DAISPO WORLD BOXING EXPRESS

今年もやってるやってる~

この階級、この選手(グレゴリオ バルガス:フェザー級①)

2016年02月28日 00時27分41秒 | ボクシングネタ、その他雑談
1990年代初頭からの約四半世紀、それぞれの階級で印象に残った選手を挙げていっております。記載上のルールは各選手、登場するのは1階級のみ。また、選んだ選手がその階級実力№1とは限りません。

3回に分けてお届けしたスーパーバンタム級で紹介したのはダニエル サラゴサ(メキシコ)、ウィルフレド バスケス(プエルトリコ)、そしてマルコ アントニオ バレラ(メキシコ)。これらの3選手はそれぞれ2階級、又は3階級制覇を達成していますが、彼らが登場するのはスーパーバンタム級での1回のみになります。

今回から新たな階級フェザー級となります。その第一回目に登場するのはWBCフェザー級王座を獲得したグレゴリオ バルガス(メキシコ)。ニックネームは「ゴーヨ」。一般的にはそれほど知られていないボクサーではないでしょうか。

バルガスは1993年4月、敵地(実際には第3国)アイルランドに渡り当時のWBCフェザー級王者ポール ホドキンソン(英)に挑戦。一進一退の攻防の末、強豪を7回で下し王座奪取に成功。その一戦がWOWOWで放送されたのが同年の7月24日。2日前には大阪で2階級下のWBCバンタム級暫定王座決定戦が行われており、辰吉 丈一郎(大阪帝拳)がビクトル ラバナレス(メキシコ)との大激戦の末判定勝利。10ヶ月前の雪辱を果たすと共に、暫定王座ながらも世界王座に返り咲いていました。その興奮が残った状態で見たWBCフェザー級戦。それでもバルガスの総合力の高いボクシングには驚きました、「辰吉よりわずか2階級上にこれほど凄い選手がいるのか」と。


(対ホドキンソン戦)

バルガスは王座を獲得してから4ヵ月後、無冠戦に出場して無難な勝利を収め、その年の師走にはこれまた実力者であるケビン ケリー(米)の挑戦を受けます。ケリー戦では逆ワン・ツーでダウンを奪いますが、前半戦での失点が響いて判定負け。世界王座の防衛に1度も成功することなく無冠の座に降格してしまいました。そういえば最近のインタビューで、ケリーはもっともパンチのあった対戦相手にバルガスの名前を挙げていました。


(ケリーのスピードに敗れる)

当時のWBAフェザー級王座には朴 永均(韓国)という同王座を8度防衛した好選手が存在していました。しかしケリー戦が放送された時、その試合放送前に浜田 剛史(帝拳)が「同級には朴という選手がいるが、とてもバルガスに対抗できる東洋の選手はいないだろう」と絶賛されていたことを今でも鮮明に覚えています。

王座から転落したとはいえ、敗れた相手が評価が非常に高かった指名挑戦者であり、王座を失った試合も内容は競ったもの。しかもバルガスはダウンを奪っています。無冠になっても評価が落ちないバルガスに、早くも次のチャンスが訪れます。1994年4月、当時のIBFスーパーフェザー級王者ジョン ジョン モリナ(プエルトリコ)に挑戦。バルガスの2階級制覇が期待されていましたが、打ち合い好きのモリナが想定外の勝つボクシングを披露。バルガスからすると、予想外の大差判定負けを喫してしまいました。まあ、この時点でモリナは既に同級の王座を3度獲得しており、しかもバルガス戦が6度目の防衛戦。バルガスにとってスーパーフェザー級は未知の階級だっただけに、致し方ないと言えばそれまででしょう。


(意外に試合巧者だったモリナとの戦い)

その後、後のIBFスーパーフェザー級王者カルロス エルナンデス(米)に僅差の判定負けを喫するバルガスですが、それ以外は順調に白星を伸ばしていきます。その勝ち星の中には、2階級制覇を達成したトレイシー パターソン(米)や、後にコンスタンチン チュー(露)の持つ統一スーパーライト級王座へ挑戦したベン タッキー(ガーナ)等強豪も含まれています。

バルガスの2度目の2階級制覇達成への機会が訪れたのは2000年3月。当時まだ若かったWBCスーパーフェザー級王者フロイド メイウェザー(米)の5度目の防衛戦の相手としてリングに登場します。しかし若い王者とはいえ、相手はあのメイウェザー。ほぼないも出来ずに完封負けを喫してしまいます。しかし大差の判定負けはさて置き、あの試合内容で試合後に自身の陣営に肩車をして貰っていた姿はかなり無様でした。敗者ならサッパリと敗戦を認め、勝者を称えた方がよほど潔かったはずです。あの行動には今でも残念に思います。


(若き日のメイウェザーとの一戦)

攻防兼備なれど打ち合い好きなバルガス。そのコンビネーションには常に左ボディーを交えていました。しかし得意の打撃戦に持っていけなければ空回りに陥る。それがバルガスのボクシング。モリナもメイウェザーもその点を上手く突いたといっていいでしょう。

メイウェザー戦後、2004年11月まで戦い続けたバルガスですが、その間の戦績は5勝(3KO)2敗。IBUなる団体のライト級王座を獲得することに成功していますが、自身の最終戦となった試合では、エリエセール コントレラス(米)という中堅選手に判定負け。北米ライト級王座奪取に失敗すると共に、有終の美を飾ることは出来ませんでした。

バルガスのプロデビューは1988年5月。3年後にメキシコ国内王座を獲得しますが、それまでに3敗を喫しています。しかしメキシコ王座を7度防衛していく過程で、3敗の内の2つの敗北を喫した相手に雪辱を果たしています。メキシコ国内では、国外から見る以上に評価の高かった選手なんでしょうね。

バルガスの獲得した王座(獲得した順):
メキシコ・フェザー級:1991年2月15日獲得(防衛回数7)
WBCフェザー級:1993年4月28日(0)
IBAスーパーフェザー級:1998年7月11日(0)
IBAアメリカス・ライト級:1999年1月16日(0)
WBC中米カリブ・ライト級:1999年7月10日(0)
IBUライト級:2003年10月31日(0)
(*何だこの王座は!?)

通産戦績は45勝(31KO)9敗(1KO負け)1引き分け。KO率は56%で獲得した世界王座は1つのみ。この程度の結果で終わる選手ではなかったと、今でも強く思っています。

バルガスの実弟アダンもプロで活躍した選手です。アダンは世界バンタム級王座に3度挑戦し、いずれも勝利ならず。1度目は2000年3月、敵地タイに乗り込み当時のWBC王者ウィラポンに指名挑戦者として挑戦。大差の判定負けを喫しています。ウィラポンは前年に辰吉を返り討ちしており、バルガス弟戦から3ヵ月後に兵庫県高砂で西岡 利晃(当時はまだJA加古川)の初挑戦を受けています。

アダンの2度目の世界挑戦は翌年10月、当時WBAの暫定王者だったエィディ モヤ(ベネズエラ)に挑戦しますが11回KO負け。10回終了時までの採点は、3人のジャッジとも引き分けとしていました。アダンの最後のチャンスは2002年7月に訪れ、当時絶対的な強さを見せていたIBF王者ティム オースティン(米)に挑戦しますが、王者の牙城を崩すことは出来ずに10回TKO負け。兄グレゴリオ以上に運がなかった選手として終わってしまいました。

IBU(世界ボクシング組合)なる団体について調べてみました。米国・ジョージア州に本拠地を置く団体で、1996年に設置。これまでに全階級を通じ31試合行われています。IBUの世界戦に出場したそれなりに名前のある選手は、ヘビー級のシャノン ブリッグス(米)が2003年に、同じくヘビー級でジェームス トニー(米)が2012年に同王座を獲得しています。昨年2015年にはクルーザー級で1試合行われたようです。第2次世界大戦終了時までに、欧州を中心に活動されていた同一名の団体とはまったくの別組織だそうです。


(デザイン的にIBFに近いものがあるIBUベルト)
コメント (3)
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