フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月16日(水) 小雨

2017-08-17 12:06:06 | Weblog

8時、起床。

メールをチェックしたら、研究室の先輩だった方の訃報が届いていた。驚いた。私より5つ年上であるが、まだ60代である。最後にお会いしたのは3月上旬であった。終始、ニコニコしておられた。あれから5カ月しか経っていない。

トースト、目玉焼き、ローストチキン、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

私はいつもと同じように朝食をとっている、と思いながら、食べ物を口に運んだ。

午後、散歩に出る。小雨が降っているが、散歩の妨げにはならない。むしろ気分転換に外を歩きたかった。

呑川に沿って、ガード下をくづって、東口の方へ。

 

ガード下をくぐると右手で工事をやっている。ここには「ゆうこ」という名前のスナックがあった。テレビドラマ『砂の器』(中居君が主人公だったやつで和賀英良と三木元巡査が一緒に酒を飲んだスナックである。

宮の橋を渡ると宮の橋商店街という名前のL字型に曲がった通りになる。まぐろのレリーフで飾った看板のある魚屋。

「網五水産」。何の変哲もないような店名に思えるが、「網五」? もしかして・・・

やっぱり「アミーゴ」(Amigo)=「友だち」に掛けているのだ。ですよね?

久しぶりに「スリック」に顔を出す。前回来たのは6月末に妻とパンケーキのブランチを食べに来たときだ。7月は一度も来なかった。マダムに「お久しぶりです」と挨拶される。そういわれると、「スミマセン」という気持ちになる。

「大久保先生でいらっしゃいますよね?」とマダムが言った。うん?なぜ私の名前を、しかも職業までご存知なのだろう。名乗った覚えはないのだが。「ケイコさんというお客さんが、先生のブログにこの店のことが書いてあるよと教えていただいたんです」とのこと。ああ、ママチャリに乗って、蒲田周辺のカフェを巡っている方ですね(「phono kafe」でたまにお会いする。ホームにしているカフェは池上の「バター・リリー」のようで、そこには「ケイコさんセット」という特別メニューがあるらしい)。

「でも、ケイコさんに教えていただく前から、先生っぽい方だなとは思っていたんです」とマダムが言った。「先生っぽい方」ね・・・。実は、同じようなことはこれまでにも何度か言われたことがあるのだ。どうやら語り口が「先生っぽい」らしい。以前、「スリック」に放送大学の坂井先生と一緒に来て、ずっと二人でしゃべっていたことがあったが、彼も相当「先生っぽい」語り口の人だから、たぶんそのとき店内は「先生っぽい」雰囲気が充満していたことだろう。

ココナツとパイナップルのシフォンケーキとダージリンを注文する。

ダージリンを煎れたティーポットをテーブルまで持って来てくれたマダムだったが、何を勘違いされてのか、私のテーブルの前を通り過ぎて、お隣のテーブルのご婦人の空になったティーカップにダージリンを注ごうとして、寸止めで、「あっ、私、何をやっているのでしょう!」と自分の勘違いに気付かれた。3人の間に笑い声が起こる。「いえ、そのまま注いでいただいてもかまいませんよ」と私は言ってみた。カウンターのあるバーなんかではよくあるじゃないですか(実際には知らないけど)、「そちらのご婦人にマティーニをさしあげて」とかいう場面が。さすがにそういう展開にはならなかったが、店内の空気が和んで、私たちは韓流ドラマの話題でしばらくおしゃべりを楽しんだ。

店の外に「氷」の旗が出ていましたね。「せっかくカキ氷機を購入したのに、雨ばかりで、全然出ません」とマダムは嘆いた。けっこう値の張るものだったようである。「でも、いいんです。来年に期待します」とあくまでも明るい方である。来年に期待する前に残暑に期待しましょう。

店を出て、駅の方へ。 

みずほ銀行の新しいビルができて、駅前(東口)の風景がちょっと変わった。

西口へ。

シフォンケーキだけでは昼食としては物足りないので、「ちよだ鮨」で巻物を買って帰ることにする。

この時間だと、「30%引き」のシールの貼られた商品がちらほら。その中から「広島菜巻き(サバ)」を購入。

帰宅する玄関先の椅子の上でナツが寝ていた。

散歩に出るときにエサを与えたので、返ってきた私の顔を見ても、落ち着いている。

買ってきた寿司をつまみながらパソコンの前に座る。

 夕食は餃子。

写真は二人前です。ただし、等分ではありません。

デザートは葡萄。

娘のブログを見たら、知り合いが亡くなったことが書かれていた。まだ30歳だったそうだ。人間は誰でもいつか死ぬが、いつ死ぬかはわからない。たくさんの人が平均寿命の周辺で集中して死ぬわけではないのだ。死の確実性と不確実性。だからといって、毎日、「今日死ぬかもしれない」(自分が、あるいは大切な人や親しい人が)と考えながら生活していくことはしんどい。多くの場合、われわれは死を今日明日のことではなく、日常生活の時間的射程の外側に置いて、つまり死を意識することをしないようにしながら、生活をしている。考えようによっては、私たちの日々の活動は死から目をそらすためにあるようなものかもしれない。しかし、今日の私のように、私の娘のように、死が具体的な形で、唐突に、外部から日常生活の内部に姿を現すことがある。そのとき私たちは言葉を失って、死の前で立ち尽くすしかない。そして、しばらくの沈黙の後に、死者について(死者に向かって)語り始めるのだ。

娘のブログは→こちら

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