マチンガのノート

読書、映画の感想など  

「話の聴き方からみた軽度発達障害」 畑中千紘著 その6

2015-08-19 21:25:46 | 日記
 この本に書かれている、心理実験として発達障害の被験者に、
「内容がニュートラルなもの」と
「聴き手の感情を刺激すると思われるもの」
の2種類の話を聴いてもらい、
いかに「聴き手の感情を刺激すると思われるもの」が、他方に比べて
大きく変形されて捉えられているか、という所についてだが、
「甘えたくても甘えられない」(小林隆児著)
で観察されている、養育者が居ずに一人でいると心細そうにするが、
養育者が関わろうとすると距離をとる、と言う所と共通点が見られる。
 つまり、一人で居ると寂しく心細いが、養育者が関わろうとして近づき、
感情を刺激されると距離をとる、という所である。
 養育者といて、自らの感覚、感情を受け入れられて、近くに居続けられる、
という信頼関係、愛着関係が未成立なため、心理実験では感情を刺激される話の内容を
変形させて聞いて、刺激を避ける、母子臨床では養育者が近づくと距離をとり刺激をさける、
という両者の著書の共通点が見えてくる。
 
 小林隆児氏が「原初的知覚」「相貌的知覚様式」と表現する、
未分化な感覚世界に居るため、内外未分化で、外からの感覚に
圧倒されるような体験世界が、その様な行動の基になっているのだろう。

「内省型の精神病理」 湯沢千尋 その2

2015-08-13 01:07:33 | 日記
著者が取り上げる症例は、「当たり前のことが解らない」
周りがなぜそうしているのかが解らない、などだが、
本人は、親などから温かく世話をされて、養育者がそうしているのだから
そうしよう、そうすることで仲良くしよう、という体験なしに
不安と恐怖から周りに言われたことを断片的に取り入れて振る舞い、
行動する以外が無かったので、
著者のように、「運命共感的態度」で、ゆったりと脅かさずに接すると、
周りがなぜ、自然に不安も見せずに、普通に様々なことを
しているのかが解らないと言うのではないのだろうか?
自然に振舞う、というのは、養育者に甘えて、自然に取り入れる
から不安無くできることで、世話をされて安心する体験が少ないと
単に不安と恐怖から行動するのみで、なぜそうしなければならないかは
本人には解らないのではないだろうか?
もちろん養育者が関わろうとしても、小林隆児氏の取り上げているような
親世代自身の愛着の不安定さから養育者も上手く甘えさせることが出来ずに、
安定した関係が成立しないという面があるのだろう。
現在、発達障害の特徴として、自分の興味のある話を一方的にする、
状況に合わない言動、行動をするというのは、発達の初期から、
周りに甘える、仲良くするという体験をしていないために
周囲と安定した関係を作り、ゆったり周りを感じるという部分が
未発達なことが大きな要因だろう。

「内省型の精神病理」 湯沢千尋

2015-08-10 10:08:25 | 日記
この著作の中では、陽性症状のあまりない、
治療者と話し合えるが、過度に内省的な症例が取り上げられるが、
その様な患者さんは、土居健郎や小林隆児の取り上げるような、
「甘えられない」「甘えられなかった」生育歴で、
とにかく周囲から叩かれないようにしよう、将来のため試験で点をとって
少しでもいい学校に行こう、生きて行くために収入を得るため働こう、など
自分で何かを考えたり、選んだりする余裕がない状態できた
人たちなのではないだろうか?
自分で考える余裕さえなかったので、「運命共感的態度」な湯沢千尋氏
の前に来ると、「当たり前のことがわからない」などの、
普段から解らないことを、話す余裕が出来るのではないのだろうか?
このような「甘えられなかった」人たちにとっては、世界は
強制収容所のような物ではないだろうか?
治療者としての対処で望ましいのは、余裕を持たせる、
休む環境を設定する、甘えさせる、などだろうが、
「甘える」という言葉自体、日本語以外では「受身的対象愛」などの
表現になるので、海外の文献をみても、参考になる物は
少ないのではないだろうか?
映画「頭文字D」に出てくる主人公の父親のように、子供のころ悪かったが
その後は自営業(地方の町の豆腐屋さん)としてそれなりにやっていける、
というような余裕が社会から失われるのと並行して、
この著作に出てくるような、発達障害のような症例は増えて行っているのだろう。
畑中千紘氏の言う、社会が受け手とて機能しなくなってきたという
ところだろう。
心理臨床や精神医学が、受け手となるか、治療技術の切り売りをして
主体を無くしていくか、というのが、これからの大きな課題だろう。


「あまのじゃくと精神療法」 小林隆児 その2

2015-08-04 01:01:54 | 日記
自閉症、発達障害の臨床でよく出てくる
「知的に高いが感情表現の乏しい母親」などは、
自分が周りに甘えず独力で努力してきたので、自分の子供の対しても
甘えさせない、甘えさせ方が解らない、とのことで
子供との情緒的交流が成り立ちにくく、子供も安心して甘えれないので、
常に自分で対処しようとして、不安やストレスが強く、
また年齢による理解力の限界から、対処の仕方が解らず、
様々な独特の行動につながるのだろう。
治療者に必要とされるのは、「心細く甘えたがっている」
ところで、なんらかの方法で安心を与え、次に何かをしようと思うだけの
余裕を与え、そしてどのようにすればいいのかを解りやすく示す
ことではないだろうか。
「甘える」というのは、言語、行動、情動が未分化なところなので、
マイケル・バリントのいう、「新規蒔き直し」や、
様々なところで言われる、外的世界と自己身体を分節化しなおすための
必須な条件ではないだろうか。

「あまのじゃくと精神療法」 小林隆児

2015-08-04 00:43:21 | 日記
この著書の中で、木村敏の言う、
「リアリティ」と「アクチュアリティ」の違いに触れられている。
「リアリティ」は事物に関する静的な現実で、「アクチュアリティ」は
動きや行動などの活動中の現実で、関与している人が行動で対処するしか
無いものを指すとのことだ。
日本語の「甘え」は、明らかに後者だが、日本語以外には無い言葉、
表現なので、その動きについては、外国の文献を読んでも
ほとんど触れられていないか、解りにくい記述で伝わりにくいのでは
ないだろうか。
日本語にはせっかく、「甘える」「甘えさせる」などのアクチュアリティを
表現することばが多くあるのだから、臨床家は様々な臨床場面で見たことを、
「甘える」「甘えたがる」などの表現を使って記述するほうが、
患者とその周りとの関係で何が起こっているかが伝わり、
役に立つのではないだろうか。
「甘えれないから心細い」「甘えれないからフラストレーションを感じている」
などの記述の仕方をすれば、その後に起こる様々な事が
理解可能になるのではないだろうか。