「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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三郎さんの昔話・・・数元さん(父)

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

数元さん(父)

 父の年に近い老人になって、父がどんな人じゃったか振り返って思う。私を始め五人兄弟の男の子があるが、父ほど賢く偉うないように思われる。
 父は貧乏育ちで貧しさに耐えた、時代のせいで当時偉いのは大地主か大商売人だけで、小作人やその日稼ぎの職人や労働者は、精出して働いても家族が生きていくのがせっぱいで、家族が誰か病気でもすると、薬代や物入りで金がいるから、大家、金持ちに、土地や物を抵当に入れて金を借りる、普通で生活がようようなのに借りた金を払えるわけがない。
 やがて抵当はのっとられるから大家は嫌でも太る一方、そんな時代が昭和の始めまで続いた。
 そんな時代を生き抜いたせいか、父は貧乏しても平気でのんきな人でした。遊びは人一倍、夏の日は雨さえ降らねば、毎日、日にち鰻釣りか鮎掛けに三ヶ月、秋は雉や小鳥撃ち、山をそおついての茸採り、その間女房子供が餓えるなんて心配しない、店で借りてきて食ちょれ、暮れが来たら働いて払うと平気で、ひと以上に遊びはえらかった徳な人。
 商売柄で付き合う人は大家の旦那や知識人達であったが、中でも町一番の大家、岡豊の若旦那とは耳きれの仲良しで、狩猟から料理屋遊びの付き合いまで、高知の得月楼では二ヶ月余りも飲み食いで遊びほうけた。
 金が切れると父が帰り、山や田畑を売って資金を調達して遊んだ。お付きの父は酒は弱く好きでなかったので、芸者を相手に三味線や色々なケンや歌までよく覚えた。時折歌っていたドドイツは中々上手であった。それでも貧しい人の味方もして、数元さんはむつかしい言われながらも、割に人には好かれた。
 話術がうまかったので人が寄ってきて、話がはずんだ。選挙でもあると、名士や立候補者が必ず尋ねてきて話し合ったり、研究していた。今になって考えてみると、父はのんきな人のように見えるが、若い時からの色々な苦難や負けん気、しぶとさで研究心が強く、何をしても秀でた。
 若い時、禿げ山で射的の競技会があったが二年続けて一等、ハエ釣り競技でも一番、鰻釣りも名人になった、理屈も口喧嘩も決して人に負けなんだ。
 年がいてからも炉端でたばこをスーパ、スーパと吸いながら、静かに考えにふけっていた。
 父は人を引きつける魅力があった、私達兄弟には、父ほど人を近付ける魅力が無いのか、時代のせいか人は寄って来ない。
 魅力のある人は立派で偉いなぁと感心し、生活は貧しくても本人は割に大平な気分で幸せであるのではないかと思う。

父は打ち 母は抱きて哀れむを
  変わる心と 子や思うらん

慈母は 愛児を守りて
  少時も心を 放つことなく
水火の難をさけて
  その危害を受けざらしむ

潤いも無き くが(陸く)の上に
  なげ捨てられし 魚のごと
まどわしゃの国を のがれんとて
  心ひたすらに たち騒ぐかな

門戸の守り堅ければ 財を失ふ憂なし
  障壁の囲み崩れなば 財を守りて安からず

ひょう火微なりと雖も
 小なるを以て侮ることなかれ
   炎の過ぐるところ 草木盡く灰に帰せん
 造悪微なりと雖も
   深く慎みて軽しとなすなかれ

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