山中康裕氏は、境界例の治療について、中井久夫氏がバリントの
「basic fault」について、「基底・欠損」と訳したのに対して、
「欠損」ではなくて「ずれ」であると主張しておられた。
それだけ、治療の見込みがある、可能である、という臨床経験があったのだろう。
ラカン派は、言語以前の母子関係を「想像界」、言語によって構成される世界を「象徴界」、
意味づけを除いた物質そのものの世界を「現実界」と呼んでいる。
知能研究などから見ると、人間の知能は脳の中に隔離されて在るのではなく、
周りの環境と分かちがたく結びついているとのことだ。
登る為の階段、掴む為のハサミのもち手、食べるためのお箸、飲むためのコップ。
山中氏は母子間や、自分とクライアントの間の言語以前の交流(「想像界」)を、そのような周囲の環境(「現実界」)と結びつけたり、
様々な動きを周囲に結びつけることによって、動きと思考を発展させていく、分節化していくのが
上手いのではないのだろうか?その為、境界例のクライアントの場合でも、極端な行動をすることが減り
良くなって行くのではないだろうか?
神田橋條治氏も、自分のところでお手伝いとして働いておられる、一般的には知的な障害がある、
とされる方も、どんどん賢くなっていっている、とのことを書いておられた。
(「発達障害はなおりますか?」神田橋條治著 花風社)
SSTなどで言語や、表面的なことを教えるというのは、知能や発達について、あまりに
考えを欠いた方法なのではないか?