マチンガのノート

読書、映画の感想など  

「声の文化と文字の文化」ウォルター・J. オング

2014-02-24 01:04:07 | 日記
文字を持つ前の人類は、聴衆の前で物語を語るときに、修辞を積み重ねて、
登場人物を表現して、「美しい王女」「勇猛なる兵士」などと表現して、
なぜそのような人物に成ったかを説明できず、善良な人物は善良であり、
悪い人間は単に悪い人間であるということを積み重ねて語り続けていたそうだ。
そして聴衆の反応を見て、その時々で話を変形させていたとのことだ。
アルファベットという、母音と子音を表記できる文字を得ることによって、
言葉を記録に残せるようになって、しばらくは手書きの本だったので、
表記の仕方が作者によって独特だったので、汎用性が限られていたが、
グーテンベルグの活版印刷によって、表記の仕方が標準化されることにより
相互に参照するようになり、論理のつながりが出来てきて、
それが近代科学を産み出す基になったとのことだ。
読み書きをするようになり、論理的つながりを意識するようになり、
それが人間の内面、時間意識を形成するようになったとのことだ。
論理的に何かを計画するするようになり、時間意識が形成されたために、
計画的に何かをするということで、西洋の産業革命につながったのだろう。
文字が無いころは、長期的に記憶することに、大きな制約があったために、
物語においても修辞が中心で、プロット、込み入ったストーリーが
困難で、継続性のある物事への取り組みがが難しかったとのことだ。
物語にプロットがあるようになり、推理小説が出てきた19世紀だからこそ、
相手の内面の形成のされ方を探る、精神分析も出てきたとのことだ。
だからこそ、主体の無い発達障害を理解するのに、内的論理を探る方法の
分析的スタンスを心理臨床で取ると、無いものを想像してしまい、うまくいかないのだろう。
論理的、分析的でなく、あくまでも表面的を滑り続けるということを認識しないと、
発達障害の方と関わろうとしても、無いものを想像して関わろうとして
結果的に関わることが出来ないのではないのだろうか?
コメント

「話の聴き方からみた軽度発達障害」 畑中千紘著 その5

2014-02-23 23:54:25 | 日記
ブルーノ・ベッテルハイムや、京大の心理臨床の方々のように
プレイセラピーなどを通じて、境界を作っていく、良くなっていく事は
文章、画像などである程度は描写できても、いかに何も無いかを描写するのは、
なかなか困難なのではないだろうか?
この本に関するアマゾンのレビューでも、以前「卒論に毛が生えた程度」
など書いている方がいた。現在は消されているが。
在るだろうと思って見るものが、変形して在るとか、斜めに在るならば判っても、
無い場合には、無いこと自体が判らずに、勝手に想定して関係を持とうとするのでは
ないのだろうか?
自転車に乗れる人が乗れない人を見て、なぜ乗れないかを解りにくいことや、
ましてや何故乗れないかを、言語を通じて描写するのは、
大変困難な事と似ているのではないか?
それこそ、「ワーキングメモリの少なさ」としか表現できないようなものだろう。
この本がこれまでの物と違うのは、いかに何も無いかを
一冊を使って丁寧に描写しているところだろう。
コメント

臨床するオートポイエーシス 体験的世界の変容と再生 河本英夫著

2014-02-15 00:27:02 | 日記
著者によると、オートポイエーシスといわれる自己創出の過程では、
自ら動くことによって、周りの物に対する触覚が生じ、それと平衡感覚などの、
自己の内的感覚、周りからの視覚的刺激が結び付けられて、
自己というものが創出、生成されていくとのことだ。
そこから考えるに、自閉症や発達障害では、外部からの触覚や視覚的刺激が生まれつき強すぎるので、自分から動いて周囲を探求する方向にいかず、逆にそれらを避ける、
感じないようにする行動様式が生じて、独自の振舞が形成されて、内的感覚を
感じられないために、周りとの様々なコミュニケーションが
成立しにくいのではないだろうか?
臨床家は、それでも本人が周りとの関わりを持ちたがっているところを見て、
「煮えたぎる無関心」と言っているのではないのだろうか?
自閉症児の独特の行動は、周りからの強すぎる刺激を避ける、
感じないようにする振る舞いが積み重なった物ではないのだろうか?
様々な強すぎる外的刺激を避ける行動が積み重なって、内的感覚を
創出、生成するところに行かないので、反響言語を繰り返すなどの行動が
生じているのではないだろうか?
内的感覚が創出、生成されないと、内的時間が持てないので、
学校などに行っても、内的時間と社会的時間のすり合わせが出来ずに
ひたすら社会的時間などに合わせる、杓子定規、融通の利かない行動様式が
積みあがるのではないのだろうか?
発達障害の事で、「ワーキングメモリの少なさ」などと言われているが、
内的な運動感覚やそれによって生じる触覚、視覚などのまとまりが
創出、生成されにくいので、独特の不器用さにつながるのではないのだろうか?
著者によると言語というものは、「自転車に乗れるようになる」というのを、
記述するのは難しいことから解るように、自ら動きを創り上げる過程を
記述するするのに限界があるとのことだ。
SSTなどは、外的からの刺激を避ける行動様式に、さらに表面的に
何かを付け足すことになると、さらに主体の創出、生成を阻害することに
繋がりかねないのではないのだろうか?
畑中千紘氏が、「話の聴き方から見た軽度発達障害」でのクライエントとの
やりとりで、表面だけの上滑りする会話で、相手の話に中身や深層がないところに気づいて、
そこからクライエントが、配偶者や孫などの周囲の人の存在を認識し始めるというのは、
中身のない話で周りからの刺激を避けるという在り方を緩めても、見捨てられないという
関係の在り方を体験したことが大きいのではないのだろうか?


コメント

ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル 主演:トム・クルーズ

2014-02-10 01:08:40 | 日記
テレビにて視聴。
色々なところに、すべりギャグが入れてある。
現実の世界が、厳しくなりすぎたので、
映画の中くらいは、すべりギャグを入れたいのだろう。
ネタはよくあるロシアの核兵器。
これ以上、世界にややこしい物に出てこられても、
困るからだろう。
思えば、「M:I-2(ミッション:インポッシブル2)」の頃と
比べると、世界はかなり変わってしまった。
当時は米国で、イラク戦争に反対する米兵の母親が
バッシングされたりしていた。
ちょっと世界が変わりすぎなので、ましな方に
行ってくれればいいのだが。
この映画の荒唐無稽さに、逆にほっとする。
トム・クルーズは、理屈抜きに、高い所とか、体を動かすのが
好きなのだろう。
そういう無邪気さが、微笑ましくほっとする。

コメント

低空タックル 「永遠の仔」 テレビ版

2014-02-06 00:47:34 | 日記
「永遠の仔」は、小説の原作を読んでから、テレビ版を見ていた。
入院施設の医師は、主人公の優希の症状のみを見て、治療にあたっていた。
家庭で主人公がどのような虐待に遭っているかを、想像も出来ないし、
そのような事の知識すらないようだった。
施設からの石鎚山登山が終わったら、自宅に戻すということで、
周りの子供の患者達も、それはやばい、ということで、
虐待している父親を、山道から突き落として亡き者にすることを
計画する。
父親役が何故、古尾谷雅人なのだろうかと思っていたのだが、
長身の古尾谷雅人なら、誰が突き落としたか、最後まで解らない
という演出だった。そして最後には、優希の母親が、娘を守るために、
自分で夫を低空タックルで突き落すシーンが描かれる。
家で娘が虐待されていても、守ることができず、
自分の娘が、登山の際に父親を突き落して殺害しようとしているのに
気づいて、自ら突き落として殺害して、娘を守る。
この主人公の場合、少なくとも母親には守ってもらえたので、
その点では恵まれているのだろう。
米国ドラマの「ツインピークス」では、父親が娘に何をしているのかを、
母親はある程度気づいていながら、経済的に恵まれた生活を
手放したくないのか、何もしなかった。
医師や福祉関係者の、知識のなさというのは、それだけで罪なのだと
思った。
トリイ・ヘイデンの著作が出てきたときには、あくまで病んだアメリカの
話という感じだったが、最近出版された、「誕生日を知らない女の子」
(黒川祥子著)などを読むと、日本もアメリカのようになってきていて
さらに、被虐待児童への対応が、まったく足りていないことがよく解る。


コメント