礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

津下剛、入院二か月にして逝く(1939)

2014-03-18 05:51:51 | 日記

◎津下剛、入院二か月にして逝く(1939)

 昨日の続きである。津下剛『近代日本農史研究』(光書房、一九四三)の「序」の後半。執筆は、黒正巌である。黒正は、昨日、紹介した前半部に、改行なしで、こう続けた。

 亡くなる前年の夏、いつもの農史資料探訪旅行を広島、山口両県に企てた際、津下君も態々〈ワザワザ〉帰来、之に参加したのであるが、その時、大分弱つてゐたように思はれた。それにも拘らず帰台後は相変らず研究に没頭したゝめ、いよいよ健康を害したので、終に医師の勧めにより内地に帰り専ら静養する事になつた。昭和十四年の初夏、私は鹿児島へ講演に行く序〈ツイデ〉があつたので、その旨予め通報しておいた。郷里熊本に帰省静養せねばならぬ位だから余程悪いと思つてゐたのに、熊本駅頭で会つた時には仲々元気であり、大して変つても居ず、帰途熊本に下車してゆつくり話さうと、そのまゝ鹿児島へ直行した。鹿児島では予定よりも長く滞在したゝめ、用事の都合で熊本へ下車出来なくなつたので、駅頭で会ひ度いと電報しておいたところ、彼の姿が見えず、奥さんの母君がしよんぼりと出て居られた。聞けば、急に容態が悪いので、九州帝大の病院へ入院したとの事である。併し病気が病気故、今日明日の事でもなしと思ひ、私はそのまゝ京都へ帰り、激励の見舞手紙を出しただけで日が経つた。間もなく奥さんから容態甚だ悪い旨の知らせを受けたが、終に見舞にも行かない内に急逝した。病院に入つてから二ケ月も経たなかツたと思ふ。根か気の強い頑張り家だし、それに年も相当にしてゐたから、頑張れると思つたが、併し彼の恬淡〈テンタン〉な気性の如くもろく逝つたのである。前には原伝君を失ひ、又津下剛君を失つた。私は哀惜〈アイセキ〉いふ所を知らぬ有様である。併し原君にしろ、津下君にしろ僅かに三十五歳の若さで亡くなつたのではあるが、その比較的短き学究生活に於て、あれ丈けの立派なものが出来たとあれば、永遠に生きらるゝものを創造したのであるから、津下君も心安らかに眠れる事と思ふ。津下君の真の姿は本書に収められたる珠玉十六篇によつて画き出されてゐる。津下君の遺稿が更めて〈アラタメテ〉茲に公刊せらるゝに至つた事は、啻に〈タダニ〉津下君の研究を長く後世に伝へ得るのみならず、又農史学界に貢献する所甚大である事を信じ且つ喜ぶ次第である。このさゝやかなる一文を草しつゝも、遠く津下剛君のありし日を偲び、哀惜の情切々と心をうつものがある。
 昭和十八年三月廿七日      黒正 巌

 入院生活二か月にして亡くなったことは、「急逝」とは言わない。黒正巌は、後輩が入院している間、一度も見舞いに行かなかった言い訳に、こういう言葉を使ったのであろう。
 それはともかくとして、この「序」は、名文とは言えないものの、それなりに訴えるものがある。黒正巌の名前は、ウェーバーの翻訳者として記憶にあったが、ウィキペディアによって、そのプロフィールを確認すると、学者ばなれした豪快な人物だったようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする