マイケル・バリントは、プレエディパルなところでは、治療者はクライアントに対して、
相手を支える地火風水のように、一次対象として存在することが必要としていた。
(「治療論からみた退行」マイケル・バリント)
人類学では、「自己とは記号から記号への中継点である。自己が記号を受け取り、他なる
自己に対して、新たに何かを表すというプロセスの中に、思考、すなわち生なる思考がある。」
(現代思想:3月臨時増刊号、「『森は考える』を考える」奥野克己P219)
とのことだ。
2者関係以前である発達障害のクライアントに対しては、治療者や治療関係者、治療環境は、
一次対象として存在し、クライアントから見出されて、思考が生まれ発展する素材として
在ることが、必須条件ではないのだろうか?
それによって自己に根ざした思考が発達して、主体が生成し、想像力の無さや、
儀式的行為へのこだわりなどからも、抜け出していくのではないだろうか?