礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

素手でボールを受けた明治時代の野球

2014-08-07 04:03:34 | コラムと名言

◎素手でボールを受けた明治時代の野球

 昨日の続きである。早稲田大学講演部編『明治維新の全貌』(早稲田大学出版部、一九三五)から、京口元吉の「明治時代の生活的展望」という文章(講演記録)を紹介している。本日は、明治時代の「野球」について述べているところを紹介してみよう。
 野球の話も興味深いが、そのあとの京口のコメントが示唆的である。ただし、これは、明治の野球に対するコメントにとどまらず、近代日本の開化そのものに対する鋭いコメントである点に注意したい。

 野球のことも御承知でありませうが、これも明治六年に入つたと云ふ人があるが、それは誤〈アヤマリ〉で野球らしいものになつたのは明治二十年。それから三十五年迄は一高が威張つて居つた〈オッタ〉。当時は勇敢なものでミットもグローヴも何もはめない。勿論靴はなし、裸足〈ハダシ〉に脚絆〈キャハン〉がけ。脚絆は例の『彌太郎笠』なんかに出て来るやくざの穿く〈ハク〉あいつを穿いてやつた。素面素小手〈スメン・スゴテ〉といふが、素手で受けた、痛くても我慢して居る。本大学〔早稲田大学〕の五来欣造〈ゴライ・キンゾウ〉博士が当年の選手で、投手・捕手・遊撃手など命名されたといひます。三十六年の早慶戦、三十九年に早稲田が初めてアメリカに行つた。四十三年になりまして明治が強くなりました。で早明戦と慶明戦が行はれた。四十五年頃には早慶明法が鎬〈シノギ〉を削る様になつた。而も早慶はやらない。大正二年に朝日が全国中等学校野球なるものを始めた。それから段々と田舎にも野球熱が普及して、遂に今日の盛況を呈し、ラヂオ放送が見ざるファンまで作り上げたといふ次第です。
 ですから我々が現在に利用して其の恩恵に浴しつゝ、如何にも古くからあつたものであるかのやうにと信じ切つてゐるものゝ多くは、焉んぞ〈イズクンゾ〉知らん古くとも明治の末期、新しいのは大正時代、どうかすれば昭和時代に這入つてから、目覚しい一大飛躍を遂げた物なのです。
 こんな訳で明治時代は先刻も申上げましたやうに、世間多数の人々が誤り信じてゐるやうな、そんな華々しい時代ではなかつたのです。寧ろ高嶺の月を仰ぎつゝ汗水垂らして苦しみもがく踠いて〈モガイテ〉ゐる時代だつたのです。何が人々をそんな苦しい山登りに逐ひやつたのかと申せば、余りにも物凄い西洋諸国の日進月歩の文明に脅かされたことにあつたのです。
 我が国は、その為めに二百六十五年の徳川幕府の封建制度を犠牲にしました。光輝ある明治新政府を迎へました。新政府の下に西洋の文物制度の模倣を急ぎました。文明開化への門出に旧物を破壊しました。その為めには世界に誇るべき国粋をも一時は失つてしまはうとしました。
 さうかと思ふと新政府の当路者〈トウロシャ〉に反抗する幕末の人々だの、因循姑息な保守的傾向だのが、動も〈ヤヤモ〉すれば手綱を後へ引戻すやうな愚を敢へてしようとしたこともありました。さうなると当路者も確乎たる信念がありさうで案外フヤけたところを見せまして、朝令暮改、朝に夕を計らず、行当りばつたりで何が何やら判らなくなつたこともあつたのです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする