マチンガのノート

読書、映画の感想など  

「きみはいい子」 監督:呉美保 出演:高良健吾、尾野真千子、池脇千鶴

2016-02-27 21:51:19 | 日記
 児童虐待、養護学級、高齢者の戦争体験のPTSDなど、これまで商業映画では取り上げられてこなかったテーマを扱っていて、
メジャーな俳優を何人も起用しているところに、時代の変化を感じた。
 出演費用がかかる俳優を何人も使っても、制作費用を回収できる見込みがあるように、市場が変化したのだろう。
 よく、韓国映画は社会問題をアクション映画ですら反映させているのに、日本映画は自閉的な
お花畑を描いているという意見が出るが、映画製作は、あくまでも市場となる観客が育てるという
面が大きいのではないだろうか?
池脇千鶴はこれまでと違う主婦役を好演していた。「ジョゼとトラと魚たち」の時とおなじく、
役を選ぶ時の思い切りの良さとセンスを感じさせる。

「話の聴き方からみた軽度発達障害」 畑中千紘著 その8

2016-02-25 01:02:33 | 日記

マイケル・バリントは、プレエディパルなところでは、治療者はクライアントに対して、

相手を支える地火風水のように、一次対象として存在することが必要としていた。

(「治療論からみた退行」マイケル・バリント)

人類学では、「自己とは記号から記号への中継点である。自己が記号を受け取り、他なる

自己に対して、新たに何かを表すというプロセスの中に、思考、すなわち生なる思考がある。」

(現代思想:3月臨時増刊号、「『森は考える』を考える」奥野克己P219)

とのことだ。

2者関係以前である発達障害のクライアントに対しては、治療者や治療関係者、治療環境は、

一次対象として存在し、クライアントから見出されて、思考が生まれ発展する素材として

在ることが、必須条件ではないのだろうか?

それによって自己に根ざした思考が発達して、主体が生成し、想像力の無さや、

儀式的行為へのこだわりなどからも、抜け出していくのではないだろうか?


「話の聴き方からみた軽度発達障害」 畑中千紘著 その7

2016-02-17 18:46:39 | 日記

著者の担当した、70代のクライアントの、独学したというユング心理学の話を、理解できないながらも

長期に亘り訊きつづけて、ユング心理学に詳しい著者でも、どうにも理解できないこともあり、

こらえようがない眠気が起きたのち、

「あなたの話はわからない」などと、クライアントに言うなどした後、クライアントは

「自閉症のようになった」などと言われて、かなりショックを受けたようだが、その時に、

クライアントは、自分と他人の間のバウンダリーを少し持つことができ、その感覚を

「自閉症のようになった」と、言われたのだろう。

その後も、わからないなりに関わり続け、 何かを共有している感覚を保ちながら面接を続けたとのことだが、

そもそも言語は、他人と関わりたいために在るもので、会話や議論で何かを産み出す、創りだすなどは、

二次的なことだろう。

 

自他未分化で、自分の話を相手が理解しているかなどを考えずに話し続けるクライアントに、

少しではあれ2者関係が生じたため、配偶者や孫との関係も、改善することに繋がったのだろう。

 「生産性を上げる」「余剰な人員」などの言説がはびこり、何かを作る、増やす、無駄を削るなどが

再優先されている現代社会で、人と関わりたいから会話をする、というのは、忘れられがちな事だろう。

高機能な場合、ある程度の会話ができ、様々な物を使うのが上手い発達障害の方のことを、

1.5者関係と表現する人もいるが、1.5者から、2者関係への移行は、これからの検討課題だろう。

SSTなどを覚えて対応できるようにするというのは、1.5者関係のまま、変わらないのではないだろうか?


山中康裕医師はなぜ治療が上手いのか、についての考察。

2016-02-01 15:43:27 | 日記

山中康裕氏は、境界例の治療について、中井久夫氏がバリントの

「basic fault」について、「基底・欠損」と訳したのに対して、

「欠損」ではなくて「ずれ」であると主張しておられた。

それだけ、治療の見込みがある、可能である、という臨床経験があったのだろう。

ラカン派は、言語以前の母子関係を「想像界」、言語によって構成される世界を「象徴界」、

意味づけを除いた物質そのものの世界を「現実界」と呼んでいる。

知能研究などから見ると、人間の知能は脳の中に隔離されて在るのではなく、

周りの環境と分かちがたく結びついているとのことだ。

登る為の階段、掴む為のハサミのもち手、食べるためのお箸、飲むためのコップ。

山中氏は母子間や、自分とクライアントの間の言語以前の交流(「想像界」)を、そのような周囲の環境(「現実界」)と結びつけたり、

様々な動きを周囲に結びつけることによって、動きと思考を発展させていく、分節化していくのが

上手いのではないのだろうか?その為、境界例のクライアントの場合でも、極端な行動をすることが減り

良くなって行くのではないだろうか?

神田橋條治氏も、自分のところでお手伝いとして働いておられる、一般的には知的な障害がある、

とされる方も、どんどん賢くなっていっている、とのことを書いておられた。

(「発達障害はなおりますか?」神田橋條治著 花風社)

SSTなどで言語や、表面的なことを教えるというのは、知能や発達について、あまりに

考えを欠いた方法なのではないか?