ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

揺れ動く不安に耐えられない

2020-11-20 08:07:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自信のなさ」11月14日
 論説委員元村有希子氏が、『役に立つ?立たない?』という表題でコラムを書かれていました。その中で元村氏は、学術会議問題に絡めて『学術は本来、ややこしく、素人にはとっつきにくいものだ。だからこそ、そんな役に立つのか分からない問題に目を輝かせて向き合っている人がいてくれなければ困るのだ』と述べ、『科学は役に立って当然であり、役に立たない科学は不要』という単純な考え方に警鐘を鳴らしていらっしゃいました。
 全くその通りだと思います。今回の学術会議の任命拒否問題については、こうした指摘が繰り返されています。今回はそこからさらに一歩進んで、こうした単純化のメカニズムについて考えてみたいと思います。そうは言っても、全くの素人が考えることですから、深みのある内容ではないことをお断りしておきます。
 私は、単純化して考えるという姿勢の背景には、自信のなさ、余裕のなさがあるように思っています。○か×、善か悪、二者択一で決めることは、安心感をもたらします。いくつもの選択肢の間で揺れ動くことは不安定で落ち着かないものですが、こうだと決めてしまえば、それ以上思い煩うことをしないで済みます。
 また、ある問題について考え続けることは、疲れるだけではなく、判断に必要な情報が多く、自分はその中のごく一部しか知らない、ということを思い知らされることでもあります。つまり、自分の無知を自覚させられることであり、バカな自分と向き合うことは不快なことなのです。
 さらに、迷い続けている間は、自分にとって心地よくない事実や異見に接する機会が増えます。それは大げさに言えば今までの人生で培ってきた自分の存在を否定するような経験です。嫌に決まっています。
 それに比べて、とにかく決断し、自分の立場をはっきりさせることは、心地よいことばかりです。迷い続ける連中を判断力のない愚か者と見下して優越感を得ることができます。そして、同じ見解の仲間ができ、仲間との交流で得られる情報は自分にとって心地よいものばかりです。やはり私は正しかったと自己評価を高めてくれるのです。さらに、それは自分の今までの人生を肯定してくれる作用もあり、大きな満足感をもたらしてくれます。この満足感は、経てきた人生が長い者、つまり年長者ほど大きくなります。人間が年を取ると、なかなか自分の意見を変えることができなくなるのは、こうした心理が働くからです。
 つまり、単純化は、人間本来の心理に根差した自然な反応だということができます。しかし、単純化の弊害は、今や無視できない状況になっています。自然が単純化に向かわせるのであれば、こうした単純化人間を増やさないためには、人工的な「教育」が必要なのです。それも偶発的・問題解決的な学びを主とする家庭教育や社会教育ではなく、意図的・計画的な学びの場である学校教育こそが担うべきなのです。学校教育を通じて、少ない知識、偏った情報のみで安易に評価し判断するのではなく、相反する考えや見解について慎重に吟味して結論を出そうとする態度を培っていかなければならないと考えます。
 そして、従来望ましいとされてきた、早い決断、一度決めたことはやり通すという態度を見直し、いつまでも悩む、一度出した結論も疑って問い直す、異なる意見の間で右往左往する、というような態度こそ好ましいものとして再評価する方向性を持つべきだと考えます。
 今、決める政治が評価され、異論を排する姿勢が強いリーダーシップと見なされる風潮が広まるときだからこそ、学校教育はいつまでもこだわって考え続ける子供を育てて、バランスをとる必要があるのです。日々の授業は、粘り強く考えさせるものになっているでしょうか。

 

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