「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

三郎さんの昔話・・・立ちんぽ(いたどり)

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

立ちんぽ(いたどり)

 町に絵かきでインテリーですらーと痩せ高で男前で、すこーし耳の遠い人好がいた。
 その人に話し掛けるに皆な大きな声で高木さんと言ぅとツン宗さん(耳の遠い高木さん)は小さい優しい声で「ふーんなんかねー」、と静かに話をするおとなしい人柄じゃったが、絵も描かず暇な日に時折、友達で年下の干物士職人の一め(はじめ)の仕事場にきては、おどけた話をする。
 今日は天気がよいのにツン宗さん静かーにやってきてつんぼの小声で「精出してやりょるのーし、あんまりやりすぎて患いなょ」、ゆうて暫く檜板けずりを見ていたが、ふっと小声で話し掛けた「私が若い時の春イタドリの生える時期にのぅし、近所の若い娘がチックト私を好きになって惚れちょったわょ。
ある日のこと、私がおとなしいと一人見込んで『ツン宗さんイタドリ取りに行こう』、と誘われた、その日は描く絵ものうて退屈しちょったけ『おぅ行こう行こう』、と二人で出かけて、こえ山を歩き回ったが、まだ少っこし早ぅてイタドリは芽だてでこんまい娘は『まだしょう細いねぇ』、と言ぃながら、探し回っている、ツン宗さん小便ばらぅかとして、ふっといらんことを考えついた、ホゥスぐちの竿を出してブリブリと振っておこらしておいて、娘に声掛けた『そこらの立ちんぽは細っそいか』、うぅん『そんならこっち向いて大きな立ちんぽが此処にあるが食べたら美味しいがどぅぜょ』、と言ぃながら娘に向けて振りかざした、そしたらのぅし、娘は遅れて大きな目玉でギョロッと見てビックリ飛び上がり、『ツン宗さんのバカーバカー』と大きな泣き声を出しもって山を駆け下りてしもたわ、それでのぅし、さっぱり娘に嫌われてしもたぜょ。
それから道で娘と出会ぅたら、私を見てぶくぶく含み笑いしよる、私しゃ一時しょう弱ったぜょ。
いらんことしてばっさりいた、おかしな話よのぅし」と言ぅて、フッフーゥと小声で笑う。
 仕事手を休めて聞き入っていた一めさん「そりゃまっこと、いらんことしてばっさりいたのぅし」、と笑いながら仕事がやっと手に就いた、が、ツン宗さんの言ぅこと「どうせあのこ(娘)もやがて誰かの立ちんぽ食べるがじゃけ、一回ばぁ練習しちょいてもえいのにのぅし」ふふぅと笑う、一めさん「そんなこと言ぅたち、き娘がぽっかり大きな立ちんぽ見せ付けられて、そりゃーまっことびっくりするぜょ」、ハッハッハァーと二人で笑いよる。

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三郎さんの昔話・・・浮姫物語(夢のお伽ばなし)

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

浮姫物語(夢のお伽ばなし)

 前書き、夜寝るまえにわたしは比羅明神様の額に二礼して手を合わし、今日もお水を戴き、風呂に入り、流し、水のお陰で生きております。
 有り難うございます。と頭をたれて床に就きます。
眠りの中では色々な夢を見ますが、夢はすぐ忘れてしまいます、昨夜は不思議なお伽の夢見ました。
   その夢は◎昔、富士川の流れの中ほどに小さな村がありまして、その村は梅雨時や大雨が降ると川の水があふれて田畑が荒らされて村人は困っていました。
村人は色々と話し合い悩んだ結果、こりゃ水神様のたたりじゃけ鎮めるために女の稚児を選んで、人身供養しようと話がきまり、村の小さい女の子の中からくじ引きで選びました。
そしたら貧しくて子沢山の家に生まれて間もない三女がくじ引きで当たって選ばれた。
両親は可愛い子供を泣く泣く、村人のため人身供養にと出した。
 水かさの多い川中に高い抗を立て三方に網を引き張って安定し、竹かごの中に女の子を包んで入れ、立てた抗の先につるし上げた。
 村人は川原から人身供養の稚児を哀れと手合わし拝んだ。
その夜また夕だちで大雨が降り川水は増水して立抗も竹かごの子供もおし流された。
  風雨に荒れくるうた濁流で稚児は溺れ死にそうこれを見た弁天さまは稚児を哀れと思い救うた、稚児を乗せた竹かごはスィスィと浮いて流れ流れて大海へ、翌日は晴天で穏やかな海上に稚児を乗せた竹かごは静かな波にゆれていた。小舟に夫婦で乗った漁師が河口の海で、浮いた竹かごを見付けて近くによって見たら、竹かごの中に女の子がおる、これは不思議なこと、子供のないわしらに弁天さまがおさずけ下さったありがたいことじゃと、だいじに救い上げ抱きしめて家に帰った。
さてこの子の名前は、海水に浮いていた授かり子じゃけ浮姫と名付けて大事に育てようと決めた。
その後、可愛がりほぅほぅとだいじに育てるうちに浮姫はすくすくと成長し月日はたった。
この浮姫は賢くて優しくて美しく順に育ち十七歳を迎えた。
天才美女で貴賓があり人々に慕われた。
時にある庄家の跡取り息子で立派な若いしにぜひ嫁にと所望された、育ての両親が浮姫に尋ねてみたら、えい若いしのもとに嫁入りしたいが、私には事情があって行くことが出来ない。
  それは富士川ぞいの荒れる村から水神様を宥めるために人身供養に出された身で既に命のない体を弁天様に助けられ、成人したら竜宮城の弁天様にお仕えすることに決められております。
来る八月の十五夜に竜宮に出仕いたします、お育て戴いたご恩は決して忘れません。
これから以後の孝養は別世界からお二人様の健康と幸せ長寿を祈り続けます。
と申し上げて、八月十五夜の満月に吸い込まれるように浮姫の姿は消えて行きました。 浮姫を育て上げた夫婦は離別を悲しみましが、その後は浮姫と楽しかった月日の思い出をむねに描き浮かべながら健康で幸せに年月を過ごして長生きして、共に白髪のお爺さんとお婆さんになりました。
縁起物の床飾りのじょうと爺さんと、じょうと婆さんのはじまりでしょうか?消えなかった夢。

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三郎さんの昔話・・・富美子

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

富美子

 母の弟、照吉叔父が妻の多利子と連れ子の富美子を伴って、大阪から本山に帰郷したのは、私が中一の春に、大病して手術後の病弱体の秋頃かと思います。富美子は小学五年生にしては大柄で、青白い顔で言葉少ない、病身げなおとなしい子でした。
 その時期に私は肋膜になって、学校も休んでお医者通いで、滋養を取って体調を治すべく山羊を飼って、毎日道草を刈ってきて世話をして、乳をしぼって飲んでいた。山羊の乳は沢山出るので、青びょうたんの弱そうな富美子にも朝晩飲ました。
 弟の辰三が生まれて半年余りで可愛い盛り、叔母と富美子は何時も辰三を連れて行き、可愛がってくれた。「叔父の家は、早船の前で近かった。」辰三の歩き始めも富美子の家で皆な喜んだ。 私の病気は良くなっていても春秋の季節変わりには盛り返して悪くなり。栄養に血が増えるとかでマグロのさしみを毎日食べ、ブルトーゼー、肝油ドロップを飲んで、体を養いながら養生したが良くならん。
 それで父は薬じゃなおらん、灸をすえて焼きなおすと、たまるか毎日日にち、背中にはしご灸を肩からお腰まで肋膜のやいとは胸の後ろに十ヶ所余りに朝から昼過ぎまで、盆、正月、神祭だけ休みでその他の日々は、灸をすえつめた。それで母の家事は午後が忙しいので、富美子は学校が上がるとすぐ辰三の子守り、日曜や休日は朝から晩まで可愛がって見てくれていたが、一年少しで弟の大作が生まれたので、辰三は主に叔母が見てくれて、富美子は大作の子守りに専念した。それで富美子は中学を卒業するまで三年近く、大作を子供のように可愛がって世話をしてくれた。
 義理立ての気分も、少しはあったかも知れないが、ほんとに私の妹のように、子守りや家の手伝いをよくしてくれた。
 中学卒業後まもなく筒井の仕出し屋に奉公に出て三年余り勤めて、高橋の菓子屋に女中に転職して高橋の家族には、料理も上手で好かれていたが一年足らずで、風邪が元で少しの患いで十九歳の娘盛りの若さで、短い人生におさらばして逝っちゃった。

 故人、富美子の短い人生の内で、楽しそうに見えたのは、弟の辰三と大作の子守りで、我が子のようにあやして、微笑んでいた時期であろう。
罪亡き従姉妹の若死にを痛む。

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三郎さんの昔話・・・刀と数元さん

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

刀と数元さん

 嶺北は四国の中央で、吉野川の上流、河口から百四十キロ程の地点であります。
 昔、源平の合戦当時は、四国の武将は平家方に属していました。源平に敗れた平家方は源氏の討伐を逃れて、山深い山里に来てひっそりと暮らしたそうです。
 その敗戦の武将たちが逃れてきた山里が、嶺北の大杉の立川(大豊町)や森の和田(土佐町)であります。
 そのような関係でこの地区には刀剣がたくさんありました。
 百姓をあきらめ、町に出た数元さん。これらの刀を買い集めてひと儲けしようと骨董商の許可を受け、少ない資金で立川や和田を回って安い刀を買い集めた。
 さて売りさばくに素人では善し悪しがわからん。高知へ出て刀の鑑定を受けようと鑑定士さんを捜した。やっとわかった。当時の鑑定士さんは元陸軍中将つちや(土屋?)閣下でありました。
 数元さん、恐れ入ってお願いして、持って来た刀を差し出すと、中将閣下は持参した刀を一、二寸抜きかけて見ると、カツンと納めてガラガラと放り返す。少し見てはガラガラで、しまいに「こんななまくらは駄目。」と言うと、話す間もなく立ち去る。
 数元さん仕方なく帰るが、数元さんなかなかにしぶとい。七、八本買い集めると、中の川越しに刀を担いでテクテク。刀は鉄で重い。四、五里の山道は肩に食い込んで大変であったが、しぶとく通い詰めた。
 そのうちに数元さん、中将閣下の弟子になって習おうと思いたち、お願いしたが、なかなかに「ウン」とは言ってくださらん。
 そこで数元さん、四季おりおりの山の物、栗やきのこ、山芋、雉、小豆など、行く時々に持参してご機嫌をと、しぶとくお願いしていたら、中将閣下も数元さんのしぶとさを見込んで、やっとお許しが出た。
 それからは中将閣下に接しても、割となごやかでぼつぼつと色々な事を教えて下さるようになった。
 持参した刀の内に、たまに見所のある刀に出会うと静かに抜いて眺めながら、古刀とか新刀とかの見分け方、生産地及び刀匠名、刀の出来の善し悪しなど色々と説明して下さる。
 そのうちに、閣下自前の名刀なども見せ、教導を受ける。その他、掛け軸や骨董品に至るまで、様々な教えを受けること三年あまり。
 数元さんの熱心さと頭の良さを中将閣下に特に気に入られて、外弟子ながら閣下の一の弟子ということになる。
 数元さん、鑑定士になることを周りの人から薦められたが、学歴が小学四年ではどうにもならず、それに金も無くて諦めた。
 その後、中将閣下が他界されてから、高知や山田の骨董商人が刀や軸をさげて数元さんに見てもらい、値付けに来ること度々でありました。
 終戦後、進駐軍が日本刀の整理にかかり、県でも民間から刀剣を全部出さして、良いものだけ残し、その他のものは廃棄処分することになりました。
 そのとき県は鑑定士を選びました。数元さん免許はなかったが、つちや中将閣下の一の弟子ということで呼び出され、刀剣の選定に参加しました。
 その時、なまくらで廃棄となった刀は、薪くろに積み重ねたものが幾くろもあったそうです。日本には刀が如何に多くあったかと驚くばかりです。
 戦時中日本が侵略戦争で中国へ攻め進んだ時、南昌一番乗り、不死身曹長川田信太郎の名は講談社の絵本に載りました。その義父芳吉は高価な日本刀を買って送った。
信太郎その刀を使ってみて、すぐ送り返してきた。 理由は、この刀は人を斬ったら曲がりくねって鞘に納まらんということでした。
 しかたなく兄の数元さんに頼ってきた。数元さん心当たりを詮議して、古刀でこれなら大丈夫の刀を選び出し、芳吉に買わして信太郎に送った。刀は斬れるし狂いもなく、信太郎は感服した。
 終戦になり、帰ってから信太郎は、叔父の数元さんが鑑定し元陸軍中将つちや閣下、一の弟子であったことを知り、その人間性に惹かれて仲良しになったが、戦争の疲れが出て、若くして信太郎は帰らぬ人となりました。
 数元さんが言いました。日本刀は源平当時の古刀が最高である、と。

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三郎さんの昔話・・・誕生(父)

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

誕生(父)

 時代は大正の末期、住まいはその日稼ぎのあばら家。当時は雨でも降って主に稼ぎがなく金が無うても少しもこまらん、町のお店に行って「後で払うけ「盆暮れ」貸しちょいて」ゆうて米、味噌醤油、雑魚、雑貨品となんでも借りてきて生活が成り立つ、ほんとに気楽に生活が出来た、のんきな時代。当時はテレビもラジオもなく新聞を取って読むのも、ほんの一部のお金持ちだけで、情報やうわさは口ごめで人と出会うたら話し合うて伝達するのが常識であったが、特別なことは素早く伝わって中の人がみんな知っていた。
 当時は働き盛りの男でもお百姓以外は毎日働くほど仕事はなく、まして貧乏屋の専業主婦の金稼ぎなどはなく炊事洗濯、子育てで昼間の暇な時は近所隣の女ご同志が寄り合って、亭主や子供のこと人のこごとや噂話で日々を過ごしていた。
 さて昼さがり毎日くる母の友達の相撲取りばぁ大きなおばさんの「さかやん」が爪先歩きで身体ごよごよ手は小振りでやって来て「亀やん調子はえぇかょまだ出来そぅにないかょ」、と大きなかすれ声でやってきた。
母は弟をみごもって臨月が近かった、小柄な体に大きなおなかを抱えて家事が一段落でやっと縁側に座った時、母は「もうまあできにゃいかんのに中々でてこん腹は太る一方でよわったぜょ」、とさかやんの言ぅこと「そぅ心配しな亀やん、はいったものはどうせ出てくらゃよ」、と。それを聞いていた。
ぼん日頃おまんの弟か妹がもうすぐできてぼんはお兄ちゃんになるがぜよと聞かされていたが、さてあかちゃんはあの大きなおなかからどうして出てくるのかなぁと不思議で、思い切って聞いてみた「おかやん、あかちゃんは何処から出てくるの」と、それを聞いた母は少しためらっていた、するとさかやんが言ぃだした「ぼんは桃太郎の話はしっちゅうろぅ」、「うーん」、「桃太郎は大きな桃がぱっくり割れてぽっくり出てきたろう、あれとおんなじよ。
おかやんのぽんぽがぽっくり割れて出てくるがょね」、「ふーん痛いろうねぇ」、「そりゃ痛ぅて大難儀よ。
ぼんができる時もお産がえらうて、あの(指さして)障子の上の梁へカスガイを打ってロープを引き、それをおかやんは座って引っ張ってウンサウンサと三日も難儀してやっと生まれたがぜよ」と、ぼんは「ふーン」と感心して聞いていたが、まだ心配で「割れたおなかは奇麗になおるが」と聞くと、さかやんは「そりゃなおらざったら大ごとよ。
なおるけんど大事に寝て養生したら、三、七、二十一日したら元の体になるけ、うんと言ぅことを聞いて手伝うちゃりょ、えぇかね」。ぼんは「うんうん」、と感服したが、まだ一つがてんのいかんことがあった。子どもはおかやんのぽんぽから、どうしてできるよぅになるのかなぁ?

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三郎さんの昔話・・・誰が偉い

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

誰が偉い

 男と女の問答。「A男」「B女」
「偉いのは男じゃろうが」
B「偉そうにするのは男で、本たい偉いのは女じゃ」、
A「そんなことはあるか男は毎日日にち働いて女房や子供、親までに気をつこうて家族を養うために一生けんめい働きよるぞ」、
B「そりゃそうじゃけんど、男が働けるように毎日食事を作って食べらし、身の回りの洗濯や 身ともないように気をつかい、夜は充分に相手をしてご機嫌をそこねず 気分良ぅ寝付けて、働けるように一生懸命に勤めよるのは女ごぜよ、偉そぅに言ぅたら はじまるまい」、
A「女ごも中々理屈があるもんねゃ、男はいっつも働きながらチットでも金がよけ取れて渡世が良ぅなるやぅに考えて一生懸命にやりよるがぞ、女ごは知るまい」、
B「そんなことは始めから知っちゅう、女はよぉう考えて、男を上手にあやつって精出して働かさしてせっぱい渡世を上げて、自分も子供も楽に暮らすことじゃ、男が偉そうに力んだところで男の強いのは力と いらんことを する時だけじゃ」、
A「そぅ言ぅたちこの家の主も 戸主もおらじゃけおぼえちょけ」、
B「よぉう心得ております、力みたいばぁ力みなぁれ 男がなんぼ力んでも働きと種付けだけで、女のやぅに子供を生んだり育てることも、ろくにできまい、その証拠に子供が大人になったら、どの子も父親などいらん、皆なお母さん、お母さんと慕いよるわ」。「それに日本の国の元は天照らす大神とゆう女神が初めて国を開いた、今でもイギリスではエリザベスの女王さんが一番偉いろう」。
A「こりゃまっこと口だけは女が本たい偉い」、「まいった、まいった」。

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三郎さんの昔話・・・祖父母の思いで

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

祖父母の思いで

 祖父の寿太郎さんとは、父宇右エ門三十八歳、母貞二十九歳時の長男として生まれ、四つ違いの弟百次と二人兄弟で育った。
 私が祖父母を知りそめたのは、父が別居の関係で六、七歳の頃であろう。
 当時祖父は八十歳ちかくで、母屋の下で泉のそばに小さな三間ほどの草屋の隠居で、小さな囲炉裏に自在鍵を吊し、茶瓶を掛け薪をくべて燃やし、あぐらを組んで座り暖を取りながら、キセルに刻み煙草をつめてうまそうにいつも呑んでいた。
 士族生まれの祖母は、その横に骨の太い肥えじな体を几帳面に正座して、いつもおっとりとしていたが、人の動作や言動にひだをとる、なかなかに難しい士族育ちの祖母であった。
 寿太郎爺さんの体格は、豪傑親父には似てなくて、どうも母貞さんに似て痩せ形で、すらりとしたやや小柄であった。
 顔立ちは面長で、若い時は男前であったろうが、老人になった顔はみっちゃ(つぼくろの小穴に皺)で、幼い私には不思議なので、「おじいさんの顔はどうしたが?」と尋ねたら、「この顔のくぼくぼはの、昔疱瘡という病気がはやって顔にできものができて、熱が高うてみんな死によった。
 見舞いに行った人にその病気が移って患ったが、病気を貰うた人は軽くて死なざったので、疱瘡がはやると若い者はみんな病気を貰いに行った。お爺いも疱瘡を移して貰うてきて顔に出て、ぶすぶすつえたが割と事なく軽うて済んだ。
その病気のあとがこの顔よの。」と話してくれた。
 祖父は律儀で正直な働き者であった。若いとき何か誰にでもできない事を身に付けたいと思い、算盤とお灸を知人に、仕事の出来ない雨の日や夜に熱心に教わり、算盤は(当時の百姓は算盤は知らなかった。)割算・掛算すべて会得していた。お灸も色々と知ったが、中でも心臓の灸は名灸で、多くの人を助けることができた。この名灸は家伝となって父、私と続いている。
 寿太郎さんが二十歳の時に両親はすでに老人で(当時は粗食で老化が早く、今とは十~十五歳の差がある。)、仕事もできず、一人で精出して働き、自作農になってから嫁もらいたいと働きつめて、田畑に山林もでき、やっと自作農になった時は三十歳を過ぎていた。
 さあ嫁を貰おうとしたが(当時の結婚は男は二十歳過ぎ、女は十七~二十歳ごろまでで、早かった。)、自分が年が行き過ぎてなかなかに嫁が見つからんので弱っちょったら、伊予から娘が働き口を探して来ているとの話を聞き、行ってみた。
 西条藩士の娘で年は十七、名は縫、体はがっちりと丈夫そう。「士族の娘が何故?」と聞くと、「ご維新で指南役の父半蔵はお役後免となり、その上二度の火災でたくばえも無くなり、やって来た。」と。
 寿太郎さん、同情となにへん気に入って話を進め、やっと納得して嫁さんにもらってきた。時は明治十四年で、寿太郎さん年三十四歳であった。
 さあ大変、すぐから子供が出来始めた。縫さんは仕事どころでない。長女、次女、長男と二つ違いで十人の子やらいで、子育てに大わらわで、百姓仕事は寿太郎さん一人で大難儀。
 そのうちに、弱い子が病気はするは、中でも八歳の六男から下へ四人の子供が桑の実が元で悪病に罹り、ばたばたと良い子が死んだ。その時はほんとに悔やまれたと。
 そんな状態で一人で働き、老母と子供で十三人の大家族で借金はできる。とても払いはできんので田畑や山も借金のかたにとられて貧しくなり、長男数元が若いしになったとき、大石一番の貧乏家に落ちていた。
 生活が困難な当時、一般に子供は二人か三人で後は始末していたが、祖母の縫さんは生まれる子は育てる。天の授かりものじゃと、厳しく愛しんで子育てに励んだ。
 その甲斐あって六人の孝行な子や孫たちに見守られて、祖母は一九三六年に七十二歳で、祖父は一年後に、五十六年連れ添うた愛妻を求めて九十歳でこの世を去った。
 寿太郎爺さんの好物は煙草と酒が少々であった。縫婆さんの得意は山菜料理であった。
 祖父母は長男の初孫、私の幼少をとっても可愛がってくれて、ありがとう。

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三郎さんの昔話・・・昔の歌

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

昔の歌

今は昔し むさしが原の おも影いづく
ベルの音高く 走れる電車の 割り引き
乗らんと けんか同志の 労働者
田舎の 田ご作 とっちゃん
赤のゲートル くるると巻いて
おいらの 行く先きゃ どこだんべ
馬の目を抜く 東京中は 大道あるくも
電車に乗るのも 命があぶない
気を付けしゃんせ はぃ
おいらは ぶったまげた
二十二形の時計がね ほぃほぃ

おらんくの前の ちしゃの木に
すずめが二、三ば とまり来て
どいつもこいつも ものゆわず
中のすずめの 言うことにゃ
よんべ通った花嫁さん
今朝通った花嫁さん
なにが悲しゅうて 鳴かしゃんす
◎この歌は、澤子が小さいときに母から教わった手鞠歌で、孫の忠宏、昌之、弘、さえが小さい時に、添い寝の寝付けに歌って、よくせがまれた歌。

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三郎さんの昔話・・・数元さん(父)

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

数元さん(父)

 父の年に近い老人になって、父がどんな人じゃったか振り返って思う。私を始め五人兄弟の男の子があるが、父ほど賢く偉うないように思われる。
 父は貧乏育ちで貧しさに耐えた、時代のせいで当時偉いのは大地主か大商売人だけで、小作人やその日稼ぎの職人や労働者は、精出して働いても家族が生きていくのがせっぱいで、家族が誰か病気でもすると、薬代や物入りで金がいるから、大家、金持ちに、土地や物を抵当に入れて金を借りる、普通で生活がようようなのに借りた金を払えるわけがない。
 やがて抵当はのっとられるから大家は嫌でも太る一方、そんな時代が昭和の始めまで続いた。
 そんな時代を生き抜いたせいか、父は貧乏しても平気でのんきな人でした。遊びは人一倍、夏の日は雨さえ降らねば、毎日、日にち鰻釣りか鮎掛けに三ヶ月、秋は雉や小鳥撃ち、山をそおついての茸採り、その間女房子供が餓えるなんて心配しない、店で借りてきて食ちょれ、暮れが来たら働いて払うと平気で、ひと以上に遊びはえらかった徳な人。
 商売柄で付き合う人は大家の旦那や知識人達であったが、中でも町一番の大家、岡豊の若旦那とは耳きれの仲良しで、狩猟から料理屋遊びの付き合いまで、高知の得月楼では二ヶ月余りも飲み食いで遊びほうけた。
 金が切れると父が帰り、山や田畑を売って資金を調達して遊んだ。お付きの父は酒は弱く好きでなかったので、芸者を相手に三味線や色々なケンや歌までよく覚えた。時折歌っていたドドイツは中々上手であった。それでも貧しい人の味方もして、数元さんはむつかしい言われながらも、割に人には好かれた。
 話術がうまかったので人が寄ってきて、話がはずんだ。選挙でもあると、名士や立候補者が必ず尋ねてきて話し合ったり、研究していた。今になって考えてみると、父はのんきな人のように見えるが、若い時からの色々な苦難や負けん気、しぶとさで研究心が強く、何をしても秀でた。
 若い時、禿げ山で射的の競技会があったが二年続けて一等、ハエ釣り競技でも一番、鰻釣りも名人になった、理屈も口喧嘩も決して人に負けなんだ。
 年がいてからも炉端でたばこをスーパ、スーパと吸いながら、静かに考えにふけっていた。
 父は人を引きつける魅力があった、私達兄弟には、父ほど人を近付ける魅力が無いのか、時代のせいか人は寄って来ない。
 魅力のある人は立派で偉いなぁと感心し、生活は貧しくても本人は割に大平な気分で幸せであるのではないかと思う。

父は打ち 母は抱きて哀れむを
  変わる心と 子や思うらん

慈母は 愛児を守りて
  少時も心を 放つことなく
水火の難をさけて
  その危害を受けざらしむ

潤いも無き くが(陸く)の上に
  なげ捨てられし 魚のごと
まどわしゃの国を のがれんとて
  心ひたすらに たち騒ぐかな

門戸の守り堅ければ 財を失ふ憂なし
  障壁の囲み崩れなば 財を守りて安からず

ひょう火微なりと雖も
 小なるを以て侮ることなかれ
   炎の過ぐるところ 草木盡く灰に帰せん
 造悪微なりと雖も
   深く慎みて軽しとなすなかれ

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三郎さんの昔話・・・神、神の談話

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

神、神の談話

うの神の申す
 「ちの神殿、私この頃つくづく思うに、どうも地球が暖かくなりすぎているように感じるが、如何かな。」
ちの神の申す
 「うの神様も地球の異常気象にお気付きでしたか、私も最近の異常な暖候を心配致しております。」
うの神
 「こりゃほんとに困りましたのう。」
ちの神
 「まっこと困りました。地上に生物を造るとき、お話し合いで一つだけ賢い人間を誕生さしたのですが、上手に造りすぎ賢くなりすぎましたね。」
うの神
 「そうじゃのう。出来上がった人間は思ったより、どうも賢くなりすぎて、ただ自分達人間だけの利己的な幸せだけに集中して、奇麗事が好き、美食にひたり、楽に早く行動し、自然に反して冷暖房はする、勝手気ままで他の植物や動物のことなどまるで考えてないわ。」
ちの神
 「うの神様のおっしゃるとおり、ちと付け上がりましたね。地球で一番大切な水を、科学の悪液や汚物の垂れ流しで汚すわ、生物に大切な空気を自動車の排気やフロンガスで汚して、その上、地球を取り巻く大事なオゾン層まで破壊しそうです。こりゃほんとに困りました。」
うの神
 「まっこと心配が太いのう。あの地球のオゾンを壊したら、太陽の直射で赤外線が強すぎて、地球の水が蒸発して元の火の玉になり、人間も他の生物もみんな死滅して、おじゃんとなるのう。」
ちの神
 「うの神様のおっしゃるとおりですが、地球にせっかく造った生物達なので、なんとか生存を保つよい方法はございますまいか。」
うの神
 「うーん、そうじゃのう。このままではいかんが、人間が今、総てのことを良識を持って考え反省すれば、どうにか持ちこたえられるじゃろ。」
ちの神
 「ではそのように、なんとか人間を諭し、善処するように致します。」
うの神とは「宇宙神」、ちの神とは「地鎭神」。

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三郎さんの昔話・・・失敗と不注意

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

失敗と不注意

 寿太郎爺さんは、私の父方の祖父で西暦一九一六年生まれでしたから、私が小学五、六年の頃には、もう八十才過ぎの年寄りでした。
 祖父は面長な顔に小皺で、痩せひすばった身体で腰も曲がっていたが、わりに元気で祖母とふたり隠居暮らしをしていました。が、ひょっこり思い立つと、曲がった身体に両杖ついてテクテクと、大石から土居(本山の町)の私の家までやって来て一晩泊まると、両杖の四つ足でテクテクきようて帰る。
 祖父が泊まったある日のこと、風呂に入りたいと言うので、夕方早めに風呂を沸かして、祖父を入れた。
 すると父が「風呂へ行って、お爺さんをこすって垢おとしちゃれ」、と言うたので、すぐ行って祖父の頭から背を洗って流し、足にかかった。腿よりすねの皿骨が大きい、皺だらけを順に洗っていて、むこう臑をこすった、こすり方に力が入り過ぎたのか、骨と皺のむこう臑の皮が、ペローと剥げちゃった。
 ビックリ。でも十センチ程、皮が剥げているのに血もろくに出ない。さあ困ったが仕方がない。
 急いで出て来て「お爺さんの臑こすったら皮が剥げた」と言うと、たまるか親父の雷がおちた「皮がはげる程、がいにこするやつがあるか」と私はすくみ込んだが、後はしいて怒らず、父母が大事に風呂から出して、狸の油をぬり、皮をひっつけて手当てした。
 祖父は割に平気で、事はない言うて二日泊まって、テクテクと歩いて帰った。

◎子供の事とはいえ失敗である。しかし父にしてもまだ若年(四十才)で、老人の皮膚がこれほどに弱いとは知らなかったと思う。もし知っていたら、「年寄りじゃ、大事にこすれ、がいにすなよ」と注意したであろう。
◎昔の人は過労と粗食で暮らしが貧しかった、それで短命の者が多かった。その中で八十才越す老人は、まれな長寿者でした。

 

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三郎さんの昔話・・・奇妙なお呪い

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

奇妙なお呪い

(一)飛び火の呪い
 隣近所も少ない車道も狭い。お医者さんもいない。田舎の開けてない時代のいろいろな病気に対応する生活の知恵というか、病気をなおすために当時は手薬とお呪いがはばをきかしていた。
 その中での一つ、「飛び火の呪い」と次の「火傷の呪い」について、大川村出身で市内で酒屋を営んでいる奥さんから聞いた話を書いてみます。
 毎年といってよいほど、一、二歳の幼児に飛び火が発病し広がっていた。
 山のおじいさんの呪いがきくというので、飛び火に罹った子供をおんぶして、若い母親が近在はじめ方々から来てお呪いをしてもらう。二、三度行って呪ってもらうところっと治る。不思議なこと。
 私も長女と次の男子を呪ってもらい良くなりました。おじいさんは自分の子供がなかったので、親しかった私(酒屋の奥さんのこと)にひそかに伝授してくれました。そのお呪いの方法と呪文は、
 山から下へ流れた谷の水を、手を合わして拝み、破竹のささ葉で下むけに水をすくい、器に七度くみ、次の谷へ同じ手順で七つくむ。次々と順に七谷の水を戴いて持ち帰った七、七、四十九滴のささ水は少ないので清浄な水をほんの少し足し水し、器の水をささ葉で飛び火の傷をしめしながら、
「七谷明神のあらたかい水じゃぞ、飛び火よ早よう鎮まれ、消え失せよ、あびらうんけんそわか」と三度唱えて息をフウー、フウー、フウーと三つ吹きかける。奇妙なお呪い。
 三番目の男の子が飛び火に罹ったときは、習ったお呪いを私が唱えて治しました、と。
 飛び火とは幼児の皮膚病の一種で、一度患うと免疫性になり後は罹らない。

(2)火傷の呪い
 現代と違って昔は焚火が主で、竈やいろりで薪を燃やし煮炊きをし、寒さも焚火で暖をとるので火つつきが多かったせいで、いろりへ子供が手足を突っ込んだとか、くら湯の茶瓶や鍋をひっくり返し大火傷をした。注意をしていても火傷をすることが多かった。
 つい誤って火傷をするとさあ大変。水で冷すがなかなかに火傷の痛みはとまらん。近所の爺さんが呪いを知っちゅう、早よう行って呪うてもらへ、と駆け付けたら丁度爺さんが居て、
「そりゃたまるか」言うて神棚に祭ってあったお水を杯に入れてきて、榊の葉をその水でぬらし、火傷した傷をピチャピチャと湿しながら、むにゃむにゃとお唱えして大きな息をプウー、プウーと三度吹き掛けて、
「どうじゃ、まだ痛むか」「ちょっとはましじゃが、まだ痛む」言うと、続けて三度呪ってくれた。それで不思議なことに痛みはとまったと。
 この爺さんの火傷呪いはよう効くので、近在で火傷をしたら皆来て、呪うてもらっていた。爺さんは親しい私に、子やらいはいつ何どき子供が火傷をするかわからんけ、この呪いはよう効いて焼け傷も残らんけ、覚えちょけと伝授してくれました。
 さて時は移り、四、五年前のことです。近くのお客さんで心安い方(年は五十歳前後の男)が茶瓶をつい引っくり返し、ふくらを大火傷してすぐ病院に駆け付け治療を受けましたが、なかなかに痛みがとまらず弱っていた。
 ふといつかの話で私が火傷の呪いを知っていることを思い出して、電話で、「すまんが火傷が痛むので来て呪ってくれまいか」と連絡があったので行き、「私は爺さんに習ってから子供の小さい火傷は呪ったことはあるけど、こんな大きな火傷は初めてじゃ。効くかどうかわからんけど」言ってから、「早く痛みよとまれ、傷なおれ」と念じつつ三回呪ってから帰っていたら、「痛みがとまった」と電話があり、翌日は包帯して仕事に行けたと。
 傷もわりと早く治って礼に来て、「奥さんのお呪いはほんとに効いて痛みがとまり、傷もおかげで早よう治った。ありがとう」と礼を述べられたと。 さてそのお呪いの呪文とは、
「猿沢の池のほとりのささの葉は、火焼き湯やきの薬となるぞや、あびらうんけんそわか」と、この呪文を三度唱えて、息を大きくフウー、フウー、フウーと三息吹き掛けながら、「七谷明神のお水を榊の葉で」焼け傷をしめして冷す。
 お呪いとはまことに不思議、奇妙なことじゃが、飛び火も治し、火傷の痛みもとめて傷も早く治るが、文明が進んだ今日では次第に廃れていく。

 (注)七谷の水を汲み取ることはなかなかに難しく、空谷を通り越してもいけないので、 台風か大雨のあげで、谷水が順な時に汲み取って神棚に祭って非常時に備えておく。
   不思議なことに、このお水はいくら置いても腐ることはないと。

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三郎さんの昔話・・・間引き

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

間引き

 明治の初期は、日本の国が維新の改革で、三百年も続いた徳川の武家政治も終わり、士農工商の順位も消えて、新しい政治家達によって、ヨーロッパ式の自由の風が吹き始めていたが、田舎の村里では、その新しい風もなかなかに届かず、ほんの一部の偉い商人か、地主、少ない自作農以外の一般庶民は、ほんとに貧しく、その日暮らしで、梅雨で雨の日が続いたりすると、仕事はできず貯えもなく、老人を抱えた子やらいでは、親戚や知人を頼って借り歩き、やっと生き延びていた。
 貧しい哀れな時代、ほんとにあった昔の話を少し。
 里吉は大工の職人であるが、当時の田舎では新築などはめったに無く、模様替えなどもたまで、本職の大工仕事より手伝い事が主の日雇いで、老母を抱え妻に子供二人の五人家族で、その日暮らしの貧しい家庭であった。
 昔の「いろはかるた」に「貧乏人の子だくさん」というのがあったが、貧しい時代は男は仕事一色で、遊びはあっても遊ぶ間もなく、夫婦は喧嘩もするが仲も良く、子供は後へ後へとよく出来る。
 里吉の女房の鶴も、子がよう出来る。去年も生むとすぐ死んだが、また腹がふとい。
 近所の家主が、ありゃどうもおかしいと思い、臨月の鶴に気を配り度々伺いよった。
 ある朝そっと里吉の家に近付くと、とたんに元気な産声が「オギャーオギャー」と、かん高い。
 家主は「できた、できた」と喜んだ。その時、子の泣き声がぷっつり消えた。
 嫌な予感が家主の頭を走った。こりゃいかんと障子を開けて上がり、奥のふすまを開けて見てびっくり。鶴はできだちの男の赤子の首をねじってすねに敷き、涙をぼろぼろと流しながら、家主を見て、「恥ずかしい、むごいことじゃが、こうせにゃあ、今でさえ食うや食わずでいきよるに、今この子が増えたら、よけかつえるけ。」と。
 家主は慌てて、「こりゃ鶴、おんしゃー子供二人じゃ、女子は嫁入りする、男の子は一人で病気にでもかかって死にでもしたら、誰に掛かる。早うすねを放せ、分けて食い合うても育てにゃいかん。」と怒りかかると、鶴は泣く泣くすねを上げて赤子を抱き上げ、首のねじれを直し、背なをさすりながらフーフーと息を吹き掛けた。
 すると赤子はやっと息を吹きかえし、「オギャオギャー」と泣き出した。鶴の顔はほぐれて嬉し泣き。家主もほっとくつろぎ、「よかった、よかった、この子はほんとに強い子じゃ。」そして鶴に、「今のような馬鹿なまねは二度とすなよ。この子はええ子になるぞ。」言うて家を出、近所のおなごしを呼んで来て、産湯や後始末を手伝わさした。
 その後なぜか鶴に子供は出来なんだ。その時の子供は駒吉と名付けられ、元気ですくすくと育ち、父里吉の跡を継ぎ大工になった。
 兄の善太はふとしたことで若死にし、里吉、鶴の老後は駒吉の孝養に掛かることができた。
 当時の村落は閉鎖的で、仕事は少なく、労賃も安く、「働けど働けど、我が暮らし楽に成らず」であったので、貧しい家での子育てはほとんど二人で、多くて三人、その後に生まれる子はこっそり産んで、始末して、「月足らずで出来た、ようなかった。」言うて、水子にしてすましていたと。
 誠に哀れな悲しい時代の物語。
 「愛し子は たれも可愛ゆし 貧ゆえに
     殺すと聞かば 仏も泣かむ
  念仏の 声にまじりて
     花摘み遊ぶ 笑いも聞こゆ」
  子育て慶念
 「黄金の蔵より子は宝」「貧ほどつらいことはなし」

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三郎さんの昔話・・・怪つり(かいつり)

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

怪つり(かいつり)

 大正十年頃といえば約七十年余り昔の話。当時の子供にはお年玉をもらう喜びは少なかったが、面白い行事の楽しみがあった。
 お正月の十五日は、待ち焦がれた「かいつり」の晩である。
 当時は親にねだって、狐や天狗のお面を買ってもらい、夕飯もそこそこにすまして、友達三、四人が思い思いの狐や天狗のお面を持って集まり、
「さあ怪い釣りに行こう」ときよい立ち、紙で張り合わせた厚いお面、色鮮やかに鼻高でピンと口髭の狐のお面や、鼻の高い天狗のお面を顔に付け、コンコンやプープーッと狐や天狗の鳴き声を真似しながら、隣近所を回りながら、「かいつりじゃ、怪い釣りじゃ」と口々に声を張り上げて、家の前で騒ぐと、家のおんちゃんがおばさんに、「かいつりじゃ、早ようお餅をやれ」と言うてあん餅や角餅を皆に一つずつくれる。「おうきに、コンコン、プープーッ」ではね回って次の家へ。
 「かいつりじゃ、お餅をやれや」そしたらおばさんが「しもた、お客が多うて無うなった、どうしよう」おんちゃんが「しょうがない、皆に一銭ずつやれや」と、かいつりのみんな一銭貰って喜んで、コン、プーッとはねながら次の家。
 「かいつりじゃ、かいつりじゃ、コンコンプープーッ」と声張り上げると、障子の内らから大きな声で、「怪い釣りはいらん」とどなられて、皆こけ逃げ。ああ怖い。
 子供のある家や親切な方々は、伝統的な子供らの楽しみの一つの「かいつり」を快く迎えて愛しんでくれましたが、たまには偏屈でガンコで、子供に嫌われる家もありました。
 「怪い釣り」を考えてみると、怪しい狐や天狗、怪人が家に入られては困る。早く物を与えて「怪いをおだて釣り」追い返す、節分の豆で鬼を追い返す行事と同じで、家の安全を願う行事の一旦が、子供らに楽しみをもたらし愉快であった。

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三郎さんの昔話・・・安堵

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

安堵

 真理を知っていれば安心して生きてゆける

 ある信者がお坊さんに尋ねた。
「わたしゃもう年がいて、友達も次々に減って、もうまあ私も番がくるが、しょう死ぬのは怖いがどうしたらええろう。」
 お坊さんは、「そう怖がることはない。人はみんな明るい昼は精出して働き、暗い夜は怖さと疲れで皆寝よる。あれじゃよ、あの眠り入ったのを仮死状態という。その眠りの続きじゃ。ええ夢を見て、目の覚めんだけでも至極安楽よ。それで善人もへごもんも、お迎えが近づいたら欲も得も考えず無心になって、好きな仏さん、観音様なら南無観世音菩薩と、阿弥陀様なら南無阿弥陀仏と、お大師様なら南無大師遍照金剛と、仏様を帰依し、ひたすら念じたら心安らぎ、静かに眠り、夢の中ですーっと体が浮き上がり、雲の上浄土の仏様のお神楽は澄み切った空に心よい音を響かし、空中には羽衣を靡かせた美しい天女が舞に舞う。嗚呼、話に聞きし天上極楽とはまことこれぞ極楽浄土。拙僧も早よう浄土へ行きたいが、この世のお勤めがなかなかでお召しがない。せっせと働き、お勤めし、極楽浄土を目指すぞよ。」

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