★ 昭和の退位封印 道義的責任、問わず 天皇制存続、GHQ・政府一致 http://mainichi.jp/articles/20170105/ddm/003/040/041000c
・ <敗戦後の昭和天皇について主に3回に分けて退位論があった。1回目は終戦から約1年、2回目は1948年5月ごろから東京裁判の判決が下されるまで、
3回目は52年のサンフランシスコ講和条約発効前だ。敗戦という大きな試練を乗りきったことが象徴天皇の出発点にある>。
・ <48年5月末ごろから約半年間、再び退位論が起こる。きっかけは最高裁長官の三淵忠彦の退位を促す発言が海外メディアで紹介されたことだった。東京裁判が判決まで
休会していたこの時は、天皇制維持のためには昭和天皇が退位したほうがよいという国内世論が中心だった。判決時に責任を取って退位するという臆測や新聞紙上での
意見表明が相次ぎ、1度目と異なり、オープンな場で退位が論じられた>。
・ <3回目は、52年のサンフランシスコ講和条約発効の直前だ。独立後なら、退位しても占領軍による強制と受け取られることがなくなる。立教大名誉教授、粟屋憲太郎氏は
「東京裁判資料・木戸幸一尋問調書」の解説で、巣鴨プリズンに収容されていた木戸が、51年10月に面会に訪れた息子に託した伝言を紹介している。
それは昭和天皇の退位を促すもので
「(もし退位しなければ)皇室丈(だけ)が遂(つい)に責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを虞(おそれ)る」>。
⇒ マッカーサーが己の占領任務を円滑・速やかに終わらせたい野心で天皇の戦犯化を回避したことは周知。そして敗戦日本の新政府を担う当時の政治家/官僚たちに
「天皇制なき新日本」をイメージすることは、明治生まれの生い立ちからしてできなかっただろう。
加えて、アメリカ人一流のコスト感覚があったろうし、ソ連との対峙が予見される国際情勢を頭に入れ、アメリカと新政府を背負う日本の政治家の打算が一致した。
然し、昭和天皇本人或は木戸幸一が「退位」による責任の取り方を模索したなのに、取り巻きがアメリカと結託して阻止する構図。 それを当時の国民は糾弾していない。
これはキツイようだが、国民の未熟さであり落ち度だ。 ここにこそ、今に至る天皇制と政治の歪んだ関係が温存されてきた原因がある。
◆ ここで 私には些かガッカリというか、残念なコメントがある。
<昭和天皇が退位しなかったことで戦前、戦後の連続性が保たれたと評価する考えもある。自身も占領期を経験した作家、半藤一利氏(86)は「退位しなかったことは
(道義的に)すっきりしないものも残るが、食うに困っている占領期の6年間でみると(天皇が)宮城に残っていたことが何とはなしに安定をもたらした」と話す。
⇒ 此の「天皇が宮城に残っていたことが何とはなしに安定をもたらした」という感覚、私には理解不能。<昭和天皇が退位しなかったことで戦前、戦後の連続性が
保たれたと評価する> ・・・・・保たれたことこそが=戦前との連続性こそが、今の日本が抱える多くの課題の元凶ではないか、半藤さん!
当時を知る大部分の国民で今も生き残っている人は、「戦争そのものについてはよくわからないが、敗戦を招いた膨張政策で明治このかた歩んできた国の指導者の
頂点に居るのは、天皇ではない」と今も思っている、ということなのだろうか? 作家の良心をもつと思われてきた半藤氏だけに、私はこれらの発言が残念でならない。
明治憲法の制約を言い訳にしようが、理屈/論理からいうと、大日本帝国を滅ぼす侵略や戦争を止めるどころか、加担した最終責任者は昭和天皇だ。
道義的責任だけで寛恕されるなら、責任とは何だ? 終戦の勅語を出すあたりから昭和天皇は自らの呵責を問い始めたのだろう。 ところが、周囲は「国体」という
曖昧模糊としたオブラートでこれを包み隠し、闇に葬り去った。 それは何故か? 誰の為に葬り去りたかったのか????
以前も書いたが 「国体」とは何だ? 櫻井よし子よ、飛鳥・天平の頃はいざ知らず、現代日本におけるクニとは実体のない抽象的呼び名でしかない。 クニと便宜上名付けている実態は個人の集合体であり、ボヤっとしたイメージや抽象的概念で浮遊する無機物では無い。 あなた方が守りたいものがあるなら、それは目に見えるものでなければならない。 神棚の奥に姿なく隠すものが民族の中心などであってよい筈はない。 天皇は超越者ではない。 天皇を超越者にしてはいけない。
・ <敗戦後の昭和天皇について主に3回に分けて退位論があった。1回目は終戦から約1年、2回目は1948年5月ごろから東京裁判の判決が下されるまで、
3回目は52年のサンフランシスコ講和条約発効前だ。敗戦という大きな試練を乗りきったことが象徴天皇の出発点にある>。
・ <48年5月末ごろから約半年間、再び退位論が起こる。きっかけは最高裁長官の三淵忠彦の退位を促す発言が海外メディアで紹介されたことだった。東京裁判が判決まで
休会していたこの時は、天皇制維持のためには昭和天皇が退位したほうがよいという国内世論が中心だった。判決時に責任を取って退位するという臆測や新聞紙上での
意見表明が相次ぎ、1度目と異なり、オープンな場で退位が論じられた>。
・ <3回目は、52年のサンフランシスコ講和条約発効の直前だ。独立後なら、退位しても占領軍による強制と受け取られることがなくなる。立教大名誉教授、粟屋憲太郎氏は
「東京裁判資料・木戸幸一尋問調書」の解説で、巣鴨プリズンに収容されていた木戸が、51年10月に面会に訪れた息子に託した伝言を紹介している。
それは昭和天皇の退位を促すもので
「(もし退位しなければ)皇室丈(だけ)が遂(つい)に責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを虞(おそれ)る」>。
⇒ マッカーサーが己の占領任務を円滑・速やかに終わらせたい野心で天皇の戦犯化を回避したことは周知。そして敗戦日本の新政府を担う当時の政治家/官僚たちに
「天皇制なき新日本」をイメージすることは、明治生まれの生い立ちからしてできなかっただろう。
加えて、アメリカ人一流のコスト感覚があったろうし、ソ連との対峙が予見される国際情勢を頭に入れ、アメリカと新政府を背負う日本の政治家の打算が一致した。
然し、昭和天皇本人或は木戸幸一が「退位」による責任の取り方を模索したなのに、取り巻きがアメリカと結託して阻止する構図。 それを当時の国民は糾弾していない。
これはキツイようだが、国民の未熟さであり落ち度だ。 ここにこそ、今に至る天皇制と政治の歪んだ関係が温存されてきた原因がある。
◆ ここで 私には些かガッカリというか、残念なコメントがある。
<昭和天皇が退位しなかったことで戦前、戦後の連続性が保たれたと評価する考えもある。自身も占領期を経験した作家、半藤一利氏(86)は「退位しなかったことは
(道義的に)すっきりしないものも残るが、食うに困っている占領期の6年間でみると(天皇が)宮城に残っていたことが何とはなしに安定をもたらした」と話す。
⇒ 此の「天皇が宮城に残っていたことが何とはなしに安定をもたらした」という感覚、私には理解不能。<昭和天皇が退位しなかったことで戦前、戦後の連続性が
保たれたと評価する> ・・・・・保たれたことこそが=戦前との連続性こそが、今の日本が抱える多くの課題の元凶ではないか、半藤さん!
当時を知る大部分の国民で今も生き残っている人は、「戦争そのものについてはよくわからないが、敗戦を招いた膨張政策で明治このかた歩んできた国の指導者の
頂点に居るのは、天皇ではない」と今も思っている、ということなのだろうか? 作家の良心をもつと思われてきた半藤氏だけに、私はこれらの発言が残念でならない。
明治憲法の制約を言い訳にしようが、理屈/論理からいうと、大日本帝国を滅ぼす侵略や戦争を止めるどころか、加担した最終責任者は昭和天皇だ。
道義的責任だけで寛恕されるなら、責任とは何だ? 終戦の勅語を出すあたりから昭和天皇は自らの呵責を問い始めたのだろう。 ところが、周囲は「国体」という
曖昧模糊としたオブラートでこれを包み隠し、闇に葬り去った。 それは何故か? 誰の為に葬り去りたかったのか????
以前も書いたが 「国体」とは何だ? 櫻井よし子よ、飛鳥・天平の頃はいざ知らず、現代日本におけるクニとは実体のない抽象的呼び名でしかない。 クニと便宜上名付けている実態は個人の集合体であり、ボヤっとしたイメージや抽象的概念で浮遊する無機物では無い。 あなた方が守りたいものがあるなら、それは目に見えるものでなければならない。 神棚の奥に姿なく隠すものが民族の中心などであってよい筈はない。 天皇は超越者ではない。 天皇を超越者にしてはいけない。