ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

断れない、人間だもの

2019-05-31 08:18:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「できるから断れない」5月26日
 『五輪チケット国会議員枠?ありません』という見出しの記事が掲載されました。『超党派の2020年東京五輪・パラリンピック大会推進議員連盟が、五輪チケットに国会議員向けの特別枠はないと全国会議員に通知した』という記事です。
 その中で興味深い記述がありました。『衆院議員の一人は「支援者からの依頼を堂々と断れる」と胸をなで下ろしている』というものです。おそらく、国会議員のもとには、「チケットがなかなか入手できない。先生のお力で開会式のチケットを」というような依頼が舞い込むのでしょう。そういう依頼をしてくる人は、後援会の中でも有力者で、日ごろから地元に帰れば頻繁に顔を合わせている方々だと想像できます。
 議員にしてみれば、選挙でお世話になる、怒らせたら次の選挙でしっぺ返しを喰う、というような思いを抱くことでしょう。しかし、いくら政治家といえども、全て損得勘定で動いているわけではないはずです。親しい人だから、よく顔を合わせて交流してきた人だからこそ、何とか役に立ってあげたいという人情もあるはずです。ですから、頼まれれば断れないのです。こうした心の動きは、人間的であり、当たり前です。
 要するに人は、初対面の人、赤の他人からの依頼に比べて、面識がある人、何らかの人間関係がある人からの依頼は断りにくい、という性質をもつものなのです。これは、相手への好意とはあまり関係がありません。好ましくない感情を抱いている相手であっても、そのことを表沙汰にはできず隠して関係を保っている場合も、赤の他人の場合と違って、断りにくくなるものなのです。
 今年は、児童虐待が社会的な関心を集めました。特に松戸市のケースでは、学校や教委が、虐待の当事者と疑われる父親からの強談判に屈し、被害児童の書いて手紙を見せてしまうという失態を演じ、非難が集中しました。もちろん、学校や教委の対応は許しがたいものですが、学校や教委の担当者だけを責めて済む問題でもありません。
 学校と保護者の間には、それまでに何らかの接触や交渉があり、それが今後も一定期間継続するという予想が立つという関係があります。つまり、先ほど述べてきた「断りにくい近しい関係」があることが、毅然と断ることができなかった要因として指摘できるのです。
 ですから、脅しに屈して安易に情報提供したり、筋の通らない要求をのんだりしないためには、近しい関係のないものが決定権者として対応するというシステムを確立しておくことが必要なのです。保護者の要求に対しては、普段から接触のある担任ではなく話をしたことがない校長が、校長と関係があるPTAの役員や地域の有力者に対しては、ほぼ初対面である教委の担当者が、そこで納得を得られない場合は首長部局の個人情報開示審査委員会が、というように、遠い人が決定権者であるという形を整えておけば、情に流されて、今後の関係の悪化を懸念して、といった人間の弱さを露呈せずに済むのです。
 一連の虐待事件から得る教訓は、人間は近しい人の依頼は断れない、という事実を認識することです。
 
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中学校には中学校の役割が

2019-05-30 08:03:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「なぜ中学校?」5月25日
 『たのしいよるのがっこう』という見出しの記事が掲載されました。『埼玉県川口市で4月、22年ぶりの公立夜間中学「市立芝西中学校陽春分校」が開校した』ことを報じる記事です。記事によると、『生徒78人のうち48人が在留外国人』とのことです。
 記事はさらに全国の状況にも言及し、『2017年の文部科学省の調査によると、生徒1687人のうち、約8割の1356人が外国籍の生徒』という事実を明らかにし、『夜間中学は時代と共に役割を変え、定住を目指す外国人の貴重な学びの場となっている』という記述で結ばれています。
 中学校夜間学級(いわゆる夜間中学)については、このブログで再三触れて問題提起をしてきました。繰り返しになりますが、また指摘しておきたいと思います。政府が外国人労働者の受け入れを拡大させる方針を明らかにし、法改正も行われ、今後外国人に対する日本語教育の必要性が増し、中学校夜間学級について取り上げられる記事が増えると予想されるからです。
 我が国では、義務教育を繰り返し受けることはできません。高校や大学を卒業した者が中学に入り直すことはできないのです。この原則は外国人にも適用され、外国の高校や大学相当の教育機関を卒業した者は、日本で中学校に入ることはできないのです。私が教委に勤務していた頃、このことを知る外国人が、中学校を中退してきたと虚偽の申告をし夜間就学に入ろうとするケースが後を絶ちませんでした。民間の日本語学校と違い、学費が不要だったからです。
 ではなぜ、義務教育修了者が再度義務教育を受けることが認められないかというと、授業に支障をきたすからです。それはそうでしょう。大学卒業の学力をもつ者が12歳の中学生と一緒に授業を受けるという状況はどう考えても異常ですから。夜間中学はあくまでも中学校であり、学習指導要領に定められた学習内容を学ぶ場所です。外国の大学の理系学部を卒業した者に、中1の数学や理科を教えるために、税金を使うのはおかしいと言うことは誰でも分かるはずです。
 外国人自身もそんなことは望んでいません。あくまでも日本語をマスターするために夜間中学に入るのです。つまり、夜間中学は、我が国の公立中学校なのに、中学校の学習内容を定めた学習指導要領を逸脱した学習がメインとなる教育機関化しているのです。
 このように書くと、記事にもあるように、「時代と共に役割を変え」たのだという反論がありそうです。しかし、夜間中学に配属されているのは、中学校の教員免許を有する、数学や理科、社会科や体育の教員なのです。彼らは自分の専門分野の能力を生かすことができないまま、教員としてのキャリアを積み、指導力を伸ばす機会を奪われるのです。外国人も、専門家でない者に日本語教育を受けることになるのです。私は、教委勤務時代に、社会科の免許をもつ教員が、平仮名の書かれたカードを手にしながら、「りんご」「でんしゃ」などと復唱させている「授業」を見てきました。校長の「どこが中学校なんだ」というつぶやきも聞いてきました。平仮名カードを手にしていた若い教員は、異動先の中学校で、指導力不足と非難されていました。それはそうです。4年間の経験のある若手教員と期待されていたのが、中学校の社会科の授業をしたことがなく、新卒と変わらない、あるいはそれ以下の指導力しかなかったのですから。
 外国人に対する日本語教育は必要ですし、そのための教育機関を整備することは緊急の課題です。だからといって、それが中学校でならなければならない理由はないはずです。
 
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共感力を低く

2019-05-29 07:03:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「常識を疑って」5月24日
 客員編集委員近藤勝重氏が、『言語・死者・共感から戦争が生まれた』という表題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、京都大学長山極寿一氏が、「なぜ戦争をするか」という問いに対して答えた言葉を紹介しています。『それはやっぱり、言葉のせいだね。例えば、鬼畜米英とか(略)言葉の他に、みんな血縁だという意識を利用した死者の共有や共感性を高めることでまとまる力~』という指摘です。
 そしてさらに、『仲間が直面しているトラブルに対して、自分も助けたいと思うようになった。集団的自衛権の話もそうでしょうね。これは、他の動物にはないことですよ(略)共感のネガティブなところですね』とも語っていらっしゃいます。考えさせられました。
 私だけかもしれませんが、共感とか、言語の力とかいったものについて、プラスの、肯定的なイメージをもっていたからです。しかし、霊長類学者でもある山極氏は、言葉によって人を動かす力、相手の心情や立場を思い遣って共感する能力こそが、他の動物にはない残酷で無慈悲な戦争という大量殺人の要因だというのです。
 確かに、スローガンやプロパガンダがなければ、近代の大規模な世界戦争は起きなかったでしょう。一昨年行われたアメリカによるシリア空爆も、女性や子供、高齢者が悲惨な死に直面しているということへの心理的な共感が、シリアに肩入れしていた中国の習近平氏を黙らしたのですから。
 学校教育の現場には、様々な「常識」が存在します。他人の気持ちを思い遣るのは無条件に良いこととされて、学校や学級の目標として掲げられています。共感力=善なのです。しかし、いじめや、最近問題になっている学校内の階層化などには、小さなグループ内での共感性が強まり過ぎた結果の異物排除という側面が無きにしも非ずです。
 そう言えば、昔からある、いわゆる不良グループによる学校間の暴力沙汰なども、もちろん、仲間に対する過度の共感性、「あいつがやられたのに黙ってみているわけにはいかない」的なきっかけが大半を占めていました。私も中学生のとき、隣の中学校の番長が自分の学校の番長を呼び出したらしいと聞いて、仲間と一緒に神社に駆け付けたことがありました。血が騒いでしまうのですね。実際は、怖くてうちの学校の番長が一方的に殴られているのを見ていただけでしたが。
 言語への無邪気な信頼も、「よく話し合ってみなさい」というような形で、存在します。いじめ問題の解決に向け、被害者と加害者を呼び、善意から「お互いに思っていることを話し合ってみなさい」などという妄言を吐く教員なども、言語のもつ力を良いイメージでしか認識できていない実例です。話すことで傷が深くなり、立ち直れないほどの絶望を抱く子供がいるという想像力が欠けているのです。
 自分がもっている善のイメージ、その逆の悪のイメージは本当に正しいのか、振り返ってみることが教員には必要です。
 
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印象操作

2019-05-28 07:51:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「支障が出るのは」5月24日
 『教員残業 月45時間上限 都教委9月勤務から適用』という見出しの記事が掲載されました。見出し通りの内容です。『これまで都は、学校教員の残業の上限を過労死の労災認定ラインである月80時間に設定』していたわけですから、一応改善と評価できるものです。
 ただ、次の一文が気になりました。『都教委の担当者は「今回は過労死ラインよりも更に厳しい上限を設けることになるため、これまでと同じような学校運営は難しくなる。保護者らの理解を得ながら教員の負担軽減を進めていきたい」としている』というものです。
 この担当者のコメントを読むと、上限を45時間にした影響は、学校運営面でのみ存在するという認識に受け取れます。多くの保護者や都民は、職員会議などの会議や学校事務などの校務の遂行には影響が出るけれども、授業や子供の指導には影響はないということなのだな、と考えるでしょう。つまり、校長や副校長、主幹など学校の「上層部」はいろいろと苦労があるだろうけれど、一般の教員にはあまり影響はなく、教員は負担が減る、その分教育活動は今までと同じかそれ以上に充実するという認識です。
 それは正しくありません。都教委は、教員の勤務時間をタイムレコーダー等できちんと管理するという施策も進めています。部活の対外試合や郊外での活動時の率付なども含まれますから、正確には若干の誤差が出ますが、要は教員が学校内にいる時間が35時間減るということです。その減る時間には、授業の準備や資質向上のための研鑽、提出物を細かく見る時間や子供の相談や個別指導にあてる時間が含まれているのです。
 準備の時間が減るのですから、授業の質もその分低下しますのでよろしくご理解願います、という通知は出せないでしょうが、理論上はそういうことになるのです。もちろん、そんなことを保護者や都民が納得して受け入れるはずはありません。そして教員も、教育者としての良心が、専門家としての矜持が、そんな状況の受け入れを拒むでしょう。ではどうなるか。子供と直接向き合う生活指導や教育相談の時間は削れませんから、授業の準備や教材研究、自己研鑽の時間などは、自宅に持ち帰っても「サービス残業」となるのです。そして、「サービス残業」は表面化しませんから、まじめな教員ほど疲弊化し、だけどそれは誰にも理解されず、「先生は楽だからいいよな」という目で見られるストレスだけが一層募っていくということになるのです。
 そんなことは百も承知しながら、「学校運営~云々」と嘯く担当者、怖い話です。

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大雑把

2019-05-27 07:35:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「矛盾と焦点ボケ」5月22日
 『どう変わる教育』という見出しで、前文科相補佐官鈴木寛氏へのインタビュー記事が掲載されていました。鈴木氏とは、彼が参議院議員1期目のときに、お会いして話をしたことがあります。そのときは、中学校における外部教育力の活用という視点で、私が指導室長として勤務する教委が管轄する中学校への訪問視察でした。当時の印象は、ある理念に基づく理想像があり、その理想像に基づいて現場の出来事の中からご自分の理念に都合のよい事象を拾い集めようとする話の進め方をなさる方であるというものでした。
 今回の記事を読んで、再び同じ思いを抱きました。論理に緻密さを欠き、矛盾することを平気で口になさっていると感じました。
 例えば、『教育に関わる人たちは政治家も官僚も教育委員会も校長先生も、多くは旧世代のままで、大学受験もほとんど手付かずの状態だった』という分析です。校長や教育委員会とは、何を指しているのでしょうか。特に言及がないので、全ての教育委員会と校長の大まかな傾向を能わしているととらえるしかありません。そうすると、小中学校の校長や、小中学校を管轄する区市教委が改革に乗り出さなかったということを、大学受験制度を引き合いに論じていることになります。小学校の校長や高校にさえ影響力を及ぼすことができない区市教委が、どのような行動を起こせばよかったというのでしょうか。鈴木氏の発言には、教育とか、学校と行った抽象的な概念しかなく、各校種ごとの異なる課題や実態に基づいて議論するという姿勢が欠けていると感じます。
 また、『近年の自動翻訳機能の能力は格段に進化している。きちんとした日本語ならばほぼ完璧に翻訳する時代がそこまで来ている。重要なのは、まず母国語で論理的な文章を書く能力だ』ともおっしゃっています。この見解には賛成です。私が、拙著「断章取義」の中で、自動翻訳機の進歩により、初歩的な日常会話程度の能力獲得を目指すのであれば英語教育の拡充は必要ない「予測」したとおりです。ただ、その後で鈴木氏は、小学校低学年から英語教育を開始する改革を支持なさっています。話の展開からすれば、国語の学習を充実させ、その中でも「書く」活動場面を増やしていくべきだと主張するのが自然なのではないでしょうか。
 さらに、『今後はITやAIを生かした上での「公正な個別最適化」が進む』『AIやVRも駆使して、現場の体験学習とハイブリッドした授業も始まる』など、高校教育の変化を予測なさっていますが、一方で、今後求められる資質として『AIに欠けている哲学』を挙げていらっしゃるのです。哲学という言葉が何を指しているかはよく分からないのですが、哲学に欠かせないのは、じっくりと考えるという行為であることには異論がないと思います。ITやAI、VRは、その対極にあるものではないでしょうか。これらは効率やパターン化という側面では大変優れたものですが、哲学的思考はにとっては、それらはむしろマイナスにしか作用しないと思われます。
 哲学重視には大賛成です。ただその方策はもう少し練り上げる必要があると思います。
 
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でも天才はそうはいない

2019-05-26 08:39:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「不必要?」5月22日
 最上聡記者が、『世界で戦える体制の強化を』という標題でコラムを書かれていました。囲碁の最年少棋士仲邑菫初段らを取り上げ、我が国の囲碁界の課題を指摘する内容です。その中で最上氏は、小学生のときに単身で韓国に渡り、韓国の囲碁道場で学んだ福岡航太朗氏の話を紹介しています。
 『朝起きて身の回りのことをしたら、午前9時ごろ道場に着いたら、昼食休憩を挟んで午後9時半まで、最新の棋譜の記録と対局を中心に勉強しました。量も内容も日本とは違いました』というものです。そして、最上氏は、こうした取り組みを見習って我が国でも「世界で戦える棋士」育成に乗り出すべきだと主張しているのです。
 私はこうした論に接するとき、いつも同じ疑問が湧いてきてしまいます。小学生が1日12時間も、囲碁に限らずあることに集中して取り組むということは、他のことをする時間も体力もないということを意味します。それは、「義務教育」は不要であると言っているのに等しいと思います。もちろん、誰についてもというわけではなく、1000人に1人、10000人に1人という特殊な才能の持ち主に限っての話ですが。確かに実態として、一流のアスリートや棋士は、それに近い境遇の中で才能に磨きをかけてきたのでしょう。私が知らないだけで、囲碁将棋やスポーツ以外にも、そうした分野があるのかもしれません。
 しかし、義務教育は、我が国の国民として必要最低限の知識や能力を身につけさせるものとされています。逆に言えば、義務教育をきちんと受けることがなければ、国民として必要最低限の知識も能力も身につけないまま、社会に出、大人として社会生活を営むことになってしまう危険性が高いということになります。
 私は将棋が趣味ですので、棋士について語らせてもらいますが、永世7冠の羽生善治氏も、その羽生氏の記録を凌駕すると言われている藤井総太7段も、幼少期から将棋について膨大な時間を費やしながらも、学校の成績も良く、10代のころから同年代の若者とは比べものにならないくらいの人格の持ち主でもあります。だから、彼らを見ていれば、私の心配は杞憂にすぎないということになるのかもしれません。
 でも、彼らは特殊な成功例なのではないでしょうか。先日、子供にどんな習い事をさせるか、というテーマの記事を目にしました。藤井総太氏が注目されたときには将棋、仲邑氏のことが報じられると囲碁、羽生(はにゅう)選手がメダルを獲得したときにはフィギアスケートが人気を集めたということです。もし、実際に、我が子に才能を過信して、彼らと同じ道を歩ませようとしたら、その中から1人か2人の成功者が生まれても、その陰に10万人、20万人の不適応者が無惨な姿をさらすことになると思えてならないのです。
 もちろん、個人の人生はその人のものです。子供の人生に最も大きな責任を有するのは保護者です。ですから、親子で話し合い、そういう特殊な道を選ぶのは個人の勝手だと言ってしまえばそれまでです。ただ、メディアが特殊例を課題に礼賛し、人々に間違った考え方、才能があれば義務教育なんて不要、学校に通うのは時間の無駄というような価値観を植え付けてしまうのは慎むべきだと思います。
 もっとも、最近の教育に関する議論を見ていると、独自にプログラミングを学び、中学生のときに起業したというような若者を、我が国の未来を切り開く創造性をもつ人材と理想化する傾向があり、メディアだけでなく、政策担当者の中にまで、義務教育は天才には不要という認識が広がっているのかもしれません。
 
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瞬発力の低下

2019-05-25 07:56:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「自分には甘い」5月20日
 『「50年無事故だったのに」 7年前女性死なせた運転者 能力低下自覚遅れ』という見出しの記事が掲載されました。『高齢ドライバーによる事故が社会問題化するなか、7年前に死亡事故を起こした横浜市の男性(82)』に取材した内容を報じる記事です。その中に、『一般的に高齢になると認知機能や運動能力が低下するとされるが、男性は「自覚するのは難しい」と話す。事故を起こすまで50年以上運転してきたが、無事故・無違反。どこに行くにも車を使い「運転技術に問題はなく、事故を起こさない自信があった」という』という記述がありました。
 私は運転をしません。ですから運転については語りませんが、一般的に言って、加齢に伴って能力低下が起きるということについては当然だと考えています。近年、労働力不足や社会福祉の維持という視点から、高齢者に働いてもらう、というのがトレンドになっています。実は、こうした風潮に対し、本当に大丈夫なのか、と疑問に思っているのです。
 教員という仕事についてはどうなのだろうか、というのが今回書きたいことです。教員にとって高齢化の弊害というと、多くの人が体力的なことを思い浮かべるのではないかと思います。小学校で言えば、子供と一緒に体を動かして遊ぶことができないとか、移動教室や臨海学校で山歩きをしたり、海に入ったりするのが大変とかいったイメージです。
 それもありますが、私は、教員としての反射神経の衰えこそ大きな問題だと考えています。私はこのブログで教員の授業力について様々な角度から述べてきました。その中で最も重要なのは、子供の発言に対して、瞬時にその価値を判断し、授業の狙いと照らし合わせて最善の生かし方をする、という能力です。ここでポイントとなるのは「瞬時に」ということです。
 私は、教員時代も指導主事時代も、多くの授業を見てきました。教委に勤務し、指導力不足教員研修を担当するようになって、将来予想される「訴訟」に備え、客観的な授業評価に取り組んできました。授業分析については、指導主事の中でも平均以上の能力と経験をもつことができたと秘かに自負しています。
 退職した今でも、授業分析については、それなりの能力を維持していると思います。しかし、自分で良い授業をする自信は正直ありません。それは、子供の発言や表情、非公式なつぶやきなどについて、時間をかければ正しい判断ができるが、瞬時にはできないということが原因です。頭の回転が遅くなっているのです。もちろん、私が特別老化の進み具合が早いというだけの話かもしれませんが。
 話は飛躍しますが、一時期、若手お笑い芸人たちが、明石家さんまさんがいつ引退するのか、という話題を盛んにしていたことがありました。さんまさんがいては、いつまでも自分たちの時代が来ないということで、実際にはさんまさんのお笑い力を評価しているという話なのですが、さんまさん自身は別の考え方を語っていらっしゃったのを記憶しています。
 私は、さんまさんの芸風は、お笑いではない芸能人や素人をいじり、笑いを生み出すというものだと理解しています。それは、ネタを作りこむ笑いとは異なり、その場での瞬発力が必要な芸風です。つまり、講義や講演ではなく、授業に近いものだと思います。そして、さんまさんは、そうした自身の芸風を踏まえて、おじいちゃんになったらやっていられない、と考えていらっしゃるのです。
 たしかに、人間国宝と言われる超ベテラン落語家はイメージできても、さんまさんが今のスタイルで、80歳になっても若い女性タレントをいじっているという光景はいめーじできません。天才児さんまさんをもってしても、です。
 高齢教員は、若手教員の授業の分析指導係という位置付けが適当なのではないかと思うのですが。
 
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僻み根性

2019-05-24 08:12:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「ふーん」5月18日
 編集委員元村有希子氏が、『伝説の科学者』という標題でコラムを書かれていました。『物性物理学の金字塔を打ち立てた』と言われる故米沢富美子氏について書かれたものです。その中で元村氏は、米沢氏が5歳のときの逸話を紹介しています。
 『「三角形の内角の和は二直角」数学が好きだった母親は中学レベルの証明問題を説明し、5歳の少女は完全に理解する。「こんなに面白いものが世の中にあるのか!体が震えた。声も震えていた」この体験が少女を物理学の世界に導いた』という話です。
 ふーんとしか言いようのない話です。確かにすごいとは思います。ただ、私はこの手の話を聞くと、いつもある思いが湧いてきてしまいます。それは、こうした天才児、異端児と学校教育の関係についてです。
 我が国の学校は、子供の個性を伸ばすのではなく、出る杭を打ち、個性を抑制するシステムだという批判があります。こうした批判をする人は、米沢氏のような子供を伸ばすことを学校の使命の一つと考えているのでしょう。でも私は、小学校に入る前に、「三角形の内角の和は二直角」という証明に震えるほど感動している子供と、三角形のものを身の回りから見つけてみよう、というレベルの子供を同時に満足させる授業というものをイメージすることはできません。
 5歳の米沢氏の知的欲求を満たす授業は、他のほとんどの子供に分からないという不満とつまらないという勉強に対する忌避感を与えるものにしかならないはずです。逆に、大勢の5歳の子供に私もできるという達成感をもたせ、学びへの意欲を掻き立てる授業は、米沢氏にとって、体が震えるようなものではなく、あくびがでる退屈なものにしかならないのです。
 私が思い付く解決策は、教科ごとに飛び級制度を認めることしかありません。しかし、飛び級制度も、学級制の解体も、ほとんどの人の賛成を得られないのが現実です。それ以外の方法で、この難問の解決策を提示できる人がいたら、話を聞いてみたいものです。
 元村氏は、学校教育について問題点を指摘しようとして、米村氏の逸話を取り上げたのではありません。それは分かっています。純粋に、女性科学者の先駆者として米村氏の人生と業績を伝えたいと思ったのでしょう。しかし私は、天才的な特別な人の学校制度からはみ出した人生を見聞きするたびに、学校批判を感じ取ってしまう性をもっているようです。僻み根性が染みついているのでしょうか。
 
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経験はプラスかマイナスか

2019-05-23 08:07:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「プラスorマイナス」5月20日
 読者投稿欄に、英語講師I氏による『英会話習得の近道は』というタイトルの投稿が掲載されました。15日に同欄に掲載された「会話重視の英語教育を」という高校生の投稿に答える形で書かれたものです。15日の投稿は、現在の英語教育を、和文英訳と英文和訳という「読み書き」に偏ったものだと非難する内容でした。
 この投稿に対しI氏は、『言語はスポーツや音楽と似て練習するほど上達します。例えば、今あなたはピアノ(日本語)がとても上手だとします。でも急にバイオリンを渡され「弾いてみて」と言われても弾けないでしょう。でもピアノを練習して培った音感(感性)や五線譜を読む能力(技術)、音楽の歴史(知識)はバイオリンを練習する上でこの上ない助けとなります』と分かりやすく、そしてやんわりと和文英訳等の学びが大切なことを示唆しているのです。
 I氏の人柄が偲ばれる文章です。私は英語教育には素人ですが、基本的にはI氏と近い考え方をしています。つまり、日本語をきちんと学ぶことが重要という立場です。ただ、それとは別に、I氏の例え話は、本当なのかという疑問も抱いています。
 あるテレビ番組で、中学生時代にソフトテニス部に所属し、県大会出場レベルの技能を身に着けた方が、高校に進み、硬式テニス部に入部したというのです。本人は、中学校時代の実績への自負もあり、硬式テニスでも部のエースにと思っていたそうですが、顧問から「軟式をやっていたのでは、変な癖がついてしまっているから、まずそこを直さなくてはだめだな。その分マイナスからの出発になるが焦るな」と言われ、愕然としたというのです。ピアノとバイオリンよりも、硬式テニスとソフトテニスの方が、近い感じがします。フットワークなどには共通するものがありそうですし、体力的にも未経験者よりも有利だと思えます。でも、顧問は、マイナスだと言うのです。
 もう一つの逸話を思い出しました。ロシア語通訳として第一線で活躍なさった故米原真理氏のコラムで目にした話です。ロシア語を学ぶとき、東欧など母語がロシア語と近い国の出身者は、学習開始時にはクラスのトップレベルになっても、しばらくすると米原氏のようにロシア語とは全く類似性のない言語を母語とする人たちの方が、成績が伸びていくというのです。その理由として、米原氏は、変な癖がついている者は我流でもあるレベルまでは理解できるため、学習が本格化するとついていけなくなるというように捉えていらっしゃいました。
 つまり私の疑問は、「学び」を考える際に、一見すると近く共通性がありそうな経験はプラスに働くのかマイナスに作用するのか、ということです。「学び」を支援する立場である教職にある者として、この点について考えておくことは無意味ではありません。
 もちろん、プラスマイナスと決めつけるのではなく、近しい経験の中でプラスになるものとマイナスになるものを分析し、プラス要素を活用しつつ、マイナス要素を矯正するという対応が望ましいというのが正解だとは思うのですが、実際には、判断は難しいような気がします。私的なことですが、中学生時代、私は国語は学年でもトップクラスでしたが、英語は中の上を維持するのが精一杯でした。高校では、古文の成績優秀者で名前を貼り出されたことがありますが、英語は赤点で再履修組でした。I氏の説が間違いなのか、英語教員が悪かったのか、やっぱり私に能力がなかったのか、直感では3番目だと思いますが。
 
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非対称

2019-05-22 07:54:07 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「非対称」5月17日
 『頑張れ保健室の♂先生』という見出しの記事が掲載されていました。『全国でも数少ない保健室で働く男性養護教諭』について現状を報じる記事です。ちなみに、男性養護教員の割合は、78/40000ということです。彼らの苦悩や頑張り、周囲の反応などが手際よく分かりやすくまとめられた記事だと思います。
 ただ、いくつか気になる記述がありました。『男性の養護教諭には「女児に対応できるのか」などの不安を持たれることが多い』『女児対象の性教育は、女性教諭にしてもらう』『保健室で女児と2人になる時には扉を開ける』などの記述です。
 男女を入れ替えてみるとどうでしょうか。女性の養護教諭には「男児に対応できるのか」などの不安を持たれることが多い、ということはあるのでしょうか。ないでしょう。どうしてないのでしょう。男児だって女性養護教員よりも男性養護教員に話したいケースはあるはずです。私の友人の弟は、初めて自慰行為をし射精したとき、体から膿が出たと思い悩み、友人に半泣きで訴えてきたことがあったそうです。こんなとき、男性養護教員の方が相談しやすいですよね。
 男児対象の性教育は、男性教諭にしてもらう、ということについてはどうでしょう。こんなケースはほとんどありません。ただ、私が5年生を担任していたとき、未婚の女性養護教員が性教育の授業をしたことがありました。男児の方から、射精、ペニス、勃起などの言葉が出され(決して養護教諭をからかったのではなく真面目に知識を開陳しただけ)、養護教員は、真っ赤になり、「そうだね、よく知っているね」と応じたもののしどろもどろになってしまったのです。その後、私が授業を引き継ぎました。
 保健室で男児と2人になる時には扉を開ける、はどうでしょうか。そんなこと必要ないという人がいるかもしれませんが、男児にいたずらする女性養護教員が絶対にいないとは言い切れません。女性教員が教え子の男子中学生とデーとしてキスをして処分されたというニュースが報じられたのは今年のことです。
 そもそもこのことについていえば、男性の担任教員だって、教育相談や生活指導で女児と2人きりになるときには、扉を開けておくのは常識であり、ことさら養護教員だけを問題にするのはおかしな話です。
 保育士や看護師など、かつては女性の職業と思われていた職にも、男性が進出するようになっています。そこでは、養護教員と同じように、男性では~という疑問や懸念が表明されています。ですから、これは養護教員に限った問題ではないのですが、女性にできて男性にはできない、もしくは女性に向いていて男性でもできないわけではないが問題が多い、という発想の根深さにはため息をついてしまいます。
 男性も女性もありません。ダメな養護教員と素晴らしい養護教員がいるだけなのです。
 
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