事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

ヘアーの不毛~その1「イングリッシュ・ペイシェント」

2008-07-20 | 映画

 日本は性表現においてずいぶんと遅れていると言われてきた。もちろんイスラム諸国などに比べればはるかに自由だろうが、「紅白歌合戦(思えばアナクロなタイトル)においてDJ OZMAのバックダンサーが“裸の肉襦袢”(笑)をつけて踊ったことで文科大臣が遺憾の意を表する」ような国なのだから。

 かつて野坂昭如が永井荷風(が書いたといわれる)の「四畳半襖の下張り」を雑誌に掲載して裁判になったり(有罪確定)、「恋の狩人」における日活ロマンポルノ裁判(無罪)が、映倫というものの存在を検閲ではないかと逆に露わにしたり……結果として残ったのは“行為としての猥褻”を問うよりも、“画像としての猥褻”を無条件に摘発する傾向だったと思う。ぶっちゃけた話、性器はもちろん陰毛も見せてはいけないという、世界でも稀なルールができあがってしまったのだ。

 そのため、画面のすみっこにでもヘアがあったら即修正。昔はフィルムに直接傷をつけていたが(ごにょごにょと白い線のかたまりがうごめいていたでしょう?)、合成して花瓶を前面に挿入したり、そしてのちには例のぼかしやモザイクが入ることになった。

 結果、日本のバカな男たちはヘアを観るために狂奔することになる。輸入雑誌(PLAYBOYとかPENTHOUSEとか)はその部分が黒マジックで塗りつぶされていたため、ベンジンだのバター(わははは)だのでそぉーっとふき取るという報われない作業に没頭し、「モザイクは目を細めて見ると消える」という与太話にわずかな希望を託したりした。

 つまり、日本においてはヘアがものすごくありがたいものに感じられることになったのだ。シャレじゃなくて不毛なことに。

Thomas  それが、いつの頃からか一般の男性週刊誌にまで「ヘアヌード」が掲載される世の中になろうとは。記念碑的な作品が宮沢りえの写真集「Santa Fe」(’91)なのは賛同してもらえることと思う。映画においても、医学指導、あるいは教育的(T_T)映画でしか観ることの無かったヘアは、まず芸術的価値があると評価された映画から解禁された。わたしがいちばん最初に“目撃”したのは、「イングリッシュ・ペイシェント」(’96 アンソニー・ミンゲラ監督)における、クリスティン・スコット=トーマスの入浴シーンにおいてだった。さすが、アカデミー賞受賞作だっ!

以下次号「美しき諍い女」篇へ。

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「ハンニバル・ライジング」トマス・ハリス著 新潮文庫Hannibal Rising

2008-07-20 | ミステリ

Hannibal 人食いハンニバル・レクターがいっちょまえに青春しておる。おそろしく不健康ではあるが、ちょっとものたりない。あふれるほどの日本テイスト(叔母の名はレディ=ムラサキ→紫式部らしい)はどんな発想かと想像すると、レクターの拘束衣とマスクが、日本の兜と鎧にそっくりだったから……違うか(^_^;)

レクターの異常性に“理由”を与えたのは果たして正解だったか疑問☆☆☆

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「ダ・ヴィンチ・コード」ダン・ブラウン著 角川文庫The Da Vinci Code

2008-07-20 | ミステリ

今さら、って感じ。読んでから観るべきだった、とつくづく思う。どうも興がのらないのだ。意表をつくことだけに血道をあげているような展開は、ちょっと安手の印象すら。映画の方が原作の読者向けにうまく脚色をしていることがわかる。

最大のアイデアは『キリストの子孫が現存していて、しかもそれがヒロインだった』というどんでん返しが、原作では「あ、そう」という程度の扱い。映画と文学は違うとはいえ、わたしははっきりと映画の方が娯楽作として上等だったと思う。まあ、原作のねらいはエンタテインメントというより情報提供だろうから……

この主人公にトム・ハンクスをキャスティングするとは☆☆☆

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「20世紀少年」 浦沢直樹著

2008-07-20 | アニメ・コミック・ゲーム

20th02 どう考えても単行本を買わせるようにできている。ストーリーの面白さに一気読み。“ともだち”の正体を知ってから再読。しかしその正体が“あいつ”でほんとうにいいのかともう一回。計3回は読まなければならないように周到につくってあるのだ。

何を語るか、はともかく、どう語るかという点で浦沢直樹は文句なく現代最高の漫画家。来週まで待ちきれない!このイライラをどうしてくれる!と読者をいらつかせ、だから結果的にわたしのような人間は完結まで待ってから読むことになった。われながら我慢強い。

しかしこのシリーズを、途中でギブアップしていたのには理由がある。「ともだち」に熱狂する、無邪気に微笑む信者たちの描き方があまりにリアルなので、読み続けるのがしんどくもあったのだ。これまた、さすが浦沢というべきか。

1960年早生まれの人間であるわたしにとって、ケンヂやオッチョなどの登場人物はまさしく同級生。’70年の大阪万博に行った人間の優越感も、行けなかった人間の悔しさもよく理解できる(わたしはもちろん行けなかった方)。オトナならそんなことに拘泥するのは馬鹿馬鹿しい話だが、こどもにとっては一生を左右する一大事であり、世界を滅亡させる動機にもなりうることも納得できてしまう。

万博だけでなく、アポロの月面着陸(月に降り立ったアームストロングではなく、周回していたコリンズをとりあげたのはうまい)、平凡パンチ、スプーン曲げ(これはちょっと時代が違うのを強引にひっぱっている)などの60年代末~70年代初めの地点と、オウムを経過した世紀末を往復する設定はうなるほどうまい。夢見た世界が、科学を修得した人間たちによって歪められていく失望は、わたしたちの世代でなくても共有できる部分だろう。

そして、宗教によってだますなら、スマートにだますのならまだしも、ずさんで、滑稽なままでもわたしたちは十分にだまされてしまう苦みが、あの奇怪で醜悪なロボットに象徴されている。

さて、8年間にわたって連載された長大な原作がこれから映画化される。「Death Note」と同じようにしんどい作業になるだろう。ともだちの正体をめぐる二転三転を、原作を読んでいる人間と、まだ世界観すら把握していない観客の両者に説明しなければならないのだから。“ともだち”のケンヂに対する強烈な愛憎を画面に表さなければならないのだ。どうする東宝。どうする堤幸彦。さぁーてキャスティングをチェックすると……おっとぉ!あいつが“ともだち”かぁ!

映画版の特集はこちら

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