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まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世妃 アグネス

2010-12-13 00:49:39 | ドイツ系王妃
相談役、まったく役に立たず
ハインリヒ3世妃 アグネス・フォン・ポワトゥー


1025~1077/在位 (神聖ローマ皇后)1046~1056 (ブルグント王妃)1043~1056

ハインリヒ3世は皇帝に即位した1043年、アグネスと再婚しました。

アグネスの実家ポワティエ家のアキテーヌ公領は
一時期はフランス王より領土を持ってたってくらいの強大な公領です。
カール大帝当時のフランク王国再建を目指していたハインリヒ3世は
この結婚にものすごい野望を抱えていたに違いない…

           

アグネスが表舞台で活躍するのはハインリヒ3世の死後
息子ハインリヒ4世の摂政になってからです。

彼女が相談役にしたのはアウグスブルクの司教ハインリヒ2世でした。
この人、ものすごく傲慢で宮廷中から嫌われていたそうです。
しかもアウグスブルク司教とアグネスには愛人関係があったとする説もあります。

母親摂政は味方につける相手を吟味しなきゃ!!
相手選びを間違えてその座を追われたママさん摂政がどれだけいたことか…
自分だけならまだしも子供たちまで廃位される場合もあります。

貴族たちには相手にされず、ハインリヒ4世はないがしろでした。
アグネスは涙を飲んで亡き夫の政敵たちにも譲歩しましたが何も好転しませんでした。

とうとうハインリヒ4世は12歳の時、アグネスをダシに呼び出されて
ケルン大司教やバイエルン公たちによって軟禁されてしまいました。

手元に君主がいない摂政なんて、ただの役立たずですね。
アグネスは摂政の座から退きます。

それから3年後、アグネスはローマに渡り、どうやらそこで余生を過ごしたようです。
それでも遠い空の下から息子と政敵たちの仲介に務めたそうです。
母の愛ですね…でもこうなる前にしっかりとした相談役を選ぶべきだったのでは?

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世妃 グンヒルド

2010-12-11 12:01:31 | ドイツ系王妃
華麗かつ複雑な家庭で育った皇太子妃
ハインリヒ3世妃 グンヒルド(クニグンデ)・フォン・ダーネマルク


1020~1037/在位せず

ハインリヒ3世の妃グンヒルドは、デンマーク王クヌーズ1世王女です。
母はふたり目の妃エンマ・アフ・ノルマンディで、けっこう複雑な家庭育ちです。

実の兄にデンマーク王ハーデクヌーズがいまして、
父方の異母兄にノルウェー王スヴェン、イングランド王ハーラルがおります。
母方の異父兄にはイングランド王エドワード宣誓王がいます。

詳しくはエンマのところで家系図を見て下さいね。

          
1036年にコンラート2世の皇子ハインリヒと結婚しました。
この時クニグンデに改名しています。

北方に帝国を創りつつあったデンマーク王クヌーズ1世と
ヨーロッパで領土を拡大していたコンラート2世が
平和的にキール(ドイツとスカンジナビア半島の接点です)地方に国境を定めようと
協議して決めた条件のひとつでした。

グンヒルドは結婚後尼僧になっています。
なんでも不貞で告発されたからだそうで、潔白は証明できたものの
「こんな宮廷にいられるかい!」と宗教にはしっちゃったのね。

しばらくしてハインリヒと和解したそうです。

1038年、ハインリヒとグンヒルドは、サレルノとカプアの紛争をおさめようと
南イタリアに遠征したコンラート2世に同行しました。
その遠征からの帰路、皇帝軍に伝染病が蔓延します。
グンヒルドも病に倒れ、18歳で亡くなってしまいました。
でもね、私はこれを怪しいと見ています 根拠はあまりないんだが…

わずか2年の結婚生活です。
ハインリヒと仲直りしなきゃ長生きできたものを…

お子様はガンデルスハイム修道院とクヴェトリンブルク修道院の修道院長になった
ベアトリクスのみでございました。
7歳の時、ハインリヒによって修道院に入れられています。
その前年にハインリヒが再婚しているので、新しいお母様の差し金かしら…

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝コンラート2世妃 ギーゼラ

2010-12-09 23:20:15 | ドイツ系王妃
170cm 、ブロンドヘア
コンラート2世妃 ギーゼラ・フォン・シュヴァーベン


989~1043/在位 (神聖ローマ皇后)1027~1039 (ブルグント王妃)1032~1038

清らかな夫婦ハインリヒ2世と聖クニグンデには嫡子がいなかったので
ザクセン王家は終わりを告げます。

替わってオットー1世の娘リウテガルデの曾孫にあたるザリエル家のコンラートが
ドイツ王に選出されて、後に神聖ローマ皇帝になりました。

コンラート2世の妃ギーゼラは、シュヴァーベン公ヘルマン2世の公女で
なんだか結婚運が良くないの…

       

まずは13歳の時、15歳ばかり年上のブラウンシュヴァイク伯ブルーノ1世と結婚します。
しかし8年後に死別、その年のうちにシュヴァーベン公エルンスト1世と再婚しました。
けれどもエルンスト1世も5年後に亡くなってしまいました。

ギーゼラはエルンスト2世の摂政になります。
この時にコンラートとかなり親しい間柄になったらしい…

そんなわけでエルンスト1世の死から1年後、ギーゼラはコンラートと再婚しました。
ギーゼラとの結婚から11年後に、コンラートは皇帝に即位しました。

コンラート2世はかつてのフランク王国復活を目指して領土を拡大した王でした。
ギーゼラは夫を助けて政治の舞台で大活躍したようです。
皇帝の評議会を仕切りったり、
親戚のブルグント王ルドルフ3世の後継者に夫コンラートを据えようと奔走したり、
教会の長老会にも関わっていました。
この当時の教会の発言力はかなり大きなものですよ。

イタリア、ブルグントを手中に収めたコンラート2世は
文書などで “ ローマ皇帝 ” と名乗るようになりました。

しかし有能なギーゼラは、1043年、ゴスラーの宮殿で赤痢に倒れました。
歴代皇帝たちとともにシュパイアー大聖堂に眠っています。

1900年にギーゼラの棺が開けられ、172㎝で金髪の女性だったことがわかりました。
すごい! 死後850年もたってから人となりが見えてくるなんて…

科学の力をもってすれば美女と謳われていた女性たちの実際の素顔も
つまびらかになるっていうもんですね。
でも長~い時を美女と言われて崇められてきたんだし、夢も与えてくれていたわけですから
そっとしておいてほしい気もします。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝聖ハインリヒ2世妃 聖クニグンデ

2010-12-07 01:26:39 | ドイツ系王妃
清く美しい夫婦であり続けた(らしい)
聖ハインリヒ2世妃 聖クニグンデ・フォン・ルクセンブルク


975~1040/在位 1014~1024

幼くして王になったオットー3世は22歳の時、マラリアあるいは毒で
亡くなっています、どうやら未婚だったみたいです。
またもや嫡子がいない問題にぶちあたる王家でございます。
そこで、オットー2世の甥にあたるハインリヒ2世が即位することになります。

後に聖人になったハインリヒ2世の妃は、これまた聖人クニグンデ。
ルクセンブルク公ジークフリート1世の公女で、7代遡るとカール大帝にいきつきます。

       

お互いが早くから敬虔だったのでしょうか?
ハインリヒ2世とクニグンデの結婚は精神的な繋がりが重視されて
信仰のパートナーとして関係を築き、床入りはしない、てなことが同意されたらしい…

本当かいな? と疑いたくなりますよね? わたくしもものすごく疑う。
当時もクニグンデを中傷する人々はいたようですが
彼女は炎を上げる鉄の上を傷ひとつ作らずに歩いて神の摂理による潔白を証明し
ハインリヒ2世をおおいに喜ばせたそうです。

どうなんでしょう? 肉体関係を結ばないから清いというのは神の教えですか?
もし子孫繁栄を神様が願っているなら、セックスレスは罪じゃないのかしらね?
謎だわ~、この夫婦。

1024年にハインリヒ2世が亡くなると、クニグンデは新王の摂政に就きましたが
1年で引退しカウフンゲン修道院で余生を送ります。

ハインリヒ2世とクニグンデは慈善に莫大な金銭を投じていたので
未亡人になったクニグンデの生活は厳しい状態に置かれていたようです。
なかなかできることじゃありませんね。
精神的な繋がりだけの結婚というのを信じてもいいような気になってきました。

1040年に亡くなるとバンベルク大聖堂のハインリヒ2世の側に葬られました。

ところで、クニグンデが夜眠っている時、女中も居眠りをしてしまい
キャンドルがベッドに倒れて火がついてしまったそうです。
そこでクニグンデが十字をきると炎が消えて大事には至らなかったと…

奇跡をおこしたクニグンデは、1200年に列聖されました。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝オットー2世妃 テオファヌ

2010-12-03 23:33:32 | ドイツ系王妃
東の帝国からやってきた皇后
オットー2世妃 テオファヌ


960~991/在位 973~983

オットー大帝は、王子オットー(2世)の妃にビザンツ皇帝の皇女を望んでいました。
神聖ローマ(旧西ローマ)帝国と、ビザンツ(旧東ローマ)帝国の和平
ひいては融合となったら、これは古代ローマ帝国並の大国復活ですね!

てなわけでオットー大帝はビザンツ皇帝ニケフォロス2世に使節を送りますが
交渉は決裂しました。
皇帝がヨハネス1世に変わってから再び交渉を開始して縁談がまとまりました。

972年、テオファヌは、まさに “ お輿入れ ” といった風情で嫁いで来ます。
付き添いの従者も持ってきた宝石もすごい数だったそうです。

ただテオファヌ、どうやら皇帝の娘ではないらしい…
ヨハネス1世の姪ではないかと見られていますが両親が確定できないそうですよ。
皇族には違いないが、オットー大帝が望んでいた嫁ではなかったかもしれませんね。
        
テオファヌはオットー2世の外遊には全て同行し、皇后として外交まで行いました。
義母聖アーデルハイドとは気が合わず、夫を義母から遠ざけようとしました。

オットー2世がとても信頼していたのか、はたまた言いなりだったのかは謎ですが
当時の歴史家メッツによれば、テオファヌは口やかましく不愉快な女性だったようです。
毎日風呂に入ったり、きらびやかなドレスや宝石をドイツにもちこんだことで
享楽ぶりが非難の的になりました。

テオファヌはフォークを西欧に持ち込んだ女性と言われています。
最初にフォークで食事をする彼女を見た人は
「手じゃなくて金の熊手で食べ物を口に運んでるよ!」と驚いたそうです。
(西欧の料理や食事の作法は、トルコやギリシャなどに比べて遅れていたらしい、と
 何かで読んだ気がする…特にイギリスが遅れていたと書いてあったなぁ)

神学者ダミアンは、テオファヌがギリシャ人の修道士と浮気をしている、と断言してます。
この修道士は後に対立教皇ヨハネス16世として台頭しました。

983年、オットー2世が亡くなりオットー3世が即位します。
邪魔な義母聖アーデルハイドを追い出したテオファヌは
マインツ大司教とウォルムスの司教の3人で政治を牛耳っていきました。

991年、テオファヌが亡くなりケルンの聖パンタレオン教会に葬られました。
墓石には(省くけど)ものすごい賞賛の言葉が書かれているのだけれども
「聖アーデルハイドは、あのギリシャ女が死んでとても幸せそうだった」と
クリュニーの修道士は語っていたそうです。
やっぱりね…聖女と言われた人にも嫌いな人はいるものよ。

オットー3世は10歳だったので、あんなに嫌っていたアーデルハイドが復帰して
宮廷で力をふるうことになりました。

怒って墓から出てきそうよね、テオファヌ。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝オットー1世大帝妃 聖アーデルハイド

2010-12-02 02:02:41 | ドイツ系王妃
聖女でも息子の嫁が憎たらしい~!と思ったでしょう…
オットー1世大帝妃 聖アーデルハイド・フォン・ブルグント


931~999/在位 (イタリア:ロタール2世妃)948~950
         (神聖ローマ皇后)962~973 (イタリア王妃)951~973

オットー大帝は前妃エドギダの死から5年後の951年にアーデルハイドと再婚しました。

アーデルハイドはブルグント王ルドルフ2世の王女で
15歳の時、父親の敵イタリア王ウーゴの息子イタリア王ロタリオ2世と結婚しました。
しかし名ばかりの王だったロタリオ2世は、結婚から4年後
真の権力者であるベレンガリオに毒殺されてしまいます。
ベレンガリオは、オットー大帝の前に神聖ローマ皇帝だったベレンガリオ1世の孫でした。
          
ベレンガリオはイタリア王になると、息子のアダルベルトとアーデルハイドを結婚させて
権力の基盤を固めようとしました。

けれどもアーデルハイドは再婚を拒んで逃亡し捕らえられ投獄されました。
4ヶ月後、カノッサに逃れたアーデルハイドはベレンガリオ2世に包囲されると
オットー大帝に助けを求める使者を送りました。

この “ 助け ” というのが、兵力だけを求めたものだったのか
自分の身を引き取ってほしいということかわからないのですが
ともあれ、オットー大帝は兵を送るとともにパヴィアまで出向いて
アーデルハイドと落ち合い結婚しました。

アーデルハイドが美しいという噂がたっていたのかもしれないし
ブルグント王国が魅力だったのかもしれないけど、素早い決断ですね。

オットーの皇帝即位後、前妃エドギタとのたったひとりの王子リウドルフが
妻の実家であるシュヴァーベンの助けを借りて反乱をおこしました。
リウドルフは敗れ,イタリアに逃げてしまったので
後継者はアーデルハイドの王子オットーに決まりました。

アーデルハイドは、オットー大帝の3度目のイタリア遠征にも同行しています。
宮廷での地位は高まる一方です。

973年にはオットー大帝が亡くなり、息子オットー2世が神聖ローマ皇帝に即位します。
アーデルハイドも皇太后としてしばらくは宮廷で力を発揮していましたが
オットー2世妃テオファヌの影響で息子と反目し合うようになります。

嫁姑問題…下々の者だけにおこることじゃないんですよね。
しかもお互い力も資金も取り巻きも持っているもんだから、熾烈極まりないですよ。

アーデルハイドは争うことを避けて、兄のブルグント王コンラートのもとへ身を寄せました。
5年ほどしてコンラート王の調停でオットー2世とイタリアで会うことができましたが
オットー2世はその年のうちに亡くなってしまいました。
せっかく仲なおりができたのに…母親としてこんなに悲しいことはないでしょうね。

孫のオットー3世がドイツ王に即位すると、アーデルハイドはにっくき嫁テオファヌと
摂政に就くことになりました。
しかしテオファヌ、王太后の威力を発揮して義母を廃位し、その上追放する始末
鬼嫁よね、追放しなくたっていいじゃないの。
アーデルハイドは、8年後にテオファヌが亡くなってから晴れて摂政に返り咲き
やっと宮廷に戻りました。

オットー3世が成年に達すると表舞台から退いて慈善に打ち込むようになります。
特に力を入れたのは教会や修道院の修復に力を注ぎました。
尼僧にはなりませんでしたがゼルツの修道院に身を引き、祈りの日々を送りました。

1097年にウルバヌス2世によって列聖されています。
なにか奇跡的なことがおこったというエピソードはないのですけど
亡くなったのが999年12月16日で世紀末に近く
キリスト再臨をもたらすと考えられていたそうです。

でも、いくら聖女でもやはり嫁のテオファヌは嫌いだったと思うよぉ。
どんなに人が好い人でも嫌いな人間はいるはずですもの。
自分をとことん追い払おうとした嫁なんか、誰が好きなものですか。
悪口を書いた手紙とか日記が見つかったら面白いですよね。
人間らしくていいんじゃない?

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝ベレンゲル1世妃 ベルティラ

2010-11-25 23:28:00 | ドイツ系王妃
               こちらはオットー1世妃 エドギタ

苦節35年、やっと皇后になれたのに…
ベレンゲル1世妃 ベルティラ・フォン・スポレート


860~915/在位 (神聖ローマ皇后)915
         (イタリア王妃)888~889、905~915

アルヌルフの後は、野心満々のカール2世妃リヒャルディスの甥にあたる
ルートヴィヒ3世が皇帝になりました。
ルートヴィヒにはヴィエンヌ伯シャルル・コンスタンチンという息子がいて
ビザンツ皇帝レオン6世の皇女アンナが母親といわれていますが皇后の記録がありません。

ルートヴィヒ3世の後を継いだのはルートヴィヒ1世を母方の祖父に持つベレンガリオです。
888年にベレンガリオ1世としてイタリア王につきましたが、グィードに奪われ
返り咲いたと思ったら貴族がルートヴィヒ3世を推したりして
なかなか王の権力を手にできない王様でありました。

実家の力が欲しくてスポレート公スッポ2世の娘ベルティラを選んだようです。
880年に結婚しました。
        

ベレンガリオ1世は、イタリア王としての権力を905年に取り戻し
915年には神聖ローマ皇帝になりましたが、ベルティラは間もなくして亡くなりました。

当時ベルティラは “ 不信心 ” で告発されていました。
死因は毒によるものだということです(夫の手に余っちゃいましたかね?)

ベレンゲルはその年のうちにアンナという女性と再婚しています。
詳細は不明ですがプロヴァンス伯ルイの娘だという説が濃厚みたいです。


拡げよう、サクソンの輪
オットー1世大帝妃 エドギタ


910~946/(神聖ローマ皇后)在位せず (ドイツ王妃)936~946

ここから神聖ローマ皇帝の座はザクセン家に移ります。
ものすごくかいつまんで言うと、西フランク王国は継承争いに明け暮れていて
東フランク王国は放ったらかし状態、というわけで、東フランクは勝手に
フランケン家のコンラートを王に選びました。

コンラート1世は王とはいっても各公爵家の力をおさえることはできず
特に東フランクから独立しようとするザクセン家を繋ぎとめるために
自分の後継者にザクセン公ハインリヒ1世を指名します。

ハインリヒ1世は東フランク改めドイツ王になり、その後継者オットーが
自分を陥れようとしたローマ教皇ヨハネス12世を廃位してレオ8世を選び
ついでにベレンガリオも失脚させてイタリアを手に入れ、962年に皇帝に即位しました。

そんなオットー大帝の妃はアルフレッド大王を祖父に持つエドギタ(エディス)で
サクソン系の王国同盟の証しとして929年に結婚しました。
姉のエドギヴァはフランス(西フランク)王シャルル3世に嫁いでいます。

         

エドギタは兄のイングランド王エセルスタン同様聖オズワルド崇拝に身を捧げていて
結婚後はその信仰をドイツに吹き込もうとしていました。

彼女の影響はザクセン領の修道院や教会まで及んだそうです。

オットーが皇帝に即位する前に亡くなりました。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝グイード妃 アゲルトリュード

2010-11-23 10:33:26 | ドイツ系王妃
              こちらはアルヌルフの皇子ルートヴィヒ

けっこう執念深い
グイード妃 アゲルトリュード


生年不詳~923/在位 (神聖ローマ皇后)891~894 (イタリア王妃)889~894

カール3世にも嫡子がいなかったものだから、さあどうしましょう?
というわけで、フランク、イタリアなどなど王位をめぐる争いは続くのですが
イタリア王になったグィードが教皇の後押しを受けて皇帝の座につきます。

家系図で見る通り、もはや遠い親戚なんですけどね…

ベネヴェント公アデルキスの娘アゲルトリュードは
皇帝になる10年ほど前にグィードと結婚していました。

            

894年にグィードが亡くなるとアゲルトリュードは、グィードと共同で皇帝に就いていた
息子のランベルトを伴いローマへ向かいました。
ランベルトに教皇フォルモススから皇帝の承認を受けるためです。
しかし、教皇はライバルであるカロリング家のアルヌルフを支持していました。

896年、アルヌルフはローマに侵攻しましたが失敗します。
教皇フォルモススも失脚、その上殺害されました。

アゲルトリュードはすぐに皇帝の母后の権威を発揮します。
まずは、お気に入りのステファヌスが教皇に就けるよう画策しました。

それから、自分の息子を認めなかったフォルモスス許すまじ!というわけで
アギルトリュードはフォルモススの遺体を掘り出させて審問にかけさせ有罪にします。
哀れフォルモススはテヴェレ川に投げ込まれてしまいました。
亡くなった人はそっとしておいてあげましょうよ。

また、アゲルトリュードは、未成年だった息子ランベルトの摂政になり
カロリング家打倒をけしかけていたと言われています。

けれども頼みの息子ランベルトは898年に18歳ぐらいで亡くなっています。
未婚だったみたいです。



珍しい…不貞の告発を退けた王妃
アルヌルフ妃 オータ


874~903/在位 (神聖ローマ皇后)896~899
         (西フランク王妃)888~899 (イタリア王妃)896~899

ルートヴィヒ1世がひいお祖父さんだし、カロリング家だし、ということで
イタリア王位や神聖ローマ皇帝の座を激しく要求していたアルヌルフも
ランベルトの死でやっと皇帝の座につくことができました。

アルヌルフの妃オータは、名門コンラッディン家の出ですが
彼女のことはアルヌルフが王座についてから亡くなるまでの間しか記録がないそうです。

アルヌルフは、王座奪取のために、バイエルンとロートリンゲンを支配していた
コンラッディン家の後ろ盾が必要だと考えて、888年頃オータと結婚したようです。

          
899年、オータは不貞で告発されます。
不貞の罪を被せられる王妃はとっても多いわけなんですけど
ほとんどは申し開きできないまま、離婚とか、処刑とかの処分を受けています。

でもオータは違いました。
潔白を誓い、しかも72人の貴族たちが彼女の無実を宣誓しました。
アルヌルフの目論みは失敗です。

とはいえアルヌルフはすでに病に冒されていて、その年のうちに亡くなりました。
ここでオータの記録は途絶えます。

息子のルートヴィヒが東フランク王に即位したというのに、母后の記録がないなんて…
どうやら故郷に帰されて、903年に亡くなったという説があります。
息子さんとうまくいっていなかったのかしらね?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝カール3世妃 聖リヒャルディス

2010-11-21 20:33:38 | ドイツ系王妃
身を呈して潔白を証明
カール3世妃 聖リヒャルディス


840~896/在位 (神聖ローマ皇后)881~888
         (東フランク王妃)882~888 (西フランク王妃)884~888

南フランクに次いで嫡子を遺せなかった西フランクの王には
東フランクのルートヴィヒが継いで、フランク王国は一瞬統合したようになります。
その後を継ぐカール3世が神聖ローマ皇帝に即位しました。

リヒャルディスは、ノルドガウ伯Erchangerの娘で862年にカールと結婚しました。

         

887年、強力な力を持って嫌われていた大臣リウトワルドを失脚させようという動きがあり
リヒャルディスは、王や貴族たちに彼との不貞を告発されました。

そこでリヒャルディスは試罪法の裁判を受けることにします。

ここで試罪法の説明ね! 驚きますよ
これは例えば、試しに火あぶりの刑を受けてみて、焼け死んじゃったら有罪で
焼けなかったら無罪という、むちゃくちゃな裁判です。
潔白なら神が助けてくれるという信仰心から出だものでしょうけど…焼けるよね。

他にもお互いに罪をなすりつけ合っている者同士を決闘させて
勝った方が無罪で負けた方が有罪、とかね… 説明終わります。

下の画はリヒャルディスが火あぶりの刑にあっているところです。

            
              こんな裁判はおかしいですよね

結局リヒャルディスは無事に生還して無罪が証明されました。
しかし、だからといって自分を告発したカール3世とよりがもどる訳でなく
これを機にアンドー修道院に身を落ち着けました。

実はカール3世、愛妾と結婚したかったらしいですよ
無罪になったら離婚はできないし、がっかりしたでしょうね! いい気味。

アンドー修道院はリヒャルディスが880年頃に先祖代々の土地に建てたもので
修道院長には姪のRotrod が就いていました。
リヒャルディスはそこで生涯を過ごし、896年に亡くなると
王家の墓所ではなくそのままその地に葬られました。

1049年に列聖されています。
この列聖というのは詳しくわからんけれども、とても敬虔な人生を送った人で
カトリックの布教に尽力した方が聖人に加えられることを言うようです。
中世時代に列聖された方々は何かしら奇跡をおこしたエピソードがついてきます。
病気に触れたら直ったとか、地面に手を触れたら水が湧き出たとか
亡くなった時に空が暗くなったとか…いろいろです。

リヒャルディスの列聖の理由はよくわかりませんが
火あぶりにあっても無事だったことが奇跡とされたのだとしたら皮肉なことですよね?
疑われて受けた裁判で聖人にされるなんて。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)

火にまつわる…余談です
このあいだ炒め物をしていたら大きめのトレーナーの袖に火がついて
キャーキャー騒いでいるうちに胸元まで火がまわってました。
幸い髪の毛が少し焦げたぐらいですみましたが、火だるまになるところでした。
からだに火がつくって恐ろしいですよ…皆さんも気をつけて。
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神聖ローマ皇帝カール2世妃 イルメントルード

2010-11-19 02:40:49 | ドイツ系王妃
兄のおかげで人生暗転
カール2世妃 イルミントルード


823~869/在位 (神聖ローマ皇后)せず (西フランク王妃)843~869

三兄弟に分割されてしまったフランク王国を再び統合させようと奮闘していた
カール2世(西フランク王シャルル禿頭王)の一人目の妃はオルレアン伯オードの娘
イルミントルードです。

       

刺繍に天賦の才能があったといいます。
当時の貴婦人にとって刺繍が上手いというのは、すごいプラス要因だと思われます。

それから宗教的な建築物に興味があって、カール2世などは
ノートルダムのシェル修道院をプレゼントしてあげたほど…贈り物のスケールが違うわね!

お子様も9人生まれ、順風満帆の王妃生活を送っていたように見えますが
866年にイルミントルードの兄ヴィルヘルムが反逆罪で処刑されてから人生が一変します。

カール2世とは別居することになり、尼僧として修道院に隠遁することになりました。
修道院長ではないのですよ、尼僧です。
そこには大きな隔たりがあるに違いない…

しかし3年後に亡くなると、王家の廟所があるサン=ドニ大聖堂に葬られました。
もう少し長生きしていたら、カール2世と和解できたんじゃないかしらね?

あと、娘ユディスが複雑な結婚をしていますので、家系図を見てみてください。



                 
先妻の子より実の兄
カール2世妃 リヒャルディス・フォン・ダー・プロヴァンス


845~910/在位 (神聖ローマ皇后)875~877 (西フランク王妃)870~877

前妃イルミントルードが亡くなった翌年の870年
カール2世は、アルデンヌ伯ビヴァンの娘リヒャルディスと再婚します。

リヒャルディスの伯母テウデベルガはロタリンギア王ロタール2世妃でした。
カール2世はリヒャルディスの実家を通じてロタリンギア支配を狙っていました。

      

リヒャルディスは政治的手腕も持っていたようで、カールの遠征中は
王に代わって国を治めていました。

877年、カール2世が亡くなります。
イルミントルーデとリヒャルディスは、併せて14人の子供を生んでいましたが
カール2世が亡くなったとき成長していたのは3人だけでした。(しかも2人は王女)

31歳の長男ルートヴィヒがいましたが病弱な男性だったみたいです。
リヒャルディスは自分の兄ボゾを王にしようと考えました。
ちなみにボゾはロタール1世皇女エルメンガルデを誘拐して結婚した人ね!

貴族たちが嫌うのはいつの世でも、王妃(愛妾)の家族の台頭ですよね。
自分の家ならいいんだろうけど…
リヒャルディスは兄ボゾとの近親相姦を糾弾されて、服従を拒まれてしまいます。

しかたないなぁ…と西フランク王はあきらめたリヒャルディスですが
せめてプロヴァンス王にしようと頑張り、ボゾは王に即位することができました。

結局西フランク王位はルートヴィヒ2世が継ぎましたが879年に亡くなります。
その後はその息子ルートヴィヒ3世が継ぎましたが882年に亡くなりました。
共治王だったルートヴィヒ3世の弟カルロマン2世までも884年に亡くなります。

リヒャルディスは王様が替わる度に権力の座に返り咲こうと画策しますが
どうにも上手くいきませんでした。
貴族たちはリヒャルディスを、プロヴァンスへ追いやってしまいました。

兄ボゾは亡くなっていましたが、その息子ルイがプロヴァンス王になっていました。
たぶん甥っ子に口うるさく指示してたんじゃないかと思うわ
権力大好き!って感じですものね。

ちなみに、ルイの母親は、ルートヴィヒ2世とエンゲルベルガの王女エルメンガルデで
カール2世の甥の息子ってことになります。 ややこし~

居心地が良かったのかその後はずっとプロヴァンスで暮らし、910年に亡くなりました。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝ロタール1世妃 イルミンガルド

2010-11-17 00:13:27 | ドイツ系王妃
              画はエドワード・バーン=ジョーンズが描く
                       『女子修道院長の物語』


メロヴィング家との統合なるか?
ロタール1世妃 イルミンガルド・フォン・トゥール


生年不詳~851/在位 (神聖ローマ皇后)840~851 (イタリア王妃)821~851

継承戦争の末南フランク(イタリア&ロートリンゲン)を手に入れたロタール1世の妃は
トゥール伯ヒューの娘イルミンガルドです。
ヒューはロタールのみならず、イタリアに大きな影響力を持つ人物でした。

821年にイタリア王だったロタール1世と結婚しました。

イルミンガルドが属するエチコネン家はメロヴィング家に繋がる家系と言われていました。
メロヴィング家といえば最初にフランク王国を建国したのに、ごたごたしている間に
カロリング家に王位を持っていかれちゃった家系です。

          

自分たちの方が王として正当な家系だと主張していましたので
西フランク(フランス)でもメロヴィング家と縁談を結ぼうという試みがありました。
ただエチコネン家の方は自分で主張していたみたいで、真偽は定かではありません。

イルミンガルドにはたいしたエピソードがありませんが
三女のイルミンガルデは十代後半で誘拐されています。
マースガウ伯と結婚していますが、この人に誘拐されたということだろうか?

イルミンガルドは851年に亡くなりました。
死の2年前に自ら寄付をしたエルシュタン修道院に葬られたということです。



王妃 兼 女子修道院長
ルートヴィヒ2世妃 エンゲルベルガ


生年不詳~896/在位 (神聖ローマ皇后)855~875 (イタリア王妃)851~875

ロタール1世の後を継いだ王子ルートヴィヒ2世の妃は、パルマ伯アデルキス1世の娘
エンゲルベルガでした。

エンゲルベルガはルートヴィヒに多大な影響力を持っていたそうで
彼女の実家Supponidi家はこの当時ものすごく繁栄したそうです。

        

しかしながらエンゲルベルガの痛いとこ…お子様ができなかったんですね。
872年には貴族たちがルートヴィヒとエンゲルベルガを離婚させようとしたほどです。

エンゲルベルガは、なにか自分が必要とされるポジションを得たかったのかもしれません。
868年、王家の修道院とされるブレシアのサン=サルヴァトーレの修道院長になり
896年には自分で設立したピアチェンツァのサン・シストの修道院長になりました。

修道院長や司教というのは、中世では憧れの職業だったようですよ。
特に大きかったり王家と繋がりがある教会や修道院のトップの座は
激しい奪い合いがあったそうです。
でも、王女が女子修道院長になるケースは多いですけど
王妃自らその座に就くというのは珍しいんじゃないですかね?

さて、嫡子が生まれなかった南フランクの今後が気になるところ…
ロタール1世は叔父にあたる東フランクのルートヴィヒを推していましたが
貴族たちは西フランクのカール(シャルル)を選出しました。

ルートヴィヒ2世が亡くなると、カールの忠臣ロタリンギア公ボゾ5世が
王女エルメンガルデを誘拐し結婚してしまいました。
エンゲルベルガも一緒に連れ去られ失脚してしまいます。

その後はシュヴァーベンに追放になりましたが
カールに許されて882年にイタリアの領地に戻りました。
たぶんそこで亡くなったんじゃないですかね?

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ1世妃 イルミンガルデ

2010-11-13 20:59:15 | ドイツ系王妃
                こちらは二人目の妃ユディス

間接的だけど…フランク王国崩壊へ
ルートヴィヒ1世妃 イルミンガルデ


773~818/在位 (神聖ローマ皇后)814~818 (フランク王妃)814~818

カペー家へと繋がっていくハスペンハウ伯の娘で、20歳頃ルートヴィヒと結婚しました。

彼女自身にはなんのエピソードもないんだが、彼女が生んだ3人の王子が
血で血を洗う領土奪取の争いをおこしフランク王国を分裂させたことで
西ヨーロッパの原型のようなものができ上がります。

ものすごくザックリ書いちゃうけど、せっかく祖父カール大帝が拡大した領土を
3人の王子&後妻の王子は自分の物にしたい! と激しい奪い合いに明け暮れ
結局843年に条約を結んで3人で分割することになりました。

長男ロタールが南フランク王国(イタリア&ロートリンゲン地方)
三男ルートヴィヒは東フランク王国(ライン河東側…ドイツの原型)を譲り受けました。
次男ピピンも争っていましたが、決着がつく前に亡くなりました。

後述の四男シャルルは西フランク王国(ライン河西側…フランスの原型)を
手にしています。

イルミンガルデがせめて3兄弟仲良く育てていれば
EU並にでっかい王国がもうしばらく続いたかもしれないね。


       


さらに継承戦争を煽る
ルートヴィヒ1世妃 ユディス


795~843/在位 (神聖ローマ皇后)819~840 (フランク王妃)819~840

ユディスはイルミンガルデが亡くなった翌年の819年にルートヴィヒと結婚しました。
ユディスの妹エンマも先王妃の王子で後の東フランク王ルートヴィヒ(2世)と
827年に結婚しています。

ユディスの政治的影響力がいかほどかは定かでありませんが
ルートヴィヒ1世と結婚した後、彼女の実家(ヴェルフェン家)は
帝国の要職を手にしています。

823年に王子カール(シャルル)が生まれたのですが
先王妃イルミンガルドがすでに3人の王子を遺していましたので
ユディスは我が子に王国が分け与えられるか気が気ではありませんでした。

結局、ユディスがルートヴィヒに「うちの子にもちゃんと領土をちょうだいよ」と
約束をせまったことで、先王妃の王子たちを巻き込んだ継承戦争がおこります。

こんなに広いんだから少しぐらいくれたって…という謙虚な気持ちで要求したのか
うちの子だって王子なんだから平等にくれ! と大きく出たのかによって
他の王子たちの対応も違っていたかもしれませんね。
どれぐらい要求したんでしょう?

ユディスは830年に不貞を告発されてポワティエの修道院に3年間投獄され
その後トルトーナに追放されました。
1年後には和解して戻って来たみたいです。

投獄後は大人しくしていたんでしょうか?
特にエピソードはありませんけど…あ! 息子を煽っていたんですね。

ルートヴィヒ1世の死から3年後の843年に亡くなり
トゥールのサン=マルタン聖堂に葬られました。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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神聖ローマ皇帝カール1世大帝妃 ヒルデガルド

2010-11-13 20:56:10 | ドイツ系王妃
子供はたくさん生みました
カール1世大帝妃 ヒルデガルド


758~783/ (神聖ローマ皇后)在位せず (フランク王妃)771~783

クライヒガウ伯ゲオルドの娘で、デジデレータと離婚後すぐに結婚したみたいです。
特に書くことないんですけど…肖像画があったのでね。
お子様9人生まれています。

       


敵国の王妃になった
カール1世大帝妃 ファストラダ


765~794/(神聖ローマ皇后)在位せず (フランク王妃)784~794

ファストラダはカール大帝の敵国の貴族の娘だったみたいです。
捕まったのか投降したのか、あるいは敗戦国からの分捕り品なのわかりませんが
3番目の妃に選ばれ784年に結婚しました。

ファストラダは794年に亡くなりましたが、代々のフランク君主とその家族が眠る
サン=ドニ大聖堂にも聖アルヌルフ修道院にも葬られませんでした。
マインツの聖アルバン修道院に葬られたのですが
これはマインツ大司教Richulfの希望だったようです。
修道院は786年に建ったばかりでしたので、王妃を葬ってハクをつけようかなぁ…
なんて思ったのかしら?

ファストラダの墓標は、今でもマインツ大聖堂の南の聖堂で見られるそうですよ。

この後カール大帝はアレマンネン族の伯爵の娘ルイトガルドと再婚しましたが
彼女は800年に亡くなっています。

それ以外に子供を生んでいる愛妾が少なくとも5人はいまして
その中のゲルスヴィンダを妃とするむきもあります。
でも子供が生まれた774年頃にはヒルデガルドが存命中です。
いくら結婚制度がゆるいとはいえ神聖な帝国の皇帝が重婚するかしら?

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
コメント (1)
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神聖ローマ皇帝カール1世大帝妃 ヒミルトルーデ

2010-11-11 00:03:48 | ドイツ系王妃
                こちらは8世紀のドイツの貴族

まだ結婚制度がうるさくなかったらしい・・・
カール1世大帝妃 ヒミルトルーデ


742頃~780頃/在位せず

以前ハプスブルク家になってからの神聖ローマ皇后をご紹介したのですが
神聖ローマ帝国はもっと前からありました。
そこで帝国誕生からの皇后を紹介したいと思います。

そもそも神聖ローマとは…長くなるからものすごくはしょりますけど
395年に古代ローマ帝国分裂後、旧帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂します。
後々ビザンツ帝国となる東ローマはおいといて、西ローマ帝国は覇権争いの末476年に滅亡、
メロヴィング家が樹立したフランク王国が次第に勢力を増していきましたが
751年にカロリング家のピピンがフランク王となり、さらに勢力を拡大、
息子カール(シャルルマーニュ)の頃に西ヨーロッパのほぼ全てを掌握します。

当時のローマ教皇レオ3世は教皇の権力復活をかけて西ローマ帝国復活を思いつき
カールを皇帝に推挙、カールは800年に西ローマ皇帝として戴冠しました。
だから厳密にいうとまだ神聖ローマ帝国ではないのですが
キリスト教の最高峰である教皇がお墨付きを与える皇帝の神聖な国なわけだから…

で、カール大帝ですが3~6回結婚しています。
なぜに曖昧な数かというと、文献によって相手の女性の扱いが違うからです。

まずヒミルトルーデ、彼女も正式に結婚したかどうか不明です。
どちらかというと “ 内縁の妻 ” 的な要素が多いように思われます。

第一にアルザスの貴族らしいということ以外素性がほとんどわからないことですね。
彼女の名はほとんど文書に登場していないということです。

第二に、カールのフランク王即位の時にはすでに側にいたとされるのに
妃としての記録が一切無いことです。
カールの母ベルトラダは、ちゃんと王妃としての記載がありました。

第三に、同盟の証しとしてカールがランゴバルト王女デジデレータと
結婚することになった時も生存中で、しかも結婚式の時も側にいたらしいこと。
うーん…やはり正式な妻ではなかったくさいですね。

しかし、やはりカールとデジデレータの結婚後は宮廷から退けられたようで
一切の記録がなくなります。

ニヴェルの修道院で見つかった40代女性の遺体がヒミルトルーデとされているそうで
調査の結果770年以降までは生きていたようです。

お子さんもふたり生まれているのですけどね…
こんなに昔から家柄で正式な妃になれる女性となれない女性が分けられていたなんて…

ともあれあまり結婚に関してうるさくなかったみたいですね。
ローマ教皇レオ3世からして自堕落な生活を送っていたらしいからしかたないかも。

      

1年で里に帰されるとは・・・
カール1世大帝妃 デジデレータ


生没年不詳/ (神聖ローマ皇后)在位せず (フランク王妃)770~771

そんなわけで、カール大帝はヒミルトルーデがいるにもかかわらず
ランゴバルドとの同盟のためデジデリウス王の王女デジデレータと結婚しました。
が、両国の関係は良くなるどころか悪化し、翌年結婚が無効になりました。

フランク王国とランゴバルド王国はその3年後、本格的に戦争に突入します。

ちなみに、デジデレータの妹ゲルペルガはカール大帝の弟で共治王のカールマンと
結婚してまして、カールマンが亡くなった771年に、やはり故郷に逃げ帰ってます。

二人の娘が出戻りになってしまうなんて…ランゴバルド王のご立腹も致し方無し、
という気がします。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 堀越孝一氏『中世ヨーロッパの歴史』
      Wikipedia英語版)
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ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世妃 ヘルミーネ

2009-11-19 02:01:46 | ドイツ系王妃
自称皇后
ヴィルヘルム2世妃 ヘルミーネ・ロイス


1887~1948/在位せず

父親は現在のチューリンゲン地方を治めていたグランツ=ロイス公子ハインリヒ22世で
20歳の時にシューナイヒ・カロラート公子ヨーハン・ゲオルクと結婚しました。
夫は14歳年上で、13年後に亡くなりました。

        
1922年、ヘルミーネの息子がヴィルヘルムにお誕生日のお祝いを送ったのね。
亡命中のヴィルヘルムは嬉しかったのか息子を母親とともに
オランダのドールンに招待しました。
もう、誰? 「息子Good Job! 」とか言うのは?

前年にアウグスタを亡くしていたヴィルヘルム(この時63歳)は
2年前に夫を亡くしていたヘルミーネ(この時34歳)にすぐに惹かれて
彼女との交際を非常に楽しみました。

ヴィルヘルムはすぐにヘルミーネとの再婚を決意しちゃったそうで
子供たちや支援者たちの軽蔑もなんのそのでその年のうちに再婚してしまいました。
でもその後ヴィルヘルムが亡くなるまで仲睦まじく暮らしたということです。
良かったですね。

ところで、ドイツ共和国はヴィルヘルムを戦争犯罪人として引き渡すように
申し入れたそうですが、オランダ政府は断固拒否したんですって。
オランダのおかげで幸せな晩年があったと言えますね。

        
           ヴィルヘルム2世とヘルミーネと連れ子のヘンリエッテ
                     お幸せそうでなによりです


亡命政府内では、たぶんそう呼ばれていたのかもしれないけれど
ふたりは『皇帝』『皇后』と呼び合っていたらしいよ。
しかしドイツ国内はナチスが治めており、返り咲く可能性はなかったと思うんですけどね。
ヘルミーネは1927年に『亡命中の皇后(直訳)』という本を書いてますけど…

1941年、ヴィルヘルムが亡くなるとヘルミーネは前夫の領地シュレージエンに帰り
6年後に亡くなりました。
ヴィルヘルムの前妃アウグスタも埋葬されている、ポツダム宮殿近くの
アンティーク寺院に埋葬されました。

ちなみに、上の写真に写っているヘルミーネの連れ子のヘンリエッテは
ヴィルヘルムの孫フランツ・ヨーゼフと結婚しています。

(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』 Wikipedia英語版)
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