礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『支那問題解決の途』(1944)に解決の道は見えない

2013-02-23 08:13:42 | 日記

◎『支那問題解決の途』(1944)に解決の道は見えない

 昨日、神保町の古書展で、東亜調査会編纂『支那問題解決の途』(毎日新聞社、一九四四年九月)という本を入手した。三〇〇円だった。
 戦争末期の本であるが、紙質も装丁もそれほど悪くない。
 ここには、松本鎗吉「帝国政府対支態度の回顧」など、四本の報告・論文が収められているが、どれも読みごたえがあり、また「史料」としての価値があるように思った。
 本日は、田中香苗「支那戦線の現実と支那問題処理」という文章から、その一部を引用紹介してみることにしたい。筆者の田中香苗は、東亜調査会理事で、毎日新聞東亜部長である。

 こゝでの武力闘争は、勿論抗日勢力と日本といふ単純な形式が、今や日本と米英及び米英化せるものとの闘争となつて来て、戦闘の生態、性格共に苛烈徹底したものとなつてゐる。過去においても、抗日軍との戦ひに見たものは、重慶や共産党の同族たる支那民衆を犠牲にしての酷烈なものであつた。退却に際して彼等は街を、郷村を焼いた。彼等とともに戦はざるものを反逆者として処理すること酸鼻を極めた。第一線雑軍が蒋直系軍の督戦を受け、甚だしきに至ては退却出来ざるやうに、第一線要地防衛の兵は足をくさりで繋がれてゐた。同族にして同じ戦列にある戦友が、その意思に基かず強制によつて死の防壁たらしめられたのだ。かゝる死の防壁の背後で、一切の人間が抗日以外に出路がないやうに仕向けられて来たのである。彼等は日本に憎悪を燃やさしめられ、その民族的な戦ひへと変質せしめられて来た。土地も人民もありとあらゆるものが、彼等の抗日戦争手段となつてゐた。そこに戦つてゐるもの以外の支那人の存在を許さず、ために郷村は荒廃し死の苦闘を続けたのであるが、これを重慶は強要した。欧州の彼方に死闘を繰返す独ソ戦線において、ドイツはソ連の戦ひを目して「生ける屍の戦線」といつたが、まさしく重慶側の戦ひは、「支那の生ける屍の戦線」であつた。而して独ソ戦線に見るものは双方の徹底した戦ひである。惨烈に徹した戦ひである。一方支那におけるそれは、重慶側は「生ける屍の戦線」たることによつて示されるごとく、戦ひそのものも、戦ひの政治性においても惨烈さにおいても徹底した戦ひであつた。これに対し日本は、支那人を愛し、敵をも含む支那人の中から抗日勢力のみを限定してこれを打倒するといふ、極めて困難且つ複雑な戦争方式であつた。そこから戦ひそのものが、戦争の政治性に相当の作用を受けてきた。これは重慶軍との、戦ひにおける性格的対照をなしてゐる。武士道的な戦ひを異民族の中で戦つて来てゐるのだ。いはゞ戦ひそのものの形からいへば日本は不徹底戦争をやつて来たのだ。徹底戦と不徹底戦とのギャップはかなり大きいものがあらう。しかも、重慶の性格は米英の進出とともに益々大東亜の異質的存在化し、今日においては日本と米英との運命的な決戦が、そのまゝ日本と重慶との関係になつて来てゐる事実を直視せねばならない。こゝに、支那問題解決のみの面から見る武力闘争においても、徹底戦とならざるを得ぬこと及びその重圧継続的強力さが、対重慶闘争の決定的要件を構成することを知らねばならぬ。

 かなりリアルな現状報告になっている。「徹底戦と不徹底戦とのギャップはかなり大きいものがあらう」という婉曲な表現によって、筆者(田中香苗)は、この戦争(日中戦争)においては、最初から日本に勝ち目がなかったことを匂わせている。
 ここで筆者は、「支那の生ける屍の戦線」という言葉を使っている。ひとごとではない。このあと日本本土においても、東京で、沖縄で、広島で、長崎で、「生ける屍の戦線」が展開されるであろうことを予期しなかったのだろうか。【この話、続く】

今日のクイズ 2013・2・23

◎戦時中の「重慶」という言葉について、正しいものはどれでしょうか。

1 蒋介石政権の本拠地の地名をとって、蒋介石政権あるいは蒋介石軍を意味した。
2 中国共産党政権の本拠地の地名をとって、共産党政権あるいは共産党軍を意味した。
3 汪兆銘政府の本拠地の地名をとって、汪兆銘政府を意味した。

【昨日のクイズの正解】 3 飯田橋の東京逓信病院■東京都千代田区、最寄駅は、総武線飯田橋駅。

今日の名言 2013・2・23

◎戦ひそのものの形からいへば日本は不徹底戦争をやつて来たのだ

 田中香苗の言葉。『支那問題解決の途』(毎日新聞社、1944)の237ページに出てくる。上記コラム参照。

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石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因

2013-02-22 05:47:25 | 日記

◎石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因

 昨日の続きである。早瀬利之氏の『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書、二〇一三年二月一七日)から、石原莞爾がジャーナリストのマーク・ゲインに対し、日本の敗因などについて語っている部分を紹介する。
 この部分は、マーク・ゲイン『ニッポン日記』(筑摩書房、一九五一)に依拠しているようだが、早瀬氏の文章は、非常によくまとまっているので、そのまま紹介する。

 翌二十六日〔一九四六年四月二六日〕、アメリカのアルトン検事とUP通信杜のカメラ記者・オクノが来た。オクノは検事とすれ違いに入ってきて写真を撮った。
 二十七日には、「シカゴ・サン」のマーク・ゲイン記者とポップ・コクレン記者がやっと石原の入院先を聞きつけて取材にくる。マーク・ゲインはソ連共産党に追い出された白系ロシア人でアメリカ市民権を持ち、日本語を話せるジャーナリストである。のちに彼は情報源として都留重人(のちの一橋大学長)と親しくなる。
 マーク・ゲインは「石原かぶれ」と言ってよい程の惚れ込みようで「マッカーサーのあとの指導者は石原莞爾だ」とさえ言っている。そのゲインが、やっと都内にいる石原を捜しあて、インタビューにきたのだ。のちに書いた『ニッポン日記』に、初めて会ったときの印象をこう書いている。
「石原に会ったのは、その病院の小さな一室だった。その部屋の窓枠は爆撃のため歪んだままだった。彼は痩せた男で、渋紙色に焼け、頭は剃ったように短く刈っていた。厳しい、滅多に瞬きもしない鋭い眼は、私たちを射貫くような光をたたえていた。彼は手をヒザにおいて、寝台の上に日本式に座っていたが、黄色い文那服の不格好な寛衣をまといながらも、彼の体躯は鋼鉄の棒のようにまっすぐだった。
 彼の背後には日本式の掛軸がかかっていた。私たちはただ二つだけ質問した。敗戦の日本は? そして彼自身は? すると彼はすぐさま鋭い確固とした口調で長々と答えた。自分の発した言葉の一つ一つに確信を持っている人の語りだった」
 昭和二十一年四月は、講和条約締結前で、まだ交戦状況下にある。他の軍人たちは自殺・自決したりして自ら「心の法廷」に決別したが、石原は連合軍最高司令官マッカーサーや米大統領トルーマン、アメリカ国民に向って堂々と反論した。それがマーク・ゲインの『ニッポン日記』に、こう書かれている、
「私が現役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっと金を使わせたでしょう。戦線を縮少し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解決すればもっとうまくやれたと思う(中略)。日本の指導者たちがミッドウェーの敗戦の意義を埋解し、ソロモン群島の防衛線を強化していたら、太平洋の広さが日本に味方していたにちがいない。山本五十六大将らは誤りを犯した。どこに根拠地を求めるかを知らなかったからだ。サイパン失陥を聞いたとき、私は敗戦を覚悟した」
「私は支那とは和平できたと思っている。われわれは東亜連盟に非常に確信を持っていた。その精神を中国民衆に浸透させることができたら、戦いを終ることはできた。東亜連盟は終始非侵略主義だった。連盟は、中国が満州国を承認さえすれば、日本軍隊は中国から撤退しうると論じた。蒋介石は相互に結末をつける段どりとなっていたから満州国を承認しただろう。私は終始、中国本土から撤退し、満州国をソ連との緩衝地帯にせよ、との意見だった。勿論我々はソ連と戦う意志はなかった」
 そして石原は、東條について「無能な男」と語る。
「対中国政策に関しては、東條と私との間に別に意見の相違はなかった。なぜなら、東條という男は、およそプラン(作戦)など立てる男ではないからだ。彼は細かい事務的なことはよくできる。しかし中国政策というような大問題に関しては全く無能だった。彼は臆病者で私を逮捕するだけの勇気もなかった。東條のような男やその一派が政権を握りえたという事実が、すでに日本没落の一因でもあった」
 さらに東條に迫害され続けた東亜同盟会員とマッカーサーについても語っている。
「不幸なことは、東亜連盟は貴国の命令で解散させられた。東條も連盟を弾圧しようと試みたが連盟は朝鮮でも満州でも、また支那においても力強い勢力を維持し続けただろう。マッカーサーが東亜連盟を解散させたとき、我々は旧日本の軍国主義とアメリカの軍国主義者とは何の違いもないことを知った。東亜連盟こそ、共産主義思想と対等の条件で戦える唯一の組織だった」【中略】
 最後に、「日本の敗因は何ですか」と聞かれたときは、はっきりとこう話した。
「日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ。特高警察と憲兵隊のおかげで、国民はいつも怯えていた。しかしこれらの警察力が、今除去されたということが、ただちに日本の民主化を意味するものではない。が秘密警察が破壊された以上、マッカーサーは日本人の手で追放を行わせるべきである。総司令部のやり方を見ていると、どうも信用できない人たちの情報に頼っている、というのが現状だ。新聞関係のあなた方などが総司令部が真実を知りうるように、大いに助力されることを、私はお勧めする」

 早瀬氏の『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』には、ほかにも紹介したい部分がたくさんあるが、機会を改める。また、読んでいていくつか注文させていただきたい点も出てきたが、これも機会を改める。

今日のクイズ 2013・2・22

◎1945年4月の時点で、石原莞爾が入院していた病院はどこだったでしょうか。

1 飯田橋の厚生年金病院
2 飯田橋の東京警察病院
3 飯田橋の東京逓信病院

【昨日のクイズの正解】 2 1940年に立命館出版部から発行されたが、「安寧秩序妨害」の理由で発禁処分を受けた。■「金子」様、正解です。石原莞爾の著書『世界最終戦争論』についての問題。『国会図書館所蔵発禁図書目録―1945年以前―』による。ただし、「削除版」の発行は許されたもようである。

今日の名言 2013・2・22

◎日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ

 石原莞爾の言葉。戦後、ジャーナリストのマーク・ゲインらに、こう語ったという。上記コラム参照。マーク・ゲイン『ニッポン日記』からの引用と思われるが、原本は確認していない。

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「皆さん、敗戦は神意なり!」石原莞爾の戦後第一声

2013-02-21 07:07:42 | 日記

◎「皆さん、敗戦は神意なり!」石原莞爾の戦後第一声

 先月の八日・九日に終戦直後における石原莞爾の言動について紹介した。その際、「東亜連盟」という言葉について、解説しておく必要があると思ったが、信頼できる資料が見つからず、ついそのままになっていた。
 たまたま、今月になって、早瀬利之氏の『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書、二〇一三年二月一七日)という本が出たので、手にしてみた。これは、極東国際軍事裁判酒田法廷における証人尋問など、戦後における石原莞爾の言動を中心に紹介した本で、非常に読みやすく、また有益な本である。
 終戦直後の石原が、東久邇宮稔彦と会談した話、東亜連盟の集会で大聴衆に向かって演説した話などは、当然出てくる(当時の新聞記事などの紹介はない)。また、「東亜連盟」についても、かなり詳しく説明されていて、勉強になった。
 同書の六二~六五ページから引用してみよう。

 軍を追われた石原は、立命館大学の教授に迎えられた。新しく「国防研究所」ができ所長となり、大学で国防論を講義した。雄弁な彼の講義は人気が高く、近くの京都大学の学生までが潜り込んで聴講していた。
また京都、大阪商工会議所、青年会など色々な所から講演を頼まれ、出かけて行った。その際、「私は恩給をいただいている身だから講演料はいただけない」と無料で講演した。
 この立命館大教授のとき、石原は『国防論』を立命館大学出版部から出版した。この本はベストセラーとなり、国民を勇気づけた。ところが、東條は憲兵と特高を遣って「発禁処分」に出た。
 また七月に中央公論社から出版した軍事学の著書『戦争史大観』も、出版元に圧力をかけて、出版差し止めに出た。ついには、立命館大学の中川小十郎〈ナカガワ・コジュウロウ〉総長に圧力をかけ、石原を退めさせた。昭和十六年九月は、海軍が真珠湾作戦を秘かに計画し、陸軍はマレー半島へ上陸する作戦を練って訓練していた頃である。石原は無職となり、京都にもいられなくなった。痛風の母親と妻の銻子と三人は京都を離れ、郷里の鶴岡に戻る。
 東條の圧力は、石原が顧問をしている東亜連盟運動にまでのびた。この東亜連盟運動は、日本、満州、中国、朝鮮がアジア同盟を結び、互いに経済協力して繁栄しよう、というもので、アジア各地に支部があった。ただし「政治は独立し、互いに干渉しない」というのが、東亜連盟のスタンスである。本部は日本だが、満州は新京に、中国は南京に、朝鮮、インドシナ、タイにも支部があった。
 東亜連盟協会は機関誌『東亜連盟』(月刊)を発行していて、南京では中国語に翻訳されていた。汪兆銘はレギュラー執筆者で、また重慶の蒋介石軍や毛沢東の中国共産党員たちにも読まれていた。周恩来も愛読者の一人で、戦後廃刊になったとき、残念がったという。
 京都を追われた石原は郷里に戻ると、代議士の木村武雄、満州時代からの同志、和田勤、石原が作った満州建国大の教授である中山優〈ナカヤマ・マサル〉らと打ち合わせながら、本腰を入れて毎月論文を書き、また、講演録を速記させて『東亜連盟』に発表し続けた。
 彼には常に憲兵と特高が、三六五日へばりついていた。京都にいたときは向いの民家を内緒に借りて常駐し、交替で石原及び石原を訪ねてくる者を見張った。鶴岡でも、近くに家を借りて、山形県特高課の刑事が、朝八時から見張った。講演先にも、その土地の特高がもぐり込んだ。
 時には憲兵が、石原の玄関先に立つこともあった。名目上は「将軍を右翼から守るため」であったが、民間人となった石原を憲兵が見張るのもおかしい。

 東亜連盟の集会について、同書には、一九四五年九月一九日、新庄において聴衆三万人という記述があるが(三七ページ)、典拠が明示されていないのは残念である。ちなみに、大熊信行の『戦争責任論』(唯人社、一九四八)には、「九月十二日新庄町公園広場にひらかれた東亜連盟県地区会員大会のために、やはり臨時列車が四本出されており、会衆一万五千」とある。いずれにしても、早瀬利之氏は、大熊の本は参照されていないのではないのだろうか。【この話、続く】

今日のクイズ 2013・2・21

◎石原莞爾の著書『世界最終戦争論』について、正しいものはどれでしょうか。

1 1940年に立命館出版部から発行されようとしたが、直前に圧力がかかって発行できなかった。事実上の発禁であるが、内務省よる発禁処分ではない。
2 1940年に立命館出版部から発行されたが、「安寧秩序妨害」の理由で発禁処分を受けた。
3 1940年に立命館出版部から発行された。内務省による発禁処分等はおこなわれなかった。

【昨日のクイズの正解】 2 宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉 ■1937年に、組閣の大命を受けたが、陸軍の反対によって、大命を拝辞した。なお、この時、陸軍の反対運動の中心となったのは、石原莞爾大尉だったとされる。  

今日の名言 2013・2・21 

◎皆さん、敗戦は神意なり!

 石原莞爾の言葉。1945年8月31日、東亜連盟宇都宮支部の集会における第一声。早瀬利之氏が、その著『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書、2013)の70ページで紹介している。この言葉は、戦後における石原の文字通りの「第一声」だったという。

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組閣の大命を受けても陸軍から反対されれば首相になれなかった

2013-02-20 07:58:47 | 日記

◎組閣の大命を受けても陸軍から反対されれば首相になれなかった

 昨日の続きである。昨日引用した部分に続く部分(「第四章 誰が日本を動かすのか(つづき)」の一部)を引用する。

 近衛が軍から受け入れた他の半面の政策は所謂「新体制」であつた。支那事変のために物的人的資源の動員が必要であるといふ意味に於いては、この新体制も一つの戦時施策であり、日本に現らず如何なる国の政府も採らねばならぬ政策であつた。然し近衛はそれ意外に考へるところがあつた。支那事変の初まる数年前から彼の頭にあつたものがあるのである。即ち彼の言葉を以ててすれば統帥と国務の融合といふことであつた。彼は日本の二元制度の弱点を知つてをり、軍をもその中に含んだ強力な政府を創ることを考へてゐた。彼は軍も新体制の中に入つてその一部を分担することを願つてゐた。
 然るに軍は今迄の独立不羈の立場を捨てない態度を明かにした。近衛の新体制に対する熱は立ちどころに冷却してしまつた。彼は普通は文官の占むべき官僚の椅子に陸海軍軍人を数人置いてゐたのであるが、彼の意図するところは、ただ陸海軍の支持をかち得べき人を閣内に置いて内閣を強化せんとするにあつたのであつて、それは飽くまで一つの政治的工夫であつたのであり、解決ではなかつたのである。
 何故にもつと本質的な憲法上の解決が必要であるかを理解するには軍の地位を知らねばならぬ。茲に於いて我々は日本政治の第三要素たる軍を検討する段取となる。数年前、或る時は日本に於いても政治的進展の方向は、他国に於いて見られるやうに文官の支配の方へ進みつゝあるかに見らることもあつた。併しながら陸軍が武力に依る膨脹政策を採つて以来、日本の政治的発展の方向は反対の途〈ミチ〉を進んだのである。文官の勢力は隅の方へ押しやられる一方、軍部の勢力が増大したのである。陸海軍は政府に与へられた武器であるべきはずのものが、反対に行政各部が却つて軍人に使はれる関係になつたのである。
 陸海軍の権力は一種の独裁である。それはロシアや独逸のやうに国家の凡ての権力が唯一点に集中する型の独裁ではないが、矢張り一種の独裁である。
 陸軍は政府を代表して自ら政治を行つてはゐなかつた。単に国策の向ふべき途を示すだけであつて、自ら前面に出てその責任を背負はうとはしなかつた。現役の陸軍大将が総理大臣にされたのは実に米国との戦争が決定された後なのである。近衛も支那との戦争は引受けた。が米国との戦争は別物だ。彼は到底引受けようとはしなかつた。軍は遂に自らの代表者を政府の首班たる地位に送りこまねばならなくなつたのである。この新しい総理大臣がどんな人であるかについては世間は殆んど何も知らない。陸軍中将東条英機といふ名前が日本人に与へる印象は、何処の何者とも知れぬ陸軍少将ジョン・スミスがアメリカ人に与へる印象に等しいのである。だが、それは問題ではない。問題は、政府の最高地位を引受けたのは陸軍である。個人ではない、といふ一事なのだ。
 軍部の法律上の基礎は憲港によつて与へられた類例なき特権的地位である。また、軍部は国民の心の中にも同様の特権的地位を与へられてゐると言へるから、道徳的にも強固な基礎をもつてゐるといふことができるのである。憲法によれば、天皇は大元帥陛下として陸海軍統帥事項に関しては総理大臣ではなく、陸海軍の首班、即ち参謀総長・軍令部長・陸海軍大臣によつて補佐される。これら陸海軍首斑は直接天皇に上奏し、また天皇の至上命令は政府ではなく、統帥部の上奏に基いて下される。陸軍大臣は総理大臣が選ぶのではなく、陸軍部内の三長官、即ち陸軍大臣・参謀総長・教育総監が選ぶのである。即ち陸軍大臣は自らの後継者を自ら選ぶのである。陸海軍大臣はそれぞれの現役の大将、または中将でなければならぬ。陸軍は内閣から陸軍大臣を退けることができ、また事実退かせたことがある――結果は内閣の総辞職である。また陸軍大臣の選出を拒否することがある――結果は組閣の大命を受けた者でも陸軍から反対されゝば総理大臣になれぬといふことになる。陸軍大臣は要するに連結手の如き者であり、内閣の中の陸軍の出店なのである。

 ここでは、「日本政治の第三要素たる軍」について述べている。ヒュー・バイアスのいう日本政治の三要素とは、すでに紹介した通り(今月六日のコラム)、天皇と内閣と陸海軍である。
 一読してわかるように、当時における政治要素のひとつである軍部について、簡潔にして的確なスケッチをおこなっている。
 ヒュー・バイアス『敵国日本』の紹介は、このあとも続けるが、とりあえず明日は、他に話題を振りたい。

今日のクイズ 2013・2・20

◎組閣の大命を受けた者にもかかわらず、陸軍からの反対を受け大命を拝辞した(総理大臣になれなかった)のは、次のうち誰でしょうか。

1 荒木貞夫〈アラキ・サダオ〉 
2 宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉  
3 真崎甚三郎〈マサキ・ジンザブロウ〉

【昨日のクイズの正解】 1 第一次世界大戦の末期に退位し、オランダに亡命した。■ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世についての出題でした。「金子」様、正解です。

今日の名言 2013・2・20

◎日本の書評文化は危機にひんしている

 日本図書新聞代表・井出彰〈イデ・アキラ〉氏の言葉。本日の日本経済新聞「文化」欄より。井出氏は、三島由紀夫自決事件当時、日本読書新聞の編集委員だった。事件当日、興奮した村上一郎が日本刀を持って家を出たと聞き、市ヶ谷の自衛隊正門前で待ち伏せ、村上を呼び止めたというエピソードが興味深かった。

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近衛文麿は、それが不必要な戦争であることを知っていた

2013-02-19 06:19:49 | 日記

◎近衛文麿は、それが不必要な戦争であることを知っていた

 ヒュー・バイアスの『敵国日本』(一九四二)については、雑誌『世界』の創刊号(一九四六年一月)に掲載されたものの一部を、このコラムでも紹介した(今月一・二・五・六日)。しかし、創刊第二号に載ったものについては、まだ紹介していなかったので、本日は、その一部を紹介してみることにしたい。
 以下は、「第四章 誰が日本を動かすのか(つづき)」の一部である。

 五・一五事件を契機として青年将校が危険な革命的空気の中に包まれたと見るや、政府は外に対しては軍の提唱する政策――満洲に於ける軍事行動、国際連盟脱退、華府〔ワシントン〕条約破棄等を実行し、内に対しては穏健な非政党人たる総理大臣によつて素晴しく巧みなる無為無策の鎮静剤的政治を続けたのである。それだけでは内にナチ的改革の断行を慫慂し、外に対して侵略を主張して已まぬ不平分子を満足させることができなかつた。そして第二の更に一段と恐るべき二・二六事件、叛乱と暗殺の形を採つた事件が勃発した。近衛に総理大臣たるべき大命が降下した。彼は拝辞した。そして二度まで内閣が倒れるに及んで漸く首相の地位を受けたのである、彼が大命を拝辞したのは、先づ軍をしてその欲するところを行はしめた後でなければ国内安定は望むことができないと信じたからである。彼が内閣を組織した僅か数週間後に支那事変が勃発。それが不必要な戦争であることを近衛が知らないはずはなかつた。ただ彼は国内に於ける叛乱や革命に比べては支那との戦争の方がまだましだと考へたのである。それにはまた、北支の原野にヒンデンブルグのタンネンベルグ的殲滅的勝利を獲得して、支那事変を六ケ月で終了すべしという陸軍首脳部の保証もあつたのだ。かゝる期待が如何に幻滅のものであつたかは歴史が語る。一年後近衛は挂冠した〔官を辞した〕。が、その頃には最早政治とゴルフを趣味とした一人の私のない貴族としての彼の役割は永久に終つてゐた。軍を増長させた政策の破局は、日本を有史以来最大の危機に陥れてゐた。近衛は立憲政治最後の「切り札」であつた。されば軍が独逸との同盟とナチ的国内改革を慫慂するに及んで、近衛は再び首相の印綬を帯び再び軍の欲する所に従つた。ヒットラーが突如としてスターリンと結ぶや、日本も亦おくればせに逡巡した揚句、ヒットラーの後を追つた。ヒットラーが第二の不信義を敢行してソ連侵入の火蓋を切るや、近衛は独逸との同盟とソ連との中立条約を結んだ外相〔松岡洋右〕を更迭して、米国との交渉を始めた。この間、宮廷勢力が、松岡と過激なその一派の更迭に近衛と協力したことは、疑ひの余地がない。併しながら陸海軍が遂に対米戦争を決行する成算ありと決意するに及んでは、宮中も内閣も忽ち無力な存在になつてしまつた。陛下と、貴族総理大臣の弱いながらも長きに亘つた努力は、遂に蹂躙されてしまつた。陛下と近衛は独逸のウイルヘルム二世とベートマン・ホルウエッヒと相並んで、歴史に残ることゝなつたのである。

 上記で、「外相を更迭」と言っているのは、事実上の更迭という意味であろう。周知のように、大日本帝国憲法では、首相が国務大臣を更迭することはできず、この時の近衛内閣は、一度総辞職をおこなうことによって、松岡洋右〈マツオカ・ヨウスケ〉外相を追い出した(一九四一年七月、第二次近衛内閣→第三次近衛内閣)。
 ヒュー・バイアス『敵国日本』の紹介は、明日も続ける。

今日のクイズ 2013・2・19

◎ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世について、正しいのはどれでしょうか。

1 第一次世界大戦の末期に退位し、オランダに亡命した。
2 第一次大戦後、ワイマール共和国の発足にともなって退位した。
3 ナチス政権によって、皇帝の座を追われた。

【昨日のクイズの正解】 2 2001年に、原書に基づいた新訳が刊行された。■内山秀夫・増田修代訳『敵国日本―太平洋戦争時、アメリカは日本をどう見たか?』刀水書房、二〇〇一年刊。

今日の名言 2013・2・19

◎それが不必要な戦争であることを近衛が知らないはずはなかつた

 ヒュー・バイアスの言葉。『敵国日本』(1942)に出てくる。「それ」とは「支那事変」のこと、近衛とは近衛文麿のことである。

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