1990年代初頭からの約四半世紀、それぞれの階級で印象に残った選手を挙げていっております。毎回記載していますが自分自身に科したルールは各選手、登場するのは1階級のみ。また、選んだ選手がその階級実力№1とは限りません。自分がボクシングに興味を抱き始めた時期、1990年代初頭から中盤にかけての活躍した選手が中心になりがちですが、その辺りは多めに見ていただければ幸いです。
川島 郭志(ヨネクラ)、ジョニー タピア(米)と続いたスーパーフライ級。最後に登場するのが川島より3代後にWBC王座を獲得した徳山 昌守(金沢)になります。
徳山が世界王者に在位中、「東洋太平洋世界王者」と皮肉られていました。確かに戦績を見てみると、王座獲得戦とV2戦が対 仁柱(韓国)、V1戦は名護 明彦(白井・具志堅)、 V3戦とV6戦がジェリー ペニャロサ(比)、4度目の防衛戦は柳光 和博(チャイナクイック渡辺)、 7度目、王座転落戦、王座奪回戦が川嶋 勝重(大橋)。アジア圏以外の選手との対戦は5度目の防衛戦の対エリック ロペス(メキシコ)、8度目の防衛戦の対ディミトリー キリロフ(露)、そして王座に返り咲いた後の初防衛戦、対ホセ ナバロ(米)。出場した世界戦の4分の3までがアジア圏の選手と対戦でした。しかし、名護はすでに世界挑戦に1度失敗していたとはいえ世界奪取を期待されていた選手。との再戦は敵地韓国に乗り込んでKO勝利。柳光は日本とOPBF(東洋太平洋)の2冠王。ペニャロサは2代前の王者で、後に現WBCフェザー級王者ジョニー ゴンザレス(メキシコ)をボディー一発で仕留めWBOバンタム級王座を獲得している実力者でした。そして後に同級のIBF王座を獲得するキリロフ、ナバロはそれぞれ指名挑戦者として徳山に挑んでいます。挑戦者の質は非常に高かったのではないでしょうか。
後に安定王者と言われるようになった徳山でしたが、その評価が定まったのが世界王座を防衛していく過程でありました。この現象はそれまでの日本ジム所属の世界王者としては異例な事。結構好きです、こういうキャリアの持ち主は。
1994年9月にスタートした徳山のプロ・キャリアは2006年2月末まで続きました。最終戦績は32勝8KO3敗1引き分け。KO率は22.22%とこの数字だけ見ると結構寂しいですね...。
デビュー当初は順当に勝ち星を伸ばしていった徳山。最初の挫折は1996年11月、元IBFミニマム級王者マニー メルチョー(比)に喫した判定負けになります。その敗戦から僅かに2戦後、当時の日本フライ級王者スズキ カバト(新日本大阪/1997年4月)に挑戦し、悔しい痛み分け。その後再びカバトに挑戦(同年11月)しますが、今度は負傷判定負けと肝心なところで勝ち星から見放されてしまいます。そんな徳山の転機となった一戦が1998年師走に行われた元世界2階級制覇王の井岡 弘樹(グリーンツダ)との一戦。3階級制覇を目指す井岡に取りこの一戦はもちろん通過点に過ぎませんでした。しかし結果は若き徳山がベテラン井岡にスピード勝ちを収め井岡を引退に追い込んでしまいました。
翌年秋に自身3度目のタイトル戦に出場した徳山。ポーン セーンモラコット(タイ)と空位だったOPBFスーパーフライ級王座を争い判定勝利。世界挑戦への扉が開かれることになります。WBC王者への挑戦が実現したのは20世紀最後の夏休みの終わり頃。計量後(当時はまだ当日計量だった)の食事を立ち食いうどんで済ませた徳山。先手必勝策が見事に当り予想外の大差判定勝利を収め王座奪取に成功。在日朝鮮人の徳山は緑のベルトを手に入れるとともに、北朝鮮人として初の世界王者の座に輝きます。
強豪たちとの防衛戦に勝ち抜き、防衛回数を8まで伸ばした徳山。当初比較的安全パイと見られていた川嶋にまさかの初回TKO負けを喫し王座から転落するも、再戦では見事なアウトボクシングを披露し王座奪回に成功。当時のWBCバンタム級王者長谷川 穂積(真正)への挑戦を希望していましたがその一戦は実現せず。世界王者のまま現役を退いています。
結局実現しなかった「長谷川対徳山」
世界戦11勝(3KO)1敗という好戦績を残した徳山。個人的には2004年6月に行った川嶋との第2戦、王座から転落した試合が一番印象に残っています。
世界王座獲得まで比較的地味な存在だった徳山。しかしキャリア前半の苦い経験を生かしながら自らのスタイルを樹立し、日本ボクシング界でも指折りのテクニシャンに成長しました。その独特の距離感に何とも言えない醍醐味を感じました。
徳山の獲得した王座(獲得した順):
OPBFスーパーフライ級:1999年9月17日獲得(防衛回数2)
WBCスーパーフライ級:2000年8月27日(8)
WBCスーパーフライ級:2005年7月18日(1)
そう言えば徳山が現役時代中には、当日計量が前日に変更したり、WBCが破産したりと中々大きなイベントがありました。ボクシングの人気が低迷していた時期を支えた貴重な選手、といって過言ではないでしょう。