つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

千里の道も一歩より

2024-05-20 | Weblog
金融支配社会に於いて無償として活動する人。
愛は、ただ与えてただ去のみ。生活があるからとして理屈を言い、有償として行動するのは、金融支配社会の一員、その中では正しい理屈であるが、その中から出られることはない。どんなに正しい理屈としても理屈に過ぎない。
理屈とは、世の多くの人が当然とする考え方、と辞書にある。この多くの人というのは世俗の人である。俗世間、つまり普通の一般のという人の間である。狭義では金銭・名誉などに関することを指す。出家していない人の間である。
いわゆる、欲に覆われた世の界隈である。
出家=俗人としての生活をやめ、仏門に入ること、と辞書にある。戒律の生活である。本来、もっと突き詰めて、「自然に生きる」、つまり俗世間の常識(知識)を滅するために、山にこもり、人と接しないで生きることで、自然の知識を得て生活することにある。知識は他人の経験を正しいとして学ぶものである。そのため、知識が誤っていても分からない。自分の経験としていけば初めてわかる。ただ聞いただけでは分からない。正しい判断はできない。1+1は2と経験して初めて正しいと知ることができる。この道理の経験の知識が知の恵み、智恵である。
知識を智恵に変えることによって真理が見えてくる。そのために知恵を身につければ、誤りに気付いていく。知恵を身につければ,1を知る事で10を知ることができていくという徳となるのである。後の9個の事を経験しなくとも分かってくるのである。不思議な事を得る。
この世は相対的である。だから、男女いて成り立っている。女がいれば男である以上気にかかる。それは道理である。そのため、何かに専念する、或いは、仏道に入る、修行する、としても気がかりになって、どうしても気が散漫になってしまう。どうすればよいだろうと考えて、女を見なければ、会わなければ気にすることも無くなる、として、人のいない山に籠る生活、これが俗世間から離れる方法であるとして考えられた修行法である。専念できる方便として
自然の中で暮らす。時が経ち、やがて、共存共栄を自然にして覚える。皆繋がって生きていることを知る。そして、自分が嫌がる事は相手も嫌がる事と知る。して、愛、愛情という事を知る。覚える。
愛は無償にて存在する故に愛とする。その確認は定かである。
愛に優るのは無いと知る。
それ故に、有償とする理屈は、金融支配下の域を出ない偽善である。
そこに隷属にある私達は奴隷、下級の存在であると覚。→はじめの一歩である。


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