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【cinema】『ハンサム★スーツ』(試写会)

2008-10-27 01:19:16 | cinema
'08.10.20 『ハンサム★スーツ』(試写会)@ニッショーホール

バカ映画の予感がしてyaplog試写会に応募。当選した。

「定食屋を営む大木琢郎。料理の腕は良く、心優しい好青年。だけどブサイク。33年間女性にフラレてばかり。バイト募集に応募してきた寛子。美人で性格の良い寛子は琢郎にも優しく接してくれる。彼女に恋した琢郎は告白するもフラレてしまう。失意の琢郎は着るだけでハンサムになれるハンサム・スーツを手に入れるが・・・」という話。う~ん。これは・・・。試写会に招待していただいておきながら心苦しいのだけど、正直あまり・・・。ストーリー自体は王道でオチも想像がつくし、意外な事実も上映後「心にしまっておいてほしいこと」というチラシを頂いたけれど、すぐに分かってしまった。何より笑わせようとしているシーンが、ほとんど笑えなかった。もちろん笑えるところもあったのだけど、中条きよしが「すいませんハンサムで」と言ったり、温水洋一が出てくるところとか(笑) でも、それって2人のキャラというか、ぬっくんはある意味出オチだし。その辺りの事もふまえて書かれた脚本なのであれば、それはスゴイと言えるのでしょうが・・・。まぁ、笑っている人もいたので、私が合わないだけかもしれないけれど。

見てみたいと思った理由は、塚地がハンサム・スーツを着て谷原章介になるという発想がおもしろかったから。正確には"谷原章介"という人選が絶妙だなと思ったから。谷原章介って確かにハンサムであって、イケメンではない。なんとも昭和な香り。見ている側に「ハンサム・スーツを着たのに谷原章介なんだ(笑)」と思わせる感じはいいかなと。ってスゴイ失礼かな? その辺りの感じは生かされていて、無敵のハンサム光山杏仁はモデルとして大成功するけど、中身は琢郎なので三枚目キャラなことに説得力があるのは谷原章介だからだと思う。ホメればホメるほど落としてる気がする・・・。ごめんなさい

人は見た目で判断されてしまうのか?とか、見た目しか重要じゃないのか?ってことがテーマで、もちろんそんなことはないのは確か。でも琢郎が「ブサイクというだけで自分の中身なんか知ろうともしてもらえない」と言うのも、美人アルバイトの寛子が「自分の外見ばかり好きになって中身を見てもらえない」というのも、まぁ真理ではあると思う。"本当の自分"なんて自分だって良く分からないし、まして相手の事なんて知ろうと思わなければムリだし。しかも相手が見せてくれなければ、見れるものでもない。相手の事を知ろうと思うのは、その人の事が気になって知りたいと思うから。それには第一印象が大切になる。だけどそれはブサイクだからでも、美人だからでもないとは思うけれど・・・。

確かに生まれついての美醜というのはあるかもしれない。だけど、それも人の価値観だし、人間の価値はそれだけではない。個人的には「30過ぎたら自分の顔に責任を持て」という言葉が好き。自分の顔は自分が作り上げるということ。オリンピックのメダリスト達は全員が美男美女というわけではないけれど、皆いい顔をしている。それは切磋琢磨して自分を鍛え、目標を達成したから。それはフツーのOLにだって言えること。いい顔している人のことは気になるハズ。琢郎はいい顔していたからこそ、友人がたくさんいるのだけど、それには気づかない。女性にモテないのは、女性に対する時自信が持てないからかも。もちろん自分に自信なんてなかなか持てないし、1人よがりの自信満々な人なんて魅力的じゃないけれど。その辺りをもう少し掘り下げて欲しい気はするけれど、伝わってこないことはない。

琢郎は光山杏仁となって超売れっ子モデルになるけれど、杏仁でいる時のモテモテぶりや、琢郎の時のこてんぱんぶりは少しやり過ぎではあるし、そこで笑いを取ろうとしているのであれば、空回りしている感じもする。でも、琢郎が最後に"本当に大切なもの"に気づくためには、こういう対比は有効だとは思うけれど。琢郎が大切なものに気づく重要人物として、本江という人が出てくる。森三中の大島が演じている事でも分かるとおり容姿には恵まれていない。でも持ち前の明るさと、気立ての良さで店の常連客や琢郎の心を掴んでいく。"人は見た目じゃない"という事の象徴は琢郎よりもむしろ本江の方。本江はもう嫌味なくらいいい人(笑) でもイヤじゃないのは大島によるものかも。さすが脚本の鈴木おさむはダンナだけあって彼女の個性を生かしている。

俳優さんたちは全体的には可もなく不可もなくという感じ。正直、本上まなみの演技が気になったけれど、役柄的にも好きではなかったので仕方ないかも。谷原章介は頑張っていたと思う。この役すごく損だと思うし。今さらショーのクライマックスで大スピーチする年齢でもないと思うし(笑) キャラありきの気はするけれど、塚地は良かったと思う。

いろいろ書いてきたけれど、正直そんなに深々と考える映画ではないのだと思う。何度も書いているけれど「人は見た目?」というテーマはあるけれど、やりたかったのはコメディーなんだと思う。でも、それがあまり笑えなかったのが残念。でも、それはあくまで私の意見。お笑いが好きだから、笑いに関してはハードル高いので(笑) それにこれ結局は一周回って"見た目"ってことになってる気が・・・。まぁ、もういいか(笑) あまりいろい考えずに笑える作品が見たいという人にはいいかもしれない。

試写会前に"My Revolution"がイヤというほどかかっていたけど、テーマソングだったらしい(苦笑) エンドロール後におまけ映像もありです。


『ハンサム★スーツ』Official site


こんなのあった

ハンサム・スーツ(写真提供baru)

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【cinema】『行け行け! インド』

2008-10-27 01:07:00 | cinema
'08.10.19 『行け行け! インド』@TOHOシネマズ六本木ヒルズ

10/18から開催中の第21回東京国際映画祭アジア部門招待作品。baruからのお誘い。baruのお友達でインド映画大好きなKちゃんと3人で鑑賞。

「ホッケー・インド代表チーム主将だったカビール。彼のPKが外れ宿敵パキスタンに敗戦。試合後、相手選手と握手を交わしている写真が報道され、彼が八百長をしたのではないかと誤解され、ホッケー界から追放されてしまう。7年後、協会でさえお飾りと考え、勝利を期待されていない女子ホッケー・チームのコーチに就任するが・・・」という話で、これはスポ根もの。恋愛シーンはほとんど出てこない。なので歌わないし、踊らない。ストーリー展開もオチもほぼ読める王道。でも、そこはインド映画ゆえの大仰さや、インド独特の習慣などと相まって、とっても楽しめる作品になっていた。そもそも王道なのって悪いわけじゃないし、分かりやすくおもしろいからこそ王道なのだし。

とにかく、驚いたことには選手達は皆サリーなど着ていない。もちろん練習シーンや試合シーンではユニフォーム姿なのは当然だけど、世界大会のパーティーでイヤイヤ着たくらい。そして皆意外に露出が多くて細い。インド美人といえばムチムチ・ボディに色鮮やかなサリーをまとい、バッチリメイクをほどこした印象。まぁ、アイラインはほぼ皆バッチリだったけど(笑) それにしても、こちらがドキドキしてしまうほどのミニスカート姿でのプレー。まぁ、日本人や欧米人にとっては普通だけど。でも、それだけに禁断のものを見てしまったような気になって、ちょっと男子の気持ちが分かったりする(笑) よく分からないけれど、その辺りは少しゆるくなっているのかもしれない。

ストーリー的にはホントにお約束どおり。チームのためにあえて憎まれ役となる鬼コーチ。反発する選手。ただ1人コーチを理解し慕う選手(ただし恋愛はなし) 選手同士の軋轢。そして全てを乗り越えた先には・・・。問題自体もオチも想像通り。なのでこれはストーリーそのものよりも、これがインドの映画であることを楽しむべき。上映後、監督によるティーチ・インが行われた。通訳のミシェルさんの日本語が流暢すぎてビックリしたのは余談だけど、楽しかった。客席からの質問に丁寧に答えてくれた。日本人としてはあまり理解しにくいのだけど、インドには"州"という意識が強いらしく、選手達も"国"を代表する以前に"州"の代表として参加したという感覚らしい。選手達の軋轢もそんなところから来ている部分がある。冒頭コーチのカビールが相手選手と握手したシーンが問題となることも、これは相手がパキスタンである事が問題なのだそう。たしか、インドとパキスタンは元は同じ国だったはず。後に分裂し、両国の間のわだかまりは残されたまま。握手を求めてきた選手も、応じたカビールもスポーツマンとして立派な態度だと思うけれど、国のそういう事情がカビールを裏切り者としてしまう感じは怖い。ただ、これは褒めているのだけど、そんな悲劇的なシーンでさえインド・テイストだと重すぎず入ってくるのがいい。すごく悩んでいるのに、どこか「きっと大丈夫だろう」と思わせるインド人気質みたいな・・・。上手く言えないけど。

女性はやはり少し差別的な扱いのよう。でも『オフサイド・ガールズ』のように法や宗教的な拘束力のものではないようだ。前にも書いたけれど、服装に制限があるわけでも、男性の試合を女性が見てはいけないという事もない。世界大会出場を賭けたとはいえ男子チームと試合もしている。おそらく以前はもっと厳しかったのだろうし、今でも地方によっては習慣として残っているところもあるのだろうとは思うけれど、少なくともこの映画ではそういう表面的なものは無くなっている。ただ、古い考え方に縛られた人達はやはり多いようで「女に何ができる」という差別となっている。とういうことは差別自体に明確な根拠があるわけではないらしい。昔からの固定観念が拭い去れていないという感じ。でも、アメリカだって結局は女性大統領の誕生は見送られた事を考えると、未だに「女に何ができる」と思っている人は多いのかも。まぁ、個人的には面と向かってそんな事を言われたら、腹立たしくも思うだろうけれど、出来ると主張するものもないし、あんまり頑張るのも疲れるし・・・。こんな考えの人がいるからダメなのかもしれないけど(笑) でも、州代表チームの主将やスター選手には、それなりのプライドがある。だから彼女達がコーチに素直になれない気持ちも分かる。

監督がこの映画を撮ろう思ったきっかけは、実際に世界大会で優勝した女子ホッケー・チームを扱った記事がとても小さかった事に違和感があったからだそう。ミッシェルさんの通訳によると「こんなに小さいのかよ!」と思ったとのこと(笑) 余談ですが。そこに疑問を持ったのは、映画の題材としておもしろいと思った側面もあるとは思うけれど、少なくとも監督は「女に何が出来る」とは思っていないのでしょう。だから、ケンカっ早かったり、プライドが高すぎたり、地方出身過ぎて言葉が通じなかったりと、個性的な選手達のおかげでなかなかまとまらないチームの、それらは1つ1つ解決していくのに、FWのプリティとコーマルの意地の張り合いだけは未解決。コーマルはまだ少女という感じで、明らかに年上のプリティが大人になって譲り、丸く収まるのだろうと思っていたら、意外にも・・・。それはプリティが譲れない理由が「女に何が出来ると思っているある男を見返したいから」というものだったから。ある男というのは男子クリケット・チームの副主将で彼女の婚約者。なので一見個人的な感情に思うけれど、これはチーム全体が闘ってきた偏見でもある。だからコーマルも譲ったのだろう。このシーンは感動的。

この映画が描きたいのは女性に対する偏見と、パキスタンとの微妙な関係ゆえスポーツマンシップでさえ歪めて捉えてしまう人々の偏見なのだろうと思う。偏見をなくすには結果を出す事が必要なのだということ。それは別にインド代表チームにいなくても、フツーのOLにも言えること。そんな視点もあったのかというような驚きはないものの、やっぱり王道ストーリーは感動するのだと思う。インド国内で大ヒットしたものの、海外ではインド・コミュニティーでしか上映されていないというこの作品。初めてインド系以外の人向けに上映されたのだそう。この映画祭以外で見られる機会があるのか不明だけれど、スポ根もののインド映画もなかなか良かった。ホッケー・シーンの迫力がすごくて映像もいい。インド的と思われる見所としては、

◆インドNo.1人気のシャー・ルク・カーン主演(ただし踊らず)
◆シャー・ルクが雨でびしょ濡れになりウルウル涙目に
◆マックで大乱闘するも全くお咎めなし(お別れランチがマックなのもツボ)
◆大乱闘後、シャー・ルクを先頭に行進、しかもスロー
◆スローを多用、そして大袈裟なアテレコ
◆バージョン違いで何度も大仰にかかる"Chakde! Indeia"(行け行け! インド)

あたりかと・・・。個人的にはシャー・ルクがかけてるティアドロップスが気になる!

というわけで、インド的要素を味わいつつ、ちょっぴり感動したりして楽しめた。歌って踊ってがないと・・・という人も楽しめると思う。歌って踊ってのシーンは、そもそもラブシーンが撮れないため、感情の高ぶりを歌い踊って表現していたはず。それを使わなくても表現できるようになったということもそうだろうし、恋愛はほとんどないし。でもインドらしい個性は出てた。

上映後のティーチ・インで丁寧に真剣に答えてくれたシミト・アミーン監督は穏やかなのに熱く燃えているタイプ。この映画もそんな映画だった。


東京国際映画祭『行け行け! インド』


シミト・アミーン監督(左)

ティーチ・イン中の監督

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【cinema】『BOY A』(試写会)

2008-10-22 01:39:37 | cinema
'08.10.17 『BOY A』(試写会)@シネカノン試写室

『グーグーだって猫である』を見に行った時、予告を見て気になった。シネトレさんからブロガー試写会のお知らせを頂き早速申し込み。見事当選した。

「ジャック・バリッジは少年時代ある犯罪を犯し更正施設に入所していた。24歳になった彼は名前や過去を変え社会に出る。真面目に働き、親友もでき、心から愛する女性にも巡り会えたのだが…」という話。これは重い。映画自体はわりと淡々と描いているけれど、題材自体が重過ぎて気軽に感想を書けそうにない。自分の中のあまり触れたくない部分にも触れることになる気がする。

事前に「彼の過去については明かさないように」と言われている。見る前はそんなの何となく分かってしまうだろうと思っていたけど、見終わってみてその真意が分かった。単にネタバレを怖れてのことではなかったのだ。衝撃を受けるのは"彼の過去"ではないから。これを書いてしまっていいのか悩むけれど、衝撃は全てを知った後、自分の中に沸き上がった感情とか、自問自答した時の答えに対して。この問題提起に対してはどんな回答も正解じゃない気がする。世の中全部に正解なんてあってないようなものだけれど、そういうのとも違う。

冒頭、出所するにあたりソーシャルワーカーのテリーと面会しているシーンから始まる。名前や過去を変えて別人として新たな門出を祝ってテリーからスニーカーを貰うジャック。何て言えばいいのか分からないと戸惑う彼に「ありがとうと言えばいい」と答えるテリー。はにかみながらお礼を言った後、意を決したように立ち上がり、テリーを不器用にハグするジャック。このシーンがジャックとなった青年を物語っている。素直だけれど、感情表現が下手、思慮深いが故に答えを出すのに時間がかかる、そして繊細で傷つきやすい。だから人に受け入れてもらえるのか不安で、自分から踏み出すことを怖れている。と書くとたいていの人が1つや2つは自分に当てはまることはある気がする。そして、それは決して悪いことではない。そもそも人間なんて欠点があって当たり前なのだから、仮にジャックのそういう部分が欠点であったとしても、彼を責めたり嫌ったりするのはおかしい。だけど、相手もまた欠点を抱えた人間であるが故、彼のこういう性質がいじめの対象になってしまうかもしれないと思ったりする。と同時に彼が長い間、隔離された状態にあったことがその会話から伝わってくる。

地方の都市で下宿をし、運送会社で働き始める。素直で真面目に働くジャックは職場でも受け入れられ、親友もできる。事務係のミシェルという恋人もできた。そんなジャックの日常と、事件を起こしたと思われる少年の頃の映像が交互に描かれる。あまり詳しく語られないけど末期ガンで病床にある母親に甘えたくても甘えられず、学校の勉強にも身が入らないジャックは教師からもダメな生徒として扱われているよう。誰も彼の声に耳を傾けようとしていない。まして感情表現の下手な、もしくは感情を抑えることに慣れてしまった彼の心まで見ようとしている人などいないようだ。本当は親なり、教師なりがケアしてあげなければならない問題だと思うけれど、残念ながら皆が親や教師に向いているわけではない。彼に初めて自分から近づいて来てくれたフィリップ。彼もまた辛い日常を生きている。自分を守るためにフィリップは攻撃的になっている。そんな彼にジャックは強さを見たのかもしれない。でも、それは強さではない。

ジャックの運命を変えたのは3人。フィリップとソーシャルワーカーのテリー、そしてジャック本人。テリーは愛情と自信に満ちた態度でジャックを導く。ジャックも彼を信頼している。でも、テリーは家庭に問題を抱えている。離婚した妻が引き取った息子は、自身も結婚に失敗し行き場を失くしテリーの元に転がり込み、引きこもり状態。彼が熱心にジャックの力になろうとしているのは、もちろんジャックへの愛情もあるけれど"仕事"にやりがいを感じているから。それが彼の存在証明でもある。だから仕事というフィルターを通さない実の息子との関係は上手く結べない。だからこそ余計ジャックの指導に熱が入ってるのかもしれない。テリーは直接的にジャックの運命を好転させ、間接的に突き落とすことになる。

テリー役のピーター・ミュランがいい。ジャックに対しては言える優しい言葉や厳しい助言も、実の息子に対しては言えない感じがいい。ジャックに対しては仕事フィルターを通して少し自分を演出できるけど、素の自分として対峙することに戸惑いと畏れを感じているのが分かる。それはやっぱり息子に受け入れてほしいからだし、そしてそのことに自信がないから。だから"いい父親"を演じてしまう。でもそれは逃げ。彼の息子はダメだし、甘えるなと思うけれど、逃げられていることに対して苛立つ気持ちは分かる。もちろんテリーは偽善者ではないし、ダメな人でもない。彼がジャックに対してしたことは心からの事だと思うし、つかの間でも彼を救った事も事実。それだけに辛い。テリーに対して苛立ったりせず、そういうやるせなさを感じられたのはピーター・ミュランのおかげ。

ジャックのアンドリュー・ガーフィールドが素晴らしい。人生の半分を世の中から隔離されていたため、日常のあらゆる事に驚きと戸惑いを感じている。それはもちろんそうなので、そう演じるのは当然。でも、それだけではなくて"少年のままである"というのがスゴイ! 少年期を演じる少年とアンドリュー・ガーフィールドは似ていない。それは伏線ではあるのだけど、でもジャックはあの少年の頃のまま純粋で傷つきやすい人物である感じが伝わってくる。ミシェルとの初めての夜、普通の幸せに涙する姿は切ない。彼がミシェルに執着していくのは初めて感じる幸せであり、生きている実感だったからかも。そして、そののめり込み方も少年ぽさを表している。決断に時間がかかる感じに少しイラッとするけれど、それが重い過去を背負っているが故の慎重さだったり、彼の不幸の原因の一端であることを表現しているならば、それすら見事。ジャックは事件を起こしたけれど"悪"だったことは一度もない。いくら"生まれ変わった"とはいえ、元々"悪"だったのであれば、あれほど苦悩はしないだろう。だけど、ある一瞬、ある一線を越えた。その瞬間を彼と共に悔やんでしまう。それはアンドリュー・ガーフィールドの演技と、かれの繊細な佇まいによるもの。

映像が良かった。現在ジャックが暮らす街の暗い感じもいいし、少年時代のロンドン郊外の街がいい。石造りの古い住宅街には意外に自然が残っている。辛い現実を生きるジャックとフィリップが学校をサボって自然の中で遊ぶ気持ちは分かる。その遊びには少し危険信号が出てはいるけれど・・・。少年時代のシーンには大人はほとんど出てこない。出てきても顔は見せない。むしろ2人きりのシーンばかり。2人の孤独感が伝わる。実の父親の顔が映されないのは、彼が親に捨てられたことを表しているのだろうし、代わりにテリーのアップを多用しているのは、彼が父性を体現しているからかもしれない。対して、現在彼が暮らす街には人は大勢いるし顔も見えている。でも、みな無関心なので顔がないも同じ。ジャックが人との関わりを求めた時には得られず、触れて欲しくない時には踏み込まれるというのは何とも皮肉。

問題提起としてタブー視されるような題材を選び、あえて人の暗部を描いたことはすごいと思うけれど、正直この問いかけは辛い。もう少し逃げ道を作ってくれないと。こうして感想を書いているけれど、現段階でも問いかけに対する明確な答えは出せない。どんな答えも人として間違っている気がする。あの瞬間をなかったことにしたいのはジャックだけじゃない。彼の良い面だけを見ればやり直しをさせてあげたい気もするけれど、では自分がミシェルや友人クリスの立場だったら?と考えると・・・。難しい・・・。

ラスト、ジャックは海辺の街に辿り着く。保養地と思われる海に突き出たデッキを歩くジャックには背後の観覧車のある楽しげな風景も見えてはいない。このシーンは切ない。してしまった事の責任、罪のつぐない、人が生きていくことの現実・・・。いろいろ考えさせられた。ジャックが命を救った少女からの手紙が唯一の救い。それこそ彼がこの世に生まれてきた意味があったことの証。でも、彼が存在しなければ起きなかった悲劇もある。

身近に起こりうる題材。あの神戸の少年も世に出ている。どこかで彼を受入れている人達が日本にもいる。そう考えるとますます重い・・・。決して遠くの国の話ではない。だから辛い。手放しでオススメできるタイプの映画ではないけれど、淡々と描き出されたジャックの人生には考えさせられることは多い。少年のあの頃、たとえ彼を罵倒するのだとしても真剣に向き合ってくれる人がいたら、あんな事にはならなかったのかも。昨晩BSで放送されていたドキュメンタリーで、バレエ学校の老女性教師に罵倒されながらも、事件当時のジャックと同じ年頃の生徒達が、バレエを踊りたい一心で切磋琢磨している姿を見て、ますます考え込んでしまった。

なんだかまとまらなくて中途半端な感想になってしまった。でも、これが精一杯(涙)



(c)THE WEINSTEIN COMPANY ,FILMFOUR CUBA PICTURES

★11月、渋谷シネ・アミューズほか全国順次ロードショー

『BOY A』Official site

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【cinema / DVD】『オリヲン座からの招待状』

2008-10-13 00:52:30 | cinema / DVD
これは公開時気になっていた。加瀬亮は好き。

「17歳の留吉は松蔵とトヨが経営するオリヲン座へやって来る。映画が大好きだから働かせてくれという留吉に、初めは断るものの、あまりに必死な姿に住み込みとして雇うことにする。映写室に寝起きし、夫婦を立て仕事熱心な留吉に感心した2人は温かく接する。しかし、3人の幸せな日々は長くは続かず松蔵が亡くなってしまう。トヨと留吉はオリヲン座を再開するが・・・」という話。これは良かった。そしてこれは大人のお伽話。映写技師の師弟関係や、人々の憶測が人を追い詰める感じは、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』や『マレーナ』を思わせる。まぁ、後者はわりと普遍的なテーマではなるけれど。ストーリーとしては特に新しくはないけれど、多分昔の映画みたいな雰囲気の作品を作りたかったんだろうなと思った。

冒頭、年老いた留吉がオリヲン座閉館の案内状を書いているシーンから始まる。最終上映会への招待状に一言ずつ手描きでメッセージを添える留吉。その実直な人柄がうかがえる。招待状を書き終えた留吉は病院に向かう。病院内ですれ違う人にいちいち頭を下げて挨拶する姿が印象的。人柄を表すとともに長い間客商売をしてきた事が伝わる。ちょっとやり過ぎな気もしたけれど、若い頃の留吉に繋がった時自然だったのはこのシーンの効果もあったと思う。留吉から招待状を受け取った人の中には裕次と良枝の夫婦がいる。幼なじみの2人。夫婦関係は終わろうとしている。一緒にオリヲン座に行って欲しいと頼む妻に、夫は行けないと答える。妻は最近見た夢の話をする。子供だった自分がオリヲン座に行こうと急いでいるけど、どうしても辿り着けなかったという。夫の心は揺れる。話は松蔵とトヨ、留吉とトヨ、裕次と良枝を軸にして描かれる。もちろん本筋は留吉とトヨだけど、それぞれの関係が”夫婦”を描いている。

昭和32~39年の京都の小さな街が舞台。未見だけど大ヒットした映画『Always三丁目の夕日』などでも昭和30年代が舞台となっていて、貧しかったけれど人情があって、元気だった日本の風景が懐かしいと評判だった。生まれる前の事なので、懐かしいという感じはしないけれど、オリヲン座の感じとか、小さな街の感じとかはレトロでかわいらしい。正直、セット感がいなめないけれど・・・(笑) でも、オリヲン座の座席に白いカバーが掛けてあったり、柿の種(だと思われる)を量り売りしていたり、ガラスケースであんパンが売られていたり、暑い中うちわで扇ぎながら映画を見ている感じは何ともおおらか。まぁ、隣りで柿の種をポリポリ食べられたらちょっとイヤだけど(笑) 今とは映画を見るという意味合いも違っていたのだろうし・・・。その感じは『ニュー・シネマ・パラダイス』でも描かれていたけど、映画は庶民の娯楽の主役だった。それだけに少ないフィルムを別の映画館と交代でかけたり、それを留吉が自転車で運ぶのもおもしろい。道々会う人と挨拶を交わす。留吉がこの街の人になったことが微笑ましい。そういうほのぼのとした日常が松蔵の死で一変してしまう。

松蔵を亡くし途方に暮れる2人。オリヲン座を再開する決心をする。街の人も応援してくれるが、テレビ放送開始にともない客足は鈍る。仮装をしてのチラシ配りも効果はなく、ついに観客は0に・・・。ある日、留吉はその本当の理由を知る。人のこういう事ってホントにどうしょうもない。本来、松蔵は亡くなっているわけで、若い2人の間に愛情が芽生えたとしても決して悪いことじゃないハズ。法律上では。でも、人はある事ない事想像する生き物。人間だけ(かは知らないけど・・・)に与えられた想像力は芸術や文学を生み出し、他人を思いやれる気持ちを生むけれど、悪意に向かってしまうとタチが悪い。そして、こういう場合悪いのは「不倫している2人」であり、「裏切られた松蔵さん」という被害者を生み出すことで、2人を無視するのは当然で、むしろ正義であるという事になる。そして、そういう人の言葉に惑わされ噂を鵜呑みにし、自分も正義に加わろうとする人も出てくる。もちろん噂など信じない、もしくは真実だとしても問題ないじゃないかと思う人もいるだろうけど、そういう人達も人の目を気にして避けたりすることもある。そうやって意識のない悪意は広がってゆく。でも、その渦中にいると気づかないものなのかもしれないし、単純に大半の人にとって映画は娯楽の中心でなくなってしまっただけかも。その辺りは少し作り過ぎな気がしないでもないけれど、確かに若く美しい2人に対する妬みなんかはあるかも。そして全く的外れではないし。

松蔵が死んでしまう事と、2人が孤立していく事以外に特に大きな出来事はない。ストーリー的にも特に目新しくはないし、偶然自分達の事を話しているのを立ち聞きした留吉が、相手にトヨの事を悪く言うなとくってかかるシーンなどは少し古臭くもある。だからこれは俳優の演技で見せる映画。松蔵のぶっきらぼうな優しさも、トヨのたおやかな風情の中にある芯の強さも、そして留吉の純情もノスタルジア(笑) それらが適度にリアルで適度に作り物っぽい。それがいい。

宮沢りえはいい女優になったと思う。ハーフだけどこういうレトロな"日本の女性"がすごく合う。トヨは松蔵を愛していたと思うし、いつの頃からか留吉も愛したと思う。それは松蔵が生きていた頃にはすでに芽生えていた想いかもしれない。でも、きっと松蔵に対する気持ちとは少し違う。その感じがすごくいい。噂を気にして出て行くという留吉に、オリヲン座の客席でトヨが語るセリフがいい。このシーンの宮沢りえはすごくいい。トヨのいろんな想いが伝わってきた。初老となった留吉は原田芳雄。正直、加瀬亮が原田芳雄にはならないだろうと思っていた(笑) だけど、この原田芳雄がまた良くて、大人になった裕次と良枝に「よく来た」と何度も言うシーンやスピーチのシーンは、シャイでいつも一歩も二歩も引いていた加瀬亮の留吉のイメージとは少しギャップがあるものの、泣かされてしまい、いつの間にか留吉になっていた。

加瀬亮がいい。今まで見た出演作の中で一番いいと思う。こういう感じの役はピッタリだと思う。オリヲン座にやって来た時の設定は17歳。実年齢は30歳超。だけど17歳に見える。夜遅く映写機を回す練習をしている時のキラキラした感じが17歳に見える! 何なのこのキラキラ感という感じ(笑) この映画の中であのシーンが一番好き。留吉は常にトヨを立てている。その感じが切ない。内に秘めた想いが伝わってくる。だけど、それは身勝手な思いではない。だから切ない。そういう静かに燃えているみたいな人はすごく合ってる。そしてすごく好き(笑)

オリヲン座最後の上映作品は松蔵がかけたがっていた『無法松の一生』 検閲でズタズタにされても感動したという作品。この作品だろうなと思ったらやっぱり(笑) 上映前に留吉がスピーチする。その中で留吉はトヨのことを"つれあい"と表現する。2人が法律上夫婦になったのかは語られない。でも、この”つれあい”っていい言葉だと思った。不遇な時代を乗り越えて、好きな映画の仕事しか知らず、お互いを想い合ってつれ添った2人は、夫婦というより"つれあい"なんだと思う。そんな事を考えていたらボロボロ泣いていた(笑)

『無法松の一生』は見た事がないけれど、多分この映画はその頃の古き良き日本映画の感じをやりたいんだろうと思う。それは成功していると思う。そして、とってもノスタルジー。懐古的とかいうんじゃなくてノスタルジー。そういう作品。2人が初めて手をつなぐシーンが美しく感動的。


『オリヲン座からの招待状』Official site

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【cinema】『ブリュレ』(試写会)

2008-10-08 23:07:50 | cinema
'08.10.05 『ブリュレ』(試写会)@キネアティック

シネトレさんにて試写会当選。全く予備知識はなかったけれど、あらすじに惹かれたので応募した。

「東北で暮らす日名子のもとに13年間離れて暮らしていた双子の水那子が祖母の遺骨を抱いてやって来る。2人は両親を火事で亡くし祖母と叔父別々に引き取られた。日名子は心を閉ざし、孤独から放火を繰り返してしまう。水那子は末期の脳腫瘍だった。2人は悲しい旅に出る…」という話。これは結構好きだった。正直に言うとこの映画から得るものはあまりない。少女達の年齢はとうに越えているし(笑)

何か伝えたいことはあるのだろうとは思うけれど、特にコレと具体的になるものはない。ロードムービーと言えばそうだけど、そのわり人と関わらない。唯一「みちのくキック」の足を骨折中のキックボクサーに会うくらい。彼女達が願うのは残された時間を一緒にいたいという事だけ。別に旅を通して成長する話しではない。悩んでいる事の少しは打ち明けるけど、それもきっと全てじゃない。だからみちのくキックの池澤が唐突に「彼女達を見ていたら、もう一度チャレンジしたくなった」と、2人を日名子の同級生、山元に託して去ってしまうのはちょっと変な気がする。絶望している彼女達の姿から前向きな気持ちになるのは難しくないかな。まぁ、彼女達より恵まれてる自分が頑張らないのは不甲斐ないという、やる気になり方もあるとは思うけれど・・・。それにしても叔父さんを除けば、主要な役の中で唯一大人である池澤が、男子とはいえ高校生に2人を託して去ってしまうのはどうかと思うし、そもそも山元くんは免許を持っているのか?などツッコミどころは結構ある(笑) だけど、それでもこの映画が好きだと思った理由は、その現実味のなさと"孤独"を見事に映し出した美しい映像。

少女達には辛い過去があるようで、それはほんの少しのセリフで語られるけれど、両親の死はそれが関係している事も分かる。水那子を引き取った祖母の事はほとんど語られないけれど、叔父を嫌っていたというセリフから、祖母の気難しい感じや孤独が感じられるし、洋菓子店を営みながら味覚障害である叔父もまた、孤独な人物のようである。山元しかアドレス登録のない日名子も、1人死と向き合う水那子も孤独。この映画には孤独な人しか出てこない。重くて暗いテーマなのに映像の美しさで、とても現実感のない、何かアニメとかそういう作り物を見ている感覚。うまく言えないけど・・・。

それは少女達の美しさのせいでもある。主演の2人、中村梨香と美香は双子の姉妹。正直、セリフなどには拙さがあるけれど、透明感のある感じや、少女期特有のエロティックさなどを感じさせる。2人でいたいということは、実は"2人だけていたい"という、他を寄せつけない無意識の身勝手さでもある。その少女独特の感じも良かったと思う。そして2人の過去にも、叔父さんとの暮らしにも少し性的なものを感じるのは考えすぎかな・・・。そのくらい2人がいい意味でエロティック。これは少女期特有のエロさなのでいやらしくはない。この時期の姿を残せたのは2人にとっても良かったんじゃないかと思う。余計なお世話だけど(笑)

ただ、全体的に美しい"映像"を見たという印象。少女達の物語も、彼女達の悩みも苦しみも2人が抱える問題も全て"映像"のためのものという感じ。上手く言えないけど・・・。少女期特有の苛立ちや葛藤なんかも伝わったし、彼女達だけでなく叔父さんの孤独も感じられた。辛い過去、引き離された2人、放火、不治の病、叔父さんの障害、ケガをしたボクサー、これでもかというくらい不幸を盛り込んでいるけれど、韓国映画のようなクドさはない。まぁ、韓国映画はあれはあれでありだと思うけれど。これだけ盛り込んでいるのにサッパリした印象なのは、正直、散漫になった事もあるとは思うけれど、リアリティーのなさなんだと思う。それは少女達の危うい感じと、寒々としてどこか突き放したような美しい映像によるものなんだと思うけれど、それがとても良かった。

この感じって監督が狙ったというか目指したところなのか、それとも図らずもこうなって私が勝手にそこを好きになっただけなのか・・・。なんとなく後者の気がしないでもない。チラシによると監督は"心の叫び"を感じて欲しいようなので・・・。彼女達の気持ちは伝わってきた。だけどそれは彼女達の中でもハッキリ形になっていない。それをそのまま投げつけられた印象。そういう所も狙いなのであれば成功しているし、そういう感覚的な映画もいいと思うけれど、本当のところは分からない。重複するけれど、少女達の物語というよりも、それを含めた"映像"と思って見ると、とても良かったように思う。少女達の物語はそのまま"物語"としては心に入って来なかった。"映像"のために演じている印象。バーチャルというか・・・。その感じが好きだった。

映像が美しい。2人が辿り着いた海の寒々しい画が良かった。スタッフやキャスト達は機材と共に車で撮影しながら日本を縦断したのだそうで、その風景は美しいけれど、どこか日本じゃない印象。海外っぽいというのとも違って、やっぱり現実の世界じゃない感じ。見る人を選ぶとも思わないけど、合わない人はいるかもしれない。

終演後、林田監督の挨拶があった。だいぶ緊張していた印象(笑) ロケ地の中に市川市とあったけれど、どこのシーンだったのだろう? 質問コーナーもあったけれど、やっぱり聞けなかった



(C) 2008CINEVITAL

◆2008年10月25日(土)より、ユーロスペースにてレイトロードショー

『ブリュレ』Official site

コメント (6)
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