初の赴任校で受け持った中学年の学級、2校目30代初めに受け持った高学年の学級、30代半ばで受け持った高学年の学級、それらで感じていた手応えや充実感、大げさに言えば教員になった良かったという実感をもって日々を過ごせていたときと比べて、何か嚙み合わない、という感じの一年間だったのです。これって、成長どころか減退だったのではないかと思うくらいです。岸山氏流に言えば、新しい関係づくりに失敗していたということなのですから。
 教員は成長できるものなのか、そうではなく成長したというのは錯覚で、単に子供との相性が良いか悪いかという偶然の要素が大きいのか、考え込んでしまいました。
 

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教育の目的、授業の目標

2021-11-24 08:03:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「目的と目標」11月19日
 特集ワイド欄は、作家・明治学院大教授ドリアン助川氏へのインタビューでした。『生きること 味わえればいい』という見出しの記事の中で、助川氏は、『中高生たちが大人から常々言われていたのが、「目的を持ちなさい」ということだった。特に受験の時なんかね(略)上半期の売り上げの目的を達成すると、その日の夜は宴会になる。だけど翌日からもっと高い目標を据えられちゃって首を絞めていくことになるわけですよ。じゃあ本当に目的は必要なのかと』と目的をもたされて生きる生き方に疑問を呈していらっしゃいました。
 おっしゃりたいことは分かりますし、共感もします。ただ私がこの部分の記述を読んで頭に浮かんだのは、助川氏の考え方に対する是非ではなく、若い頃の授業事前研究における「目的」に関するのことでした。
 ある授業のために学習指導計画及び学習指導案を作成します。そこには、「ねらい」「目標」などの文言が使われます。単元の目標、本時のねらい、学習過程のつかむ段階のねらいなどです。「我が国は経済や文化の交流などで世界の国々と深いつながりをもっていることを理解させる」、「地域に多く生活している○○国の人々の生活や文化の特色を理解させる」、「○○国の人々の伝統衣装がその国の気候に適した素材や製法で作られていることを知らせ、我が国の着物との共通点を考えさせる」などと書かれるわけです。
 若い頃の無知を晒すようで恥ずかしいのですが、当時、目的と目標はどう違うのか、というようなことも知らずに、学習指導案を作っていたのです。私の指導案を見た先輩は、「○君(私のこと)、目的と目標ってどう違うの」と尋ねてきました。私が返答に詰まっていると、「目標という言葉を使った文章を考えてみて」と言われました。
 それでも戸惑っている私に、「今月の売り上げ目標は2000万円です、という言い方はおかしい、おかしくない?」と訊かれました。もちろん、おかしくありません。そうするとさらに、「今月の売り上げ目的は2000万円は、どう?」と尋ねてきます。普通の日本語感覚からすれば、おかしい、馴染まない、違和感を覚えるということになります。私がそう答えると、「目的も目標も、目指すところを示すというイメージで、似てるよね。でも、明らかに違う。どこが違うんだろうね」と質問を重ねてきたのです。
 目標という言葉には、具体的な数値を掲げて違和感がありませんが、目的に数値は合わない、というような趣旨の答えをした記憶があります。私の回答を受け、先輩は「教育には目的がある。人格の陶冶とか、心豊かな人間の育成とか。一方、個々の教科とか授業とかには目的は相応しくない。鎌倉幕府の成立について45分間勉強したからといって、人格が陶冶されるなんてありえないからね」とおっしゃいました。
 さらに、「仮に、鎌倉幕府云々という授業で、心豊かな人間の育成という目的を掲げたとして、評価はできるかい?できないだろう。授業をしてその授業がどうだったか評価ができないというのでは、問題点を改善することもできない、つまり教員として成長することもできないことになる。成長しない先生の授業を受け続けさせられる子供は被害者だよね」と続けられたのでした。
 長々と書いてきましたが、私は先輩とのやり取りから、いつ到達できるか分からない遠い到達点、方向は分かるけれどもゴールは分からない、それが目的。目的に至る道に方向は間違っていないか、どこまで進んできたかを示す目安として置かれた道標が、単元や授業の目標なんだと理解しました。
 当たり前の結論ですが、20年以上昔の私はそんなことも分からずに授業を考えていたのです。そんなことを助川氏の話から思い出しました。

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平均以下

2021-11-23 08:39:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「平均以下」11月17日
 ライター荻原魚雷氏が、『ドラマとともに楽しく学ぶ』という表題でコラムを書かれていました。その中で荻原氏は、放送中のNHK連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」を取り上げ、『安子が「きゅうり」と聞き間違えた「curio(キュリオ)」は「curiosity」を短縮したもので「好奇心」「珍品、骨董品」という意味があるそうだ。勉強になる。学生時代、こんなに楽しい授業があったらなあ』と書かれています。
 私は中高と英語が大の苦手でした。今でも、もし、英語が他の国数社理と同じ程度の成績であったならば、もっと「いい大学」に行けたのにと思っているくらいです。ですから、英語の授業にも、英語の教員にもいい思い出は皆無です。その分、もっと楽しい英語の授業があればよかったのにという思いも強いものがあります。
 しかしそんな私でも、荻原氏が紹介している「きゅうりと間違えた~」という授業の様子が、「こんな楽しい授業が~」とはどうしても思えません。こんな雑談、もしくは豆知識的な話をする教員はたくさんいます。むしろしない教員の方が珍しいでしょう。しかも、「きゅうりと間違えた~」の話はそれ自体特に面白い話でもありません。
 こんな話で楽しい授業をしてくれた教員という讃辞を得られるのであれば、教員ほど楽な仕事はありません。私は、「カムカムエヴリバディ」をみていないので、実際の状況や雰囲気が分からないのかもしれませんが、そのことを割り引いても、荻原氏の高評価は妥当なものとは思えません。
 ひねくれた見方なのかもしれませんが、荻原氏の書かれていることには、今学校で行われている授業は、無味乾燥な、人間味のない、必要な知識だけを詰め込みちょっとした脱線も許されないような非人間的なものというような過度なマイナスメージに基づいているように思えてなりません。
 もっと楽しい英語の授業は、全国の中高の教室でたくさん行われています。「きゅうりと間違えた~」は平均以下の授業レベルです。全国の教員の名誉のために言っておきます。

 

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幼稚なバカか、それとも…

2021-11-22 07:25:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「バカか?」11月17日
 映像プロデューサー吉川圭三氏が、『芸を楽しむ目線の変化』という表題でコラムを書かれていました。その中で吉川氏は、『日本テレビは9月20日、早くも“ガキの使い”年末恒例の「絶対に笑ってはいけないシリーズ」を休止することを発表』したことについて、BPOの青少年委員会が『「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」について審議に入ると発表』したことが影響していると指摘なさっています。
 そしてこのことについて、ビートたけし氏のコメントを紹介しているのです。『バカじゃないかと思うよ。だいたい、あの棒みたいのが本当に痛いわけないだろって、ダウンタウンやらココリコやら、出演者が痛がっているのは、オイラがやっていた(熱くない)「熱湯コマーシャル」と一緒で、“演技”だよ。(中略)とはいえ、作り手側がそんな抗弁をしても、世の良識派ってのはこう言うだろう。「見ている子供たちが本気にして、いじめや暴力を助長したらどうするんだ!」ってさ。(中略)視聴者はそんなにバカじゃない。(中略)この世の中の“コンプライアンス第一主義”は、「世の中の視聴者はバカなんです」と言っているのと同じ』という内容です。
 分かるなぁ、分かるけど難しいなぁ、と思いました。長年、教員をしてきた者であれば、私と同じ感慨をもつと思われます。子供は意外なほど幼稚でバカで、と同時に大人と同じかそれ以上に賢く物事の真理を理解している、ということを実感しているはずだからです。
 ですから、たけし氏が言うように、「子供は未熟だからどんな誤解をするか分からない。子供に間違いやすいメッセージを送らないために留意すべきだ」という意見を全面的に否定するわけにもいかないし、かといって「子供は賢いから、暴力でもエロでも大人と同じに対応できるよ」という見解に賛同するわけにもいかないのです。
 それではどういう態度をとるかとなると、保身のための安全策、つまり「子供に悪影響がないように十分配慮し注意してきました」という言い訳を可能にし、指導者としての責任を問われないように、子供バカ論の立場をとるようになるのです。そうした態度は、一教員としての自己保身という面もありますが、学校として、教委としてという組織防護の意味からも求められるのです。
  しかし、こうした姿勢は子供から見抜かれてしまいます。「先生は、私たちを子供で何も分からないと馬鹿にし、きちんと向き合おうとしない」と不信感を抱かれてしまうのです。実社会の不合理さや、人間関係の複雑さに言及せずに、「みんな仲間だから仲良く」「努力は必ず報われる」「人間はみんな平等」などと空疎な理想だけを語る教員は、決して信頼されることはないのです。
 でも、そうは言っても……、教職って難しいですね。

 

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備えあれば患いなし

2021-11-21 08:37:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校でも」11月16日
 『そこが聞きたい 「エシカル基準」の意義』という見出しの記事が掲載されました。日本エシカル推進協議会理事足立直樹氏へのインタビュー記事です。足立氏に『日本エシカル推進協議会は10月、企業向けに「JEIエシカル基準」を策定した』ことのねらいを尋ねる記事です。
 同基準の詳細はここで触れませんが、近い将来、学校においてもエシカル基準に照らして評価が行われるようになるのではないか、という気がしました。従来、学校は子供の教育のことだけを考えていればよい、という感覚が主流でしたが、これからはそうはいかなくなってくるのではないでしょうか。
 「エシカル基準」の中でも学校に関係がありそうなものを考えてみました。自然環境保護という面では、学校を建設するときの候補地選定や工事の在り方、樹木の配置などを考慮することになりそうです。
 人権尊重という面では、人権尊重教育の推進はもちろん、教職員の過重労働、子供の自己決定権の尊重に配慮が必要になるはずです。また、消費者尊重の面では、企業とは違い消費者は存在しないという考え方もあり得ますが、学校が提供する教育サービスを消費する者ということで、保護者の学校教育計画への参画が求められるようになってくるかもしれません。
 さらに、情報開示という面でも、より一層広範囲の情報が開示対象として、積極的開示が当然のこととされることでしょう。動物福祉については、飼育している小動物のおかれている環境が快適なものか否かが問われるようになります。
 より大きな課題は、地域貢献とステークホルダーとの協働です。前者については、従来も「地域の中の学校」という言葉があったように、地域のコミュニティセンター的な役割が期待されるようになってくることが予想されます。あるいは、災害時の救急拠点としての役割、生涯学習拠点、子育て支援施設としての活用も検討されるかもしれません。後者については、前述した様々な役割ごとに、地域住民や自治体、NPOなどと協働する体制づくりが進んでいくことになるでしょう。
 正直、面倒で厄介な話です。しかし、企業に求められることはやがて公的な団体や組織にも求められるようになるケースは少なくありません。教育行政に携わる人は、今から準備をしておくべきです。ただ、学校の本務は教育です。時代の流れに乗って何でも受け入れるというのではなく、ある線引きは必要です。それを明らかにし説得力を持たせることも忘れてはなりません。

 

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