「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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三郎さんの昔話・・・祖父母の思いで

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

祖父母の思いで

 祖父の寿太郎さんとは、父宇右エ門三十八歳、母貞二十九歳時の長男として生まれ、四つ違いの弟百次と二人兄弟で育った。
 私が祖父母を知りそめたのは、父が別居の関係で六、七歳の頃であろう。
 当時祖父は八十歳ちかくで、母屋の下で泉のそばに小さな三間ほどの草屋の隠居で、小さな囲炉裏に自在鍵を吊し、茶瓶を掛け薪をくべて燃やし、あぐらを組んで座り暖を取りながら、キセルに刻み煙草をつめてうまそうにいつも呑んでいた。
 士族生まれの祖母は、その横に骨の太い肥えじな体を几帳面に正座して、いつもおっとりとしていたが、人の動作や言動にひだをとる、なかなかに難しい士族育ちの祖母であった。
 寿太郎爺さんの体格は、豪傑親父には似てなくて、どうも母貞さんに似て痩せ形で、すらりとしたやや小柄であった。
 顔立ちは面長で、若い時は男前であったろうが、老人になった顔はみっちゃ(つぼくろの小穴に皺)で、幼い私には不思議なので、「おじいさんの顔はどうしたが?」と尋ねたら、「この顔のくぼくぼはの、昔疱瘡という病気がはやって顔にできものができて、熱が高うてみんな死によった。
 見舞いに行った人にその病気が移って患ったが、病気を貰うた人は軽くて死なざったので、疱瘡がはやると若い者はみんな病気を貰いに行った。お爺いも疱瘡を移して貰うてきて顔に出て、ぶすぶすつえたが割と事なく軽うて済んだ。
その病気のあとがこの顔よの。」と話してくれた。
 祖父は律儀で正直な働き者であった。若いとき何か誰にでもできない事を身に付けたいと思い、算盤とお灸を知人に、仕事の出来ない雨の日や夜に熱心に教わり、算盤は(当時の百姓は算盤は知らなかった。)割算・掛算すべて会得していた。お灸も色々と知ったが、中でも心臓の灸は名灸で、多くの人を助けることができた。この名灸は家伝となって父、私と続いている。
 寿太郎さんが二十歳の時に両親はすでに老人で(当時は粗食で老化が早く、今とは十~十五歳の差がある。)、仕事もできず、一人で精出して働き、自作農になってから嫁もらいたいと働きつめて、田畑に山林もでき、やっと自作農になった時は三十歳を過ぎていた。
 さあ嫁を貰おうとしたが(当時の結婚は男は二十歳過ぎ、女は十七~二十歳ごろまでで、早かった。)、自分が年が行き過ぎてなかなかに嫁が見つからんので弱っちょったら、伊予から娘が働き口を探して来ているとの話を聞き、行ってみた。
 西条藩士の娘で年は十七、名は縫、体はがっちりと丈夫そう。「士族の娘が何故?」と聞くと、「ご維新で指南役の父半蔵はお役後免となり、その上二度の火災でたくばえも無くなり、やって来た。」と。
 寿太郎さん、同情となにへん気に入って話を進め、やっと納得して嫁さんにもらってきた。時は明治十四年で、寿太郎さん年三十四歳であった。
 さあ大変、すぐから子供が出来始めた。縫さんは仕事どころでない。長女、次女、長男と二つ違いで十人の子やらいで、子育てに大わらわで、百姓仕事は寿太郎さん一人で大難儀。
 そのうちに、弱い子が病気はするは、中でも八歳の六男から下へ四人の子供が桑の実が元で悪病に罹り、ばたばたと良い子が死んだ。その時はほんとに悔やまれたと。
 そんな状態で一人で働き、老母と子供で十三人の大家族で借金はできる。とても払いはできんので田畑や山も借金のかたにとられて貧しくなり、長男数元が若いしになったとき、大石一番の貧乏家に落ちていた。
 生活が困難な当時、一般に子供は二人か三人で後は始末していたが、祖母の縫さんは生まれる子は育てる。天の授かりものじゃと、厳しく愛しんで子育てに励んだ。
 その甲斐あって六人の孝行な子や孫たちに見守られて、祖母は一九三六年に七十二歳で、祖父は一年後に、五十六年連れ添うた愛妻を求めて九十歳でこの世を去った。
 寿太郎爺さんの好物は煙草と酒が少々であった。縫婆さんの得意は山菜料理であった。
 祖父母は長男の初孫、私の幼少をとっても可愛がってくれて、ありがとう。

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