礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「校正畏るべし」福地桜痴の名言

2013-06-12 05:39:30 | 日記

◎「校正畏るべし」福地桜痴の名言

 昨日の続きである。改造文庫版の福地源一郎(桜痴)『懐往事談』(一九四一)に、付録として掲載されている『新聞紙実歴』の一部を紹介したい。
 本日、紹介するのは、「新聞記者並に校正の事」という文章の後半部である。句読点は、改造文庫版に従ったが、テンのみ、若干増やしている。

 要するに明治七八年より十二三年の頃までは凡そ〈オヨソ〉仕途又は世路に攀援なき俊才は概ね各新聞者に身を寄せて以て其才学議論を世に知らるゝの場となしたりければ新聞記者は実に一の登竜門とも見做なされたり、而して意見を当世に知られんと望める論者も亦新聞紙を以て其地と成さんとは冀ひたり。是れ新聞紙が数年の間に於て非常の発達を為したる所以の一なる歟〈カ〉。
 然るに新聞紙発兌に付て余が終始満足を得ること能はずして常に不平に堪へざりしは校正の一事なりき、折角に骨折て〈ホネオッテ〉書たる〈カキタル〉文章も翌朝に至りて之を閲すれば校正の為に誤られて其意を失へること比々〈ヒヒ〉にてありき、尤も平常の著述の如くに原稿を丁寧に書き誤字脱字なき様にして印刷に付し、又その上に自から校正したらんには左までの誤謬はなかるべきが、時間に急がれて筆を下し原稿の疎漏なるが上に校正も亦同じく急がれて校正するが故に、書籍出版と同日には論ず可からざれども、去とて〈サリトテ〉は校正の悪きには辟易したり、当時各社とも豊給の報酬を以て大家先生を聘して、以て校正の任に当らしめなば校正の精なるは必然なりしと雖も、奈何〈イカン〉せん新聞社財政の許さゞる所なりしを以て其事も行はれず、依て余は自己の受用額を割きて補助に充て、市川清流氏を聘して校正主任と為したるに、流石に〈サスガニ〉清流氏が社に在りし間は、稍々〈ヤヤ〉校正の宜きを得たりしが、氏も其煩劇に堪兼てや〈タエカネテヤ〉一年が後に退社したりければ、校正は再び旧の疎漏に復して余を困却せしめたり。余は当時、屡々校正者に諭して、凡そ校正をなすに当り、原稿の意味の通ぜざる所は之に訂正を加へ用字を正し、仮名遣をも改め、以て其文章を完全せしむる、是を第一とす。弐には、原稿の通りさへ印刷せしむれば乃ち〈スナワチ〉可なりとして、謹直に原稿を墨守して、更に其の誤謬を訂正せざる、是を第二とす。己れが聊〈イササカ〉ばかりの文学に誇りて妄りに訂正を加へ、却て原稿の意を害するに至る、是を最下等とす。第一は迚も〈トテモ〉得安からざれば、余は第二の校正にて満足すべきも、動も〈ヤヤモ〉すれば第三の校正あるには閉口なりと云ひたれども、校正者は大抵これを覚らずして自ら第一に居る積〈ツモリ〉にて朱を弄したるには困り切たるなり。余は一日〈イチジツ〉曽て校正の悪しきが腹立しき余りに、校正可畏焉知朱筆之不如墨也四回五回而無訂焉斯亦不足恃也已と紙に大書して校正担当者が机を並べたる傍の壁に貼付け置きたれども、彼輩は一向平気なるものたりき。其後、馬琴が著書を閲したるに、其緒言の中にも、浄書と校正の疎漏なるを憤りて〈イキドオリテ〉彼また夢にだも草稿を見ず書たるを見たり、左れば〈サレバ〉誰も校正には困つたるものと思はれたり、但し今日の諸新聞雑誌の校正は一体に進みて、往時に比ぶれば稍々宜しき方に向ひたるが如し。

「校正畏るべし」(校正可畏)という言葉を最初に言い始めたのが誰かは不明だが、この言葉を普及させたのは、間違いなく福地源一郎(桜痴)であろう。なお、文中に「朱」という漢字が二回出てくるが、原文では、石ヘンに朱である(朱と同義)。

 本日の名言 2013・6・12

◎妄りに訂正を加へ、却て原稿の意を害する

 福地源一郎(桜痴)の言葉。校正者は、これだけは避けなければならない。上記コラム参照。今日の業界用語で言う「サカシラ」であろう。

コメント
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