練金術勝手連

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※ 練金術(ねりきんじゅつ)とは『週刊金曜日』練馬読者会的やり方という意味です。

★ 人類の都合だけで地球の歴史を左右してよいか?★11月 読者会に参加して ★

2009年11月29日 | 読者会定例会
 28日の練馬読者会例会には、新人1名がが参加。八ッ場ダムに翻弄され続ける川原湯温泉で11月上旬に行われた温泉読者会の報告を中心に議論がなされました。
 「賛成派と反対派を単純に善悪にわける報道が多いが、現地に行ってはじめて、そんな単純な問題ではないことがわかった」という感想が示すように、こうした問題は現場まで足を運ぶことで、より掘り下げて理解できるということを、参加者それぞれが体感できたようです。筆者は都合により参加できず残念でした。

 何故八ッ場ダムが不必要なのかについては、“八ッ場あしたの会”のサイト
http://www.yamba-net.org/)でわかりやすく解説されています。

 ただダムを「作る」「作らない」というのは人間社会だけの問題であるので、46億年の歴史を持つ地球をどうするのかという視点も、こうした開発の是非について議論する際には、今後は取り入れて欲しいと筆者は感じました。

 なぜなら天然の資源や土地、エネルギー、生態系など人間を取り巻く環境のすべては、46億年の歴史の結果として存在するかけがえのないもので、人間はその多くを過去ほんの100年程の間に、かなり食いつぶしてしまっているからです。このままでは持続可能な社会は実現できませんし、やがては人類の存在自体も危ういものとなるでしょう。さらにいえば、人類の都合だけで地球の歴史を左右する権利などは、本来私たちにはありません。これまでは無料で収奪してきましたが、今後は地球も人間の経済に内部化させる必要があるのではないでしょうか。

 また天皇制、民主党政権への期待や懸念、市民活動論などについても熱いやりとりが行われました。

(まきがい)

● 鳩山首相よ、「沖縄県民の総意」がまだわからないのか ●

2009年11月25日 | これだけは言いたい!
   鳩山首相よ、「沖縄県民の総意」がまだわからないのか

                                 井上澄夫

 「普天間代替施設の辺野古移転問題」という表現が盛んにマスメディアに登場する。普天間基地の代替施設をどこに移転するかが問題なのだと言わんばかりである。
 しかしこれは根本的に間違った問題設定である。なぜなら沖縄の人びとは、これまで一度もどこかに「代替施設」を作るべきであると主張したことはない。宜野湾市民をはじめ沖縄の人びとは普天間基地の「即時閉鎖・返還」を求めてきたのだ。つまり沖縄から出て行ってくれと言っているのだ。
「代替施設」を計画したのは米日両政府であり、それについて沖縄の人びとが相談を受けたことは一度もない。だから本来、沖縄の人びとは「代替施設」を県内に置くか、県外あるいは国外に移転させるかについて、問われるべき立場にはないのだ。「代替施設」なんぞ要らないのだから。

 鳩山首相は11月24日、移転先を決断する前に沖縄を訪問すると表明した。沖縄の人びとの総意はこれ以上米軍基地を沖縄に作らせないということであり、それは岡田外相も北沢防衛相もよくよくわかっているはずだ。鳩山首相は「県民の総意」を今さら確かめたいのだろうか。彼がなすべきは、沖縄の人びとの総意を実現するため、オバマ米政権に普天間基地の「無条件閉鎖・返還」を要求することではないのか。彼が向かうべきは、沖縄ではなく米国の首都・ワシントンだろう。
 移転先をめぐる鳩山首相の日替わり発言の無責任さと愚かしさは、沖縄の人びとを憤激させるばかりである。沖縄を訪問して、その後「県民のみなさんの意見をよく聞きました。しかし日米同盟の安定と深化のためには、やはり辺野古への移設が最善という《苦汁の選択》をせざるを得ません。」とでも言うつもりだろうか。

 沖縄タイムス紙には〈「普天間移設」県民の声ホットライン〉というコーナーがある。そこに載った声の一つを紹介する(2009年11月21日付同紙)。那覇市の自営業、宮城光二郎さん(73歳)の声である。

 〈国民学校2年の時、10・10空襲を体験した。沖縄戦中は家族と逃げ続け、糸満市米須では兄と姉3人の遺骨を拾った。現在孫が10人いるが、私のような体験は絶対にさせたくない。基地がある所が戦争で狙われる。沖縄に基地は置くべきではない。嘉手納や宜野湾市に住んでいる人々の心中を察する。県内移設は絶対に反対だ。〉

 ※ 10・10(那覇)空襲 1944年10月10日、那覇市は米軍空母艦載機の空襲を受け、灰燼に帰した。翌年4月1日に始まった地上戦(沖縄戦)のことはよく知られているが、10・10空襲はあまり知られていない。しかし沖縄の人びとはむろん忘れていない。死者は255名。

◆ 反戦の視点・その91 ◆

2009年11月22日 | 練馬の里から
     マイケルのこと
                              井上澄夫

 最近(11月13日付)の『毎日新聞』にロサンゼルス発同紙記者のこういう記事が載った。
 〈09秋:結婚1カ月、イラクで夫が戦死…沖縄の妻、米での子育てに法の壁
 「子供をアメリカで育てるという彼との約束は守りたい」──。米海兵隊員の夫がイラクで戦死した沖縄県宜野座村のほたる・仲間・ファーシュキーさん(26)は、夫の死後出産した赤ちゃんを夫の遺志通りに米テネシー州で育てている。しかし、米国の移民法上妻と認められなかったため、来年1月には、帰国せざるを得なくなっている。
 ほたるさんは07年、沖縄に駐留していたマイケル・ファーシュキーさんと知り合い、昨年4月に婚約した。2日後にマイケルさんはイラクに派遣され、2週間後に妊娠が判明。マイケルさんは、ほたるさんと生まれてくる子供のためにと結婚を早め、ほたるさんが7月10日に沖縄で婚姻届を提出した。マイケルさんは米軍にも結婚を報告した。
 ところが1カ月後、マイケルさんはイラクでゲリラに銃撃され戦死した。22歳だった。「数日前まで電話で話した。信じられない、悪夢だと思った」という。
 今年1月、ほたるさんは沖縄で長男マイキーちゃんを出産。米国の永住権を取得しようとしたが、「結婚は完成していない」と、米移民局に拒否された。
 ほたるさんは、観光ビザで2月に渡米し、マイケルさんの実家で赤ちゃんを育てているが、1年でビザが切れるため帰国せざるをえない。「マイケルはすごく悲しんでいると思う。彼をヒーローと言ってくれる故郷で育てたい」と希望する。
 移民法に詳しい弁護士は「難しいことだが、唯一の解決法は、ほたるさんを移民法の例外とする私法を成立させること」と話す。地元議員らが、ほたるさん救済法案を上下両院に提出しているが、成立の見通しは立っていない。〉

 記事によれば、書類の届け出で結婚が認められる日本と異なり、米国の届けは、夫婦がともに立ち会わねばならない、米軍人が外国人と結婚する場合は、移民法上、夫婦生活を営まなければ結婚成立とは認められない、米軍はほたるさんを妻と認め遺族手当を支給しており、同じ米政府内でちぐはぐな対応をしている、という。
 本稿の読者は上の記事を読んで、どのような感想をもつだろうか。徴兵制が敷かれていたベトナム戦争時と異なり、現在の米国は志願制である。その「志願制」、いかにも自発的に米軍兵士になるように聞こえる「志願制」の実態がどのようなものであるかは、堤未果『ルポ・貧困大国アメリカ』(岩波新書)で活写されているから、ここでは繰り返さない。一口にいえば、貧困が米国の若者の背を兵営に向けて押すのだ。
 沖縄の米海兵隊で20代前半といえば、米軍で最も勇猛果敢とされる敵前強襲部隊の一員である。彼らは上官の命令に機械的に瞬時に反応して「敵」を殺すよう訓練されている。沖縄の海兵隊は2004年、5000人の実戦部隊がイラクに投入され、うち2大隊が「ファルージャの虐殺」に加わった。2007年3月の時点でイラクで死亡した海兵隊員は50人を超えている。上の記事の昨年8月に戦死したマイケル・ファーシュキーの軍歴は不明だが、彼は「イラクでゲリラに銃撃され戦死した。22歳だった」。

 イラクやアフガニスタンで戦死する米軍兵士は数(かず)で報道され、個人名が伝えられることはめったにない。その「数」は米国政府にとって負担になる。遺族に手当を支給せねばならず、ときどきは慰謝のために戦死者の功績をたたえる儀式に招待しなければならないからである。戦場で負傷したり罹病して帰還した兵士たちへの支援がいかに不十分であるかについては、すでに多くの報道がある。
 オバマ戦時大統領は、アフガンから無言で帰国する米兵士を出迎えたり、テキサス州のフォートフッド陸軍基地で起きた乱射事件の犠牲者の追悼式典に参列したりするが、アフガンを「主戦場」とする侵略政策を変える気はない。イラクからの撤兵を急ぐ気配も見せない。だからアフガンやイラクからの「物言わぬ帰還者の列」は絶えることがない……。

 ほたる・仲間・ファーシュキーさんは「彼をヒーローと言ってくれる故郷で子どもを育てたい」と言う。その思いの評価はいろいろだろう。マイケルは本当に「ヒーロー」なのか、彼を「英雄」にしたのは誰か、という疑問を抱く人も多いだろう。私は彼女がマイケルはブッシュ前大統領の戦争政策の犠牲者であることに気づいて欲しいと願う。しかし同時にこう思う。
今はまだ乳児のマイキーは、沖縄で育てばアメラジアンの子どもになる。アメラジアンはアメリカンとアジアンの合成語で、アジアに駐留する米軍基地の兵士と現地の女性との間に生まれた子どもたちのことである。沖縄ではアメラジアンの子どもたちは、父親が基地にいる間は軍が教育費を支給するが、父親が帰国すると学校に通えなくなっていたため、1998年に「アメラジアン・スクール・イン・オキナワ」が設立されている。
 しかしアメラジアンの子どもたちに対する差別感情はなお根強く、米軍兵士が住民に対して犯罪事件を起こしたときなどにそれが噴き出す。推察にすぎないが、ほたる・仲間・ファーシュキーさんの「彼をヒーローと言ってくれる故郷で育てたい」という思いの背景にはそういう事情もあるのではないだろうか。

 アメリカの若者、マイケル・ファーシュキーはイラクで戦死した。22歳だった。あとにはオキナワンの妻と乳児が遺(のこ)された……。オバマ戦時大統領がブッシュ前政権時代の戦死者であるマイケルの名を知るときがあるだろうか。

【付記】立川自衛隊監視テント村の『テント村通信』第381号(2009年11月1日発行)の巻頭記事の中見出しに「戦時大統領に(ノーベル)平和賞の資格なし」とある。 「戦時大統領」、それはそのものズバリ、実に正鵠を射る表現であるから本稿で使わせていただいた。
 マスメディアではオバマのプラハ・カイロ・東京での演説を賞賛する論調が優勢だが、「オバマの戦争」を直視しないジャーナリズムとは何なのか。米空軍の「誤爆」で殺されるアフガンの人びとの目に、その種のオバマ礼賛はどう映るだろうか。

◆ 反戦の視点・その90 ◆

2009年11月12日 | 練馬の里から
  基地はいらない、どこにも
    ──「普天間(ふてんま)基地閉鎖・返還(撤去)問題」の考察──


                              井上澄夫
はじめに
 沖縄のジュゴンが何頭いるのか、残念ながら、科学的に信頼できる情報はない。しかし乱獲や魚網に引っかかる事故、生活廃水の垂れ流しによる藻場の減少、あるいは沖縄戦が残した不発弾の海中爆破などがジュゴンの生存をおびやかし、ついに「絶滅危惧種」という恐ろしいネーミングの対象になったことは疑いない。それに加えて新たな米軍基地の建設がジュゴンを絶滅させようとしている。
 しかしながら、連日、マスメディアに登場する「普天間移設問題」はとてもわかりにくい。鳩山政権の閣僚たちの発言が「日替わり」とからかわれるほどコロコロ変わるので、問題の本質が見えにくくなっている。鳩山首相、岡田外相、北沢防衛相が相互に矛盾する発言を公然と繰り返し、鳩山首相は普天間基地の移設先は「私が最後に決める」と強調するものの、閣内不一致と内閣の迷走ぶりが際立っている。そこでそれらの奇っ怪な現象に振り回されず、落ち着いて頭を整理してみよう。

◆普天間基地とは?
 沖縄には在日米軍基地が集中している。よく「全国の基地の75%が沖縄に集中している」といわれるが、これは正確ではない。米軍が日本全体で占有する施設の面積比で75%(74.4%)が沖縄に存在するということが事実であり、基地の総数の75%が集中しているのではない。しかし面積では日本全体の0.6%に満たない沖縄県に占有面積比ではあれ75%の米軍基地が集中しているのは、いうまでもなく異常である(そのうえ沖縄県の中でもほとんど沖縄〔本〕島だけに基地が置かれ、島の土地の18.4%が占拠されている)。だから「沖縄の中に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある」とよくいわれるのだが、それは那覇空港から島の最北端の辺土(へど)岬まで、いや島の中部あたりまででもドライブすれば、誰でも否応なく実感できる。
 普天間基地は沖縄島中部の宜野湾(ぎのわん)市にある。正確にいうと、米海兵隊宜野湾飛行場である。海兵隊は最前線で敵前に強襲上陸する殴り込み部隊であるから、苛烈な訓練によって人間性をまるで失わせられる戦闘ロボットの集団である。だから戦地から沖縄に戻ると凶悪な犯罪を繰り返す。1995年9月に少女レイプ犯罪を起こした3人の兵士も海兵隊員だった。イラク戦争で起きた「ファルージャの虐殺」に沖縄の海兵隊が加わったことを全国紙などはほとんど取り上げないが、実は2004年に沖縄から5000人の海兵隊実戦部隊がイラクに派遣され、そのうちの2大隊が虐殺に参加したのだ。「動くものはすべて撃った」と兵士たちは証言している。
 普天間基地は人口約9万2000人の宜野湾市のど真ん中に居座っている。市街地はドーナツの輪のように基地の回りにへばりつき、そこに住宅、病院、市役所、商店、ホテル、幼稚園、小学校、大学などが密集している。基地からは武装ヘリや輸送機が出撃し、しかも日々訓練をおこなうから、爆音が市民生活を脅かし、事故発生の危険が身近に迫っている。実際、2004年8月には沖縄国際大学に武装ヘリが墜落した。幸い死傷者は出なかったが、一つ間違えば大惨事になるところだった。さらにもっと小規模の事故は日常的に起きている。落下傘で降下訓練中の兵士が風に流され、市街地に不時着するというような事故である。私の友人の家は滑走路の端に隣接する地域にあるが、その家の窓からは離発着する輸送機のパイロットの顔がよく見える。

◆普天間基地問題の核心
 先の説明でわかると思うが、宜野湾市民は、行政も住民もこぞって「普天間基地即時閉鎖・返還」を要求してきた。それは1972年の「復帰」前からずっと続いてきた市民の悲願である。ここではっきりさせなければならないことは、宜野湾市民が要求しているのは危険な基地の「即時閉鎖・返還」であって、「移転」ではないということだ。米海兵隊の基地をどこかに持って行けということではないのだ。筆者が1996年に沖縄を訪れたときには、普天間基地の土地をほんの一部だが返還させて建てられた佐喜眞(さきま)美術館に、普天間高校の生徒たちが作った模型が展示されていた。もし基地が返還されたらどういう街にするか、みんなで相談して、基地跡に創りたい未来の街を模型にしたのだ。
 先に触れた95年9月の少女レイプ事件は沖縄の人びとを憤激させ、島ぐるみの怒りが激しく燃え上がった。そこで当時の橋本首相はモンデール駐日米大使と会談し、「普天間返還」の合意が成立した。事件の翌年、96年4月のことである。その合意では、5年から7年以内に、沖縄にすでにある米軍基地内にヘリポートを移設し、普天間基地の一部機能を、極東最大の米空軍基地・嘉手納(かでな)に統合することになっていた。つまり合意は既存の基地の外に新基地を作る話ではなかったのである。
 ところが同年12月に日米安全保障協議委員会でなされたSACO(沖縄に関する特別行動委員会)の最終合意は「海上施設」案を「最善の選択」とした。既存米軍基地内ヘリポート移設案などは姿を消し、普天間基地の「代替施設」を「沖縄本島の東海岸に建設する」と決めたのである。その決定は、当時の池田外務大臣、久間防衛庁長官、ペリー米国防長官、モンデール大使がおこなったが、沖縄県民には一言の相談もなかった。完全に頭越しの日米政府間合意によって、名護市キャンプ・シュワブ沖=辺野古沿岸域に海上ヘリポートが押しつけられることになったのである(辺野古集落は沖縄島北部名護市の東海岸沿岸域にあり、米海兵隊キャンプ・シュワブに隣接している)。
 嘉手納統合案が消えたのは、米空軍と米海兵隊はもともと米軍内で張り合っていて仲が悪く、米空軍が固定翼機(戦闘機)と回転翼機(武装ヘリ)が同じ滑走路を共同使用することはできないとして統合案を拒否したからである。しかし新基地建設に時間がかかることは誰の目にも明らかだったから、SACO最終合意を知った宜野湾市民、沖縄県民はひどく落胆した。また基地の県内たらいまわしか……。

◆沖縄の反撃からグアム移転協定まで
 しかし沖縄の人びとはいつまでも落胆していなかった。落胆は憤激に変わり、憤激は反撃のエネルギーに転じた。
 SACO最終合意で決められた「海上施設」は3つの工法が選択されることになっていた。(a)杭式桟橋方式(浮体工法):海底に固定した多数の鋼管により上部構造物を支持する方式 (b)箱(ポンツーン)方式:鋼製の箱形ユニットからなる上部構造物を防波堤内の静かな海域に設置する方式 (c)半潜水(セミサブ)方式:潜没状態にある下部構造物の浮力により上部構造物を波の影響を受けない高さに支持する方式、がそれである。
 いずれも辺野古沿岸の礁湖(沖縄の言葉でイノーという)を占拠する工法で、自然環境を大規模に破壊することは目に見えていた。その美しい海は、太古の昔から沿岸域の住民の生存と暮らしを支えてきた「命の海」でもあった。とりわけ沖縄戦中・戦後の食糧難を海の恵みによって生き延びた人々は「海は命の恩人」と語る。
 辺野古の住民は1997年1月、「ヘリポート阻止協議会(通称・命を守る会)」を結成し、命と暮らしを守るための行動を開始した。そして同年12月の名護市の住民投票では海上基地建設反対が圧倒的多数を占めた。名護市民は日米両政府に「海上ヘリポート建設NO!」を突きつけたのである。防衛庁(当時、現在は防衛省)は、反対する市民を切り崩すため、名護市に多数の自衛隊員を送り込んで露骨な懐柔工作を展開したが、市民の意思は揺るがなかった。
 だが日米両政府は住民投票の結果をまったく無視した。日本政府には沖縄を踏みつけにして軍事的安全保障を図る国策を変更する気はみじんもなかった。日本政府は比嘉鉄也名護市長(当時)に圧力をかけ、それに屈した彼は市民の意思を踏みにじって基地受け入れを表明した。このあからさまな沖縄差別に対し、「命を守る会」や、辺野古に隣接する大浦湾沿岸の住民団体「ヘリ基地いらない二見以北十区の会」をはじめ名護市の市民団体や労働組合などで構成する「ヘリ基地反対協議会」は、新基地建設を止めるための活動を展開した。
 那覇防衛施設局(当時、現・沖縄防衛局)が基地建設のための調査に強行着手しようとした2004年4月以降、辺野古のおじぃ・おばぁたちやヘリ基地反対協をはじめ「平和市民連絡会」など沖縄各地から駆けつけた人びとは辺野古漁港近くでの座り込み、海上阻止行動などの非暴力直接行動を長期にわたって持続し、2005年9月、ついに作業は中止された。これは新基地建設に反対する市民たちの鮮やかな完全勝利だった。
 基地建設案は海上ヘリポート案からリーフ埋め立て案、さらに沿岸案へと変わっていくが、日米両政府がどこまでも辺野古にこだわったのは、米軍がベトナム戦争中の1960年代からすでに辺野古沖をねらっていたからだった。2005年10月、日米安全保障協議委員会が「日米同盟──未来のための変革と再編」(以下「日米同盟」)という文書を公表した。それは1996年4月の「日米安全保障共同宣言」を踏まえて「アジア・太平洋地域において不透明性や不確実性を生み出す課題が引き続き存在している」とし「地域における軍事力の近代化に注意を払う必要がある」ことを強調した。そして文書「日米同盟」が公表された際の共同発表で「在日米軍の再編」が打ち出されたのである。
 ただし「在日米軍の再編」という言葉は誤解を招きやすいので注意したい。それは自衛隊の再編を伴いつつ、米軍の指揮下に自衛隊を組み込むことである。米軍のみ再編するのではない。目的は日米両軍の一体化で、それは両軍基地の共同使用に顕著である。その「在日米軍の再編」を急ぐため、日米両政府は2006年5月、「再編実施のための日米のロードマップ」(以下「ロードマップ」)を策定した。その内容は要するに、普天間代替施設を2014年までに完成すれば、海兵隊約8000名とその家族約9000名をグアムに移転する、グアム移転費用を日本政府が負担し代替施設を期限通り完成しないなら、普天間基地をはじめ嘉手納基地以南の基地も返還しないという脅迫的なものである。それは「統一的なパッケージ」と呼ばれ、徹頭徹尾、米国政府にとって有利な合意だった。
 その「統一的なパッケージ」の実施をだめ押ししたのが、今年(2009年)2月に突如日米間で調印された「グアム移転協定」だった。協定というと軽く聞こえるが、それは条約と同等の国家間公約であり、最近、米国政府はそのことを振りかざして日本政府に「協定」の履行を迫っている。

◆動揺する鳩山政権の沖縄政策と揺るがない「沖縄の総意」
 しかし海上ヘリポート建設計画が頓挫したあと、日米両政府が打ち出した「キャンプ・シュワブ沿岸域案」に対しても、新基地建設を阻止する抵抗は粘り強く続けられた。同案はキャンプ・シュワブの敷地にまたがり、ジュゴンが回遊する辺野古沖と、最近、巨大なアオサンゴの群生があいついで発見された大浦湾を埋め立てて、V字型にそれぞれ1800㍍の滑走路を建設するというもので、名護市民・沖縄県民が容認するはずはない代物だった。今年10月9日、辺野古漁協近くのテント村での座り込みは2000日を迎えた。
 海上ヘリポート案と現行案との違いでどうしても強調しなければならないことがある。海上基地案については、当時の稲嶺県知事と日本政府との間で「使用期限15年」と「軍民共用化」が合意された。撤去可能な基地であることも強調された。だが現行案には使用期限はないし、民間航空の使用もない。米海兵隊の巨大な新基地が辺野古に半永久的に固定されるのだ。
 さらにこれはぜひ付け加えねばならないのだが、日米両政府はウソをついた。米海兵隊が辺野古の新基地にオスプレイを配備することは早くから指摘されていたが、日米両政府は一貫してそれを否定していた。オスプレイはヘリコプターのように垂直離発着ができ、しかも固定翼機のように長い航続距離を持つ最新鋭の輸送機である。両翼のエンジンを傾けることができるティルトローター機であるが、無理な構造ゆえに、試作段階でも初期生産段階でも何度も墜落事故を起こし、生産中止が度々検討されたいわくつきの機種である。そのオスプレイの配備が、沖縄防衛局の環境影響評価(アセスメント)が行なわれたあと(!)、公表されたのである。だからオスプレイがもたらす騒音はアセスメントの対象にならなかった。そしてそのような基地の建設を日米両政府は「地元の負担軽減になる」とうそぶいているのである。
 重ねて強調したいが、沖縄の人びとは「代替施設」を望んだのではない。沖縄の人びとが一貫して求めてきたのは「基地のない平和な島」であり、それゆえにこそ普天間基地の「即時閉鎖・返還(撤去)」を切望してきたのだ。
 ところが日米両政府はすでに見たように、ずるがしこくも、「返還」(既存米軍基地内ヘリポート移設・一部機能嘉手納統合)を「代替施設の移転」にすり替え、しかもそれをまた沖縄に押しつけた。「基地のたらいまわし」そのものである。だから沖縄の世論は「県内移設反対」に凝縮されることになった。8月30日の衆院選で沖縄4選挙区で自民党が全敗し、比例の九州ブロックでも負けた。衆院選直後、当選した5人の国会議員はそろって「辺野古新基地建設反対」を表明した。また昨年6月の県議選では自民・公明両党の支配を覆して野党が勝利し、同年7月県議会で政府にあてて「名護市辺野古沿岸域への新基地建設に反対する意見書」が採択された。県議会でも衆院選でも「沖縄県民の総意」が鮮明に表明されたのだ。
 民主党は衆院選前、普天間基地の「県外・国外移設」を公約としてきた。それを具体的に以下紹介する。
▼鳩山由紀夫現首相 「(普天間の移設問題で)県民の気持ちが一つなら『最低でも県外』の方向で行動したい」(09年7月20日、沖縄市の集会で)
▼岡田克也現外相  「『普天間』の県外、国外への移設実現を目指し、政治生命を賭けて交渉したい」(05年8月25日、日本外国特派員協会で講演) 
▼前原誠司現沖縄担当相 「海兵隊はいろんなプロセスを踏んで最終的に国外に持っていく」(05年4月、沖縄タイムスのインタビューで)
念のために付け加えるが、同種の発言はまだまだある。さてその民主党は鳩山政権成立後、公約を実現しようとしているだろうか。
 北沢防衛相は就任後初めての沖縄訪問で辺野古のテント村で住民の意見に耳を傾けることもなく、「県外移設は困難」と表明した。岡田外相も「県外は事実上、選択肢として考えられない」と表明しつつ、「嘉手納統合の可能性を検討するしか、残された道はない」と語った。これに対し鳩山首相は依然「県外移設」の可能性に含みを残す発言をしているが、11月13日に予定されるオバマ米大統領の来日前の決断は先送りするつもりのようだ。
 これに対し米国政府は苛立ちを隠さない。1996年の橋本・モンデール「普天間返還」合意は「5年から7年以内」に実現するはずだったが、代替施設建設は遅々として進まず、もう13年も経ったではないか、というわけだ。10月21日に来日したゲーツ米国防長官は、まるで植民地の総督ででもあるかのように、辺野古案の早期実施を日本政府に強要した。その直後来日したマレン米統合参謀本部議長も同様に振る舞った。だがそのような姿勢はアフガニスタン・パキスタン侵略戦争の泥沼化(ベトナム化)でパニック状態にあることを隠すための虚勢を張った猿芝居であるから、無視すればいい。米国政府の現在の苦境は、そもそもブッシュ前政権から引き続きオバマ政権でも国防長官の座に居座ったゲーツ自身が招いたものなのだ。
 米南部テキサス州のフォートフッド陸軍基地で11月6日(日本時間)に起き13人が死亡した乱射事件は、2001年の〈9・11〉直後に始まり、ついに9年目に入った「対テロ戦争」で米軍自身が疲弊し崩壊寸前の状態にあることをいみじくも実証した。
 鳩山首相が本気で「対等な日米関係」をめざすなら、同等の立場で対米交渉を堂々とおこなえばいいのである。オバマ政権がなお居丈高な態度をとるなら、日米安保条約の破棄を申し出ればいいだけのことだ。そうすれば条約は自動的に失効するのだから、それまでに全米軍が日本から退去することになる。
 11月8日の沖縄・宜野湾市での県民大会(2万1000人が参加)から逃げて訪米した仲井真沖縄県知事は米議会や政府に「辺野古移設やむなし」を訴えて回ったが、これほど時代が見えていない愚行は珍しい。仲井間知事とともに同じ主張を声高に吹聴した松沢神奈川県知事は県民大会実行委員会から抗議されることになったが、まるで政府の閣僚気取りで沖縄を差別する振る舞いはもはや政治犯罪という外はない。

◆問題の核心を改めて確認しよう
 東京の都心で10月22日、沖縄の「普天間基地・那覇軍港の県内移設に反対する県民会議」が主催する「普天間基地の即時閉鎖と辺野古新基地建設の断念を求める緊急集会」が開かれた。そこで「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の高里鈴代さんはこう語った。
 〈先ほど鳩山首相の選挙区がある北海道に普天間の代替施設を移設すべきという発言がありましたが、私はそう思いません。私たちが求めるのは普天間基地の「閉鎖・返還」です。そこでピリオドを打ちます。普天間の代替施設をどこかに持っていけばいいとは思いません。
 今年、グアムで反基地の活動をしている各国の女たちが交流をおこないました。そこでグアムの先住民チャモロの女性が過去約100年のグアムの歴史を語りました。米西戦争でアメリカが勝ってグアムは1898年、スペイン領から米国領になりました。先住民は島の一角に強制収容され、広大な土地がブルドーザーで敷き均(なら)されて米軍基地にされてしまいました。それから日本軍が占領した3年間を除いて、ずっと米軍統治が続いたのです。彼女の報告を聞いて貧困も基地被害も沖縄とまったく同じだと思いました。ですから海兵隊員とその家族が沖縄からグアムに移転するといっても、それで喜ぶわけにいきません。基地はどこにもいらないのです。〉
 いかにも決起集会風の男たちの演説が多い中で、口ごもりながら語る彼女のスピーチは聴衆に問いかけ、論理的な思考を喚起する、異彩を放つものだった。集会後、筆者は古い友人である彼女に「私にもグアムにチャモロの友人がいる。私にとってはあなたの話が一番まともで、一番良い話でした」と伝え、しばし懇談したのだが、本稿の読者はどう思うだろうか。沖縄県外の日本のどこかに移設すればいい、グアムは米国領だから大勢の海兵隊員らが移動するのは当然と考えるだろうか。
 私は海兵隊員たちを米国本土に帰還させ、十分なメンタルケアを受けさせ、人間性を取り戻させてから除隊させるべきだと考える。普天間基地は即時閉鎖し、米軍が土壌汚染を除去した上で返還させるべきである。「アジアや中東への米軍の出撃拠点」をたらいまわしすることは、沖縄県内はむろんのこと、県外でも許されない。いらないものはいらないのだから、なくせばいいのである。軍隊が住民を守らないことは、沖縄戦での余りにも悲惨な無数の体験記によって十分実証されているではないか。
 最後にもう一つ指摘しておこう。在日米軍は「日本の安全保障」のために存在すると日本政府はいう。だがそのために、沖縄は戦後64年間も犠牲を強いられてきた。しかも沖縄は「日本の安全保障」の体制からはずされている。戦争になれば米軍基地と自衛隊基地が集中する沖縄が真っ先に攻撃されるからである。こんな割りの合わない事態に目をつぶっていていいわけがない。

【添付資料】略年表・「普天間移設問題」と北限のジュゴン ◆がジュゴン関連

◆1955年 米軍統治下の琉球政府がジュゴンを天然記念物に指定 
 1965年 米海兵隊の新たな飛行場適地を米軍が調査、辺野古沖が候補地に挙げられる
◆1972年 「復帰」の年、日本政府がジュゴンを天然記念物に指定
 1995年 9月 米海兵隊員3名による少女レイプ事件起きる
      10月 島ぐるみ抗議の県民総決起大会
 1996年 4月 橋本・モンデール会談で5~7年以内の「普天間返還」を合意
 12月 SACO最終合意で沖縄〔本〕島東海岸の「海上施設」案を決定
 1997年 1月 辺野古住民が「命を守る会」を結成
      12月 名護市住民投票で海上基地建設反対が圧倒的多数を占める
◆1998年 テレビが名護市の東海岸でジュゴンが遊泳しているのを撮影し放映
 1999年12月 名護市長が「海上施設」の辺野古地区受け入れを表明・この年、「北限のジュゴンを見守る会」発足
◆2004年 日本自然保護協会と那覇防衛施設局がジュゴンの食跡(はみあと)を確認
 2004年9月 那覇防衛施設局による辺野古沖ボーリング調査が始まる・阻止行動開始
◆2005年 環境省がジュゴンの7時間の回遊を確認
◆2005年と07年、報道機関がジュゴンを撮影
 2005年9月 那覇防衛施設局が基地建設のための調査中止、建設阻止派勝利
     10月 日米両政府が「日米同盟:未来のための変革と再編」を策定
 2006年5月 日米両政府が「再編実施のための日米のロードマップ」を策定
 2009年2月 日米両政府が「グアム移転協定」を締結
      7月 民主党が沖縄政策で「県外・国外移設」明記
      8月 衆院選で政権交代→鳩山連立政権発足
     10月9日 辺野古テント村の座り込み2000日に達する
◆2009年10月 沖縄県アセスメント審査会が知事への答申でジュゴンの「複数年調査」を要求

 ※ 国際自然保護連合(IUCN)が日本政府に対しジュゴン保護を勧告するなど、北限のジュゴンへの国際的な関心が高まっている。(年表作成:井上澄夫) 

【付記】本稿は「北限のジュゴンを見守る会」のニュースレター『イタジイの森に抱かれて』第33号(09年11月7日発行)への寄稿に若干加筆したものである。本稿の執筆にあたって、沖縄現地のジュゴン調査グループ「チーム・ザン」の浦島悦子さんと「北限のジュゴンを見守る会」代表の鈴木雅子さんの協力を得た。特に辺野古現地を含む沖縄の人びとの抵抗の歴史については、浦島さんから多大のご教示をいただいた。お二人に深い謝意を表明する。

★★ 政治主導ってなに ★ 10月の練馬読者会 ★★

2009年11月03日 | 読者会定例会
 10月の練馬読者会の報告です。10月は新人女性の初参加を得てフリートーク中心に行い、2次会まで熱く議論しました。

 政治主導ということで鳩山新政権から矢継ぎ早に閣僚が打ち出す見解はめまぐるしく、説明不足や齟齬も目立っている。ひとつひとつの問題を掘り下げる間もその気もないマスゴミの餌食になっている…。国民の関心が高いのはよいことだが、周囲から聞こえるのはほとんどがTVのおうむ替えしで、急速に進むTV番組の内容劣化にひきづられて人々の意識の劣化も進む…。
 政権交代してひと月になるが、私たちは米国流の100日間ハネムーンを適用すべきか、市民の立場から厳しくチェックする視点を持つべきなのか…、さらには原点としての非武装平和志向と日米同盟等の現実認識や方法論について、おおいなるディベートをすることになりました。

 11月の例会は28日(土)18時から。場所はいつもの西武池袋線大泉学園駅北口駅前喫茶ノウ゛ェル。テーマは政権ウォッチ、八ツ場現地見学報告、気になる本誌記事などの予定。…ですが、10月ディベートの続きもあるかも。初参加・旧参加・若者歓迎。気軽にどうぞ。
(イトヤン)

練馬読者会11月例会

  日  時:2009年11月28日(土) 18時から
  会  場:喫茶ノウ゛ェル(西武池袋線大泉学園駅北口駅前)
  会  費:喫茶代
  問合わせ:nerikinjyutu@mail.goo.ne.jp
       または03-3925-6039 近藤まで。