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自衛隊の存在を問う9条改憲反対運動を !!

2013年05月12日 | 練馬の里から
【非武装・不戦エッセイ】 その4
   自衛隊の存在を問う9条改憲反対運動を

                      井上澄夫 米空軍嘉手納飛行場・一坪反戦地主

 話を進めるため、日本国憲法の前文と9条を改めて掲げる。

●日本国憲法前文
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

●日本国憲法・第二章 戦争の放棄 第9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 第2項  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 前文と9条はこれまで繰り返し掲げられ、今もそれが続いている。しかし「9条を守れ」と叫ぶ人たちは前文と9条を本気で「実現」しようとしているのだろうか。前文と9条はこの国の平和立国原理である。したがってその原理にそむく政治は全力をあげて排されねばならないし、私たちに求められているのは平和立国原理をタテマエとすることではなく、それを実現することである。

 さてその平和立国原理とは、一口にいえば〈国家非武装・不戦〉である。強調しなければならないが、ここでいう非武装はあくまで「国家非武装」、国家として武装しないことである。日本国憲法はまず何より国家権力を縛(しば)る最高法規であり、9条は日本国家が国家として武装することを固く禁じているのだ。
 9条は「国民」(本来人民というべきだが)に非武装を義務づけているのではない。作家の野坂昭如氏が1981年、つまりまだ冷戦が続いていた時代に『国家非武装 されど我、愛するもののために戦わん。』という実に刺激的な著書を光文社から刊行している。タイトルだけでも野坂氏の思想の骨格は鮮明だが、彼は同書の末尾でこう主張している。 〈しかしあえて、ソ連だか、アメリカだか、韓国、北朝鮮、ベトナム、台湾なんて国が日本を力ずくで押しひしごうと、攻め渡って来るのなら、一人一人が抵抗すればいい。考えただけでも恐ろしいけれど、市民が蜂起(ほうき)して、さまざまな次元による戦いを、しぶとく継続することだ。メガトン級の二つ三つくらう覚悟と、どちらが有効だろうか。〉 侵略に対する民衆の抵抗のありかたは民衆自身が決めることで、それについては別に考察が必要であるが、ここで問題にしているのはあくまで国家非武装である。

 現憲法の9条1項は「戦争の放棄」、2項は「戦力不保持」を鮮明に規定している。それらが意味するところは誰が読もうと疑問の余地はありえない。
 ところがえてして「戦争の放棄」は強く意識され「護憲」運動でも度々強調されるが、「戦力不保持」が同程度に語られることは少ない。

 なぜか。
 一つは「9条を守れば戦争は避けられる」という〈思い込み〉が支配的だからである。現憲法施行以来9条が戦争を抑止する歯止めになってきた実例は数多いし、今も9条は歯止めの役割を一定果たしている。
 しかし同時に「9条は個別的自衛権を否定していない」という政府解釈がまかり通り、警察予備隊、保安隊を経て自衛隊が創設され、それがどんどん肥大してきた事実が示すように、9条が骨抜きにされ、ほとんど抜け殻に近くなっていることもまぎれもない事実である。
 「9条を守れば戦争は避けられる」という〈思い込み〉において語られる「9条」は言うまでもなく9条の条文であるが、そう語る人自身は条文が現実の〈9条状況〉の実態から余りにも深刻に乖離(かいり)している現実をどれほどリアルに認識しているだろうか。 「戦力不保持」が強調されないのは、多くの人がホンネでは「いざという時は自衛隊に守ってもらいたい」と思っているからである。そのホンネは匿名で対応できる世論調査では表に出てくるが、あまり公然と語られない。それはいわば日本社会が呼吸する空気のように、暗黙の了解として〈言わずもがな〉の扱いをされている。

 「9条を守れば戦争は避けられる」という〈思い込み〉は、私たちの眼前の現実によってすでに裏切られ破壊されている。
 この国は軍事費の比較ですでに世界第5位の軍隊を保有し、安倍政権は「集団的自衛権の行使」を合憲化して日米共同戦争態勢を構築しようとしている。すなわち戦争は現政権の政策によって〈手が届く範囲にまで〉手繰り寄せられているし、PKO(国連平和維持活動)という名の海外派兵はカンボジア派兵以来ずっと続き、南スーダンに派遣された陸上自衛隊の部隊が今にも戦闘に巻き込まれないという保証はない。

 多くの人が「戦争になると困るから9条は変えてほしくないが、自衛隊はあってもいい」と考えているが、そういう9条支持論は自らが9条2項を踏みにじっていることを顧みない。9条2項が規定する「戦力不保持」=国家非武装はさりげなくまるで棚上げされているが、それでいて「9条を守れ」というのは明らかに自己矛盾である。
 〈9条の実現〉を追求する意味で「9条を守れ」と言うのなら自衛隊の存在を根本的に批判し、安保破棄運動とともに反自衛隊の活動を「護憲」運動の基軸に据えるべきである。

 長い間、自衛隊を問わず自衛隊の動きを阻止しない「護憲」運動が続いてきたが、そのような「護憲」運動は自国軍たる帝国陸海軍がかつて筆舌に尽くしえない「戦争の惨禍」をもたらしたことを本当に反省しているのだろうか。「明治維新」と呼ばれる王政復古以来この国は国権の伸張を基本国策とし、植民地を拡大し、侵略戦争を継続してきた。日本国家が「戦力不保持」=国家非武装を貫かねばならない根拠はまさにその忌まわしい史実に存する。
 あのようなことを二度と絶対に繰り返さない確実な保証として、9条でアジア・太平洋諸国をはじめ世界に新生日本国家の非武装を誓ったのである。現憲法前文に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」とあるのはまさにそのことだ。

 さらにもう一つ注意すべきは、国家非武装は「政府の行為」による戦争を許さないだけではなく、〈国家が武装して自己防衛を図ること〉を防止することでもあるということだ。国家は権力を維持するために人民から自らを防衛したがる。それを許すと、武装した権力は武力による人民弾圧を制度化する。現行自衛隊法が第3条・自衛隊の任務に「必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする」と明記し、「治安出動」をすでに自衛隊の本務にしていることを忘れるべきではない。

 戦争体験者がかつての戦争を反省しているからこそ9条を守りたいと語るときその思いの真摯さを疑うことはできない。しかし戦争を実体験した世代は次々に鬼籍に入り、戦争を知らない世代の政治家が排外主義むき出しの領土ナショナリズムを煽り、それに無批判に踊らされる人びとが増えているという現実に対して平和立国原理=〈国家非武装・不戦〉原理をもって正面から対抗しようとしない「護憲」運動とは何か。

9条1項が宣言している「戦争の放棄」と同2項の「戦力不保持」とは切っても切れない不可分の関係にある。戦力(軍隊)を保持すれば国家権力は政治・外交の手段としてそれを用いる誘惑に容易に駆られる。それは戦前の歴史が実証するところであり、誰にも理解できることだ。

 ずばり、ことの核心に触れよう。9条の1項と2項が不可分の関係にある以上、〈9条の実現〉とはその両者をともに実現することにほかならない。この国が世界有数の軍隊を保持している以上、〈9条の実現〉とは【自衛隊を解体し日本政府が戦力を行使できないようにすること】である。
そのように9条をトータルに実現するなら、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起る」ことはありえない。

 しかし、戦後「護憲」運動はそのように9条を実現しようとしてきただろうか。自国軍の膨張を前にその現実に押し負け、「戦争の放棄」だけ突き出しつつ、どんどん後退してきたのではなかったか。その結果が「戦争になると困るから9条は変えてほしくないが、自衛隊はあってもいい」という意見が世論において有力になるということだったのではないか。

 自国軍の膨張を阻止する努力を怠ってきたことは「護憲」運動の重大な弱点であり、私たちに〈いま〉問われていることはそれを心底から反省し自衛隊の解体をめざす闘いを始めることである。

私たちは、9条が維持されながら、つまり〈9条があっても〉戦争の準備が進行している眼前の現実と向き合わなければならない。

 南西諸島を「防人(さきもり)の島」として要塞化する計画を防衛省・自衛隊は強引に進めているが、それは9条護憲と無関係なのだろうか。
 防衛省は2008年7月、沖縄島本部(もとぶ)町の米軍上本部飛行場の跡地に計画していた海上自衛隊P3C哨戒機との交信施設、ASWOC(対潜水艦戦作戦センター)用送信所の建設を中止することを決めた。建設中止は飛行場返還から37年を経てようやく実現したが、その成果は本部町住民を中心とする沖縄の人びとの粘り強い抵抗によってもたらされたのである。

2013・5・10 記
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1 コメント

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Unknown (T@練馬読者会)
2013-05-13 10:46:02
野坂さんの本が81年。予算委員会での石橋中曽根対決が83年。あの頃までの護憲派は論理が一貫していて痛快でした。いつから、なぜ、変節してしまったのでしょう?国会で負けるから?市民の支持が得られないから?自衛隊を認める「現実的護憲論」は戦術としては必ずしも否定しませんが、それが護憲派の思考を蝕んでいった。結果、かえって改憲勢力に歯が立たなくなってしまった。鍛え直すべき時だと思います。一人ひとりの頭の中を。

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