まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イングランド王チャールズ1世王女 エリザベス

2011-03-06 00:21:26 | イングランド王妃・王女
母に代わって苦境に立ち向かった王女
チャールズ1世王女 エリザベス・オブ・イングランド


1635~1650

生真面目すぎて身を滅ぼしたような気がしないでもないチャールズ1世と
王妃ヘンリエッタ・マリアには7人のお子様がいました。
チャールズ2世とジェイムズ2世を含む王子3人と王女4人です。(長男と四女は死産)

長女メアリーはオラニエ公ウィレム2世妃に、
五女ヘンリエッタ・アンはオルレアン公フィリプ妃になりました。
ふたりともそんなに幸福そうな人生には思えないんですけど、次女エリザベスに較べたら…

      
エリザベスは1歳の時、祖母にあたるマリー・ド・メディシスの目論みで
オラニエ公子ウィレム(後の2世)と婚約するはずでした。
けれどもチャールズ1世は財政的な理由から長女のメアリーを嫁がせることにします。
これは(メアリーの方が高位ということで)けっこう身分不相応な結婚でした。
この時エリザベスが選ばれていれば…と思わずにはいられません。

1642年、エリザベスが6歳の時内乱が勃発します。
エリザベスは弟のグロースター公ヘンリーとともにペンブローク伯の保護下におかれました。
最初は王党軍優位に進んでいた戦いでしたが、1646年、父チャールズ1世は
ニューアークで捕らえられ3年後に処刑されます。
この間議会軍は和平交渉をしたらしいのですが、チャールズ1世は譲歩しなかったそうです。

長~くなるので、この間のエリザベスの行動をまとめると…
議会軍はチャールズ1世の年少の子供たちをセントジェイムズ宮殿に軟禁状態におきました。

ハンプトンコートに監禁中のチャールズ1世はちょくちょく子供に会えたようですが
和平交渉が決裂するとワイト島のカリスブルック城に移されました。

1648年、ヨーク公ジェイムズ(後の2世)はイングランドを脱走します。
これはエリザベスの忠告らしく、ジェイムズに女装させて宮殿から逃がしたそうです。
わずか10歳で…すごい政治的判断。

エリザベス自身も姉のメアリーに会いにオランダへ行きたいと議会に申し入れましたが
これは受理されませんでした。
議会派は何を考えていたんでしょうね?
どうせ王制を無くす気なら子供たち、特に女の子は解放してあげればいいじゃないの。
反撃を恐れてのことだと思いますが、クロムウェル、肝っ玉が小さいぜ!

1649年の1月30日にチャールズ1世の処刑が行われることに決まった時
エリザベスは抗議の手紙を書き、同情も多く集まったみたいですが
結局処刑は執行されました。

エリザベスとグロースター公は処刑の前日チャールズ1世に面会しています。
この時、議会軍は手紙やメモなどを残すことを許さず、チャールズ1世はエリザベスに
「今から言うことを全て覚えておいてくれ」と言ったそうです。
エリザベスはその後チャールズ1世の言葉を書き留めていますが
議会派に奪われることを恐れて隠していたのか、見つかったのは彼女の死後でした。

チャールズ1世の処刑後、保護者になっていたライル卿は責任逃れをしたかったらしく
エリザベスたちをオランダに行かせては…と申し出ましたが、議会は認めませんでした。

結局その後はレスター伯ロバート・シドニーの保護下に置かれましたが
この時はレスター伯夫人がかなり親切に面倒をみたようです。
エリザベスはお礼に彼女に宝石を与えましたが、後にこれで議会と夫人がもめました。

1650年、兄チャールズ2世がスコットランドの国王に即位すると
議会派はエリザベスを人質としてワイト島に送ることにします。

小さな頃からからだが弱かったと言われるエリザベスは、その時も体調を崩していて
ワイト島への移動を拒みましたが聞き入れられませんでした。

カリスブルック城に移ってすぐ、風邪から肺炎になり14歳で亡くなりました。

議会派はエリザベスの死から3日後に彼女のオランダ行きを許可しています。
たぶん世間にたたかれないようにとった措置だと思いますが、バッカじゃないの

母親はフランスに行っちゃてるし、長女はオランダだし
弟妹たちを守らねば!と必死に頑張ったのでしょうね。

ある人は、知性と威厳と優美さを持った少女と褒め讃えていますが
本来なら子供らしく溌剌と過ごす時期を、政治や大人の思惑にもみくちゃにされて
無惨な14年間を送った哀れな少女に思えます。

エリザベスが抱いているのは3歳で亡くなった三女アンだと思われます。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipeida英語版)
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イングランド王ジェイムズ1世王女 エリザベス

2011-03-06 00:13:20 | イングランド王妃・王女
故国でも嫁ぎ先でも人気者
ジェイムズ1世王女 エリザベス・オブ・スコットランド
ボヘミア王フリードリヒ5世妃


1596~1662/在位 1619~1620

エドワード4世の王女たちから100年ぐらい飛びますよ、なぜかというと…

ヨーク家のエドワード4世の子エドワード5世は少年のうちに悲劇的な最後をむかえました。
続くリチャード3世はたったひとりの王子エドワードを11歳で失いました。
リチャード3世を敗ったテューダー家のヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨーク
長女マーガレットはスコットランド王ジェイムズ4世妃に、
三女メアリーはフランス王ルイ12世妃になりました(次女、四女は幼くして夭逝)

ヘンリー8世の王子エドワード6世は未婚で亡くなり、王女メアリー1世には子供が生まれず
エリザベス1世は未婚で嫡子無し、というわけで
王位がジェイムズ1世(スコットランドでは6世)にまわります。

ジェイムズ1世とアン・オブ・デンマークには7人のお子様が生まれました。
チャールズ1世を含む王子が3人、王女が4人です。
でも王女のうち3人は2歳までに夭逝して、生き延びたのは長女エリザベスだけでした。
          
6歳の時、父ジェイムズがイングランド王になり、イングランドにやってきました。
子供時代はハリントン男爵に引き取られウォーリックシャーのクーム・アベイで
幸福な日々を送っていました。

1605年、ガンパワー・プロット(簡単にいうとカトリック強硬派が議事堂を爆破して
ジェイムズ1世を殺害しようとしたテロ)の時、カトリック派は9歳のエリザベスを誘拐して
カトリック君主国の王にするつもりでいました。
しかし爆破前に首謀者ガイ・フォークスが逮捕されて計画は失敗しました。

さて、エリザベスはたったひとりの王女なので良い縁談をまとめなければなりませんが
当時のヨーロッパは旧教国、新教国に二分していて、争いが頻発していました。
相手選びもなかなか大変そうですね。

スウェーデン王グスタフ2世アドルフなどの名もあがりましたが
最終的にエリザベスは、神聖ローマ帝国内のプロテスタント王国のリーダー格だった
プファルツ選帝侯フリードリヒ5世と婚約し、翌年結婚しました。
言わずもがなの政略結婚ですが、ふたりは愛し合っていたそうです。

1619年、フリードリヒはボヘミア王になりましたが
カトリックの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世(ハプスブルク家)に戦いを挑んで敗れて
1年ちょっとで廃位させられオランダに亡命しました。

この時エリザベスの女官をしていたのがオラニエ公妃になったアマリエです。

この時、父王ジェイムズ1世はまったく助けの手を差しのべてくれなかったらしく
1632年、夫フリードリヒは亡命先で失意のまま亡くなりました。

エリザベスはオランダに留まり、息子のカールの選帝侯復位に尽力したと思われます。
カールは1648年にヴェストファーレン条約により選帝侯に返り咲きました。

甥チャールズ2世の王制復古をうけてイングランドに帰った翌年の1662年
ロンドンのレスター・ハウスで亡くなりました。

イングランドでもプファルツ選帝侯領でもボヘミアでも人気者だったそうですよ。
プファルツではQueen of Herats(慈愛の王妃)と呼ばれていたそうです。

イングランドはこの後しばらく新教 VS 旧教で王位継承がごたごたします。
他の国もそうですが、イングランドは言い出しっぺ的なところがありますんでね…

後のジョージ1世(ハノーファー家)はエリザベスの孫にあたります。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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