マチンガのノート

読書、映画の感想など  

「都市を生きぬくための狡知」 小川さやか著

2014-05-31 00:49:41 | 日記
タンザニアに文化人類学のフィールドワークに行った著者が、
現地で言う「ムジャンジャ」な関係を理解したいなら、
古着の露天商をしてみればいいと勧められて、
実際に現地で露天商をした事を基にして書かれている。
色々とごまかしたり、商品を持ち逃げしても
また戻ってきたら、元売りが再び露天商として使うなどの
所が面白い。
社会が安定している日本なら、善と悪、合法と違法がはっきりしていて
悪行や違法行為をしたらもう使わないなどのことが多いのでは
無いのだろうか?
貧しい国の、そのような関係を、日本も見習ったほうが、
寛容で、暮らしやすい社会になるのではないのだろうか?
テレビ朝日の「世界の果ての日本人」の千原せいじに
通じるものを感じさせる。

「発達障害への心理療法的アプローチ」 河合俊雄、畑中千紘 他 こころの未来選書

2014-05-26 01:58:35 | 日記
畑中千紘氏は、第五章において、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を取り上げて、近代化とともに、
薄暗い中、床の間に飾った掛け軸をゆったりと眺める、などの時間が失われて、
何事でも表記されている事柄を明確化して理解する方向に向かった事を取り上げているが、
そのように、のんびりと過ごして、ゆったりと眺めるなどが減って、
何事も明確にして、意見を表明し、生産性を向上させ、付加価値を向上させるという態度が
価値のあるものとされてきたことが、発達しにくい人を異物として扱うようになった
社会的背景なのだろう。
そのような「近代的自我」というものは、産業革命以降に形成されてきたものに過ぎないのだから、
当然、ある一定数の方はそのような在り方に向いていないので、
そのような方が適応しづらく、「障碍」とされるのは、
現代の「働く」「稼ぐ」が最優先とされる社会的価値観が人間に
本来的に向いていないのではないのだろうか?


96ミニッツ   エイミー・ラゴス監督  米国

2014-05-21 21:37:30 | 日記
高校を出られる事が決まった、黒人少年ドーレ、
独身の母親に世話されずにゲームばかりしている白人少年ケヴィン、
そして、大学(?)か何かで恋愛沙汰などで、あれこれしている女子学生たち。
ケヴィンは、母親がボーイフレンドと部屋で過ごすために家から追い出される。
そして近所の黒人のギャンググループの所に行って、
「仲間に入れてくれ」というのだが、ギャングたちは
「車を盗んで来たら、仲間に入れてやる」とふざけて言う。
母親のボーイフレンドの車を盗もうとするが、あっさりひっぱたかれて追い返される。
そしてギャングたちに「銃を貸してくれ」という。ギャングたちは面白半分で拳銃を渡す。
そこにドーレが通りかかり、大学のある地域に連れていく。
自分たちの住む街と違う世界を見せようとするのだが、ケヴィンは置いてある車を盗もうとして
ガチャガチャするが、盗み方も知らない。
そして偶然近くで自分たちの車に乗り込もうとした女子学生2人に
「車を寄越せ」と言って、銃を突き付けて、騒いでいるうちに発砲して
片方の女子学生の顔に弾が当たる。
ドーレはケヴィンと女子学生2人を車に乗せて、その状況をなんとかしようと車を走らせる。
ドーレは負傷した女子学生を病院に連れて行ったら、自分も刑務所行ということで、
どこを走っているかも解らず車を走らせ続ける。
横ではケヴィンが大音量でヒップホップをカーステレオで鳴らしだしたりする。
そして、女子学生を両方、車から出して、ケヴィンと口論していると、
負傷していないほうの学生が走って逃げようとする。
そしてケヴィンが後ろから発砲すると、その学生は倒れたので、2人とも置いて
ドーレとケヴィンは逃げる。
後ろから撃たれた学生は少ししてから起き上がって、通りがかりの車に助けを求める。
それを運転していたのは、ドーレの父親で、急いで病院に連れていく。
ドーレは収監されて、父親に助けられた方の学生と面会する。
ケヴィンは庭で死んだとのこと。
アメリカ、イギリスのアマゾン共、ある程度レビューが書き込まれている。
映画として出来が様々な点で良いと評価されている。
幾つかの映画祭で賞を獲ったとのこと。
このようなテーマの映画も観て、レビューを書くのだから、ユーザーもかなり
日本とは性質が違うのだろうか?

「臨床ユング心理学入門」 (PHP新書) 山中康裕著

2014-05-16 00:31:07 | 日記
この本の中で、山中康裕医師は
「分裂病患者は、苦しみのあまり、人間の尊厳を放棄している」
ということを書いているが、そこまで見て、治療しようというところが、
他の医師のように、「陽性症状」がどうだ、「陰性症状」がどうだ、
と表面的に見て、治療しようとするの違うのだろう。
そこまで見て接して治療するので、境界例患者などの重症例についても、
基底部分の「欠損」ではなくて、「ずれ」「断層」という、
治療可能性が見えるのではないのだろうか?
人間の尊厳を放棄している方を、暖かく見守って長期に渡り接することが
臨床家には必要なのではないのだろうか?




「自閉症 うつろな砦」 ブルーノ・ベッテルハイム

2014-05-13 12:49:29 | 日記
ナチスの強制収容所に収容されていて、その後、
自閉症の療育に携わっていたベッテルハイムは
自閉症児を見て、ナチスの強制収容所で「回教徒」と呼ばれていた
人達を思い出したとのことだ。
ナチスの強制収容所に収容されるというのと、
自閉症児の療育をしたという、両方の体験をしたという方は
ほとんど居ないのだろう。
そのため、両者がどこか共通点があるように見えるというのは
他の方には解らないのだろう。
京大にいた山中康裕医師が、一年違いでベッテルハイムと同じ職場に
勤められなかった、との事を何かで書いていた。
もし同じ勤め先になっていたら、強制収容所でどのように生きたか、
そして「回教徒」と呼ばれていた方々は、どのようだったかを聞きたかったのでは
ないのだろうか?
それが自閉症などの治療に生かせそうだったのではないだろうか?
自閉症、発達障害などの治療として、SSTなどが取り上げられるが、
「回教徒」のような部分があるとすれば、そこから抜け出すことを
治療の主要目的とすべきではないだろうか?
また、「回教徒」のような極度に重いものを抱えているからこそ、
しっかり関わろうとすると、追手門学院大学の荒木浩子氏の言うような
「心身を切り裂くような」ところを経ないと、
治療が進展しないのではないのだろうか?