未来という言葉から連想するイメージは、たいていの場合「希望」である。
ところが、具体的に未来について考えてみると、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
といったような表現をアフォリズムと言うようであります。
箴言とも言うようだけど(?)、シニカルなところがちょと違う。
例えばニーチェの場合
自殺を想うことは強い慰謝剤である。これによって数々の悪夜が楽に過ごせる。
武装平和とは、自国と隣国を信頼せず、
半ば憎悪、半ば恐怖から武器を放棄しかねる意向上の平和である。
人間のみがこの世で苦しんでいるので、笑いを発明せざるを得なかった。
といったようなやつだね。
まあ、ニーチェの場合、こんなのが山のようにあるわけでつが。
ショーペンハウエルだと
我々の肉体が衣服に包まれているように、われわれの精神は虚偽に包まれている。
推理する能力を持っている人はたくさんいるが、
判断する能力を持っている人は少ししかいない。
こんな感じ。
さて、今日のお題はアフォリズムではなくて「未来」だから、未来について語るのら。
未来というと「希望」だけではなく「不安」も同時に感じるわけでつね。
例えば、進学したとき。
新しい世界に入った時には、希望やら期待やら不安やらが混じっているわけでつ。(こりゃ言うまでもないけども)
この不安というやつ、実際のところ漠然としていますね。
「漠然とした不安」を理由に自殺した作家もいました。
しかし、不安とは漠然としたものなのだ。(くどい)
漠然としているから不安なのであって、これが具体的なら不安ではなく「恐怖」なのであります。
「漠然とした不安」程度のことで、何で死ぬんだろうと訝ってしまいます。
さて、その理由を勝手に探ると考えられるのは、
(1) 実は意識下で具体的な恐怖を分かっていたが、それが目の前に迫ってくるのが怖かった。(まだ「不安」のうちに死ぬことにした)
(2) 具体的な恐怖ならば対応のしようもあるが、「漠然とした不安」ではどうしようもない。
どっちだろう。てか、どっちでもない?
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