「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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三郎さんの昔話・・・遊 女

2010-11-25 | 三郎さんの昔話

遊 女

 大正初期の田舎の町では大店の二三の商人と地主が裕福で、その他の商店や小作百姓も貧しかった。それでもその家業を継いだ者はまだ良いが、弟者で職人になっても仕事は少なく、日雇い稼ぎなどは特に忙しかった。それは産業が乏しく建設的な事業も何も無く、ただ昔ながらの延長であった。
 貧乏人の子だくさんで楽しみが少ないから子供が多く出来る。
 与作は弟者で親からの遺産もなく人並みな貧乏暮らしで、女房に子供が四人の六人暮らし。
 仕事は春茶の時期にけん茶の手揉みが上手で約一か月、秋から暮れに掛けては酒屋の酒仕込みの倉男に約三か月で、その他は日雇い。
 夏ばの仕事の無い時は吉野川で川魚を取っての川漁師で細々と暮らしていた。
 貧しくとも家族が元気で過ごせれば幸せだが、与作は長男を理髪師の職人にすべく大阪に弟子入りさして四年目、職人上がりも間近になって胸が悪くなって帰って来た。
 家で養生し医者通い、鰻も食わして大事にしたが病気はなかなかによくならず、お医者の薬代や物入りで借金は次第に増えて、二年目にはお医者で薬も貰えなくなった。そうかというて病人に薬も飲まさず見殺しにはできん。さあ困った。
 二番目の女の子、梅は娘盛りの十八で器量良し。家の事情納得の上、町の小料理屋に奉公さしたが小銭でらちあかず、半年後借金払いを済ますため、しかたなく人の世話で泣く泣く二か年の契約で金を借り大阪の遊女に出した。
 その後長男は病気がつのり一年余りで他界した。遊女になった梅は器量も良く優しいよい売れっ子で真面目によく勤めたが、契約の二年を過ぎても暇をくれずができない。
 お人好しでまたい与作も期日が過ぎた娘を早く帰らしたくて、元の世話人に頼んで交渉するが、屋店の主はなかなかのてんくろうで、当人が体調が悪く休んだ日の食い代とか小物買いの貸金が溜まっていて、その仕舞いが済まんで暇やれんと文句をつけて難しい。
 そのうちに梅に本当に惚れて好きになった職人が、子供ができなくてもよい、梅と暮らしたい、少々の身金は払う一緒になってくれという人が、主の女将に交渉するがてんで聞き入れん。
 梅の手紙で世話人に頼むがラチがあかん。与作さん弱り切って、町でも理屈も喧嘩もえろうて分立ちで世話好きの数元に頼みに来た。
 契約期限を一年余り過ぎたのにどうしても暇をくれん。えい男も出来て金を払うと交渉してもてんで手合わず暇をくれん。何とか談判して梅を救い出してくれまいか。貧乏してあのえい子に苦労をかけた、と泣く泣く頼まれた数元さん、頭を傾けて考え込んでいたが、「うん、ようし、暇を取って来う」と引き受けた。
 さて数元さん、考えて作戦練った。まずお金持ちで有志の友達に頼んで警察署本官刑事の名刺を手に入れて、半月かけてチョビ髭生やし、いでたちは壮士芝居(新派)に出て来る刑事の恰好。鳥打帽にステッキついて着物の上にあつし(ラシャで筒袖の上っぱれ)をあおり、革靴履いて梅の女部屋へ乗り込んだ。
 店の戸口で肥えた年増の仲居が異ないでたちに変な顔しながら、「ええ子がおるがどうぞね」と。
「そんな事じゃない、女将に話があって来た」と言うと、「どんな用じゃろか」と。「お前じゃわからん、女将は居るか」と少しきつく言うと、うろたえて奥へ入る。用人棒のような男が内らでうろちょろする。
 仲居が出て来て、「女将さんはちょっと出て、留守ですが」と。「そんなら戻るまで此処で待たしてもらう」と店先に腰をすえてステッキを片手に立ててどっしりとした。
 中でそわそわしていたが暫くして仲居が来て、「そこはお客も来るのでこちらへ」と狭い部屋に案内されて、そこで胡座をくんで巻きたばこを吹かして待つこと二時間余り、やっと入って来た。見ると五十前後の効きすぎた玄人肌の女。
 「お待たせしました。この家のあるじ松弥ですが、御用は何でしょうか」。「わしはこういう者じゃが」と名刺を出して見せて、「ここに年期であがった梅の遠縁じゃが、転勤から本署に帰って来たら、この事情じゃ。年期が明けて一年余りもたつに暇が出んとは腑に落ちん。何でか訳を聞こう」とねめつけた。
 「梅は年期は過ぎましたが病身で、休んだり薬代や何やかやで長うなっちょります」と。数元さんりんとした声で、「女将、そんな嘘を言うな。梅は真面目で器量も良うて人気もあり、よう稼ぐ子じゃと隣近所の店でカッチリ調べてきちょる。えいかげんな嘘を言うてごまかすな。なんなら本官の親友が港署に居るが、こじゃんと臨検してもよいが」
 女将は少しあわてて、「まあまあ、そう荒立てず少々待って下さい」、「契約期限を過ぎて一年半も稼いじょる。不法じゃ。稼ぎ高を精算して貰わにゃいかんが、すぐには出来まい。本官はわざわざ連れに来たがじゃ、梅を連れて帰る、此処へ連れて来い」とねめつけたら、「そう言われてもいろいろと準備が」、「いや、何も支度はいらん、着のままでよい、早ようしてくれ、まだ本署に用件があるけ」とけしかけた。
 女将は少しうろたえ気味で、「少々お待ちを」と出て行き、半時間ほどたって、垂れ髪を後ろでもくい普段着で小さな風呂敷包みさげて、梅が女将の後について出て来た。
 女将に、「梅は連れて帰る。期限後の精算書は本官宛に送れ、本官が責任を持つ」と言うて梅に手を差し延べて、「梅、女将との話はついたけ、さあいぬるぞ」と梅の手を取ると、梅は涙ぽろぽろ泣き声で「ううん」と。ひょろつく梅を抱えるようにして店の土間に出て数元さん、女将を振り返って「失敬した」と言い残して、夕方近い色街を二人電車道へ急いだ。
 歩きながら梅はくつろいだが少し不安でもあり、「おんちゃん、わざわざ来てもろうておおきに、でも後は心配なかろうか」と。「そう心配すな、おらがガッチリ談つけちゃーるけ、安心していのう。長いことしょう難儀をしたねや」といたわりながら、やっと電車に乗り、セコンドの時計を見て、「あっもう四時半過ぎちょる、船が出てしもうた、仕方ない何処かで泊ろう」と二人は電車を降りて港近くに宿を取る。
 夕食後、梅はやっとくつろぎいろいろと話し合う内に、色街娼妓街に閉じ込められて身体を売る女郎たちの悲惨で残酷、むごたらしい話をしんみりと夜更けまで語る。
 翌日はゆっくりと身体を休めて午後三時半の汽船に乗り、波に揺られて一晩過ごし、朝十時過ぎに高知港に着く。市内で干物などを少し買って、車や人力車を乗り継ぎ日が暮れてやっと与作の家に梅を連れ帰って渡す。
 与作夫妻は喜びと悲しさで梅と抱き合い、「難儀を掛けたねや」「うるさかったろう、よう戻ったのう」「ととやん、かかやん」と親子三人涙ぼろぼろと。「でもまあ元気でよかったよかった」と鳴咽は止まらなかった。
 その後、梅は女郎屋もどりは恥ずかしくて家でひっそりと養生し、苦労の疲れを癒していたが、梅に本惚れの職人が事情を知って文通していたが、間もなく大阪からその職人は梅の家に来て、二人親に、「梅さえ居てくれたら何もいらん、大事に一生可愛がる、嫁に下され」と懇願する。
 梅も、「この人じゃったら共に暮らせる。地元には居れん、親と離れていても二人で精出して孝行するけ」と。親子三人納得し安心して、職人は梅を女房に貰って大阪に連れて帰った。その後は二人は仲睦まじく暮らし、里の親らに事ある度に孝養を尽くした。
 現在、梅は八十余年の長寿を静かに過ごしているが、女郎での苦労話は大阪の宿で数元さんに話した以外、誰にも語ろうとしない。
 今から六七十年も前の話であるが、「貧ほど辛いことはなし」、「私しゃ売られて行くわいな」は少なくなっても昭和まで続き、敗戦になって娼妓が廃止され、お女郎が解放された。半世紀たつと昔のことになって難儀なことは忘れられた。

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