ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

結局は

2018-08-31 08:11:41 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「結局は」8月24日
 論点欄では、『「ゲーム依存」の対策は』というテーマで、3人の専門家の方がそれぞれの立場から持論を述べていらっしゃいました。東京アニメ・声優専門学校名誉教育顧問馬場章氏は、『「どう付き合ったらよいか」という知識や能力を身につける機会を日本も増やすべき』と述べ、相模女子大准教授七海陽氏は、『小学生までの段階でゲームとの付き合い方を親と一緒に学んでおくことが大事だ』とおっしゃっていました。
 要するに、「ゲームとの付き合い方」も他の教育課題と同じように、学校が担うべきだという主張です。予想された主張であり、何でもかんでも学校教育に持ち込んでくることの弊害をここで繰り返しても仕方がないので止めておきますが、今まで触れてこなかった点について触れておきたいと思います。
 それは、七海氏が述べている「親と一緒に」ということです。ゲーム依存とは、基本的に家庭の管轄下に於いて顕在化します。学校で授業中にゲームをやり続けるということは非常に考えにくいですから。これは、早め早起きやきちんとした食事を、という躾と同様、いくら学校で、科学的に、体感的に工夫をして指導しても、家庭がきちんとした対応をしない限り、身につかない種類のものなのです。
 家で夕食を作らず、小学校低学年の子供を連れて9時過ぎに居酒屋で焼き鳥やユッケを食べさせて夕食代わり、親が満足するまで飲んで深夜に帰宅し、朝は8時頃にベッドから出てくる、という家庭で、規則正しい生活習慣や健康な食生活など不可能なのです。親が子供の前でもたばこを我慢できないヘビースモーカーで大酒飲みというのでは、喫煙や飲酒の弊害をいくら教育しても、まだ幼い小学生の子供だけが、喫煙飲酒の罪を自覚するということは難しいでしょう。おなじように、「ゲーム依存」も、親が「ゲームをしていれば大人しいから楽だ」という発想では、どうにもなりません。
 だからこそ「親と~」という七海氏の主張になるのでしょうが、そこまで学校に期待されても困惑するだけです。学校は、保護者への啓発活動を行う機関ではありませんし、そうした機能も権限ももってはいません。保護者としての責任への自覚に乏しく、子供の教育に関心が薄い保護者を学校に呼び出すことは困難ですし、無理強いをすればトラブルが発生するだけです。だからといって、参加自由の講習会を開いても、そんな保護者は参加しません。プリントや資料を配付したところで、目を通すかも定かではありません。そしてそうした無理解非協力的な保護者が多い地域というのが現実に存在し、そうした地域では「ゲーム依存」の問題がより深刻な状況になってしまうのです。
 これは、親の経済力や教育への関心度が子供の学力に影響を及ぼすという、学力テストの分析と同様、厳粛な事実であり、学校の、教員の努力だけでどうにかなるというレベルの問題ではないのです。結局は保護者格差の壁を越えられないのです。
 仕方がありません。子供に対する「ゲーム依存」対策指導は、学校が担っていきましょう。でも、親への対策は、学校任せでなく、首長部局が智慧をひねって欲しいものです。学校を潰さないためにも。

 

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2つの叡智が揃ってこそ

2018-08-30 08:32:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「総合力の視点から」8月23日
 『日本のみ修士・博士減少 米英など7カ国調査 研究力衰退あらわ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『人口当たりの修士・博士号取得者が近年、主要国で日本だけ減っていた』ことが明らかになったそうです。記事では、近年の減少傾向という「変化」に焦点が当てられていましたが、私は別の記述に注目しました。
 『日本の取得者は自然科学に偏るが、他国では特に修士で人文・社会科学の取得者が多く~』という部分です。近年の変化ではなく、我が国では以前から理科系重視が続いていることが、この記述でも明らかになっているということです。私は、「研究力」というような限定的な部分で近年の傾向を憂うのではなく、国としての「総合力」として、人文・社会科学系の軽視問題を考えるべきだと思うのです。
 今、DNAの切断や結合などの遺伝子改変技術が、医療や農業の分野で課題となっています。それ自体は純粋に自然科学系の問題かもしれませんが、社会にその技術を応用し人々の生活の幸福度を増していくためには、人文・社会科学系の能力が求められているはずです。一例を挙げれば、出生前診断の在り方については、歴史的、宗教的、文化的にヒトという存在をどう定義するかということなしに、野放図に技術的な追究だけを続けることは、人類に大きな災いをもたらすかもしれません。それを防ぐために求められるのは人文・社会科学的な叡智であるはずなのです。
 原発、脳死判定、IT殺人兵器開発、など自然科学の視点だけでは考えられない問題は他にもたくさんあります。最近では、米国で「遺伝子サイト」を利用した犯罪者検挙が相次いでおり、プライバシーや人権の視点から議論を呼んでいますが、我が国にとっても、決して他人事ではありません。
 記事が指摘するように、修士や博士号取得者の処遇改善問題は重要です。しかし、この問題を自然科学系だけの問題として対処するのではなく、人文・社会科学的系を含めて考えるべきなのです。そして、それは、単に大学院の問題ではなく、小中学校から継続して行われている国語科や社会科教育の振興につながっていくことになるはずです。私たち教員も、歴史は暗記教科などと言われることがないよう、社会科って楽しい!といわれるような授業を創り上げていかなければなりません。

 

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自己中心の暴行擁護

2018-08-29 08:34:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「第三者のことを考えると」8月22日
 『体操宮川選手がコーチ継続希望』という見出しの記事が掲載されました。先日、コーチを務めていた速見佑斗氏が、『暴力行為で日本体操協会から無期限の登録抹消などの処分を受けた』ことに関する記事です。記事によると『体操女子の2016年リオデジャネイロ五輪代表の宮川紗江選手』が、『速見コーチの名誉を守りたいとして処分への疑義や、引き続き同コーチの指導を望む意向を示した』ということです。
 つまり「体罰コーチ」を処分せず、引き続きコーチとして指導を受けさせてほしい、ということです。『速見コーチは頭を叩くなどしたが、宮川選手は被害を訴えていない』ということですから、暴力行為があったことは事実のようです。また、宮川選手は『(速見コーチに)パワハラされたと感じていません』とも述べているようですので、第三者から見れば、暴力行為とパワハラととらえることができる暴言があったが、「被害者」であるとみなされる宮川選手は被害を感じていないし、信頼関係も壊れていないということなのでしょう。
 今後どのような展開を見せるかは分かりませんが、こうした事例、つまり「被害者」が被害を訴えるどころか、「加害者」を擁護するというケースは、学校における体罰事案でも少なくないのです。こうした際の、被害者の主張は、「指示や指導に従えなかった私が悪かった」「先生(コーチ)は私のことを考えて厳しく指導してくれただけ」「先生(コーチ)がいなければ私はここまでやってこれなかった」「先生(コーチ)がいなければこれ以上伸びることはできない」「先生(コーチ)と私は信頼し合っている」などです。
 ここで気付かされるのは、いずれも自分と指導者である先生やコーチとの関係にしか目が向いていないことです。学校であれ、日本代表の練習の場であれ、そこには自分と指導者以外の第三者が存在します。それは、同じ立場の指導者であるかもしれませんし、生徒や選手であるかもしれません。
 そうした第三者は暴力行為をどのように見、どのように感じていたのか、その行為が学校や自分が所属する○○界全体にどのような影響を及ぼすのか、といった視点が欠けているのです。暴力行為が何の問題にもならないということになれば、指導者の中には、あの程度の暴力は構わないのだと考えるものが出てくるかもしれません。そうなれば、今後暴力行為が相次ぐことになりかねません。生徒や選手の中には、あんな暴力に遭っても見過ごされ助けてもらえないのだと考え、恐怖を覚え、学校やそのスポーツから離れようとして夢を断念する者がでるかもしれないのです。加害者をかばうことで、暴力が温存されてしまう、という危機意識がないのです。きつい言い方のようですが、そうした行動は、自分さえ良い成績を挙げることができればいい、後輩や仲間が暴行の不利益を被っても関係ないという自己中心主義的な考えなのです。
 さらに、叩かれたけど私は被害と受け止めていない、という論理で暴行が許されるということになれば、学校を含めた多くの組織内で暴行や体罰後に、被害者に圧力を掛けるという事例が頻発することになります。生徒を叩いたことで処分を受けそうになった教員や監督責任を問われそうになっている校長らが、被害者に対して「確かに殴ったという事実は目撃者がいるからなかったことにはできない。でも、君さえ、先生に叩かれたけど私は何も気にしていない、と言ってくれれば、問題は生じないんだ」と迫るということが横行するはずです。時には裏で何らかの「交換条件」を示して取引するようなケースも出てくるでしょう。私は教委で教員の処分に関わる職を担当していたとき、実際に教員が生徒に「こう言ってくれ」と働きかけた事案を扱ったことがあります。決して取り越し苦労ではないはずです。
 どんなに好きな教員であっても、その教員を恨んでいなくても、その教員の指導が自分に合っていても、その教員によって自分が伸びることができても、体罰は罰せられなければならないのです。

 

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一人もいなかった?

2018-08-28 08:44:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「今さらながら、猛省」8月21日
 医療福祉部藤沢美由紀記者が、『差別禁止へ法整備を 自民議員のLGBT「生産性」寄稿』という見出しで「記者の目」を書かれていました。その中で藤沢氏は、『性的少数者は、各種調査で人口の約6~8%いるとされる。30人学級のクラスに1~2人いる計算だが、もし身近にいないと思うなら、その周囲は当事者にとって安心な場ではない、差別があるかもしれない、ということだ』と書かれています。ドキンとしました。
 性的少数者は12~3人に1人ということは知っていました。あくまでも「知識」として。しかし、その事実を自分の問題として考えてことはなかったのです。私は、学級担任として300人超の子供たちを指導してきました。単純に計算すれば、20人弱の性的少数者がいたはずです。しかし、私が認知している限りでは、教え子の中に性的少数者は1人もいなかったのです。確率を考えれば、実際にいなかったとは考えられません。つまり、私の学級は、性的少数者が差別を恐れなければならない環境だったということです。
 教委に勤務し、人権尊重教育を担当するようになり、講師として東京都の人権課題などについて話すようになりました。もちろん、性的少数者の問題もその中に含まれていました。しかし、子供や保護者から、あるいは教員や校長から、性的少数者についての相談をいけたことはありませんでした。中学校で、女子生徒もズボンでの登校を認めてほしい、という問題が提起され、「あくまでも標準服であるので、特段不都合な事情がない限り、個々の生徒の要望に沿う形で対応してほしい」と指示したことはありましたが、それはあくまでも、冬季の防寒やスカートでは休み時間等に思い切って運動できないという趣旨からの申し出であり、性自認の問題として対応したわけではありませんでした。管轄下の中学校、千数百人の生徒がいたわけですから、先ほどの計算で言えば100人を超える性的少数者がいたことになります。個々でも私は、彼らが差別を恐れなければならない環境を放置してきたことになるのです。
 私はこのブログで、何回も人権問題を取り上げ、人権教育のあり方について論じてきました。ある意味、「偉そうに」「上から目線で」です。しかし、「知識」はともかく、その知識を実際の行動に反映させるという点では、全くの落第生だったのです。今さらながら猛省です。しかし、だからといって、今後、このブログでは人権問題や差別について一切触れないというのも、かえって無責任であるような気がします。引き続き、折に触れ人権教育について触れることをお許しいただきたいと思います。今よりも少し謙虚に。

 

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1000万円当たっても

2018-08-27 08:05:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「無関心というキーワード」8月20日
 『貧困が生む健康格差 深刻さが知られていない』という見出しの社説が掲載されました。足立区が行った調査結果から、『「生活困難」の条件に該当する家庭の子供は、虫歯が5本以上ある割合が、そうでない家庭の子供の約2倍』『予防接種を受けていない割合も、生活困難世帯の子供が同様に約2倍』などの実態を挙げ、警鐘を鳴らす内容です。
 その中で私は、『子供の医療費が公費負担であることを踏まえると、経済的な理由だけでなく、保護者が子供の健康に関心があるか否か、そのための時間を確保できるかなどの要因も考えられる』という分析に注目しました。「生活困難」家庭における子供の養育問題は、経済状況だけでなく、保護者の意識や行動に原因があるという指摘です。こうした保護者が、仮に宝くじで1000万円当たり金銭的な余裕が生まれたとしても、相変わらず子供の健康に関心をもたず、虫歯はそのままということがありえるということです。
 この健康を、学習や教育、躾という言葉に代えてみても、同じことが言えます。「生活困難」家庭では、保護者が子供の学習や生活習慣、問題行動に関心をもっていないケースが多いのです。「忘れ物が多い」と言っても、「似たのかしら、私もそうだった」とあっけらかんとし、「授業中眠ってしまう」と言えば、「遅くまでゲームやっているからじゃない」と原因が分かっていても対処しようとせず、「喫煙しているところを目撃されています」と話しても、「みんなしているのにうちの子だけ要領が悪いのね」と的外れの答えしか返ってこないのです。
 そして、さらに保護者としての責任を問うと、「そんな時間はない」「問題だと思うのなら学校で何とかして」と切れて開き直るのです。それでも教員が言い募ると、「うるさい。もう学校には行かせない」と怒りがエスカレートし、それっきり一切連絡が取れなくなってしまうことさえ珍しくないのです。
 もちろん、教員の対応が下手だという批判もあり得ますが、学級内にこんな家庭の子供が3人もいれば、教員もパンク寸前になってしまうのです。そしてこうした保護者がいる家庭は、ある地域には多く、ある地域には全くいないという偏りがあるのです。これが地域差です。東京都で言えば、今回調査をした足立区の花畑地区と田園調布や成城、白金とでは、家庭の状況が全く違います。こうした地域差を無視して、学力テストの結果や問題行動の発生率、いじめや不登校、虐待の件数を比べ、その原因を学校や教委、個々の教員の努力不足を糾弾するような言説や政策には、意味がありません。金持ちが集まる、私立校や国立の付属校と公立校の比較に意味がないように。
 経済格差だけなら、行政が適切な対応を取ることである程度改善が可能かもしれません。しかし、長年にわたる、あるいは世代をまたいて継続した経済格差による保護者の意識や能力の差は、短期間には改善を見込むことが難しいのです。子供の望ましい成長のためには、学校だけに即効性を求めるのではなく、息の長い総合的な取り組みが必要なのです。
 

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行き過ぎた「お任せ」

2018-08-26 08:34:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員の領分」8月20日
 教育の窓欄で、『学校トラブルに弁護士派遣』という見出しの特集記事が掲載されました。『学校でのいじめや不登校、保護者とのトラブルといった問題の解決に向け、弁護士が法的に助言することが目的』である「スクールロイヤー」事業に関する記事です。その中に気になる記述がありました。
 弁護士を講師とした高校教員向けの研修会での風景です。『小突かれた生徒役が泣く仕草を見せると、誰もがいじめで一致した。だが、生徒役が静かに笑うと「いじめかどうか判断がつかない」と考える教員が増えた。伊藤弁護士は「見た目で判断せず、生徒にどう感じたかを聞く必要がある」と、笑顔に隠されたSOSを見逃さないよう強調した』というものです。これは法律云々ではなく、教員としての初歩的な対応、いじめ対応の基本中の基本です。こんなことを、生徒指導の経験を重ねてきた専門家である教員が、改めて教わらなければならないほど、教員は劣化してしまっているのでしょうか。
 また、『「いじめは本人が「いじめられた」と認識すれば人権侵害になり、ひどい事例では名誉毀損罪に当たることもある」と弁護士ならではの法的解釈を示した』という記述もありました。これについても、名誉毀損罪という罪名はともかく、全ての教員が、常識としていることであるはずですが、違うのでしょうか。
 次の記述は、平成8年3月、今から22年以上も前に、私が指導主事として事務局を勤めて作成した『いじめ防止対策指導資料』の中のものです。「いじめは他人の人権を侵害する行為である」「いじめに対する児童生徒の出す様々なサインに敏感に感じ取らねばならない」「親身になって話を聞き、いじめられている子どもの悩みを受け止め、支えていく態度が必要」「いじめられた児童・生徒の受け止め方や立場に立ってとらえることが基本」。
 今回の記事にある、「見た目で判断せず」、「生徒に話を聞く」、「本人が「いじめられた」と認識すれば人権侵害」などの要素は、全て22年前の冊子に書かれていることなのです。いじめ問題についての法的な対応やその他の苦情やトラブルに対する対応など、学校が助言・協力を仰ぐことができる弁護士の存在は心強いですし、教員などの負担軽便にも結びつくでしょう。そうした意味で「スクールロイヤー」制度には賛成ですし、一層の拡充を図ってほしいとも考えます。しかし、弁護士に悪い意味で依存し、教員が当たり前にもっていた知識や手法、子供理解や生活指導能力などを減退させていってしまうのでは、事態はかえって悪化してしまいます。
 少しずつではありますが、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーなど、学校に助言し助ける制度が整備されてきました。今回のスクールロイヤーもその一つでしょう。ありがたいことです。ただ忘れてはならないのは、いずれの制度も、教員が最も長く深く子供と接している存在であり、子供を理解し、子供を指導する専門家としての能力と自覚をもっていてこそ、制度が機能するということです。子供の心の問題はカウンセラーに丸投げし、いじめ対応は弁護士さんにお任せという姿勢では、子供からも保護者からも信頼されることはできません。そして、信頼なくして教職を全うすることもできないのです。

 

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その奥にまで

2018-08-25 08:14:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どう直視するか」8月18日
 ノンフィクション作家保阪正康氏が、『戦死者の実像直視を』という表題でコラムを書かれていました。その中で保阪氏は、『一口に戦死といっても、いろいろなタイプがある。戦闘死、飢餓死、事故死、戦病死などがあり~』と書き、具体的な状況についても触れています。『骨と皮だった死体が蛆虫でふくれあがる』『わずかに道路にある泥水もすすった。泥水に顔を突っ込んで死んでいる兵隊もいた』『トカゲ、ミミズ、バッタ、とにかく口に入るものはなんでも食べた。バッタの取り合いでけんかも起こる』などです。
 その上で、『兵士たちが戦場でどのような戦いを余儀なくされたか、そしてどのように戦死していったか、を事実として見つめる(略)この事実を見ずして戦争を論じるのは、兵士たちをいかに侮辱していることかと私は思う』と記されています。その通りだと思います。しかし、その事実を見ることで終わらせてはいけないとも思います。
 私はこのブログで、あるべき反戦・平和教育の姿として、情緒に流されるのではなく、科学的・分析的に戦争に至る道を考え、そこから戦争に至る芽を摘むためにどうすればよいかを考える教育を提唱してきました。その考え方を、戦争への道だけでなく、戦争指揮、戦争終了のさせ方についても広げるべきだと考えているのです。
 戦争は悪であることに間違いはないとしても、戦争が起こってしまうことはあり得ます。戦争が始まってしまっているにもかかわらず、戦争反対と叫んでいるだけでは、何も変えることはできません。過去の戦争に学ぶのは、戦争防止だけでなく、戦争指揮や終戦工作の在り方についても同様であるべきなのです。決定権者を曖昧にした無責任な指導体制、指導者の面子にとらわれ被害の多い作戦を継続したり、楽観的見通しで不十分な情報収集のまま作戦を立案したり、戦況について歪曲して伝えたり、ボートや飛行機を利用した特攻などの非人間的な戦法など、皮肉なことに太平洋戦争は間違いを学ぶ「宝庫」なのですから。
 また、終戦については、古来「戦争は始めるのは簡単だが終えるのは難しい」と言われているにもかかわらず、終戦の青写真がないまま戦争を始めた結果無条件降伏という結果に終わったのが先の大戦でした。こうした、戦争の仕方・終わらせ方についての無策が、多くの兵士の無惨な死の原因であることをきちんと分析して提示する反戦・平和教育でなければいけないのです。
 直視するのは、個々の兵士の死どまりではなく、その奥にある指導者たちの間違った判断や決定まででなければならないのです。

 

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善意による悪循環

2018-08-24 08:19:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「結局は“異なる者”」8月18日
 論説委員野沢和弘氏が、『重度障害者の「生産性」とは』という表題でコラムを書かれていました。その中で野沢氏は、『(大江健三郎氏が)創作活動に行き詰まっていたころ生まれた障害児が作家としての自分に新たな息吹をもたらしてくれた(略)自分自身で何かを生み出すことができない障害者も近親者を通して間接的に、高度な生産活動をしていると言えないだろうか』『重度の障害者にはやはり固有の価値と呼ぶべきものがあり、作家などの創作活動における着想や表現活動に大きな影響を与えているに違いない』と書いていらっしゃいました。
 おっしゃりたいことは分かります。杉田議員の生産性発言や、障害者大量殺人事件植松容疑者の発言のような障害者差別に反対する意味での言葉であるということも理解できます。それでもやはり、違和感を禁じ得ません。
 その理由はいくつかありますが、まず、重度障害者も高度な生産活動をしている、という捉え方についてです。生産性の有無で対立しているとしても、結局は生産性という物差しで人の価値を計るという価値観では杉田議員らと共通していると考えられるからです。こうした価値観に立つ以上、生産性があったとしても、その多寡によって人としての価値にランク付けが行われることを容認していることになったしまうのではないでしょうか。
 また、重度障害者には固有の価値があるという捉え方も問題だと思います。重度障害者を一括りにして固有の価値があるとするのは、重度障害者には個性がないといっているのと同じです。正しくは、重度障害者一人一人にそれぞれ違った個性がありそれは価値があることだ、というべきだったと考えます。
 さらに、こうした捉え方は、重度障害者を健常者とは異なる存在として見ていることにもなります。それは形を変えた差別に他なりません。もちろん、野沢氏の悪意はないのでしょうが。
 私は、重度障害者に対するこのような悪意のない、一見すると重度障害者の味方であるかのような考え方こそが、実は重度障害者を貶めることにつながっているケースが少なくないと感じています。悪意をもって重度障害者を差別し見下している者、例えば杉田議員のような存在は、周囲から非難され叩かれることになります。その様子を見た人々は、差別がいけないことなのだと学ぶでしょう。しかし、悪意のない差別は、多くの人がよいことだと勘違いしてしまい、自分の中にある差別感情を自覚しないまま、差別を繰り返すという悪循環をもたらしてしまう危険性があると思います。
 これは、教員がもっとも注意深く避けなければならないことです。教員の悪意のない言動が、子供に差別感情を植え込み、しかもそれを悪と自覚させないという結果になるからです。教員が差別を助長しては話になりません。

 

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教育委員会の存在理由

2018-08-23 08:20:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教委の存在価値」8月16日
 北陸総局石川将来記者が、『「災害は起こる」気構えで 西日本豪雨の教訓』という見出しで『記者の目』を書かれていました。その中で石川氏は、『「あの時も、うちの裏山は崩れなかった」などという限られた経験が過信を招いているように思う』と被害者の方々への聞き取りから得た被害拡大のメカニズムの一端を書かれています。
 人間は経験に学び、経験に基づいて判断し、行動するものです。しかし、一人の人間が経験できることには、限界があります。そしてその経験の量について、人々が置かれた立場や職によって大きな差が生じることも事実です。警察官は様々な犯罪の実態を知る立場にありますが、一般の人は生涯に一度も、窃盗や強盗に被害に遭わないというのが普通でしょう。だからこそ、警察は防犯について具体的な指導もし、事件の対応においても有効な対応ができるのです。
 同じことが学校・教員と教委にもいえるのです。学校の責任者である校長も、一般の教員も、その教職人生に於いて経験する事件や事故はそんなに多くはありません。私自身、教員時代に経験した事件や事故といえば、学年の子供が屋上から転落した事故、休み時間に後頭部を強打し搬送先の病院で生存確率1/3以下と宣告されたこと、の2回だけです。
 しかし、教委に勤務するようになり、特に人権教育担当や服務事故の担当をしていたときなど、多くの事故や事件、トラブルに関わりました。教員が逮捕されたケースだけでも、児童買春、不法侵入、覗き、暴行など多岐にわたります。表沙汰にならなかったケースでは、校長と保護者の不倫、職員同士の不倫、校長のPTA会費使い込み、校長の勤務時間外の交通事故、校長による職員への暴力などがありました。子供に関するものでは、男子生徒の女子生徒への強制性交、覚醒剤使用、男子生徒による警察官襲撃、暴走族抗争への参加などの対応に追われたものでした。さらに、保護者が関わる事件では、中国人の保護者が日本のシステムをよく理解せず校長と教頭を殴った事件、中学生の抗争に暴力団関係者の父親が乗り出し相手の生徒をボコボコにしてしまった事件などもありました。
 警察署に出向いたり、保護者説明会で矢面に立ったり、相手方の弁護士とやり合ったり、マスコミの取材に対応したり、膨大な情報開示請求に対処したり、様々な危機対応を経験しました。議会で説明を求められたり、首長サイドに状況説明を求められたりすることも度々でした。そうした経験は、普通の校長や教員ではできないことでした。
 だからこそ、教委は学校の「危機」に際してはもっとも頼りになる存在になり得ますし、ならなければならないのです。学校がもっとも困っているときに心から頼れる存在ではなく、学校を責めたり、責任を押し付けたり、学校の後ろに隠れたりするような教委では、存在する価値がありません。うちの教委はそうだ!と胸を張って言うことが出来る教委はどれくらいあるでしょうか。

 

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許容範囲を超えた傾き

2018-08-22 08:31:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「同根」8月15日
 法政大総長田中優子氏が、『命は生産物か』という表題でコラムを書かれていました。その中で田中氏は、自民党の杉田水脈の生産性発言を取り上げて批判した上で、『人間の命を総合的に見れば、簡単にその「目的」を定めることはできない。税金を使う価値があるか否かを問う人々は、命の目的が国家の財を増やすことにあり、国家に奉仕する人間にこそ価値があると言いたいのだろう』と述べています。
 私は以前このブログで、杉田議員の発言を人権的な見方から批判しました。しかし、田中氏の指摘を目にし、杉田議員の発言は、人権的な見地とは別に、学校教育の目的という面からも考える必要があるのだと考えるようになりました。学校教育については、子供や若者を「人材」予備軍とみる立場からの様々な提言があります。
 例えば、成熟化した日本経済を持続的に発展させるには高度な科学技術が武器になるので、それを担う能力を身につけさせるために理科教育を充実させようという主張には、先端科学研究者や高度IT技術者という人材育成への投資集中という考え方が表れています。
 また、英語教育の充実も、国際化するビジネス環境の中で世界共通語である英語を駆使して外国人エリートや企業を互角に渡り合っていくことができる人材育成に限られた教育資源を効果的に投入しようという発想です。
 理科系振興も英語充実も悪いことではありません。ただ、多くの外国人とコミュニケーションをとり相互理解を深めることでその人の人生がより深く豊かなものになればよいとか、論理的に物事を考える習慣や態度を身につけることで人生の様々な局面で適切な問題解決ができるようになればよい、というように個人の「幸せ」を念頭に置いて、充実策や振興策が提言されているのとは違うということを理解しておく必要があると思うのです。
 個人の「幸せ」を目的に考えるならば、英語が苦手でも、理科系に興味をもてなくても、それはあくまでも個性の問題となります。小説や絵画、音楽など表現や芸術に関心を抱き没頭する人生も価値があるということになりますし、介護や看護など人と関わることに生き甲斐を見いだす人生も素晴らしいということになります。学校においても、多様性が標準となり、英語が苦手即落伍者とはなりません。
 しかし、国力増強、経済成長に貢献する「人材」育成を目的に考えるならば、それらに寄与しない、あるいは貢献度が低い人生は、低評価を受けることになります。そして、英語が苦手で理科オンチという子供は、他の長所をもっていても役立たずとされてしまうことになります。
 もちろん、学校教育には両方の面がありますし、あるべきだとも考えます。そして、時代や社会情勢によって、微妙に針が揺れ動くことも。ただ、そこには自ずから許容範囲があり、あまり片方に触れすぎては危険だと考えるのが賢明な態度というものです。近年は、「人材」側に傾きすぎてはいないでしょうか。

 

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