練金術勝手連

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※ 練金術(ねりきんじゅつ)とは『週刊金曜日』練馬読者会的やり方という意味です。

◆ 反戦の視点・その88 ◆

2009年09月29日 | 練馬の里から
  代替案がなくても、反対は反対という重要な意見表明もある
                               井上澄夫
 
 「反対、反対じゃだめ、対案を出さなければ」という言説が、さまざまな課題に取り組む市民運動の中で妖怪のように飛び交い始めたのは、70年安保闘争が内ゲバと爆弾の血の海に沈んでからしばらく経った頃ではなかったか。「オールターナティブ」(もう一つ別の考え方、あるいは代替案)という言葉が流行(はやり)になっていった。
 その風潮は政府と正面からぶつかっても得るものはないという、それまでの運動体験を踏まえた「教訓」から生まれた面があるだろう。意気消沈した後退局面から抜け出すための必死の努力が手がかりを求めた結果というとらえ方もできる。いうまでもなく、新しい「もう一つ」の社会のありようを展望することは積極的な意味をもっている。それは今も問われていることだ。
 しかしここで私は別の問題に思い至る。「代替案を出さなければ」という思考への傾斜は、市民運動に反政府性・反権力性を失わせる効果をもたらすことになった面がありはしないか。その結果、反対を反対と言い続けることなく、政府が打ち出す代替案にフワッと乗りやすい体質が生まれたのではなかったか。
 民主的な社会における市民のありようの基本は、何より〈国家・対・一市民〉という緊張関係を強く意識することであり、そういう市民が政府を監視し、政府のふるまいを徹底して批判することなくして民主的な政治は成り立たない。政治権力が成立した瞬間から利権構造と化し始め腐敗が始まることは法則のようなものだ。そのような「法則」の貫徹を許さない力は「国民の不断の努力」からしか生まれない。「国民の不断の努力」こそ民主的な政治の源泉である。
 イラク反戦が盛り上がっていた頃、反戦デモに参加した若者が「私たちは反政府じゃありません」と強い調子で語るのを聞いたが、米英軍によるイラク先制攻撃とそれを無条件に支持する小泉政権に抗議しながら反政府ではないと言うのは、自らの反戦の意思表示が反政府的と思われることを避けたいと思ってのことだっただろうか。

 1996年4月12日、橋本首相とモンデール駐日米国大使の会談が行なわれ、沖縄の米海兵隊普天間飛行場(基地)返還の合意が成った。会談後の共同記者会見での橋本首相の発言はこうだ。
 「普天間飛行場は、今後、5年ないし7年ぐらいに、全面返還されることになります。即ち、普天間飛行場が現に果たしている非常に重要なその能力と機能を維持していかなければならない。そのためには、沖縄に現在、既に存在している米軍基地の中に新たにヘリポートを建設する。同時に、嘉手納飛行場に追加的な施設を整備し、現在の普天間飛行場の一部の機能を移し替え、統合する。また、普天間飛行場に配備されている空中給油機10数機を岩国飛行場に移し替える。同時に、岩国飛行場からは、ほぼ同数のハリアーという戦闘機、垂直離着陸の戦闘機です。騒音で非常に問題の多いと言われています。このハリアー戦闘機をアメリカ本国に移す。」
 「沖縄に現在、既に存在している米軍基地の中に(!─引用者)新たにヘリポートを建設する。同時に、嘉手納飛行場に追加的な施設を整備し、現在の普天間飛行場の一部の機能を移し替え、統合する」という発言は、今となっては非常に〈新鮮に〉響くのではあるまいか。この在沖米軍基地内ヘリポート建設・一部機能嘉手納統合・ハリアー米本土移転が、いつのまにか、「普天間代替施設」という名の新基地建設に取って代わり、現在「米軍再編」問題で焦点になっているのは、「普天間代替施設」の県内移設か県外移設ないし国外移設かの選択である。
 だが沖縄の人びとが求めてきたのは普天間基地の即時閉鎖・全面返還である。橋本首相の公約を「海上施設」建設にすり替えたのは、1996年12月2日に日米安全保障協議委員会で合意されたSACO(沖縄に関する特別行動委員会)最終報告である。同報告は海上施設案を「最善の選択」とした。普天間代替施設建設をめぐるその後の経過はここでは記さない。本稿の論旨との関連では、そもそも代替施設案は「沖縄の人びとが求めたものではない」ことを確認すれば十分だが、次のことは言っておきたい。
 岡田・クリントン会談(2009年9月22日・日本時間)で岡田外相は「今後30年、50年と、より深みのある持続可能な日米関係を構築したい」と語った。冗談ではない。現在の日米関係は安保条約を基軸とする軍事同盟関係である。そんな体制を「今後30年、50年」も維持することを許すわけにはいかない。岡田外相発言はまことに卑屈な「主体的対米従属」宣言である。これまでに民主党幹部が表明した「米軍再編」にかかわる公約は私たちの力を結集して守らせねばならない。それらの発言を念のため、いくつか再録しておく。

 鳩山由紀夫現首相 「(普天間の移設問題で)県民の気持ちが一つなら『最低でも県外』の方向で行動したい」(09年7月20日、沖縄市の集会で)
 岡田克也現外相  「『普天間』の県外、国外への移設実現を目指し、政治生命を賭けて交渉したい」(05年8月25日、日本外国特派員協会で講演)
 前原誠司現沖縄担当相 「海兵隊はいろんなプロセスを踏んで最終的に国外に持っていく」(05年4月、沖縄タイムスのインタビューで)

 鳩山政権は来年1月で海上自衛隊によるインド洋での洋上給油活動を終了すると言明している。岡田外相が訪米した際、クリントン米国務長官は給油打ち切りについて「日米関係は、一つの問題で定義づけられるようなものではない」とのべて一定の理解を示したとされる。だが同時に岡田訪米の直前、米国政府は日本政府に給油をやめるならアフガン問題にどう対応するのかと代替案を求め、それに対し岡田外相は「お金」での人道支援をほのめかした。
 これもおかしな話だ。もともと海自の洋上給油はブッシュ前大統領にひたすらシッポを振る小泉元首相が強引に始めたことだ。それは米軍によるアフガン侵略を支援することであり、アフガンの民衆に敵対し、同国の復興を遅らせることに「貢献」している。だから、給油活動は今すぐにでもやめるべきであり、代替案など考える必要はない。
 アフガニスタンを「主戦場にする」と公約して大統領になったバラク・オバマはアフガンで早くものっぴきならない状況に追い込まれている。アフガンが「オバマのベトナム」であることはもはや多言を要しない。最近の世論調査では58%の米国民がアフガン介入に反対しているから、増派もままならない。しかし米国政府はベトナムで無惨に敗退した事実に向き合おうとしないから、軍事介入を強化することで敗北の条件を蓄積する愚を重ねる可能性は十分ある。
 しかしむろん解決策はある。ただちに撤兵すればいいのだ。アフガンはアフガンの人びとに任せるべきである。カルザイ傀儡(カイライ)政権の腐敗ぶりは同政権を操る米国政府自身が厳しく批判しているほどであり、日本を含む諸外国の復興支援資金は政権幹部のふところに転がり込んでいる。現在の国際的支援は傀儡政権の「復興利権構造」をうるおすのみである。その構造の転換は米軍とNATO主導のISAF(国際治安支援部隊)が全面撤退することによってしか実現しない。欧米諸国がアフガンへの政治的・軍事的介入をやめ、アフガンの人びとが民主的な政府を立ち上げたとき初めて、復興支援が活きてくる。そのとき、中村哲氏ら「ペシャワール会」の活動は、民衆の主体性に基づくアフガン社会再建の道筋を照らすものとなるにちがいない。

 政府の政策に反対であれば反対と主張し続ければいい。賛成できないことはどこまでも反対なのだ。「反対、反対じゃだめ」ということはない。「だめなものはだめ」なのだ。代替案を出せないと市民運動にならないということもない。原発建設に反対する住民運動が立地の代替案を考えねばならない理由があるだろうか。
 ベトナムでの米軍の敗北は何よりベトナム人民の奮闘によるが、それに連帯する国際的な反戦世論も大いに力になった。しかし世界の反戦世論は、米軍がベトナムから即時撤退することを要求したのであり、米国政府に「ベトナム問題」解決の代替策を示したのではない。

★★ 友愛精神で歴史の精算を!★★

2009年09月18日 | 読者会定例会
♪♪♪ 祝・自公崩壊 ……
「今日が歴史の転換点」

 いよいよ民主党・鳩山政権が誕生した。“政権交代”を成した鳩山民主党が謳う「本当の意味で国民主権の国に」に期待するところも大きい。が同時に多くの疑念もぬぐいがたく存在するのも事実。八ツ場ダム中止、高速道路無料化からアニメの殿堂・暫定税率…と、マニフェストや政策集に掲げる問題についていち早い動きが報じられているが、政権立ち上げ、権力移行にともなう初期トラブルはまだこれからであり、メディアが振りまく話題性にとらわれずしっかりと見てゆかねばならない。しばらくは目が離せない。

 今、鳩山政権スタートに当たって改めて注目したいのは“友愛”の意味。

 野党時代に揶揄されながらも口にした「友愛」と、首相になってあえて言う友愛は意味が全く違う。同じ友愛でも世界が注目する中で一国の総理が口にすればそれは、国家運営の理念、政治哲学となるのだから。

 永きにわたる自民、自公政権が進め、小泉・竹中の新自由主義政策がとどめを刺した“従米属国”路線(参考)から足を洗いたいということなのか、オバマのアメリカと対等なパートナーをめざすといい、同時に東アジア共同体をいい、アジア連携に今後の道をもとめる鳩山新政府にはまず、この国が60年間先送りにしてきた《歴史の精算》問題を真剣に考え取り組んでほしい。

 そこには、いまさら見たくない事実(参照:なかったシリーズ)があるかもしれない。しかし自国の負の歴史を正視できない国に未来はないことを自覚すべきであり、友愛精神をもって立ち向かうべきは「特異な改憲論を基盤として改憲をめざす『新憲法制定議員同盟』(中曽根康弘会長)」の顧問などに収まり続けることではない。しっかりと目をみ開いてこの国の負の歴史を精算することなのだ。

   「鳩山由紀夫民主党代表に新憲法制定議員同盟『顧問』の辞職要請」

(練金術師)

練馬読者会9月例会

  日  時:2009年9月26日(土) 18時から
  会  場:喫茶ノウ゛ェル(西武池袋線大泉学園駅北口駅前)
  会  費:喫茶代
  問合わせ:nerikinjyutu@mail.goo.ne.jp
       または03-3925-6039 近藤まで。


●総選挙後初の例会となるので、じっくり話せるように開始時刻を早めに設定しました。
●7月例会の記事について、当日発言者の依頼により、一部訂正しました。

◆ 反戦の視点・その87 ◆

2009年09月12日 | 練馬の里から
   「戦没者は戦後の平和と安定(繁栄)の礎(いしずえ)」ではない
                                    井上澄夫
 去る8月30日に行なわれた衆院選の少し前、こういうニュースが流れたことを記憶している人は少なくないだろう。

 〈民主党の鳩山由紀夫代表は8月12日、靖国神社に代わる無宗教の国立戦没者追悼施設について、党本部で記者団に「取り組みを進めるという思いで考えていきたい」と述べ、建設に前向きな考えを示した。鳩山氏は靖国神社参拝について「A級戦犯が合祀(ごうし)されており、首相や閣僚が参拝することは好ましくない」と改めて表明。その上で「どなたもわだかまりなく戦没者の追悼ができるような国立追悼施設に取り組んでいきたい」と明言した。さらに、「天皇陛下も靖国神社には参拝されず、大変つらい思いでおられる」と指摘し、「陛下が心安らかにお参りに行かれるような施設が好ましい」と語った。〉        (2009年8月12日付『毎日新聞』)

 この鳩山発言を公明、社民、共産の各党とほとんどのマスメディアが支持し、さらに中国や韓国でも好感されたことにはここでは詳しく触れない。国立追悼施設設立を衆院選の争点にすべきという論調も浮上したが、民主党はそうしなかった。しかし発言が総じて支持されたという事実は、鳩山連立政権(本稿執筆時はまだ成立していない。9月16日に特別国会で首相が指名される予定)でいずれ国立追悼施設設立が政策課題として取り上げられるだろうことを予感させる。
 
 しかし、本稿で考えたいのは、国立追悼施設設立推進の根拠になっている次のレトリック(修辞法)である。
 「今日の日本の平和と安定は、戦争によって、命を落とされた方々の尊い犠牲(中略)の上に築かれています。」(2009年8月15日の全国戦没者追悼式〔東京・日本武道館〕における麻生首相の式辞)
 このレトリックは例年夏の全国戦没者追悼式ばかりではなく、さまざまな戦没者追悼の際、たびたび繰り返され、すでに一種の決まり文句になっている。たとえば、2003年7月16日に民主党次の内閣がまとめた「新しい国立追悼施設の設立について」はこう記している。
 〈第2次大戦後60年近く経過し、戦争体験は風化しつつあるが、今日の日本における平和な生活は、これらの戦争による死没者の犠牲の上に成り立っている。〉
 麻生首相の言い方と民主党の表現は多少ちがうが、まずは同工異曲であり、要するに「戦没者は戦後の平和と安定(繁栄)の礎(いしずえ)」ということだ。〈戦争と平和〉のパラダイムで、戦没者の死の意味はこのステレオタイプにはめ込まれている。これを踏まえて展開される主張は、先の民主党の文書ではこうなる。
 〈国が関った戦争で、官民を問わず多数の尊い生命が失われたことが事実である以上、これらの死没者に、国民を代表する立場にある者(天皇陛下や内閣総理大臣、閣僚など)が、公式に追悼の意を表し、非戦平和を誓うことの出来る国家施設を持つことは、海外の例を見るまでもなく、当然の要請である。〉
 ここまで強い調子でなくても、「国のために尊い命を犠牲にした人々の追悼のあり方について、改めて国民的な議論を深め、結論を導き出す時期に来ているのではないだろうか」(2009年8月15日付『読売新聞』社説)というような論調は多数見受けられる。問題の焦点は「国による戦没者追悼のありよう」ということだ。

 国立追悼施設が必要であるという主張の根拠は「過去の戦争の犠牲者は今日の平和と安定(繁栄)の礎である」ことであり、だから「国のために命を失った人びとを国が追悼することが必要である」あるいは「国は国として責任をもって追悼すべきである」とされる。 しかし本当に「戦没者は戦後の平和と繁栄の礎」であるのか。もしこのレトリックが誤りであるなら、必要論の根拠は崩壊する。

 『地獄の日本兵─ニューギニア戦線の真相─』(新潮新書)の著者、飯田進さんは同書の「おわりに」でこうのべている。

 〈戦後、とりわけバブル景気華やかだったころ、数多くの戦友会によって頻繁に行われた慰霊祭の祭文に、不思議に共通していた言葉がありました。
 「あなた方の尊い犠牲の上に、今日の経済的繁栄があります。どうか安らかにお眠りください」
 飢え死にした兵士たちのどこに、経済的繁栄を築く要因があったのでしょうか。怒り狂った死者たちの叫び声が、聞こえて来るようです。そんな理由付けは、生き残ったものを慰める役割を果たしても、反省へはつながりません。逆に正当化に資するだけです。実際、そうなってしまいした。
 なぜあれだけ夥(おびただ)しい兵士たちが、戦場に上陸するやいなや補給を絶たれ、飢え死にしなければならなかったのか、その事実こそが検証されねばならなかったのです。〉

 人の死はそれぞれその人固有のもので、戦死もどれ一つとして同じものではないはずだ。飯田さんの「飢え死にした兵士たちのどこに、経済的繁栄を築く要因があったのでしょうか」という血を吐くような言葉は、まさに真実をえぐり出している。
 藤原彰著『餓死(うえじに)した英霊たち』(青木書店)から引用する。
 〈アジア太平洋戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行為による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。
 栄養学者によれば、飢餓には、食物をまったく摂取しないで起こる完全飢餓と、栄養の不足または失調による不完全飢餓があるとされている。この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給の途絶、現地で採取できる食物の不足から、膨大な不完全飢餓を発生させたことである。そして完全飢餓によって起こる飢餓だけでなく、不完全飢餓による栄養失調のために体力を消耗して病気に対する抵抗力をなくし、マラリア、アミーバ赤痢、デング熱その他による多数の病死者を出した。この栄養失調に基づく病死者も、広い意味で餓死といえる。そしてこの戦病死者の数が、戦死者や戦傷死者の数を上回っているのである。/各戦場別に推計した病死者、戦地栄養失調症による広い意味での餓死者は、合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万1000名の60%という割合になる。〉

 ニューギニアやガダルカナルなどで飢え死にした兵士を含め、戦没者は「戦後の平和と安定(繁栄)のために」死んだのではない。天皇裕仁の命令によって、殺し・殺され、あるいはただ殺されていったのだ。大本営(天皇直属の統帥部)による兵站(へいたん)軽視の無謀な作戦指導によって、糧食を絶たれ、飢えてジャングルの土になり、制海権と制空権を奪われても沖縄での戦闘を「之が最后の決戦」(『昭和天皇独白録』、文春文庫)とする愚かな「聖慮」(後注参照)のせいで原爆や空襲で焼き殺されたのである。
 ※ 1945年2月、元首相の近衛文麿は天皇裕仁に、このままでは敗戦必至として「一日モ速(スミヤカ)ニ戦争終結ヲ講スヘキ」と上奏した。しかし裕仁は「もう一度戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」として近衛の進言を拒否した。だが、その時点で戦争を終結していれば、東京大空襲とそれに続く全国各地への空襲や艦砲射撃も、凄惨を極めた沖縄戦も、広島と長崎への原爆投下も、ソ連の参戦もなかったのである。しかも戦後の1947年9月、天皇裕仁は側近の寺崎英成を通じてGHQに「アメリカが、日本に主権を残し租借する形式で、25年ないし50年、あるいはそれ以上、沖縄を支配することは、アメリカの利益になるのみならず日本の利益にもなる」というメッセージを伝えて沖縄を米国に売り渡した。

 ところで、戦没者を「戦後の平和と安定(繁栄)の礎」と位置づける心理的動機はいろいろある。戦争で生き残った者が戦没者に後ろめたさを感じて、ということもある。無惨な死を直視できず、精神のバランスを保とうとするため、ということもあろう。あるいは、無念の思いを噛みしめつつ死んでいっただろう戦死者の霊が自分(たち)に祟(たた)らないようにしたい、ということもあるにちがいない。
 戦没者の死を「戦後の平和と安定(繁栄)」に結びつけるのは、彼ら・彼女らの死にプラスの価値を与えることだ。それらの死の〈おかげで〉「戦後の平和と安定(繁栄)」がもたらされたのだから、決して犬死にではなかった、無意味な死ではなかったと、死者たちに言いたいのだ。だが実は、そうやって戦死を美化し称賛する生者たちは、そうすることで自分自身の精神の安定を得たいのである。
 「犬死に」という言葉を聞くと激昂する者たちがいる。それは、一見、戦没者への熱い思いに基づく人間的な反応のようにみえる。英霊を侮辱するな、というわけだ。しかし多くの場合、その種の反応は、天皇のために死ぬことを至上の価値とすることや「大東亜戦争の崇高なる戦争目的」を丸ごと信奉することから生まれる。要するにそういう時代錯誤の化石的な狂信に取り憑(つ)かれている自分が批判されたと思って憤激するにすぎない。

 しかし、「戦没者は戦後の平和と繁栄の礎」というこのレトリックによる最大の受益者は、いうまでもなく、日本の支配層である。なぜならこの常套句は戦争責任の追及を封じ込める役割を果たすからである。無数の戦没者の死が「戦後の平和と安定(繁栄)の礎」となったのなら、それは美談であり、そこからは誰がそれら無数の死をもたらしたのかという問題意識は出てきようがない。戦争責任の追及は封印されてしまうのである。
政府は毎年「終戦記念日」に全国戦没者追悼式を挙行する。それは追悼と銘打ってはいるが、実は「戦後の平和と繁栄」をもたらしてくれた戦没者に感謝するためで、儀式の本質は戦没者の慰霊と鎮魂である。厚生労働省社会・援護局の「全国戦没者追悼式について」(2004年8月)によれば式次第はこうである。
  開式の辞   厚生労働副大臣
  天皇皇后両陛下御臨場
  国歌斉唱
  式辞 内閣総理大臣
  黙とう
  天皇陛下のおことば
  追悼の辞 衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官、戦没者遺族代表(1名)
  天皇皇后両陛下御退場
  献花(この間奏楽) 内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官、各政党代表など
  閉式の辞 厚生労働審議官
 「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱に天皇と皇后が頭(こうべ)を垂れることが式典のクライマックスだが、この儀式は天皇と皇后の拝礼によって戦没者たちの魂が慰められ鎮(しず)まるという物語が共有されることで成り立つ。しかし、国がどれほど盛大な追悼式をやろうと、それは死者たちには何の関係もない。彼ら・彼女らは存在せず、もはや決して語ることはないのだ。

 「戦没者は戦後の平和と安定(繁栄)の礎」というレトリックは虚構(フィクション)である。海外派兵をしている日本が平和であると筆者は思わないが、仮に平和が維持され、社会が安定しているとしても、それは生きている者たちの努力によってそうなっているのであって、戦没者のおかげではない。
 しかし、それにもかかわらず、国立追悼施設がいま問題になるのは、一つには、中国や韓国などから閣僚の参拝が批判を浴びている靖国神社のA級戦犯合祀問題を回避して、問題を安直に処理したいからである。要するに、靖国神社は宗教法人(施設)だが、新たな国立追悼施設を無宗教の施設とするなら、誰でもわだかまりなく訪れることができる、天皇や閣僚、外国の国賓・高官も例外ではないというわけだ。
 もう一つは海外で自衛隊員が戦没する可能性があるからである。自衛隊は戦力ではないというタテマエで自衛隊員の死は戦没ではなく殉職であるといくら強弁しようと、交戦で死ねばまぎれもなく戦没・戦死である。その「新たな戦没者(殉職者)」を国家が厚く遇することがないなら、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に努める」(自衛隊法52条「服務の本質」)よう、隊員の士気を鼓舞することができないと防衛省・自衛隊は考えている。イラク派兵の前に陸上自衛隊は殉職者を靖国神社に祀ることができないかどうかを検討したが、憲法の政教分離原則があるため断念した。それゆえ、戦争法制の整備が次々に強行される中で、戦没(殉職)自衛隊員の追悼のありよう(霊の扱い)は定まっていない。だから国立追悼施設が必要とされるのである。
 (2009年9月11日記)

【付記】鳩山連立政権の下で国立追悼施設設立がいつ政治日程に乗せられるかはわからない。しかし遅かれ早かれ設立構想は浮上すると思われる。本稿はその事態に備えて設けた入口である。今後も批判を続けたい。