「そのことを何と呼ぶ」11月15日
放送タレント松尾貴史氏が、『「学術会議任命拒否事件」 あからさまな違法行為追及を』という表題でコラムを書かれていました。書かれている内容はもっともなことばかりでしたが、今回私が注目したのは、次の一文でした。『菅首相による「学術会議任命拒否問題」というよりも、これは「学術会議任命拒否事件」というべきではないだろうか。もちろん問題であることは確かだが、ここまであからさまな違法行為をやって居直っているこの国の首相については「事件」として追及を緩めるべきではない』。
ある事象について、どのように命名するかによって、その事象のもつ意味自体が変わってしまうというのはよくあることです。痴呆症と呼ぶのか、認知症と呼ぶのか、そこには単なる呼称という以上に、その人や症状についての認識や対応までも変えてしまう力があるように、です。
私が教委で指導室長をしているとき、管下の学校の教員が若い女性宅を覗き警察に逮捕されるという事件が起きました。私と校長は、全校保護者向け説明会を開き、状況を説明し、今後の対処方針を示すことにしました。その説明会で校長が、「今回の事故につきましては~」と話し始めるとすぐにある保護者が手を挙げました。「校長は今事故と言った。これは事故ではなく事件、犯罪なのではないか。事故という認識なのか。事故というのは、起こってしまったものだから自分には責任がないという意識の表れなのではないか」とその男性は追及してきたのです。校長にそうした責任回避の意図はなかっただろうと思います。責任感の強い方で、自ら辞職を申し出てきたほどの方でしたから。
しかし、怒りと不安に駆られていた保護者から見れば、そう思わざるをなかったのも理解できます。私は、「教育行政では、教員の不祥事については、服務事故という用語を使う。そのために事故という言葉が出てきただけであり、校長も教委も許しがたい犯罪行為という認識で一致している」と説明し了解を得ましたが、今でも一言のもつ重みを再認識させられた事案として記憶に残っています。
学校では様々な出来事が起きます。体罰「問題」、いじめ「事案」、被害者にとっては、事件であり、犯罪であるという認識でしょう。問題や事案という言葉を使っただけで被害者やその保護者をさらに傷つけてしまう可能性があります。一方、何でも事件というのでは、加害者側に不満がたまるケースもあるでしょう。
また、よく使われる言葉に「不適切な指導」や「行き過ぎた指導」があります。そもそも暴力とか、人権侵害の暴言としか言いようのない場合にこうした表現が使われると、教委や校長の見識が問われます。危機管理としても最低で、火に油を注ぐ結果になってしまいます。
さらに、「熱心な教員」という言葉も、「行き過ぎた指導」を問われている教員に対して使われることが多い表現です。例えそれが事実であっても、使うタイミングを間違うと、教員を不当に擁護し子供の側に重大な落ち度や過失があったと印象操作をしようとしていると受け取られかねません。
校長や教委の担当者は自分の言葉のもつ「破壊力」を自覚すべきです。