ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

進撃か撤退か

2023-05-31 08:15:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「判断が難しい」5月24日
 論点欄では、『悩む新人の皆さんへ』というテーマで、五月病に悩む若者へのメッセージが特集されました。3人の識者の中の1人、東京音楽大指揮専攻教授広上淳一氏の書かれていることに目がとまりました。
 広上氏は、『若者に「傷つくのを恐れるな」と思う一方、「致命傷を負わないで」と願います』と書かれています。テーマが5月病ですから、仕事が嫌になったとき、職場で辛いことがあったときに退職せずに2年間は頑張れ、という話の流れで出てきた表現ですが、私はもっと深い意味で受け取ってしまったのです。
 いじめ問題に代表されるように、近年は辛い状況の中にある子供に対して、頑張れと言わずに逃げていいんだよ、という態度で接するのが正しいとされてきています。それでよいのです。無理したあげくポッキリと折れるように自死を選んでしまうという悲劇は絶対に防がなければなりませんから。
 しかし、その一方で、生きていくということ、人間社会は嫌なこと、辛いことが満ち溢れているというのも間違いのない真実です。そうしたことに直面したとき、いつも逃げていたのでは、充実した人生を送ることはできないというのもまた紛れもない事実です。
 学校教育は、辛さを乗り越え、逆境を跳ね返し、困難な壁を乗り越えていくことができる「生きる力」を育むことも大切な使命です。そう考えたとき、広上氏の言葉が重い意味をもってくるのです。
  教員は、今目の前にいる子供が抱えている辛さや苦しさが、致命的なものなのか、傷つくことを恐れずに戦いを挑むべきものなのかと判断し、その判断に基づいて、「もういいよ。十分がんばってきたよ。ここで休むことは負けじゃないよ」と肩に手を置いて優しく語りかけるのか、「大丈夫、君ならやれる。先生も力を貸すよ。一緒に頑張ろう」と力づけるのか、決めなくてはならないのです。
 でもそれは難しいことです。明確な基準があるわけではありませんし、同じ状況でもその子供の能力や資質によって判断は異なります。さらに、一人の子供に限って考えても、子供の心身の状況は常に変化していますから、かつてのアドバイスが今日も有効な助言になるとも言えないのです。
 さらに、一般的に言って、古い教員は激励型を好み、若い教員は逃避型に抵抗感がないという特徴がありそうです。そうした教員自身の偏りも自覚しておく必要がありそうです。
 特効薬はありません。教員は自分の判断の重さを自覚したうえで、子供と自身を見つめ続けるという地味な努力を続けるしかないのかもしれません。

 

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私は無実です

2023-05-30 08:27:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「対策は?」5月23日
 『ペンタゴン爆発 ニセ画像が拡散 生成AIで作成か』という見出しの記事が掲載されました。『米国防総省近くで大規模な爆発が起こったような虚偽の画像が22日、ツイッターなどソーシャルメディアで拡散した。地元消防当局が爆発を否定する声明を発表したが、ニューヨーク株式市場では主要株で構成するダウ工業株30種平均が一時80ドル近く急落するなど混乱が広がった』ことを報じる記事です。
 こうした事件は、今後ますます増加することが予想されます。生成AIの登場によって、誰でもいつでも同様の事件を起こすことが可能になりました。もし、こうした事件の標的に学校が選ばれてしまったら、と考えてしまいました。
 ペンタゴン爆発は、実際にペンタゴンが爆破されていないことを確かめればフェイクであることが分かります。また、世界的な関心事ですから、すぐに否定するための作業が開始されます。しかし、学校ではそうはいきません。例えば、ある教員が嫌がる女児を抱きしめてキスをしようとしている、こんな画像を作って拡散させたとします。
 関心をもつ人は、ペンタゴンとは比較にならない狭い範囲の人たちだけです。それだけ、真相解明の初動は遅れるでしょう。また、フェイクであることの証明は簡単ではありません。ペンタゴンのように実物が健在であることを見せれば済むというものではなく、女児と教員を特定し、信頼できる機関が事情聴取をし、その結果を公表するという作業が必要になります。
 真実が解明されるまでの間、ずっと疑惑はくすぶったままです。その間に、多くの無責任な誹謗中傷がSNS上に溢れることでしょう。そして、それに振り回される人、傷つく人が出るのです。さらに、事実が公表された後も、画像は残り、広い範囲で関心を呼ばなかったためにかえって否定されたことが周知されず、思い出したように○○小学校のわいせつ教員△△、というような形でフレームアップされ、被害者たちを傷つけるのです。
 こうした画像は、わいせつ事件だけでなく、いじめ問題、教員同士の不倫、教員と保護者の不倫、体罰事件など、いくつもの種類を作成することが可能です。教員や子供の画像自体は、学校行事、例えば運動会などでいくらでも入手可能ですから、それらを基に加工することも容易でしょうし、その分質の高いフェイクを作ることができると思われます。
 学校や教委は、こうした事態を想定して対策を講じることができるのでしょうか。警察や首長部局とも連携し、対応する体制を整えることが急がれます。文科省はそうした動きを積極的に後押しすべきだと思います。転ばぬ先の杖、です。

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叱ることと少子化

2023-05-29 07:21:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「厄介な子ども」5月21日
  ソウル支局日下部元美記者が、『子供だったことを忘れる大人』という表題でコラムを書かれていました。その中で日下部氏は、『韓国には主に子供の入店が禁じられている飲食店などをさす「ノーキッズゾーン」と呼ばれる空間がある。「子供への差別」だという声が上がり、その是非を巡って長年、議論が続いてきた』と書かれています。
 そして今年の調査では、『73%がノーキッズゾーンの設置に「賛成」と回答し、「反対」の18%を大きく上回った』のだそうです。そして日下部氏はこのコラムの終わりで、『少子高齢化で悩む日韓だが、子供が「迷惑」な対象として扱われる社会になればなるほど子育てがしにくい環境になり、子供を持つことを「負担」と考える人も増えていくことになる』という懸念を表明なさっています。
 たしかに、我が国においても、『保育園や幼稚園の騒音を巡る近隣住民とのトラブルは多く(略)ベビーカーを見知らぬ人から蹴飛ばされるなどの事案も起きた』という指摘通り、子供=迷惑→負担という考え方が秘かに浸透しているように思えます。
 そのことについて危惧する思いは私も抱いていますが、一方で、子供=社会の宝的な発想が力をもち、本当に子供の発する声や騒音を苦痛に感じる人が無視されるような社会も健全ではないと思います。教員や保護者は、子供を社会のルールに適応できるように指導する責任があるということを忘れてはいけないと考えるのです。
 レストランで大声をあげて走り回る我が子を注意せず、他の客から注意されると不快そうな顔をする保護者、こんなバカ親は非難されるべきだと思います。そして、保護者以上に、教育の専門家である教員は、もっと自覚すべきです。
 遠足の電車の中でお年寄りや妊婦がいることにも気付かずに座席を占拠しおしゃべりを続ける子供、それを同じ車両にいながら注意もしない教員、そんな光景を目にするとイライラしてしまいます。観劇教室で、幕が上がっているのに私語をやめない子供と叱ろうともしない教員、これも腹が立ちます。
 教員に求められるのは、子供の成長に関わる者として、子供の正当な権利を擁護するとともに、子供に社会の一員としての行動の在り方をきちんと指導できる意思と能力をもつことです。教員が、子供は宝という考え方に甘えて、自分の責務を放棄するようでは、結果として子供=迷惑・負担という見方を増長していることになります。
 子供に発達段階に応じた自律性を育てることは、子供に寛容な社会をつくることにつながり、少子化の勢いを弱めることにもつながる、教員はそんな自覚をもたなければなりません。

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学校ステマ

2023-05-28 08:55:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「もしかしたら」5月21日
 『10月開始 ステマ規制』という見出しの記事が掲載されました。『広告であることを隠して一般の口コミを装い、商品などを宣伝する「ステルスマーケティング(ステマ)」が問題になっています(略)消費者庁は10月から、景品表示法(景表法)に基づく規制を始めます』ということで、具体例や基準などについて解説する記事です。
 一時ほどの広がりはありませんが、学校選択制下では、学校の評判が入学希望者数に直結し、入学希望者の数は、学校の評価、校長や教員の評価に関わるという発想は今でも健在です。そこで、学校のステマということについて考えてしまったのです。
 ステマは違法行為です。そしてその基準は、『ポイントは大きく2段階あります。まず、広告であることを明示しているかどうかです(略)次は、企業が投稿内容に関与しているかどうかがポイントになります』ということです。ですから、「これは○○小学校の広告です」と謳わなくても、学校が投稿内容に関与していなければセーフなのです。
 例を挙げて考えてみましょう。教員の家族が、頑張っている自分の家族である教員を見て、「○○小学校の教員は頑張っている。家に帰っても子供のノートを点検し、明日に授業の準備。本当に尊敬します」とSNSに書き込む、教員自身が知らないところでこれをやる分にはセーフですよね。
 あるいは、PTAの役員が飲み会で、「うちの先生方、よくやってくれているよね」「○○先生、学年の子が万引きしたからって、日曜日にわざわざ来て、お店で頭下げてくれたんだって」「○○先生って、家遠いでしょ」「1時間半かかるって言ってた」「熱心ね」などという会話をし、「○○小学校には熱心な先生が~」と投稿する、これも問題ないはずです。
 そして、PTAの役員たちがこうした投稿を組織的にやったとしたらどうでしょうか。学校とPTAは別組織です。校長や教員が知らなければセーフだということになりそうです。では、こうした行為を「以心伝心」で、組織的に行ったらどうでしょうか。
 つまり、教員家族の会、PTA有志の会のようなものができて、それらの構成員が共同で「○○小学校は素晴らしい」という趣旨の投稿を様々なSNSでするのです。ある学校でこうした動きが起き、それを「噂」で知った別の学校でも同じような組織ができて、投稿を開始する。セーフなのでしょうか。
 もし、「セーフ」という判断であれば、証拠が残らない形で、教委や学校がこうした動きを促すなんてことも起こりそうです。杞憂でしょうか。私はそうは思いません。どこにでも悪知恵の発達した人はいるものです。そして逆のマイナスのステマの危険性も無視できません。学校評価については、ステマの影響も研究し対策を立てておく必要があると思います。
 ところで、学校のステマ、取り締まるのは消費者庁ではないですよね。

 

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人間にしかできない

2023-05-27 08:15:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「チャットGPTには無理」5月20日
 書評欄に、現代詩作家荒川洋治氏による『「対談 日本の文学 素顔の文豪たち」中央公論新社編』についての書評が掲載されました。『「日本の文学」全八〇巻の月報の、対談・鼎談・座談会を、全三巻で刊行。所巻の本書は、二四編を収録』ということです。
 書評では、様々な文豪たちの対談等の紹介が並びますが、それがとても面白いのです。一つ例を示しましょう。『内田百閒/高橋義孝「漱石先生よもやま話」。高橋「今日は何だか先生、羽左衛門の楽屋姿のような、たいそう粋な浴衣で…」。内田「手拭い浴衣だからね…」。高橋「それは手拭い何本で着物一枚できあがるのでしょうか」。こうして始まり、ずっとこの調子。最後に、内田「いったいこういう話ばかりでいいんですか」、「明暗」「道草」がここに入るのに、学問的じゃないんじゃありませんか(笑い)」。高橋「先生、よろしいんですよ。学問的じゃなくても(笑い)」。素晴らしい対話だ。漱石もだいじだが、漱石を語るひとときが生きていること。それが漱石を語ることになるのだと思う』です。
 漱石のこと、何も分かりませんよね。でも、荒川氏はそれを素晴らしいと評価しているのです。私には荒川氏の評価が妥当なのか否か、分かりません。素人ですから。そういうことで、ここで内容には深入りしません。
 私が感じたのは、将来AIが飛躍的に発達し、チャットGPTが対談形式の文章をつくることができるようになったとしても、こういう対談は作れないのではないか、ということです。「内田百閒氏と高橋義孝氏が、「漱石先生よもやま話」というタイトルで対談したらどのような内容になるか、2000字程度にまとめよ」と指示したとして、出てくるのは夏目漱石について知られたエピソードをうまく要約したものに過ぎないのではないかと思うのです。
 夏目漱石についてだけでなく、内田百閒と高橋義孝両氏についても、その著作や発言、両氏を知る人の発言や書いたものなど、膨大なデータを読み込ませておいたとしても、こうした「対談」にはならないでしょう。「漱石先生よもやま話」というタイトルが設定されているにもかかわらず、関係のない当日の対談者の浴衣姿について語られる、などということは、AIには真似することは不可能でしょう。
 人間について、性善説が正しいか、性悪説が正しいかという議論があります。教員の中にもそうした議論を好む人がいます。私もかつて同学年を組んだ教員から、「僕は子供性善説に立っている。教員なら当然だ。でも○○さん(私のこと)は、性善説ではないように思える。教員の資格がない」と非難されたことがあります。
 このブログでも書きましたが、私は、「人間は良い面も悪い面ももっている。そのときの状況や相手、さらには健康状態や気分など些細な条件の違いで、どの面が出てくるかは分からないものだ  という人間観をもっています。いつも顔を合わせている2人でも、雨なのか晴れなのか、空腹なのか満腹なのか、髪型が決まっているのか乱れているのか、友人がLINEを既読にしてくれたか無視されたか、少しの条件の違いで2人の会話は全く違ったものになるのが人間なのです。
 教員は、そのことを分かっています。理解した上で、子供を見て子供と話すことができます(出来ないのなら教員を辞めるべし)。少なくとも、その点だけは教員はチャットGPTよりも優れているのです。私は、教職がチャットGPTに取って代わられることはないと改めて思いました。

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毎日が針の筵

2023-05-26 08:06:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「追い込まれて」5月19日
 『保育現場 負の連鎖 「虐待したい人なんていない」』という見出しの記事が掲載されました。『「何でできないの」。駆け出しの保育士だった女性(29)は、2歳の園児を怒鳴った。生活発表会が迫っているのに、教えた歌や踊りができていない。ぶざまな発表会にはできない。そんな焦りに比例して、園児に発する言葉は強くなった』、そんな書き出しで始まる「保育現場の現状」とその課題を報じる記事です。
 印象に残る記述が二つありました。一つは冒頭の記述です。これは私自身の教員としての体験と重なります。学校にも保育園と同じように様々な行事があります。そうした行事では、同僚の教員、校長などの管理職、保護者、そして同じ学年の子供同士、様々な目があり、それぞれが評価を下します。「○○組、きちんと発表できない子が多いわね」「○○先生のクラス、落ち着きがないし、真っすぐ並べてないじゃない」「うちの子のクラス、おしゃべりが多くてだらしない。○○先生、ちゃんと指導してくれてないんじゃない。恥ずかしいわ」そんな評価が、子供からも保護者からも同僚からも下される場、それが行事なのです。
 そうした評価、それは実際に言葉として聞こえてくるわけではないものの方が多いのですが、私の心に響き、私の自尊心をズタズタにしました。初任者なんだから先輩と同じようにはできないさ、と自分で自分を慰めるものの、自分は初任者であることを差し引いても特別無能な教員なのではないか、という考えが何度も湧き上がってきて、喚き出したい気分になるのでした。そこに自分の学級の子供しかいなければ、実際に、「何でできないんだ」と怒鳴っていたでしょう。冒頭の若い保育士の女性のように。
 教員や保育士という職について、上司に監視されているわけではなく子供と一緒で気楽でいいと考えている人がいるかもしれませんが、大きな間違いです。常に、他の受け持ちの子供との比較で、自分の力量をシビアに評価され続けているのです。そのストレスについて理解することなしに、教員や保育士の仕事の難しさ、辛さを放蕩に理解することはできないのです。
 もう一つは、『園児の習熟は、思った通りに進まない。ベテランの保育士が思い描くレベルの動きになっていないと、若手の保育士は子供たちの目の前で叱責された。女性は「子どもたちは大人をよく見ています」と話す。走り回る園児に注意しても、聞き入れてもらえないことがあった。「私のような新人を下に見るようになったからだ」』という記述です。
  要するに、教員や保育士の中に、「偉い先生」「偉くない先生」がいると子供たちが考えるようになるということです。そして、偉い先生の言うことは聞かなければならないが、偉くない先生の言うことは無視してもいと思うようになっていくのです。これは辛いです。
 一生懸命に子供を指導しても無視される、そこにベテランの教員が来て一言注意すると子供たちは「はい」と返事をしてすぐに指示通りに動き出す。恥ずかしいような、悔しいような、情けないような、腹立たしいような、何とも言えない気分になります。こんなことが一日に何回も繰り返されるのです。
 ベテランの教員や保育士に悪意があるわけではありません。彼らもまた忙しいのです。それでも子供にきつく当たることは避けるだけの配慮は出来ますが、大人同士の後輩教員や保育士に対しては、つい配慮に欠けてしまうのです。後で子供のいないところで注意したり指導したりすればよいとは分かっていても、ついその場で口に出してしまうのです。
 教職のきつさ、それは単に多忙からくる肉体的な疲れという概念で理解されがちですが、実際にはこうした日常的なストレスの蓄積も大きな要素なのです。もちろん、その根幹には多忙さがあるのですが。
 

 

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放課後の過ごし方の問題です

2023-05-25 08:39:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「負担増」5月18日
 『子どもの体力低下 運動の大切さ見直そう』という見出しの記事が掲載されました。『子どもの体力が低下している(略)ゲームや動画に接する時間が増えていることに加え、新型コロナウイルス感染症の流行に伴う行動制限が運動不足に拍車をかけたとみられる』という問題意識で書かれた記事です。
 記事の中心は、『子供たちの成長を支えようと、専門家たちが、学校と連携して活動する「スクールトレーナー制度」の導入を政府に働きかけている』ことを伝える内容になっています。
 とても不思議な思いがしました。記事では子供の現状を、『以前は、鬼ごっこや木登り、かくれんぼなどが体の使い方を学ぶ機会になっていたが、外遊びをする子供は減っている』『肥満の子どもの割合も増えた(略)全国一斉休校の期間中、子どもたちは、いつでも食べられる環境にあった。菓子などを多く食べ、外出できず体を動かさなくなったことが影響したのではないか』『小さいころからスポーツクラブに通ったり、中学や高校のクラブ活動で過度な練習をしたりすることによって、故障やけがの後遺症を抱えるケースも増えている。運動の「不足」と「過多」という二極化が起きている』としています。
 丁寧な分析だと思います。しかし、部活を除けば、問題になっているのは、下校後の遊び方であり、家庭で子供を静かにさせるために菓子を与えるという子育ての手抜きであり、スポーツエリートを目指す親の過剰な熱情の問題であり、全て学校外のことなのです。
 それなのに、学校外の「問題」の尻拭いを学校に押し付ける、そうした発想に納得がいかないのです。記事で紹介されている「スクールトレーナー制度」とは、『スクールトレーナーになれるのは理学療法士だけだ(略)(公益財団法人「運動器の健康・日本協会」)独自のカリキュラムに沿った研修を受け、試験に合格すると認定される(略)理学療法士は、体の仕組みにかかわる医学的ケアのプロフェッショナルだ。学校には体育や養護の教諭がいるが、より専門的な立場からアドバイスできる。教職員の負担軽減にもなると期待される』ものです。
 課題解決にそうした専門家の力を生かすのは良いことです。しかし、前提が間違っているのです。下校後の生活に起因する問題を学校で解決しようという前提が。しかも、けっして学校の負担軽減にはなりません。新たな職の人を迎え入れるということは、校内の体制を整え、教員にその職についての理解と協力の仕方についての研修を実施し、窓口となる副校長や主幹には調整と問題発生時の対応、外部からの苦情や問いに対する対応という仕事が増えるのです。特に、外部や問題発生時の対応はその制度が続く限り、いつまでも起こり得ることとして備え続けなければなりません。
 また、新制度導入という新しい施策については、実態を記録し、成果と課題を明らかにして教委に報告するという仕事が必ず発生します。教委の立場からすれば、メディア対応、議会対応、庁内の他部課対応、文科省対応などのために、学校の負担となることが分かっていても報告を求めざるを得ないのです。
 つまり、学校外の子供と家庭の問題の解決が学校に持ち込まれ、学校がさらに多忙化するということなのです。それを負担も軽くなるなどと学校にとって良いことのように書かれては不満のもって行き場がありません。勘弁してほしいものです。

 

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信頼を損なう、とは

2023-05-24 08:33:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「校務への信頼性」5月18日
 『キャリア官僚がわいせつ認める』という見出しの記事が掲載されました。『知人女性に睡眠薬入りの飲み物を飲ませてわいせつな行為をしたとして、準強制性交等未遂と準強制わいせつの罪に問われた経済産業省のキャリア官僚』が起訴内容を認めたことを報じる記事です。
 記事の中に経産省のコメントが掲載されていました。『国民の公務に対する信頼性を著しく失墜させるもので遺憾』というものです。私が変わっているのかもしれませんが、私はこの事件によって、経産省の職員が行う公務の遂行についての評価は変わりません。
 どこの業界にも、おかしな奴はいるものです。私が長年籍を置いてきた教員の世界も同じです。痴漢をして逮捕される教員もいましたし、酔って喧嘩した教員、交通事故を起こした教員もいました。もちろん許されないことですし、いずれの事例も事実関係を調べ、処分を下すよう内申してきました。
 しかし、私は不祥事には2通りあると考えてきました。職を問わず、誰もが犯してしまう可能性がある不祥事と、その職にあるものでなければ起こせない不祥事です。教員の場合で言えば、前者は痴漢、交通事故、喧嘩などであり、後者は体罰、子供へのわいせつ行為、保護者からの金品の受け取り、いじめの隠蔽などになります。
 我が子の担任が、交通事故を起こし重傷を負わせたという場合と、教え子の女の子の下着に手を入れる行為をしていたという場合と、保護者や子供たちはどちらのケースでより大きなショックを受けるでしょうか。後者ですよね。賠償金の額は前者の方が高額かもしれませんが、より信頼を損なうのは後者であるはずです。
 後者の行為は教員の職務に直接関わり、教員の立場を悪用したものでもあり、そんなことをする教員がいるなんて許せないと、教職全体に対する不信感をもたらします。たとえその教員がそれまでどんなに評判が良い教員だったとしても、です。
 それに対し前者は、少なくともその教員が普通レベルの教員であれば、「どうしたんだろう、疲れていたのかな」「普段は落ち着いている先生なのに」「先生もショックを受けているだろう、大丈夫かな」などの反応が予想されます。場合によっては、「寛大な処分を」という署名運動さえ起きかねません。
 私はこのブログで、前者のような不祥事には軽い処分で更生の機会を与え、後者には厳罰で臨むべきと訴えてきました。飲酒や速度違反などがない交通事故であれば戒告処分、自己保身の意図的ないじめの隠蔽は、たとえ長欠者や自殺未遂、自殺等の重大事態でなくても懲戒免職というような処分の在り方が望ましいということです。
 痴漢は、流石に懲戒免職ですが、それでも教職への信頼を損なうという面では、いじめ隠蔽よりも影響は少ないのではないでしょうか。

 

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努力は不要、学びも不要

2023-05-23 07:21:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どこまで?」5月16日
 発明家吉藤オリィ氏が、『孤独は消せる』という表題でコラムを書かれていました。その中で吉藤氏は、『私は近視ですが、眼鏡があれば死力を補正できる。「もっと目が良くなるように努力しろ」なんて言う人はいない。でも、人とのやりとりが苦手な人は「コミュニケーション力を付けろ」と言われる。そこにすごく違和感がある。足が不自由でも車いすを活用できるように、根性論ではなく、機械を使って乗り越えられないか』と書かれていました。
 私はこのブログで、英語学習について「どこまでの英語力を身に付けさせることを想定しているのか。道を尋ねたり、買い物をしたりといった日常会話程度であるのならば、自動翻訳アプリに任せることができる。そのレベルを想定しているのであれば、小学校からの英語教育は不要」という趣旨のことを書いてきました。
 吉藤氏が、眼鏡という道具を使えば目をよくする努力(眼球を動かす筋肉を鍛える運動をするとか)は不要と言っているのに通じる発想です。そんな私ですが、コミュニケーション能力を機械で補うという発想になるとついて行けません。
 それ以外にも、例えば、走るのが遅いのは車輪付きの靴を開発すれば補えるから体育で走る練習は不要とか、字が下手なことは手首に理想的な動きを再現する機械を装着すれば克服できるから書写の授業は不要とか、音痴は楽譜を読み取ってそれに合わせて生態を調整する人工知能付きの機器を埋め込めば誰でもプロ並みに歌えるようになるから音楽の歌唱指導は不要といったことには首肯できません。
 もちろん、今私が例として挙げたことは実現は難しいでしょうし、仮に実現できるとしてもかなり先のことになるはずです。費用も高額になり、利用できるのは一部の人に限られるはずです。しかし、そうしたこととは切り離して、努力しないで機械の力で能力を獲得するという発想についていけないのです。それは、学校教育という仕組み自体を完全に否定する発想だからです。それどころか、あらゆる場面において、努力や学習を否定する考え方につながるとさえ思います。
 でもお前は、英会話力は翻訳アプリで代替できると主張してきたではないか、と言われてしまうと考え込んでしまいます。翻訳アプリと吉藤氏が言うコミュニケーション力補助機械との違い、境界線が分からないのです。
 AIの飛躍的な性能向上を受け、これからは人間のどの能力についてAIで補助代替させるべきかということが問題になってくると思われます。全ての人が考えるべき問題だと思います。

 

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間口を広く、自分で選んだ

2023-05-22 08:13:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「お仕着せ感」5月14日
 日本芸術文化振興会理事長長谷川眞理子氏が、『伝統の継承に必要なこと 触れて興味を育む場を』という表題でコラムを書かれていました。その中で長谷川氏は『文楽の研修プログラムに対し、今年の応募者がゼロだった』という事実をあげ、伝統文化継承への危機感を述べられています。
 そして、『自然科学の面白さに触れる機会はたくさんあるし、科学は未来を開くものという、前向きなとらえ方がされている。では、日本の伝統芸能はどうだろう?私自身の経験では、初等・中等教育で、日本の伝統芸能に触れる機会はほとんどなかった。また、それはつねに「古くさいもの」という感覚がつきまとっていたように思う。これでは後継者育成は心もとない』とされているのです。
 伝統の継承の大切さは、私も感じています。ただ、長谷川氏の指摘には少々違和感を覚えます。それはまず、今の学校教育に対する理解不足です。20年ほど前の学習指導要領改訂の折、伝統文化への理解と尊重が打ち出され、学校教育においても、そのための環境整備と体制づくりが求められたという経緯があります。
 当時、指導室長をしていた私も、中学校の音楽や部活で伝統芸能に触れる機会を確保するということで、予算措置をしなければならず、琴は高価なので三味線や尺八を、それも人工皮革や塩ビ製の安価なものにしてはどうか、とか、太鼓ならば地元の劇団に指導してくれる人がいるが、和太鼓は高い、など様々な検討をしたことを思い出します。
 長谷川氏は私よりも年長でいらっしゃるので、確かに氏の小中学校時代にはそうした発想はなかったかもしれませんが、今の学校はそうではないのです。その点は是非認識してほしいものだと思います。
 それよりも大きな違和感は、長谷川氏が自然科学と伝統芸能を対比させている点にあります。自然科学は、子供にとって間口が広いというのが私の考えです。私は典型的な文系人間であり、このブログでも再三政府の科学技術偏向重視を批判してきました。そんな私ですが、小さい頃、バッタやザリガニ採りに、近所の原っぱや池の周りを走り回った経験があります。バッタを、母親に隠して引き出しにしまって死なせてしまったり、ザリガニを甲殻をはぎ取って身を餌にして次のザリガニを釣ったり、などという「残虐行為」をしてしまう悪い子供でしたが、それらは間違いなく五感を通した自然体験でした。
 私のつれあいは、信州で育ち、星を見るのが好きです。花も好きで、毎朝のウォーキングで、土手に咲く花を「摘んでいっていい?」と訊くのが日課になっています。私は鼻はともかく、星には全く興味がありません。星座など一つも知りません。一方つれあいは、虫や水辺の小動物など触るのも嫌だと言います。
 つまり、自然に対する興味関心の在り方は人それぞれであり、そうでありながらもどんな対象から入っても自然に触れることは可能だという意味で、間口が広いのです。それに対し、長谷川氏が言う伝統芸能は、間口が狭いのです。歌舞伎、文楽、雅楽、寄席など、予め大人の都合で対象が決められているということです。そして、人は、他者から強制されたとき、それを義務と感じ興味を減じるという特徴があります。ですから、伝統芸能という括りで、子供に触れ合いの機会をといっても、それは効果が薄いと考えるのです。
  私は虫やザリガニやオタマジャクシを、つれあいは花や星を、入り口は違っても、いずれも自らの興味関心によって自由に触れ合ってきたのです。伝統文化の継承にもそうした視点が必要なのではないでしょうか。
 そのためには、歌舞伎、文楽、雅楽と間口を狭めず、もっと幅を広げてはどうでしょうか。昔の絵や書、源氏物語などの物語、刀や兜など美術品、十二単などの装束、城や神社仏閣などの建物、それらが出てくるドラマや映画、漫画など、うんと間口を広げて、そこから伝統文化の世界に入り込む、そんなイメージの方が効果があるように思えるのですが。
 学校における伝統文化の理解と尊重もそうした発想が大切だと考えます。

 

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